ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

日本100名城巡り No.74 岩国城

2012年08月08日 | ウマさんの「日本100名城巡り」
2012年8月8日(水)


この日は朝から岩国城を訪問した。

関ヶ原の役の後、吉川広家は出雲の国富田城より岩国3万石(のち6万石)に転封された。
慶長五年(1600)岩国に移った吉川広家は、要衝の地横山の山頂に要害を、山麓に居館を築くことにし、
慶長八年(1603)に起工し、同十三年(1608)に竣工した。
しかし、完成して僅か7年後の元和元年(1615)徳川幕府の「一国一城令」により、山上の要害は廃城となり、
以後山麓の居館で藩政が行われた。

現在の天守閣は、昭和三十七年(1962)錦帯橋付近からの景観を考え、旧天守台から南へ50m、
古地図をもとに再建されたものである。


吉香公園きっこうこうえん
一帯は江戸時代初期から明治初年まで、吉川藩の武家屋敷が軒を連ねていたところで、
旧制岩国中学校の跡地である。
正面にロープウェイ山頂駅が見える。


吉香公園の入口に吉川広嘉(きっかわひろよし)像が建てられている。
吉川広嘉は、江戸時代前期の毛利家家臣で、周防岩国領の第3代領主。
延宝元年(1673)同二年(1674)と連年錦川に架橋工事を行い、現在の形の錦帯橋を架橋した。


吉香公園は、藩主吉川氏の居館跡を公園化したもので、樹齢100年を超す大樹が多い。


吉香公園の一角に佐々木小次郎像があった。
佐々木小次郎は、周防の国の岩国出身とされている。
吉川栄治氏の小説「宮本武蔵」の一節が刻まれていた。
祖先以来、岩国の住、姓は佐々木といい、名は小次郎と親からもらい、また剣名を”巌流”とも呼ぶ人間は、
かくいう私であるが・・・



目加田家住宅の入口
岩国藩の家臣、目加田家の住居。


目加田家住宅内部
中級武家屋敷の様式を残している。
国の重要文化財に指定されている。


岩国といえば錦帯橋である。
錦帯橋入橋料と岩国城入城料、それにロープウエイ往復料のセットチケット(930円)を購入し、
先ずは錦帯橋を渡ってみる。


錦帯橋


錦帯橋から岩国城を見上げる。
岩国城は錦川にかかる錦帯橋とともに、岩国観光のメインの一つになっている。


錦帯橋から岩国城を動画で見てみよう。


錦川


鮎がたくさん泳いでいた。釣り師の姿も。


錦帯橋
5連のアーチは日本三名橋の一つと云われる。
全長193.3m、幅員5.0mで、組木の技術によって造られている。


ロープウェイに乗って横山山頂の岩国城を目指す。
正面の建物は岩国美術館だ。


ロープウェイからの眺望。
吉香公園、錦川、錦帯橋、岩国市街地が一望である。


錦帯橋


数分で山頂駅に到着する。
山頂駅から道は二手に分かれる。
右手の山道を選択した。


山道といっても平坦に近い道である。
やや狭いが歩き易い。


しばらく行くと、左手に石垣が見える。
二の丸の石垣らしい。


二の丸跡には、築城当時の石垣がそのまま残っている。


二の丸出丸跡の石垣だ。塀もあるが、これは修復したものであろう。


案内図


左手に出丸跡がある。
石垣造りに使ったものなのか、大きな石がそのままになっている。


最期の階段を上ると冠木門形式の大手門がある。


大手門を入ると二の丸広場になっており、長さ110m、幅50m余りの広さである。
写真は二の丸の左側をみたところ。東屋などがあり、公園になっている。


大手門の右側に岩国城の天守閣がそびえる。
岩国城天守閣は、吉川広家によって慶長十三年(1608)本丸北隅の山陽道が眼下に見える場所に築城され、
桃山風南蛮造り、三層四階に物見を置く形式であったが、元和元年(1615)江戸幕府の一国一城令で破却された。


岩国城
現在の天守閣は、昭和三十七年(1962)錦帯橋付近からの景観を考え、旧天守台から南へ50m、古地図をもとに
再建されたものである。


岩国城
岩国城は六階と四階がそれぞれ下階より張り出した形になっている。
当時この天守を「唐造り」と呼んでいた。
最上階(望楼)を「唐造り」とした城には、小倉城、高松城があるが、
さらにその下階まで「唐造り」を取り入れている城は岩国城だけである。
岩国城の姿の美しさは、この「唐造り」にあるといえる。(説明板より)


岩国は日本三名橋の錦帯橋があるということから、
全国の珍しい橋の写真が展示されているのがひと際目を引いた。


そのほか城内には名刀や


火縄銃などが展示されていた。


全国の名城と刀も展示されていた。


天守閣最上階の物見からは眼下の錦川、錦帯橋、瀬戸内海の島々の展望が素晴らしい。
城のある横山の三方を錦川が流れ、天然の外堀となっている。


城山山頂から望む錦帯橋


旧天守台は、発掘調査の結果往時の姿が相当残っていたため、石垣のみが
慶長十三年(1608)築城当時のものに復元された。


石垣は穴太積(あのうづみ)(穴太衆と地元石組集団の割普請)となっている。
隅石には算木積の技術が取り入れられ、反りはなく安全性に重点が置かれた造りで、
戦国武将吉川氏の石垣の力強さを垣間見ることができる。


旧天守台から見た岩国城の雄姿。


二の丸広場から大釣井方面への下り道。


大釣井
慶長十三年(1608)山頂の要害築城時に造られたもので、この付近は「水の手」と呼ばれ、
城の水場として重要な場所で、峪筋下方には「小釣井」が設けられていた。
また、非常時の武器弾薬等の収納をはかるとともに、敵に包囲されたり、落城の危機にさらされたりした場合の
脱出口を備えた井戸であったとも伝えられている。


こちらの道は舗装されている。


ロープウェイ山頂駅から見た岩国城城下町


ロープウェイ山麓駅の真ん前に「白蛇」観覧所があった。
今から40年近く前のことだが、現役時代勤めていた会社の同僚が岩国の出身で、
実家が酒造家で”白蛇”という銘柄の酒を醸造していた。
彼が帰省の折などに土産として譲って貰って飲んでいたものだが、お世辞抜きでこれが実に美味かった。
理由のほどは定かではないが、”白蛇”はその後造られなくなった。
しかし、今では”錦の誉”や”雁木”という銘柄のお酒を暑中見舞いやお歳暮の度に欠かさずに注文している。
味は”白蛇”に勝るとも劣らない。


「シロヘビ」(白蛇)が気になり、覗いてみることにした。
入場料100円を払い中へ入る。


本当に真っ白な蛇である。体長1,5mほどはあるだろうか。
日本の固有種であるアオダイショウの白色変種で、岩国市の限られた地域にだけ生息している、
世界的にも珍しい蛇、とのこと。


蛇の白色変種が、遺伝的にも安定した形質を維持して集中的に生息している例は、
世界的に見ても他に例のないもの、だそうである。


シロヘビが白いのは、身体の表面にあるメラニンという褐色の色素をつくることができないからで、
このような白化個体のことをアルビノという、そうである。
「岩国のシロヘビ」は国の天然記念物に指定されている。


生まれて間もないシロヘビの赤ちゃんだ。
「岩国のシロヘビ」は順調に増えており、今では1,000匹近くになっている、とのことである。


錦帯橋、岩国城、シロヘビを見たことで大いに満足な気分になった。
岩国城を後にし、次の目的地「厳島神社」に向って車を走らせた。


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