ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

日光街道を歩く 第3回 粕壁宿から幸手宿へ

2012年11月21日 | ウマさんの「旧日光街道」を歩く
2012年11月21日(水)


2011年4月から12月にかけて旧水戸街道を、そして2012年2月から5月にかけて、成田街道を歩き終え、
仲間の方たちから次の街道歩きを望む声が次第に大きくなってきた。
Webなどを参考に検討を重ねた結果、大部分が日帰り可能な「日光街道」を歩くことにした。

第3回目のこの日は、粕壁宿(東武日光線春日部駅)から幸手宿(東武日光線幸手駅)までの約12.5Kmを歩いた。

常磐線に乗り合わせたのは12名。春日部駅で残り1名が合流することになっている。
東武野田線柏駅で次の大宮行き待っているところ。


通勤通学時間も一段落し、東武野田線は1本待ったおかげで、楽に座って行ける。


9時6分、春日部駅に到着。
春日部にお姉さんが住んでいるというT子さんが合流し、13名全員が揃った。


駅前のKFC前でUさんに合せて準備体操だ。
『いっちにっ、さんっしっ』


9時17分、出発!
『今日は道を間違えないで歩こうねっ』


元気よく先頭を歩くのは女性陣だ。
『次の信号を左だよっ!』


春日部駅前の公園橋(西)交差点を左折して直ぐ、左手に山中千手観音堂があった。
江戸時代の俳譜師増田眠牛(ますだめんぎゅう)は、千手観音を背負ってこの地方を行脚していた。
そして粕壁宿の米問屋伊勢平の家に止宿するようになった。
その後、伊勢平が好意で建てた観音堂で生活し、やがてこの地で一生を終えた。
眠牛を慕う人々は、その観音堂の境内に墓標を建て、千手観音を祀って信仰したという。


店のシャッターにかつての粕壁宿を偲ばせる絵が描かれていた。


向いの建物の横に看板が。


永嶋庄兵衛商店(米屋)
屋根は葺き替えられたようで、新しい。


大落古利根川(おおおとしふるとねがわ)を渡る。


この日は北風が強く、しかも冷たい。
『帽子が飛ばされるぅ』


小渕一里塚碑
江戸日本橋から十里目の一里塚である。
横には天保三年(1831)に建立されたとされる庚申塔が建っている。


国道4号線と合流する手前に追分の道標があった。


『左日光道って書いてあるっ』
『こっちは何て書いてあるか読めないねぇ』


9時46分、国道16号線を横断して国道4号線を進む。


『こんな看板初めて見たよ』
交通機動隊は、各道府県警察本部の交通部に設置されている部署の一つで、交通部の「執行隊」である。
主な活動内容は、白バイとパトカーによる幹線道路交通取り締まりであり、
自ら隊(自動車警ら隊)と並んで「パトカー・白バイのプロ集団」と言われている。


小渕山観音院の見事な仁王門
楼門は春日部市唯一で市の有形文化財に指定されている。
現在東日本大地震の影響だろうか、やや傾いている状態で、近寄れないようにロープが張られていた。


この寺は、この地方の観音信仰の霊場としても有名で、家内安全・商売繁盛の他、
いぼ・こぶ・あざに御利益があると云われている。(案内板より)
とりあえず観音様にお参りして行こう。


御本尊の正観音像
その昔、洪水でこの地に流れ着き、一度は元の寺へ戻したが、その後洪水でまたもこの寺に漂着したので、
お堂を建てて安置したものと云われる伝説がある。(案内板より)


3月にはかって馬寄せ祭があり、農耕に従事した牛馬がいろいろな飾りをつけて安全を祈願する祭があった。
本堂内には木像の白馬が安置されていた。(案内板より)


役ノ行者神変大菩薩
御参りの仕方は、合掌し、『南無神変大菩薩』(なむじんべんだいぼさつ)と唱えるよう指南されている。
何故か菩薩像の前には大豆が供えられていた。


ほぼ正面から風を受けて日光街道(旧4号国道)を進む。


10時9分、杉戸町に入った。


杉戸町は「北緯36度線上にある町」を売りにしている。
案内板には、中国ではチンタオ(青島)、米国ではナッシュビル、ラスベガス、グランドキャニオンが
イランではテヘランが同じ北緯36度線上にあるとのこと。


いったん国道4号線と分かれて左に進路を採る。


10時26分、六地蔵に迎えられて九品寺(くほんじ)に到着。


境内に道標があった。
左日光の文字が読み取れる。


境内の一角にたくさんの石像や無縁仏などの墓が集められていた。


寺の裏側には、大落古利根川(おおおとしふるとねがわ)が流れている。


ここで、小休止して行こう。
お互いに持ち寄ったお菓子を配りあう、楽しく幸せなひと時である。


また国道4号線に戻り、しばらく進むと、道の反対側に寺が見えた。
旦照山馬頭院観音寺、真言宗智山派の寺院だ。
道路の反対側だったが、せっかくなので手押信号を渡り、お参りして行くことにした。


門前には弘法大師の像が建てられている。


旦照山馬頭院観音寺本堂
ご本尊の馬頭観世音菩薩は、伝教大師(最澄)の作と伝えられる。
中興開山は、宥盛和尚(ゆうせいおしょう)で慶安二年(1649)に入寂した。
杉戸七福神の大黒天にもなっている。


鮮やかな朱色に彩られた鐘楼


変わった形に選定された庭木。


石碑には次のように刻まれていた。
新四国霊場第七十八番 馬頭院御詠歌
馬のごと 悪と厄とを食い尽くす 旅をも守る 馬頭観音


道はまた国道4号線と分かれて東武動物園方向へ進む。


昔の面影を残す旧い酒屋


時計は11時43分を指していた。
お腹も空いてきたのでたまたま通りがかったうどん屋「梅喜」へ入ることにした。
殆どの人は弁当持参であったが、風も強く、食事をする場所を見つけるのが面倒のため、
『温っかいうどんでも食べて行きたいわっ』ということで全員揃ってうどん屋へという次第。


店内には、一人の恰幅のある愛想の良い女性がちょうど食事時だった。
我々一行が土浦方面から来て「日光街道」を歩いていることを伝えると、いろいろと話しかけてきた。
ブログに載せるために写真を撮っていると、一緒に撮りたいとのこと。
『はいっポーズ』


こちらのテーブルにも丁寧に名刺を配ってPRに余念がない。


配られた名刺には「ドリームハウス」株式会社代表取締役の肩書きが。
聞けば、この店もこの会社で作ったのだと云う。
それ以来、毎日この店で食事をしているそうだ。


「梅喜」の作りは古民家風で、木のぬくもりが感じられる落ち着いた雰囲気がある。


”天婦羅うどん”を注文した。
麺はやや細麺だが腰があり、讃岐風のダシが効いていて美味しかった。


「梅喜」を出て数分のところに近津神社(ちかつじんじゃ)があった。


2本の銀杏の大木が社殿を隠している。


社殿は平成13年に不審火により焼失してしまったそうだが・・・
これは拝殿か? とにかくお参りして行こう。


昔風の家が街道筋のところどころに建っている。
かつては商売でもやっていたのだろうか。


家は立派な蔵を備えており、かつての繁栄を偲ばせる。


杉戸宿を進むと「宝性院」というお寺があった。
この寺は幸手城主一色宮内大輔義直が亡妻の菩提を弔うために永禄三年(1560)に建立したとのこと。


明治七年(1874)、ここ宝性院に杉戸宿・清地村・倉松村の児童を教育するために「杉戸学校」が設立された。
児童数は、男117人、女35人、教員は5人であった、そうである。


宝性院の門を入ってすぐ右に観音堂がある。


堂の前には頭上に馬を乗せた馬頭観音像が建っている。


日光街道を歩いていると、今の時期あちこちに赤くたわわに実った柿木を見ることができる。
『これ甘柿だったら美味いんだけどなぁ?』
試しに食してみたら、残念ながら渋柿だった。


国道4号線をひたすら進む。


無人直売所があった。
『どれもみな100円だって、安いねっ!』
皆さん好物なのか、柿はたちまち売れてしまった。


茨島一里塚跡を示す看板に見入る。
江戸日本橋から十一里目の一里塚だ。
説明板は半分色褪せて殆ど読めない。


13時48分、いよいよ幸手市に入った。


「ジョイフル本田」だ。
土浦ではお馴染みの店である。
『へぇ~、こんなところにも店を出してるんだぁ』


東武日光線の踏切を渡ると・・・


高架橋の工事が行われていた。
『圏央道だっ』
『ここを走るんだ』


『んっ? ドリームハウス? どっかで見たような?』
うどん屋で貰った名刺を想いだした。
『店で貰ったパンフレットで見たよっ』


日光道中・日光御成道合流点
写真左が日光御成道である。
日光御成道は、川口・鳩ヶ谷・岩槻を抜けて幸手に至る道で家光の時代に整備され、
徳川家康を祀る東照宮に参詣する代々の将軍が通行した道である。


鷹尾山誓願院神宮寺(たかおさんせいがんいんじんぐうじ
浄土宗のお寺で本尊は薬師如来
源頼朝が奥州征伐の折、この地で鷹狩りをし、戦勝を薬師様に祈って開基したとも伝えられ、
この故事から鷹尾山誓願院の名が付けられたと云われている。


門前の両側にはびっしりと石像・供養塔が並べられている。
反対側には六地蔵も並んでいた。


間もなくゴールの幸手駅、この日の無事を感謝しお参りだ。


本堂の前に大きな槇の木があり、ちょうど槇が実っていた。
『これ食べられるの? 知らなかったぁ』


再び東武日光線の踏み切りを渡る。
前方が幸手駅の方向だ。


神明神社


鳥居のすぐ脇に、螺不動尊(たにしふどうそん)と刻まれた碑があった。


境内には、いくつかの社がある。一番奥に少し大きめの社がある。
宝暦五年(1755)に伊勢皇大神宮の分霊を祀った神社であり、
明治六年(1873)4月より旧幸手町の村社の一つとなった、そうである。


引き挙げようとした時に、一番手前の社が「たにし不動尊」(菅谷山)ということに気が付いた。


眼病の人が『たにし』を描いた絵馬を奉納して祈願すればご利益があるという。
絵馬は持ち合わせていなかったが、引き返してお参りだけはして行くことにした。
皆さん、何がしかの目の病はあるようだ。


神明神社を過ぎて数百m進むと、小さな公園があった。


この日最後の訪問地、幸手宿問屋場跡だった。


幸手宿問屋場跡の説明板があるだけだ。
説明によると、問屋場は旅人の世話や荷物の運搬業務を行っていた施設。
近くには本陣や旅籠、茶屋などが軒を連ね、宿場の中心であった。
問屋場脇の道は、今でも問屋場横町と呼び親しまれている、そうである。


整理体操をして・・・・


幸手駅に向かう途中、いかにも古そうな構えの店だが、「チーズケーキ在ります」の看板が。
奥さん娘さんの土産を求めて迷わず中へ入るUさん。
律儀な人である。


15時17分、幸手駅に到着。
この後、東武線・常磐線を乗り継ぎ帰宅、心地良い疲れが眠気を誘った。

『今日は大変お疲れ様でしたっ』

いよいよ次回(12月19日)は利根川を越えることになる。
幸手~古河ということで、距離は長いが楽しみである。


ウマさんの「日光街道を歩く」 ”の目次へ

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 天気も味方 加波山ハイキング | トップ | 真っ赤な紅葉に満足 御岳渓... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ウマさんの「旧日光街道」を歩く」カテゴリの最新記事