空も大地もうごめき、ウゴメク。

この世に生まれたからには、精一杯生きてみよう

父との会話

2007年05月22日 | 家族
   休みの今日は午後から父を誘って実家近くの父所有の山に登った。目的はビワちぎりだ。久しぶりと言っても10年前くらいか、その時までは立派に実っていた。当時妻と義母、幼い長男を連れ、父の案内でその山に登った。途中、雑木に1mは優に超えているヘビが絡まっていて、たまたまヘビ嫌いな義母がこれを見つけ、腰を抜かせたことがあった。みんな大笑いしたものだが、本人は地べたに座り込んでしまい、これこそ本当に腰をぬかすという表現にピッタリ当てはまった格好。それ以来かな。懐かしい想い出に残る山だ。最近は山のどの所有者も高齢化が進み手入れしていない状態。いたるところ雑草が伸び放題。場所によっては杉も細くスリムに成育している。人間でいうならガリガリ君か。私でないことは確かだ。

 急に思い立った。ビワ狩り。スーパーで露地物のビワが出回っているのを見て「季節だなぁ」と思っていた矢先、仕事途中、ある自宅の庭先にまだ成長途中のビワの果実を見つけた。「よっしゃ、今度の休みは実家所有の山に登ってビワ狩りだ」と決め付けていた。ところが、そのことも忘れていて、午前中は会社で今週から始まる中学生の受け入れ(職場体験学習)の準備をしていた。それでビワのことなど忘れてしまっていた。車に乗る途中ふと思い出した。午後2時過ぎ。まだ陽も高い。「居るかな」、実家の父を訪ねた。すると本を読んでいたらしく「山に行こう、ビワの成る山」。いきなりだったので私の言葉にも重い返事だった。しかし、しきりに私が行こうと誘うと、ようやく重い腰を上げてくれた。行くと決まれば準備がいい。さすが百姓の長男だけある。長袖、長ズボン、所有の山には沢があるので長靴、タオルを腰に巻き、軍手をはめ手には鎌を持って。私はといえば誘った方なのに、半袖にカジュアルシューズ、帽子もないときた。これでよく山に登ると言ったもんだ、と父は思ったかもしれない。長袖の薄い上着を借り、帽子の代わりにタオルを頭に巻いた。結構百姓の息子に相応しい格好であった。

 久しぶり父との会話も弾んだ。「俺が元気なうちにうちの山がどこにあるかくらい知っておかないとな」。この言葉のころには父も上機嫌だった。戦前この山は市の山だったが、戦後食料難を迎え、地元の人たちにイモを植えて生活するようにと無償で市から贈られたという。その代わり管理はすべて自分たちでというのが、無償の条件だった。最初は皆がイモを植えて収穫していた。ところがこの山はなだらかな部分が少なく、傾斜のあるところばかりで、収穫したイモを担いで降ろすのも大変とばかりにイモの生産は自然にストップ。それからは茶を植えたり、クリやウメ、カキにビワと実の成るものに移行し始めたという。

 私が幼い幼稚園か小学低学年時代までは祖母に連れられ、よくここに登った。特にこの薫風の季節、お茶やウメが出回る頃に付き合わされたものだ。その記憶を今もはっきり覚えていて、大量のビワが脳裏に強烈に焼きついていた。

 この歳になるとそういった幼い時代の想い出を再現したくなるものだ。秋はアケビ獲り、春はワラビ獲りとこれから先は名人(父)にお願いして連れてってもらおう。一人では身の危険を感じるから。わけは登り口に数件の民家があって、その一番山よりに自宅と山の間に野菜畑がある。ここに最近イノシシが出没してくるようになったという。そこの住人は網で侵入を防ぐべく策(柵)をこしらえていた。ところが相手イノシシは親子4頭でその畑を荒し、夜、物音で気づいたその住人は畑の中にいるその物体を見て驚いたという。すでに本人は畑の中に足を踏み入れた後だった。それからその人は動いてはいけないと直立不動。子と一緒にいるイノシシも気が荒れていて大変だったとか。「生きている心地がしなかった。死ぬるかと思った」と父に話したという。私が小さい時には野生のイノシシなどこの山でもみたことはなく、ましてやこんな近くの人里まで降りてきているとは。テレビの特集で山に実のなる植物や好物の葉がなくなり始めた、というドキュメント番組を見ることがある。主にクマなんであるが保護動物の場合は首に発信機を取り付け、再び山に帰し、行動範囲を知るような追跡調査も行なっているところもある。まさかそこまではやらないと思う反面、今回のイノシシ騒ぎもクマの実態に近いものがあると私は感じた。そう、ここにもイノシシの好物がなくなってきたのかと。

 イノシシはやぶの中を移動して生活するため、ダニなどの寄生虫がつきやすい。そのため、湿地に穴を掘り、ねそべったりころがったりしてぬぐうほか、寄生虫を防止するためにも役立っている。こうしたどろ浴び場を、猟師は「ぬた場」といい、どろ浴びすることを「ぬたをうつ」という。 そのぬた場を見つけた。最近浸かった跡かもしれない。近くにいることは確かだろう。餌を探しに“放浪の旅”に出ているのだろうか。
 
 ビワの収穫はなかった。というより3本の木全てが跡形もなく消えていた。えっ盗難?まさか、こんな人里離れたこの場所で根から掘り起こして持って帰るバカはいまい。となれば枯れたのか。戦後の食料難で植えられた木である。50年以上は経っている計算。もう寿命だったのか。3本の木が跡形もなく消えていたのには驚いた。10年前までは黄黄したあのビワがここに成っていたのに。でも、収穫よりも久しぶりに父との会話ができて良かった。仕事のことも忘れてこうやって自然に戻るのもいいもんだ。次の収穫はいつだろうか。実の成るものは。

心の変化

2007年05月19日 | 家族
 今年の年頭に自分に言い聞かせたことがある。それはどんなに落ち込んでいた時でも後ろ向きにならないようにしよう、だ。そして、ブログも暗く湿り愚痴っぽい日記にはせず、仮にそういう日があっても、その件には触れず、前向きな一年としようということを心に誓った。だが、振り返ってみると愚痴っぽい記事もこれまでにあった。いつの間にか年頭の誓いは忘れてしまっている。というより、自分では暗く書いたつもりはないのだけれども、知らないうちに誓いのことなど忘れて、つい今日あった出来事や反省すべき点をそのまま書き綴っていた。特に子どもの話しになるとそれがはっきり現れていた。今年は最終年なのに、一向に自分の進むべき道を探しきれていない。何やってんだ。焦る気持ちは子どもよりむしろ親の方だった。自分が受験するわけでもないのに、進路を急かせ過ぎた感もあるが、それよりまず、行き先が見えないパズルのような迷路から一時も早く抜け出してほしい、と毎日気が気でなかった。

 連休後に自宅アパート内で子ども部屋の移動を行なった。これまで、長男と次男は一つの部屋に勉強机と二段ベッド置いて、そこで勉強と寝る部屋を与えていた。しかし、3年になるんだから長男には部屋を与えてやろうと、以前から決めていた。ようやく連休後に大掃除をしながら部屋を移動することができた。長男は新たな環境が気に入ったらしく学校から帰ってもテスト前、後にかかわらず常に部屋にこもって勉強?をしているようだ。何よりこれまでより明るくなったのが私達夫婦にとっても救いだ。こんなことならもう少し早くに部屋を分けてやるべきだった、とは妻の弁。そうだろう。すかさず「あんたが家を建てないからよ」と矛先がこちらに向かわないうちに話をそらす。

 長男との約束は「お前がここに居るまでに必ず家を建ててやる」だ。未だにこれは守られておらず、年内中どころか今の状態では二人(次男も)が自立してからでないと無理なようなである。これから大学進学の学費は来年以降に長男が入学して次男卒業まで9年間仕送り等が続くことになる。残念ながらどんなに条件の良い奨学金をいただいても彼らに渡せるお金は正直アップアップ。ギリギリのところだ。そういう意味でも郵便局の学資保険はありがたい。親戚に特定郵便局長がいて、何も言わせることもなく「ハイこれに必要事項記入して」「ひと月いくらの支払い。自動引き落としだからしっかり残金だけは確認しておいて」。半ば強引な保険加入であったが、今それを思うと正解だった。初年度にかかる入学金や授業料、諸々の費用はどうにかこの学資保険でまかなえそうだ。あとは奨学金で学生生活はどうにか送れそうである。

 うちが厳しいのを知っている長男は今年高校を卒業した先輩の進路が気になるようで「もし受験に失敗したら、先輩達のように浪人も視野に入れてほしい」とさりげなく妻に言ってきたそうだ。妻もそこはクールに「ごめん、それは無理。最初からその気持ちでは受かるものも受からないし、正直うちにはその余裕はない」と即座に答えたという。妻の言うとおりである。

 そして高校も高校総体前で今、青春真っ只中だ。5月下旬より本県代表をかけた地区予選が始まる。その前に今はテスト期間中らしい。部屋を分けたことで明るくなった長男は今度のテストもかなりやる気をもって臨んでいた。よしよし、少しづつ気持ちの変化が見え始めてきた。彼の行動が私の調子を大きく左右するといっても過言ではなく、ブログも最近そう落ち込んだ記事は少なくなっていると思う。とかく家庭内の事件が相次ぐ中で、彼の心の変化が我々夫婦のカンフル剤になっているのは確かだ。

 

 

 




八十八夜

2007年05月03日 | 家族
  ゴールデンウィークも後半に突入。屋外での施設はこの時とばかりに日替わりのイベントを組んだり、集客が図れる家族連れのイベントを考えている。一番は客を大勢連れてくる努力、次に客からお金を落とさせる戦略を考え、さらに、「またここに来たい」という心に残る戦術を考えていくことが要求されるのではないかと思う。イベントを主体的に行なう施設は常に脳を柔らかくして、周辺の施設の状況も把握し、その年その年に見合ったタイムリー的な催し、そして、その発想が要求されるのではないかと考える。サービス業に従事する私は、この集客が頭から離れない。中身によっては成功も失敗もあるから。これまで辛酸をなめたこと数回。今年はオーソドックスなイベントで勝負。費用は極力抑え、子ども達が喜ぶ内容のものにした。

 夏が終了して、9月の残暑が過ぎた季節はよく「行楽の季節」などと形容されているが、風薫るこの時季もまた絶好の行楽の季節である。八十八夜とは、立春から八八日目で、五月二、三日ごろにあたる。このころから農家は種まき・茶摘み・養蚕などに追われ忙しい時期を迎える。しかし今は茶摘みの風景もすっかり見られなくなった。一部の家庭では少人数でその風習を残しているが、大半は茶畑を使って機械で新茶を摘んでいる。私の実家にはそれこそ巨大釜があって、祖母が摘んだ茶をこの釜で炒っていたのを覚えている。薪を燃料にして鉄の釜を焼き、その中に摘んだばかりの新茶を入れ水気を飛ばすためカラカラになるまで器用に炒っていた。鉄の釜はそれこそ素手で触るものならすぐに火傷するような温度、祖母は軍手を二枚重ねにして両手で新茶を掴んでは釜の上の方に上げてゆっくり下に落とす作業の繰り返し。はたから見てその作業は簡単そうに見えたが、なかなかどうして祖母のようにはいかなかった。製品にして販売する量はなく、茶摘みから茶炒り作業まで親戚との共同作業であったため、完成品はともに親戚で分け合っていた。そういえば、摘んだ新茶は一度茶専用のむしろか何かに擦り付けて両手で揉みながら、搾って緑茶のエキスを出していたような記憶もある。その辺りの順番が微妙だ。すっかり忘れてしまっている。このゴールデンウィークの時季にはこれら田舎独特の風習があって、嫁に出たものは呼び戻され、孫達も狩り出され、田舎の一大イベントとなっていた。今はそういった農家の風習や伝統等が見られなくなったのが寂しい。

 うちは祖母がその辺りの技術というか、手作業は全て熟知していた。昔の人が偉いのは、今で言うレシピなどなく(全てがそうだとは限らないが)、次から次にやってくる農産物の料理や加工品を体で覚えていたことだ。当然、味噌やしょう油なども造っていたし、漬物は種類が多かった。大根以外にニンジン、白菜、諸々の葉、漬けることの多い作業を好んでしていたような。もちろん、梅干しや梅酒づくりはお手の物。そして何より季節に敏感な人だった。「もうそろそろ○○の準備」と言っては、倉庫から道具を出してきて準備に取り掛かる。今思えばそれも「今年もその年がきた。旨いものつくってやるぞ」という前向きな気持ちの表れだったのかもしれない。カレンダーにはよく訳の分からない○が付いていたものだ。

 このように昔の人の家での仕事は昭和40年後半あたりから、すっかり目にすることも少なくなった。まさしく高度成長期の広まりとともに消えていったような気もする。大釜もそうだが、農家に残る数々の“農機具類”がもしあるとするならば、それは歴史民族資料館しか残っていないのではないか、それほどその当時の農機具も少なくなったのは事実だ。

 懐かしい、祖母が大釜を使って新茶を炒っていたあの頃が。白いエプロンにモンペ姿、頭は頬被りして日差しをさえぎり、玉のような大粒の汗をいっぱいかいて、高温に焼けた釜の前で何度も何度も手で乾燥、背中ぐしょぐしょになって仕事をしていた祖母の姿が懐かしいなぁ。顔はしわと汗、日差しの影響で真っ黒に日焼けしていた。大事なゴールドフィンガーは新茶のエキスが爪の中にまでしみ込み、手のしわにも入り込んで黒緑色していた。がばいばぁちゃん顔負けだなこりゃ。
  
 <写真はイメージです>
 

次男○○部へ

2007年04月27日 | 家族
   次男が部活動の入部用紙を顧問の先生に提出したという。部活動名は「野球部」である。親子ともども少年から中学(長男は高校野球も途中で退部してしまったが)、ここまでは私の後を付いて来ている。次男は中学の部活動は本人に決めさせた。「自分の好きな部に入りなさい」と。これまでブログに何度か書いてきた。長男のこと。もともと野球センスは抜群で、足が速いのは父譲りだったこともあり、否応なくとも「野球部」に入れさせた。いや本人の希望も当然あった。ところが、中学1年の夏に事件は起きて以降はそれが心の病となっていたのは知る由もなかった。

 野球部の顧問の先生から「最近練習に出てきてないんですよ」。一瞬耳を疑った。「えっどういうことですか」。実は本人が先生に「体調悪いから休ませて下さい」と言っていたらしい。顧問も私には何ら相談もなく「てっきりお父さんは知っていらっしゃるかと思いました」と。それが一度や二度ではなかった。顧問も体の弱い子なのかな、程度にしか考えておらず、そのたびに休んだことは家には報告してこなかった。

 しばらくしてあまりにも休みが目立ち始めたため顧問から相談があり、ようやくそこで部活を休んでいた事実を知った次第だ。夏休みは弁当を持って毎日グラウンドに通っていた。そしてユニフォームが汚れていることもなく(不自然とは思わず、何も感じなかった馬鹿な親である)、練習が終わった頃に自宅に帰るという繰り返し。同じ小学校の同級生が野球部に誰一人としていなく、従って帰りはだれからと一緒になるわけでもなかった。一人で帰っていたことが今を思うと災いしていたんじゃないかなと。

 それから父と子とのすき間が出来始めたのは事実だ。ことあるごとに長男とは衝突し始め、2年生の9月には合宿先で親子喧嘩を選手の前でやってしまったのだから、お互い引くに引けなくなってしまった。それからというもの、親の存在はないもの同然。結局その後の家庭及び学校での生活態度は中学時代のことが尾を引いていたのは事実で、高校に入っても特に野球をやめてさらに生活面はエスカレートしてしまった。

 そのたびに「好きなことやらせず、親のいいなりだった。だからやめるときは俺の自由にさせてくれ」休部状態が続いたものの、結局は高校野球の面白さも知らずに辞めていってしまったのである。高校の野球部の顧問は「一年からでも準レギュラー選手」とお墨付きだった。にもかかわらず辞めるときは随分時間がかかったものである。

 長男にはそういった苦い過去があった。それだけ次男には「好きなことさせよう。格闘技が好きなら空手でも良いぞ」と上からの押し付けは止めることにしたのである。強制はしなかった。自主的。こういった自分の将来は自分で決めるくらいの人間性を養ってほしいと遠目で見てきたつもりである。

 次男は先の入学式でようやく中学生になった。周囲は長男ほどチヤホヤされずいたってマイペースの人間ではあるが、一方で最近は口応えするようになった。反抗的な言動が見られ始めた。もう少し様子を伺ってみよう、と今は彼の行動には静観している。今やってしまえば、長男と同じ。注意、指導ここはしばらくは妻に任せることにした。頻繁には出ないが、出るときには出るからと。

次男中学入学

2007年04月12日 | 家族
  次男の中学校の入学式が今日、体育館であった。59回めの式典。小学校の卒業式と違って感動はなかったものの、男子生徒68名、女子生徒71名、計139名は気持ちを新たに校門をくぐり、やや緊張の面持ちで式に臨んだ。校長は、健康に留意し、厳しさに耐える力(気力)、たくましい体(体力)、すぐれた知性(学力)、豊かな心(協力)の教育理念に基づき、しっかり身に付けてほしいと新入学生にお願いしていた。私も社休の今日は妻と二人で保護者席の真ん中辺りに腰掛け、式典の全てを見守った。両親で駆けつけたのは参列者の2割程度だったかな。最近は父親の参列が増え始めている。小学校6年の頃の担任だった先生が長男の小学校の校長として赴任してきたとき、「父親が参観や学校行事に率先して参加するのは大変良いこと」と仰っていた。子どもを母親だけに任せるのではなく、時間があれば教育の現場でモノを言ってほしい、との希望からそのように発言をされていたと思う。

 うちの中学校は二つの小学校の児童がそのままここに集まってくる。5年前の長男の時には5クラスあった。が、今年は4クラス。少子化も原因かもしれないが、最近市内に私立の中学校が私立高校に併設されて開校した。約30名の一クラス分の学校だが、狙いは高度な教育体制という。そういったところにも流れているし、宮崎市内や県外の中学校にも進学しているようだ。中学校の生徒数減少は自然と社会現象に他ならない。



 卒業式に比べ感動のない入学式典だった。終わりの方で在校生の歓迎の言葉もあった。名前を呼ばれたのは生徒会関係の女子生徒2人だった。何故。一人はほぼ暗唱したあいさつ文を堂々とマイクに向かって話し、私達の学び舎で知識と教養を身に付け、体を鍛えましょうと力強く呼びかけた。もう一人の女子生徒は、同じ様な言葉を英語でスピーチ。流れるような挨拶に、一部の保護者からため息も聞かれた。その辺りが小学校とは違うところでもあると認識した。

 さて、教室に行ってみると、3階の一番端(東側)、1組のクラスだった。学年主任が担任。東京五輪があった年に生まれたというから私よりも下だ。それぞれの学校の諸注意や説明のあと、早速学級懇談会に移り、係り決めに入った。一番もめる学級委員はこの日には決められず、家庭訪問などで決めていくという。他のクラスは嫌々ながらも決めていったというのに、二つの小学校が混ざっている中学校の初めての顔合わせ会は、どこからか仕切り役も登場するから面白い。先生はもちろん保護者とは初対面だし、思ったことも言えない辛さもある。その点、仕切り役はどちらか一方の小学校の保護者でも両方をまとめてくれ助けになる人物だ。この手の委員決めには欠かせない人物なのである。それでも決まらなければ、懇談会を欠席した人に任せようかなどと無責任な発言も見られるから、そうなれば欠席者の意見も聞かないといけない。

 これから3年間、次男の中学生活が始まったばかりである。どのように成長していくか、これも親の楽しみの一つである。
 
 

 

妻トラバーユ?

2007年04月07日 | 家族
    もう辞めたい。あんな旦那さんとはもう仕事もしたくない。自分中心でわがままで、融通がきかない、人の痛みや辛さも分からないのでは-と、険しい顔から私を凝視し目に涙を溜めながら、切々と訴えてきた。妻は日曜、祭日以外は毎日パートで働いている。仕事はさるサービス業。最近この店の居候に近い主人(旦那さん)と衝突が激しいという。「昨日はこうで、今日はこうだった。もう、顔を見るのも嫌だ」とその嫌悪感や、最近は仕事に行くのが億劫になり、日々の格闘を逐一話してくれ、人に話すことでどうにかその気持ちを落ち着かせている。

 機関銃のごとく一方的に話し始め、テンションが高まり、一息ついてようやく高ぶった気分がおさまり始める。人に話を聞いてもらうことで、少しは溜まったストレスも発散されるのだろう。しばらく聞き役の私は、最後まで話を聞いた後に、「無理しなくも良いよ。仕事やめれば」とその言葉を期待しているのか、それともそう言われて自分を奮い立たせているのか。最近は腹がたってしょうがない一日の出来事も、テンションを高めながら、時折笑みをこぼし語気を荒げながら、あーだ、こーだ自分は間違っていない、と余裕さえ見せ始めた。妻の店の旦那さんに対する復讐が始まった。とはいえ、わずかな抵抗にしか過ぎず、旦那さんには軽いボディーブローにしかなっていないようだ。それでもその抵抗で気分が楽になり始めたと言うから、妻なりにいろいろ防衛策を講じているようだ。私は「いつでもどうぞ、俺でよけりゃ何でも聞いてやるよ」と心を開いて、よろず相談の窓口となっている。どう聞いても妻の方が耐えている。お前は悪くない、と言い聞かせると「当然」というような安堵の表情も見せるのだから、いとおしさも感じる。

 今日、営業で外回りしていると、ある地域の商店会関係の事務所が事務員を募集しているとの噂が耳に入った。すかさず事務局に訪ねてみると、土日休みがきちんきちん取れて条件も良く、しかも年齢的にもピッタリだった。その近くの商店会の事務員さんに以前大きな問題(事件)があったから、それを間接的に見てきたその事務所関係者は採用にも慎重のようだった。すでに数件の書類審査は終了している模様。その後に面接と軽い簿記の試験を行なうという。妻は事務関係は正直あまり得意ではない。というよりもっぱらブティックの販売員やお弁当関係、縫製の仕事が主体で数字を伝票や台帳に付けながら、机に座ってじっとしている作業を今までやったことがない。

 しかし、最近の揉め事でどうやら仕事を変えたい意向。そして、その事務員募集にも「簿記は不得手だが、今の仕事を考えれば、ストレスも溜まらないかもしれない」と俄然やる気を出し始めた。

 先ほど、履歴書用の写真をデジカメで撮った。これを自宅のプリンターで印刷。たて4cm×よこ3cmのサイズに合わせ数枚を印刷した。自宅にプリンターがあるだけでも大変便利だ。市販用の写真用紙で印刷すれば、そこそこ3分間写真の画像にも匹敵する。よーく見ると目が荒いところもあるが、なかなかどうしてこれが使える。

 明日はこの写真付き履歴書を持って事務所に向かう。まずは書類審査から。そして、選考で残った何件かの人たちを個別に面接し、採用が決まる。久しぶりに競争意識をもって望む妻なんである。頑張れ妻、生活のため、子どものため。自分のため。主人だけの収入では生活できないことを考えると申し訳ないと思う私である。

 

 

次男の卒業式

2007年03月23日 | 家族
  今日は次男の卒業式に妻と二人で出席した。卒業生の親のほとんどが式に出席、父親も2割くらいだろうか、保護者席の前にいて後ろを振り向く余裕はなかったが、クラスに戻ってみると一クラス5人くらいの父親が教室にきていた。

 式での感想は、6年間の子どもの成長をこの日集約した感じだった。印象に残ったのは卒業にかかせない歌である。6年生全員が一言一言思い出を掛け合い形式で、途中に歌を入れるという粋な計らい。最初は5年生が卒業生に送る歌を披露、続いて卒業生が5年生に歌で返し、その後、掛け合いは続きながら2、3曲フルコーラスで見事なハーモニーを聞かせてくれた。終盤は先生たちだけの歌もあった。残念ながらタイトルが分からない。唯一分かるといえば「仰げば尊し」この曲だけだった。あとは、ポップス的なメロディーで軽快な音楽、これがまた保護者席の親たちを感動させるものとなった。涙をこらえながら必死にこらえようとすると逆にヒクヒクと体が震える男の子、160cm以上もある男児が目をつぶって口だけパクパク、女の子はハンカチで涙を拭いてはうつむき加減、全く声にならない女の子もいた。



 入場からすでに保護者席もジーンと熱くこみ上げてくるものもいた。1組からの入場だったが知った顔が前を通るたびに大きくなったなぁとしみじみ。それ以上に野球部を見る目だけは違った。緊張した面持ちで前を見据えながら歩く姿にも、今日で彼らとはここ(小学校)ではお別れなんだと言い聞かせながら、野球の練習時代のことが思い出されてきた。地元の中学に進む子どもには大きな感動はなかったが、やはり県外へ転校していく二人の姿には一抹の寂しさも感じた。先日のお別れ試合では最後の交流で一通りの挨拶は済んでいたのに、卒業にはやはり違った重みがある。

 玄関から体育館上り口、体育館内とプランターの植え込みの植物がきれいに咲き誇っていた。パンジーや金魚草など花は分かるが名前の知らない種類もたくさんあった。鮮やかな花を咲かせていた彼女達が引き立て役となってうららかな春の陽気とともに、この日の晴れの6年生の舞台を演出してくれた。毎日毎日丹精込めて育ててくれた学校用務員の方々や校長、教頭先生達には頭も下がる。



 次男は相変わらずマイペースな男で涙腺は固く、そういった涙ものとは無縁なクールボーイだった。少しも動揺することもなく、最後に担任と一緒に記念撮影撮ろうといってもなかなか首を縦に振らない。ようやくOKの返事ももらったが、シャッターを押す段階になるとブスッとした不機嫌な顔、何度も笑顔でと言っても全くダメ。そんな男なんだなぁ。うちの次男坊は。この写真、大人になったときに「しまった」と思える日がきっとくることを願っている。

 


卒業イブ

2007年03月22日 | 家族
  昨夜に続いて今日も夜の出事。今日は青少年指導員の集まり。日ごろの活動の慰労会ということで、Tさんの集まろうかの一声で懇親会が決まった。私は最近なかなかこの活動には参加できないでいるが、Iさんが気を利かせてくれて、私の空いている日に懇親会を設定してくれた。昨日は少年野球の保護者の送別会、今日は指導員、明日は次男の卒業式で家族食事会、明後日は中学卒業30周年同窓会と続く。こうも懇親会(飲み会)が続くと、ウキウキという気持ちを通り過ぎて、正直早く家に帰りたいだ。昨日も早めに帰還といいたかったが、二次会まで付き合わされた。そこそこ楽しい雰囲気で時を過ごすこともできたので、充実した時間を過ごすこともできた。今日はさすがに一次会で切り上げて22時過ぎには帰路に着いた。

 細かいことをいうわけではないが、4日も続くとその日その日に節制する気持ちがうせてしまう。ついズルズル他の人と一緒に付き合ってしまうのは私の悪い性格である。我を抑えていかに早く切り上げるか、付き合いも大事だがそれをうまく切り上げれるか、今の私はそういった自分を主張できる人間になろうと努力しているひとりである。

 アルコールの量も増えれば、ついもう一件となってしまう。その場の雰囲気に、また、自分の甘さには勝てず、おおらかな気持ちになってしまっている。しかし、いかに今日はここまで抑えることができるか、最近の自分は流されてばかりで、今日は自分を主張してみた。「明日、次男の卒業式なんです。家庭で準備することも多くて、二次会はご遠慮させてください」と。

 明日次男の卒業式。入学から43.3cm伸び、体重も倍以上の45キロと、入学時代の20.8キログラムをはるかにしのぐ。いずれも倍以上の数値だが、ここにきてみるみるうちに成長。そのうち父を見下ろす時代もそう遠くはないなと思った次第。早いんだな子どもの成長は。

 さぁ、明日は6年間の総結集の日。どんな感動の言葉で私を泣かせてくれるか楽しみである。年々感動のない平凡な儀式になっていると噂される卒業式だが、それでも涙腺の弱い保護者は感動が先にきて最初からウルウルの親も中にはみられる。さて明日の式典はどうか、休みの私はそれが楽しみでしょうがない。

私大生の家庭3割借金

2007年03月19日 | 家族
  時事通信が配信する記事によると、「下宿生の親、3人に1人が借金」=首都圏私大新入生の家計調査でこのような結果が出ていた。これまでは他人事で済まされてきたが、野球の保護者やブログ友の塾長をはじめ、竜虎の母さんのお子さんが大学に進学をするなどのブログを読むたびに、ジワジワと身辺にそういった“緊張感”と言おうか、不安感が漂い始めた。まずは生活面から切り詰めていくことなどを、徐々にだが取り組むこととした。

 来年に迫る長男の大学への進学、今はまだなんとも言えないが、「やっぱり大学へ行く」という事態に備えて(もともと行かせることを目標にしていたから覚悟はしているが)、贅沢という言葉を常に胸に抱きながら、まずは親が手本を示し、極力無駄なものは買わないようにしていこう。さらに、友人や職場での飲み会もこれからは慎んでいこうと思う。今春は姪っ子の大学入学祝い金を頭に、親戚の小・中学校の入学祝い、職域間の送別会や中学卒業30周年同窓会、青少年指導員の懇親会も入っており、結婚前の独身者が式に呼ばれてヒーヒー言っている“寿貧乏”ではないが、それに匹敵するような非常事態であることは確かだ。普段の月でもそう出費はかさまないが、今月に限っては異常だ。妻の給与をはたいても厳しい。

 時事の内容によると、昨年春に首都圏の私立大に入学し、自宅外通学している学生の親の3人に1人が、入学のための諸費用を借金で工面していたことが19日、教職員でつくる「東京地区私立大学教職員組合連合」の調査で分かった。借入額も1985年度の調査開始以来、最高の207万円となった。

 また、仕送りから家賃を差し引いた生活費(6月分の平均)は3万9100円で、1日平均1303円。11年連続で減少し、過去最低を更新した。
 私大教連は「家計の苦しい状況は依然続いており保護者、学生とも負担が増している」としている。 


 1日平均1303円を食費だけに当てると一食440円程度となる。朝をパン等で済ませ、昼はコンビにの弁当かおにぎりで3~500円だろうか、そこそこ夕食のメニューは充実したものになるはずだ。ここでまた弁当だと昼と同じような献立となる。そこは大学生、時間があればスーパーで材料を買ってきて自炊させるとまだまだ切り詰められそうだ。だが、私の時もそうだったが、自炊も最初だけ。少量の食材さえ無駄にしていた。料理は向き、不向きもあるのだろうか。よっぽどの信念がないとまず長続きはしないと思う。それともセンスの問題もあるかな、いやいや将来のことを考えてもそうかな。老後で役に立つ時は妻が先に逝った時ぐらいだろう。あとは料理ができなくてもさして問題ないかもしれない。それでも、手に職ならぬ料理のできる男はいろんな面で得することはいっぱいあるだろう。

 私大教連の「保護者、学生とも負担が増している」は、仕送り等が過去最低のレベルであっても、総体的な所得に関する点では、子どもへの仕送りのウエイトが大きいことを物語っている。>借入額も1985年度の調査開始以来、最高の207万円となった、とあるように、仕送りの額は減っているものの身の回りに揃える生活用品等も贅沢になっているということなのか。大学生一人を送りだすのに、もちろん覚悟はしているが。そう、来年の今頃はその結果が出ている。おー怖。

 苦労するのは親の務めじゃ。どんな誘惑にも負けずせっせ、せっせと“金貯め虫”の一年になるぞい。しっかりした信念を持って。今のうちに予防もしておこう。

 

 




成長著しい次男

2007年03月11日 | 家族
    次男の指が最近長くなった。背も158cmと妻の身長まであとわずかだ。6年に進んだ最初の身体測定で144cmか6cm、1年で12か14cmは伸びている。成長の著しい子どもにとっては普通かもしれないが、2学期後半くらいからその伸びが顕著だ。指とは手も足も。「薬指が私の親指の太さと同じくらいになった」と妻がびっくりしていた。関節もしっかりしてきてゴツゴツ。

 足は26.5cmと父にあと0.5cmと迫ってきた。背はあと14、5cmだが、追いつかれるのももう時間の問題かもしれない。目に見えてとはいかないまでも、しばらく見てないと急に伸びた感がある。一番は同じ背丈の同級生や野球部のメンバーと比較してもその伸びははっきりしている。遅番で一週間次男を見ないときはその成長にびっくりしたこともある。

 その次男が最近、中学のことをよく話し始めた。気になる部活動も今迷いの真っ只中、当然野球部かと思いきやここにきて空手もいいな。格闘技が同級生の間でブームらしい。他のことはもろい次男も格闘精神においては他の誰よりも強い。自ら中学に上がるまで体力をつけたいと、腕立て伏せと腹筋を欠かさない。ついこないだまで10回で休憩、次の10回でまた休憩、30回目で片腕を離して休憩と、パワーも今ひとつだった。そこで私が休憩ばかり入れてては力つかない、できる限界のところまでやってみろ、とアドバイスすると次からは20回で休憩、25回、30回、40回と着実に伸び、わずかだが筋肉も付き始めたようだ。それから腹筋は毎日ではないが、50回を何回かに分けてやっている。

 そうか、空手か。それもいいかも。長男の時には親の無理強いというか、何も言わせず野球部に入部した。自主的のようだが、入部させたのかもしれない。それが当たり前のような環境を家庭内で作り上げていた。ところがそのことは高校に入って思わぬ反動となっていた。

 長男の反省、次男には無理強いはさせまい。スポーツは大いに結構。好きなスポーツに挑戦してみるのも良い。直接には次男には話してはいないが、彼に決めさせようと思う。ただ、今の自宅トレーニングでも結構パワーがついている分、飛距離もかなりアップしているのは事実だろうに。格闘技もいいが、球を打つのも楽しいぞ、とは心の中だけにしておこう。
 

酒を断ちます

2007年03月10日 | 家族
  大好きな晩酌のビールをやめて一ヶ月が過ぎた。最初のころは、夕食(時には夜間食)時には、喉がビールを欲しがってたまらなかった。今もそれは変わらないが、ひところほどでもない。喉の渇きを取るにはよく噛み唾液を出して、と分かってはいてもつい早喰いしてしまい、どうしても水分を欲しがる悪い習慣が残っている。そのため、渇く喉を潤すにはやはり水分しかなく、何で補給しているかといえばこれ、焼酎のロックでだ。ビールをやめたひと月間は、陶製のビアジョッキーを焼酎のロック用に代えて、夕食はおおむね一合から二合の間の量を毎晩欠かさず飲んでいる。

 ビールから焼酎に代えた理由は、ビールはカロリーが高いから。といっても焼酎だって同じようなもの。アルコールは適量なら飲んだ方が良いと言われてはいるものの、すでに中年太りの身にあって、“備蓄”された脂肪分を取り除いていくためには、しばらくはカロリーの高いものを抑えていくしかない、と思っている。メタボリック症候群予備軍ではなく、その当事者である以上、落ち着いたら焼酎もやめようと考えている。それがいつになるかはまだ、はっきり自分もわからないが、喉がアルコールを欲しがらなくなれば、きっと止めれる。いつになるか・・・。と考えているうちに一つの結論に。

 長男が最近少しずつ話始めた。挨拶も返ってくるようになった。専門学校もまだあきらめたわけではないが、大学も視野に入れ始めた。ここひと月の間、進歩してきたなぁ。先輩達が大学を受験し、合格、不合格と悲喜こもごもの便りを聞くたびに、自分の存在感、学生としての身分、いよいよ3年等をすこしずつ認識し始めてくれたものであろうか。専門学校でも大学でもどちらでも良い、自分の進むべき道さえしっかり踏み外さないでいてくれれば。

 我が家でも徐々にぜいたく品も節制していかなくては、特に生活費の切り詰め。そう、自らも大好きなアルコールを覚悟を決めて断ち切るという強い意志の下で。長男の受験とともに今年はそれを自分に科していく。

 そう一つの結論。4月1日から、新年度のスタートとともにアルコールを断ち切るという結論にたどりついた。長男が頑張るのだから家族もこれからは協力していかなくては。何もそこまでとの声も聞こえそうだ。もちろん今まで蓄積された内臓脂肪分を取り除くのが一番で、節制は付け足し。学費の幾分かの足しにはなるかもしれないが、3年に上がるのを機にそう自分に言い聞かせた。

  思えば、25歳当時、タバコを止めたときもそういった強い意志があったなぁ。


妻をいたわろう

2007年03月03日 | 家族
昨日のブログは妻を引っ張りだしてきたようで、幸いにして私のブログにはとんと頓着もないから、本人が登場しても問題はない。ただ、友人らから旦那が×○※書いてたよ、とチクリでもされたらさぁ大変。いや大変でもないな、そんなことで目くじら立てるような女性でもないし。

 妻のことを書いた後、今日の地元の朝刊紙、宮日(宮崎日日新聞)の中面に面白い記事が出ていた。妻をいたわらなくてはいけないと、寝息を見てそう感じていた自分に似たような境遇、内容だった。それを紹介する。少しタイムリーだったので。

 記事は

  愛妻家協会  光が見える  ―再生への助走
のタイトルで、

 群馬県嬬恋村に本部を置く「日本愛妻家協会」というのがあるそうだ。協会が昨秋主催したイベント「キャベツ畑の中心で妻に愛を叫ぶ」(通称キャべチュー)という企画を実施、反響を呼んだという話から始まる。以下は宮日の記事から

 生みの親は山名清隆氏(47)。協会の基本理念は「妻という最も身近な他人を大切にすると、世界は少し豊かで平和になるかもしれない」。甘い呼びかけによって、仕事中心の行き方を変え、温かい夫婦関係を取り戻すことによって「愛妻家」が増え始めるのではないかという発想で生まれたという。

 「つまごい」の村名は日本武尊がこの地で「吾が妻恋し」と亡き妻をしのんだ故事に由来する。10年近く村で週末農業を楽しんでいた山名はそれを知り、2004年11月に面白半分でインターネットに協会のホームページ(HP)を立ち上げたことから始まる。

 1月31日の「1」が「あい」「31」は「さい」でそこから「愛妻の日」と命名。「愛妻の日は早く帰宅して、妻に『ありがとう』と言おう(男の帰宅大作戦)」と呼びかけると、それから多くの書き込みが寄せられたという。

 「ごめん」で始まり「ありがとう」で終わる多くの書き込みには、妻への思いをユーモアに包み隠して伝えようとする照れがにじむ。初めて協会に届いたメールには「妻との関係は良くないけど、本当は感謝している」という、うつ病の男性からだった。そこで生みの親の山名は「切実な思いに触れ、遊びでは済まないことに気づいた」と振り返りながら、今や海外からも注目され、英国のBBCやバーレーン、中国のメディアなどがこぞってこの協会の取り組みを取り上げているとか。

 山名氏は「愛妻家にあこがれつつ、実行に移せない夫はまだまだいるはずだ。だから、日々の不満をこらえて、夫を認めてあげてほしい。その瞬間、夫は変わるかもしれない」と口下手な夫に成り代わってそう代弁する。

 ところが、山名氏も最初からそうだったわけでもなく、絶頂期を経験した仕事に嫌悪感を抱き、転職後に結婚したものの仕事中心の日々のすれ違いから2001年に離婚、仕事も家族も失って失意のどん底にいた時に、今の妻と知り合い「抜け殻のようだった僕に、自信と誇りを取り戻させてくれた」と人生の大きな転機があったことをそう表現している。知り合って半年後に再婚。「仕事に依存した生き方を変え、夫婦でいることを楽しもう」と誓い、協会を立ち上げたというわけだ。


 なかなか面白い話である。失意のどん底から這い上がり、活路を見出したのは二番目の妻との出会いから。生涯の伴侶を二度もち、そして、同じような境遇にあるものには時として、経験者としてのアドバイスもしているのだろうか。「キャベツ畑の中心で愛を叫ぶ」なんぞは、まさに「世界の中心で、愛をさけぶ」の言葉の真似事にしか過ぎないような単純な発想しか思えない。ところがものの見事に現実の世界に導くあたりが今の世相を反映しているのかもしれない。セカチューとキャべチューのポテンシャルも似ているが、それを広く一般に現実的に呼びかけたのが奏功したに違いない。

 1月31日は「愛妻の日」か覚えておこう。

 今日は妻の寝息が聞こえない。昨日よりは仕事も楽だったのかな。

妻の寝息に何を思う

2007年03月02日 | 家族
   共働きのうちの家は私が仕事で遅くに帰ってくると、すでに妻は一日の疲れかもう熟睡している。それでも起きて眠い目をこすりながら夕飯の支度をしてくれる。会社で夕食を摂ることもできるのだが、今の会社に14年、その間会社で夕食を摂ったのはほんの何回かだ。妻はホッと一息して休んでいるところに、私が帰って来る。それから遅い夕飯の支度をしてくれる。たいがいは温めるだけのものが多いのだが、それでもちゃんとつくって出してくれる。せっかく気持ちよく横になっているというのに、生活のリズムを私が壊しているのかもしれない。

 基本的に日曜と祭日は休み、しかし、日曜日でも注文が多いときは朝早くから出ていくこともある。そして、大晦日前の30日もおせちの準備に追われ、夜中に出て行き、朝早く帰ってくる。それ以外は休み。午後5時くらいには帰宅している。それから1時間ほど自宅で仮眠をとり、それから買物、炊事、8時くらいに夕飯の時間を迎え、9時から夜中の2時まで再び睡眠の時間。そして、遅い風呂に入り、床に就くのは3時ごろ。朝は6時に起きる毎日だ。不規則生活極まりない。仕事は仕出し屋さんのお手伝い。一応はパート従業員だが、配達なんかもしているという。お昼前から1時までが一日の勝負の時間で、厨房内では慌しく時が過ぎるという。家族が中心となって経営しているその仕出し屋さん(兼お弁当屋さん)の家族以外の従業員は、妻と次男の同級生の母、それに近所の叔母さん(70歳くらい)の3人だそうだ。

 その店を切り盛りしているのは、奥さんといわれる近所の叔母さんと同い年の女性だ。そして、そこの次男と三男が中心、それにこらえ性の三男の妻と奥さんの夫がまた調子の良い男で、居たり居なかったり肝心な時にいなくなる皆から嫌われものという。お店のファミリーはこれで5人となる、それによそ者3人が加わって毎日毎日、料理をつくっている。

 妻はいつやめようか、毎日そればかり考えている。しかし、次の仕事が見つかるまではやめるわけにもいかない。奥さんの鋭い注意や指導、そして、旦那さんのルーズさ、これらが引き金になって今度こそやめようとそのことばかり頭にあるものの、実行に移せないのが妻の性分かもしれない。そして、二人の子どもを育て上げるための資金稼ぎのためにも簡単にはやめられないのだ。

 ソファに横になっていびきをかいている妻に、何度「早く風呂に入って寝なさい」と注意してきたことか。しかし、本人は夕食後のこの睡眠時間が人生至福の時といったような寝顔で、頑として2時よりも早く起きることはない。自分の生活のサイクルにしているのだろうよ、きっと。私もそれからはあまり早く起こすことはなくなった。妻が仕事をしてなければ当然、時間を有効に使えと厳しく言うのだろうけれど。

 全ては私の安い収入の“おかげ”なんである。といってこの歳でトラバーユには勇気がいる、あてもない、頭脳や技術をもたない、では難しいな転職も。どうしても妻の仕事に頼ることは大きいのである。

 しかし、10年前を思うとそう贅沢はしてなかったと思う。例えば、夫婦で持っている携帯電話、月の利用が1台1万円はかかる。2台あれば2万円毎月引かれている。10年前までお互いに所有してなかったので、この新たな通信費用ははっきり家庭の生活費まで圧迫している。だったら何もそんなにかかる電話にしなければいい、といわれればそれまで何だが。携帯の便利さを知ると携帯のない時代は考えられなくなっている。むしろ今は充実したものがほしくなるのが人間の甘さなのかもしれないのだが。

 そう、妻の寝顔。それを見るたびに迷惑かけているな。本来ならば大黒柱一つで生計を立てていかなければならないのに。寝息が途中いびきに変わっている。今日も疲れて帰ってきたんだな-などと想像しながら。あまりうるさい時は肩を揺すって起こしてあげてもいるが。

 今の仕事では生活の安定も望めない。しかるにお金が溜まる、貯める、努力をやっていくしかないかな、そうなれば。学生時代に戻って勉強、勉強、えっ何の勉強かって、そう、それは儲かるための勉強しかないのかな。いや待てよ。貧乏な家庭でも幸せ者はたくさんいる。一度家族で人里離れた土地で働いてみようか。電波の届かない人生を送ってみるのもいいもんだろうよ。

長男、次男

2007年02月26日 | 家族
   少年野球の役を降りてから約二ヶ月が過ぎたが、その間次男も野球を離れ毎日帰宅後は友達の家に行って夜遅くまで遊びほうけている。そのたびに妻から叱られているのだが、いっこうに早く帰ってくる気配はない。まして、月曜日なんかはいつもの帰りより遅いときた。そのわけは、私が仕事休みだからである。何故休みだといつもに比べて帰りが遅いのか、それは私とのマンツーマンの野球の練習があるからだ。現役の頃は無理にでも近くの河川敷に引っ張り出して、練習に明け暮れていたが、さすがに現役を退いた今は、そこまですると本人も野球が面白くなくなりそうで、この二ヶ月はほとんどグラウンドにも足を運んでいない。仮に私が自宅に居てもランドセルを置くやすぐに玄関の戸を開けて階段を駆け下り、自転車で友達の家に向かう。この時間が彼は勝負とみて、私の制止を振り切って無視して降りていく。こちらとて、何もそこまでして本人を追い込もうとする気持ちはないのだけれど、彼がその気なら、こっちもその気で大人気なく無理に河川敷まで引っ張っていったこともあった。今は彼の執念に私の方が折れてしまっているが。

 しばらくマンツーマンの指導はしていない。私はかねてから次男には「生きた教材を使え」と言い聞かせてきた。まだまだ少年野球クラスなら自分の体も動けるし、基本も応用も指導できる。身近にいる人間を使わないともったいないぞ、と口すっぱく言ってきた。ところが、その言葉が耳障りだったのか、身近なお手本には興味を示さず、どうやら最近は友人との遊びを選択してしまったようだ。技術も才能も伸びる、伸ばせる年頃なのに、もったいない。とは親バカでしかないか。

 だが、周囲をよくみるとスパルタ式に親子で一緒に練習している風景は、このあたりでは見かけない。かえってそれがいやみに受け取られる、と本人はそう思っているのかもしれない。だから、一人の練習にも乗ってこないわけだな、と推測しながら無理強いはやめようと最近は引いてみるようになった。

 考えてみれば長男の時は、自分の休みの日には毎日必ず練習していた。友達との遊ぶ約束も破って、強制的に練習につき合わせていた。

 最近そのことについて思うことがある。ひょっとして長男が今問題を起こすようになったのも、これら無理強いの反発からくるものなのかもしれないと。もし、強制からくるその反動であれば、次男には中学に上がるまでの間はそっとしておいてあげようと。

 本人がキャッチボールをしようとか、トスバッティングがしたい、といい始めたら一緒に遊んであげてもいいかな。その程度の感覚で。これまで私の感覚は練習というよりも「遊び」的な要素をいっぱい盛り込んでの練習であると自負していた。だから、少しもきつい練習だとは思ってもみなかった。ところが長男も次男もそう思ってなかったようだ。ノックで走らされ、疲れたところで再び走らされ、毎日の練習と変わらないと映ったのであろう。

 25日は長男の17歳の誕生日だった。次男が声高らかに「ハッピバースデートゥユー」を歌ってあげたという。仕事が遅くに終わった私はそれには間に合わなかったが、家族水入らずのその光景を思い浮かべると、長男も随分反省してくれ始めたかなと、正直私も今ホッとしている。





次男豆をまく

2007年02月04日 | 家族
 節分会、星祭。今日2月3日は次男の12回目の誕生日だ。年男。おギャーと生まれて初めて今日一回りしたことになる。妻は仕事。義母を連れてお山(今山大師寺)に登った。午後1時からの星祭は住職の読経に始まり、奉賛会会長の挨拶と続き、地元警察署長のあいさつもあった。管轄内の交通安全や犯罪等の事件、事故防止を願って署長が呼ばれているのだろう。なかなか素晴らしい挨拶をいただいた。
 
 本堂内の法要に続き、赤鬼、青鬼が棍棒を持って待機。本堂に詰め掛けた市民に住職の掛け声とともに安全と安心を祈願していた。参加したのは年配の女性が多く、その大半は檀家さんだろうか、南無大師遍路金剛を唱えていた。

 続いて豆まきに。足腰の悪い方は本堂内で年男、年女の面々が撒く豆と紅白餅を我の我のの勢いで畳に落ちる豆や餅を拾っていた。一方、鐘突き堂周辺では屋外での豆まきも始まった。ここに次男が登場。下で待つ市民に上から投げ下ろし、豆と餅を撒いていた。

 私もしばらく正面で撒く姿を写真に収めていたが、途中、次男のいないことに気付くと、それから慌てて前にいる参拝客をかき分けかき分け、残りニ方向に回って撒き手に次男がいないか探した。しかし、残念なことに次男の姿はそこにはなかった。後で聞くと、「みんな前に行くから自分は後ろで撒いていた」と何を遠慮している。結構引っ込み思案の性格は前からだったが、まさかここで出るとは。周囲は知らないおいさん、おばさんだけなのに。

  



 結局、裃(かみしも)を着て豆をまく姿は撮れなかった。これがなければ今日のブログは記録(記憶)に残らない、普段の日記に終わっていた。が、まてよ、ここで次男にもう一度裃着て鐘突き堂に上がってくれと頼んでみた。すると「いやだ」と案の定断られた。見世物ではない、との強い気持ちでいったのだろう。この時代の子どもの心理はそうだろうきっと。自分だけ上がって写真を撮られると、逆に周囲から「何だろう」と白い目で見られるんじゃないかと不思議がられる。それが嫌で断ってきたのだろうきっと。だが、私も「もう二度とは来ないぞ、こういう機会は」とやや持ち上げ無理にお願いしてどうにか上に上がってもらった。


    


 今度は「豆撒く様子を撮るから」と上がってしまえばこっちのもん。「手をパッと広げてみせて」と注文を付けると、いっぺんに「いろいろ言うならもう降りるから」と照れからきているのか、下を気にしている様子。ポーズ撮られるのがよっぽど嫌だったんだろう。結局注文写真は気に入らないようで納得してくれない。とうとう本人はふてくされてしまった。どうも“やらせ”の写真では迫力にかける。

 しかし、周りの年男、年女はまだまだ元気がいい。うちの次男坊も見習ってほしかったなぁ。まぁ、星祭にきた市民らにも圧倒されたのでないだろうか。その数の多さに。少しでも一般的な社会の歴史を知り、文化を覚える機会となったわけだから、良しとしようか。無理にお願いした父が悪かった。と反省もしておこう。