気まぐれ日記

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今日は自閉症のことについてです。

2017-02-28 16:38:17 | 日記

自閉症については自閉の児童を見ることになって、それ以来15年ほど研究しました。最近では結構一般的に知られるようになりましたが、当時では脳微損症とか言ってほとんど解りませんでした。ここでもアメリカの研究が20年以上進んでいたでしょう。今のように便利な時代ではなくネットは一般的ではなく、英語の本を辞書と格闘していました。自閉症を診断する基準も解らず勘で取り組んでいました。5年ほどで翻訳の本が出来助かりました。そのころでも自閉周辺(スペクトラム)については解らず誤解や偏見がまかり通ってい

 このように自閉症はたいへん多くの症状に分かれています。赤い色が良く知られている自閉で青いほど解りにくい自閉です。アスペルガーの中にはIQ130以上の人もいます。世界の有名な人でこのジャンルに入る場合が多いです。例えばアインシュタインやエジソンなどが有名です。ウィリアムズの場合は芸術化に多いです。高機能の人には研究者や学者がいます。

 自閉症はいったいどんなふうにになってこうなるのでしょう。一般に社会性や情緒性に問題が出る場合です。赤い方が深刻で青い方が軽度で知能や言語性も高く有用な場合と反対に悪害の場合があり、時々犯罪として新聞を賑わします。名古屋の女子大生の殺人願望などが疑われます。

原因ですが、まだ解っていません。しかし、最近の研究で、脳の脳幹網様体と言われる所の機能異常ではないかと言っているグループがいます。 ここでは全ての情報が集められ一次処理され大脳の必要な場所に送り届けます。一番大切な場所で後頭部の一番厚い骨に守られています。ここに衝撃や損傷があれば失神したり死にます。例えば、耳から届いたデジタル情報は大まかにアナログ化され言語中枢や聴覚中枢に送られます。このとき少し間違えて変換して聴覚に届けば、音の位置や強弱が混乱するし、言葉の子音や摩擦音が区別できなければ母音だけの言葉に聞こえ重度自閉特有の発声になります。目からの情報もうまく処理できなければおかしなことになります。ミラー中枢に届いた情報が左右上下の判断の出来ないものなら物まねは出来ません。

 耳や目大脳中枢に異常が無くてもおかしな情報が来ればおかしな判断や記憶になるのは当然です。いくらコミュニケーションをとりたくてもうまく行かないのは当然です。擬似的には突然アフリカの集落に転移したようなものです。パニックになるのは当然です。叫ぶしか手は無いでしょう。このように網様体の機能異常と考えれば納得がいくのです。僕はこの説を支持します。

次はどのように対処するかを書きます


医療と死

2017-02-27 11:29:27 | 日記

 僕は言語聴覚師として医療関係にも関わってきました。 

 今の医療の一番の問題点は医療保険と死の問題です。まず、保険ですがほとんどの医療機関は保険に頼っています。何十兆円ものお金が医療機関に流れているのですから頼らざる負えないのです。無保険医療をしているところは無いでしょう。大きな病院や立派な機器は保険によって支えられているのです。 この保険のどこが問題かと言えば全国一律で言わば「定価販売」です。ある行為に対し一定の金額が入るのです。医者は丁寧にするかで人気を集めて患者に来てもらえばいいのです。収入を増やすにはそれ以外に薬をたくさん処方したり、いろいろ当たり障りの無い範囲で診断すればよいのです。現場でも「あれ~」と思うことも多いです。それと点数制度ににも欠陥あり、必要も無い患者に引き伸ばし必要な患者を切り捨てるのです。完璧な制度は存在し無いのはわかるのですが、たいへん矛盾しています。このように病院は儲けないと成り立たないのですが医療の本来の姿からはどんどんかけ離れて行ってるのです。崇高な理念で来る新人医療者が幻滅するのです。

 もちろん諸外国にも保険制度はありますが、北欧以外これはど徹底した社会主義の制度は無いでしょう。この調子ではいずれ破綻するでしょう。さもなければ極端な負担や変更があるでしょう。

 それともう一つの問題はアメリカのような自由診療が一般的な医療では自然と競争原理が働き医療の進歩が期待できます。しかし、日本では無理でしょう。アメリカに20年遅れているといわれる原因がそこにあります。

 もう一つの大きな問題が「死」です。医療関係者は「死」をタブー視します。生かすことが使命です。もっともな話です。「生かす」のと「生きる」のとは立場が正反対で「生かす」は医療目線で

、「生きる」は患者目線です。日本では古くから「生きる」を手助けするのが医者でした。患者のために尽くすのを使命としてきたのです。ところが、現在「生かす」になり患者は二の次で疾患と戦うのが使命になってしまいました。そのため延命治療として 管だらけの状態が出現したのです。もちろん「生きる」能力の人には有効です。しかし、明らかにそうでない場合も多いのです。末期癌患者や老衰の場合もです。酷い場合 高齢者にこのように無理やり食べものを注入しているのです。本人が望んでいるのなら良いでしょうが、もう拷問でしょう。リハビリの現場ですら寝たきり予防として高齢者を痛がるのに無理やり動かすのです。明らかにやりすぎです。それも機械的に行うのですから始末が悪い。僕の経験ではこのような状態で一ヵ月以上延命していません。安らかな「死」とは程遠いのです。医療関係者の「死」に対する薄情さを感じます。もちろん真剣に考えておられる人も見かけますが、お金の前では無力のようです。

なんだか調子に乗って次回は僕の専門領域の話をします。


ちょっと気になる「死」

2017-02-26 09:55:53 | 日記

最近、ちょっと気になる噂なのですが情報を見つけました。  

 ほとんどがアメリカに集中しているのですが数百人の富豪が世界の三分の一以上の富を握っている。

 その世界の超大富豪たちが大手の製薬会社の株を買い集めていると言う話です。なぜかと言うとこれらの製薬会社では延命治療や不老の薬の開発に懸命だと言うのです。若返りや不老不死は人類の願望ですが、これらの富豪や権力者達はその薬を独占しようとしているらしいのです。まるでノンフィクションの世界です。しかし、どうも噂のレベルではないらしいです。実際このようなことはすでに一般化しようとしているのです。「IPS治療」は一種の不老療法です。 また老化に関する遺伝子が見つかったと言うニュースも見ました。当然着々と薬の開発が進められているでしょう。 富豪や権力者は当然、秦の始皇帝と同じように「不老不死」を望むでしょう。

  しかし、「死」は全ての人に平等なのです。「生」は不平等でもです。どんな金持ちも権力者も死ぬのです。それが死なずに生き残るのではこんな不平等はありません。どんどんっ金と権力が偏っていき固定化されるのです。世の中の逆転現象が起こります。すでに一部では起こっているのですが、時々訂正できるのも「死」があるからです。新しいものに変わることです。「トランプ現象」もその一つでしょう。多分、一部の金持ちが先行するでしょう。しかしそのうちに薬も出回り一般化するでしょう。そうなれば,先ず「不老」になっていくことでしょう。若返るのです。まるでお伽話です。いったい「死」はどうなるでしょう。遠のくのは確かでしょう。関心も薄らぐでしょう。宗教にとっては大きな痛手でしょう。保健医療にも大きな影響をもたらすでしょう。このような世界では経済・政治・軍事などすべてで大きな変化をもたらすでしょう。世界の人口はどうなるでしょう。一時的に増えても多分減ると思います。老いがないのですから、結婚も出産もバラつくでしょう。全体には少子高齢化ですが、高齢者が社会の中心になるのです。多分人類の進化は止まるでしょう。


  「死」は自ら選ばなければ出来なくなるかもしれません。「尊厳死」「安楽死」が一般的で「自然死」はなくなる可能性すらあるのです。自宅の畳の上で家族に見守られてゆっくり自然に死んでいけるのは超贅沢になるかもしれません。次回はこれに関して医療のことを考えます。


死と宗教

2017-02-25 11:16:21 | 日記

死と言う不可解なことは宗教にとっても、もっともテーマにすべき問題であるのは当然です。しかし、捉え方はだいぶ違うのでおもしろい。一番深く捉えているのは仏教です。仏教の始まりはインド北部からです。この当時このあたりでは死について異常に深く追求している人たちがいました。鍛錬によって死の直前み身を置き臨死体験でもって死の本質を知ろうとしたそうです。今でも「ヨガ」として残っています。こんな場所から伝わったのですから当然です。仏教は死の宗教と言ってもいいかもしれません。特にチベット仏教はその最たるものです。「死者の書」と言うものがあるほどです。 書店で見れます。結構詳しく死ぬ前から死の直前、そして死んでから49日までの経過について書いています。僕の母が死に直面したときの話ですが、病院で延命治療されていたのですが、激しく死と戦っているように見えました。激しい息遣いと険しい顔が思い出されます。しかし、その横でこの「死者の書」の冒頭死の直前の心構えの所読み聞かせたとたん心臓が停止マッサージも甲斐なく死にました。僕の方がびっくりしました。死に顔は穏やかでした。

 死に関してはこのチベット仏教が一番近い存在ではないかと思います。他の宗教は 

大まかにはこのような捉え方です。キリスト教とイスラム教は似通っています。神の裁きを受ける点では共通です。ほとんどの宗教では霊魂(精神)の存在を肯定しています。

もし霊魂が存在するならどうなるのでしょう。地球上では約70億の人がいます。毎年1億ぐらいの人が死にそれらの霊魂が地上に留まっていれば、もうじき一杯になってしまうでしょう。神の元にもどるなら神はどこにいるのでしょう。宇宙の中心でしょうか?一神的宗教の人々はビッグバンを支持するそうです。神が宇宙の中心と言う考えと合うからですが、最近の観察では宇宙は泡状だと言います。そう考えると仏教の曼荼羅 の方が近いのかも?宇宙の中心に行くにしても再生するにしても、転生するにしても、だれも確かめようは無いのです。こんなに科学が進歩しても地球上に死が溢れていてもです。たぶん永遠に解らないのかもしれません。ですから、たくさんの宗教が存在でき生まれてくるのでしょう。人類は永遠に死からは解放されないでしょう。もし、死ぬことが無くなれば世界が崩壊するでしょう。


死について

2017-02-24 12:51:12 | 日記

臨死体験は死を経験したものではありません。そのまま死に繋がるのかもわかりません。臨死状態は体はまだ生きており死んではいないのです。現に僕は生き返ってこうしてブログを書いています。誰でも絶対死を体験するのです。しかしその死について語れる人はいません。

すこし、このことを考えてみます。僕は何人かの親族の死をみまもってきました。その中で僕の祖母の死は天寿を全うしたもので、それこそ枯れるように息を引き取りました。その死に顔は幸福そうで笑っているようにも見えました。 自宅で家族に見守られてです。今では見られない光景でしょう。 このような死に方は僕には理想です。病院で管だらけで死にたくありません。あの安らいだ顔は臨死でさぞ良い光景を見ているのでしょう。お花畑やたくさんの仏様に囲まれて死んでいったのでしょう。

 義理の父の場合、癌で亡くなったのですが、死に顔は少し悔しそうでした。強張って見えました。まだ死に切れなかったのでしょう。多分臨死状態では抵抗したかもわかりません。お花畑でなく こんな光景だったかもしれません。死に方によって人それぞれだと思います。

 しかし、死そのものは一緒ではないでしょうか。多分実体も時間も空間も無い世界なのでしょう。臨死状態でも良く似た所はありますが、真っ暗闇ではありません。

 もし魂と言うものがあるなら 体から離れどこへ行くのでしょう。死は肉体だけなんでしょうか?宇宙に飛んでいくなら真っ暗でしょう。このあたりのことは次回宗教との絡みで考えます。


臨死体験

2017-02-23 11:05:50 | 日記

ちょっと変わった題になりましたが、9年前脳出血で倒れたときの話です。高野山で倒れ高野山病院に運ばれ重度であったためドクターヘリで和歌山病院に運ばれたのですが、どうやら一時的に心臓が止まったようです。仮死状態であったかもしれません。もちろん記憶にはありません。

このときに臨死状態を経験したのだと思います。はっきりしないのですが、自分自身が光の状態で周りも同じような暖かいような全体が黄色のような感じです。

 自分の実体は感じません痛くも何も無い状態ですが、なぜか周りが騒がしく感じました。本当にこの状態はある意味心地よいいいかんじでした。

残念ながら日ごろの行いが悪いのかお花畑や過去の親しい人は現れませんでした。自分自身が光のようになったのです。多分後での想像ですが、日頃からよい行いや修練を積んだ人はここで仏様にあったり、導かれるのでしょう。そのまま心臓が動かなかったら、天国か黄泉の国なんでしょう。  しかし僕は蘇生しました。現実に戻ったときなんと恐ろしいかったか。それこそ地獄の様相でした。周りは電子音と異常な騒ぎです。僕自身は管だらけで身動きできません。 天国から地獄です。しかもすぐに手術をするということで手術室へ頭が割れるかと言う音で頭蓋骨に穴を開けたのです。地獄以上です。これが後で臨死体験だと思うのです。ですから、人間は死の直前は幸福な心地よい状態になれるのだと思うのです。ですが全ての人がこのように死ねるとは思いません。生まれ方は一緒でも死に方はみな違うと思います。苦しんで死ぬ場合もあれば、一瞬で死ぬ場合もあるでしょう。臨死状態をせずに死ぬ場合魂のような光の状態はどうなっているのでしょう。宇宙の果てにいけるのでしょうか?さまよっているのでしょうか?

一つだけ確信のように思うのは人は死で光の状態になると思います。


何かの拍子に世界中が動く。

2017-02-22 17:06:09 | 日記

このように中東の出来事が世界を動かし日本まで影響するのです。

それまでの日本に無かったことが次々と起こったのが弥生時代後半から古墳時代です。あまり良くわかっていない時代です。ちょうど卑弥呼の時代だそうです。 神社が全国に作られていきました それまでの宗教施設とは明らかに違います。これは中東のユダヤの文化が色濃く反映されていると思います。鳥居や狛犬(獅子)がその証拠です。それまでの宗教儀式は自然物が対象で神官が祈ってたのが明らかに神が中心にすえられたのです。 神社によってご神体は異なるものの一神教の影響が感じれます。それ以外にも今まで神様の前でお供えや奉納してたものが神様を担いで練り歩くのです。これはあきらかに古代ユダヤ教の風習です。このように日本の古代の風習・文化・宗教に多大な影響を与えたと思います。数えれば限がないそうです。知らず知らずに行っていることが実は古代ユダヤ風習だったのです。古代ユダヤ教がすんなり神道に受け入れられたのは、よく似ていたのだからです。神道の神は多神教ではなく汎神教なのです。偶像崇拝もありません。黄泉の国などの生死観など共通部分が多かったと思われます。

 次に日本に多大な影響を与えたのは言うまでも無く仏教です。古墳時代から奈良時代にかけてだそうです。しかし、仏教は明らかに異質でした。転生輪廻や偶像崇拝一番の違いは仏教は多神教です。断層的に神様がたくさんいるのと何もかも神様にしてしまうのと違うのです。ですから物部氏と曽我氏の争いは有名です。しかし、平安時代には仏教の方が優勢になり全国に広まりました。政治的要素が多分に大きかったようです。奈良時代は巨大な仏教建造物 ができました。神社は隅に追いやられた感です。しかし、庶民は神社の方に行ってたようです。仏教は政治的支配の要素が大きくなったようで庶民に仏教が広まるのは鎌倉時代

になって親鸞など解り易い教義になってからのようです。貴族・武士階級などのエリートそうは仏教で庶民は神道のような時代でゆっくり融合していくのです。神仏混合 し一般的になっていきます。戦国時代では過激な仏教が起こり衝突しましたが、江戸時代にはまた庶民を管理する御用宗教に成り果て仏教が没落していき挙句の果てに明治の排仏棄釈になってしまうのです。

このように日本の地理的要因から西や海から来たたくさんのことが全て日本に留まって混合し互いの色を残しながらまるでマーブルのよう状態になってしまったのです。まったく違ったものにはなりませんでした。ですから、日本人の宗教観は日本に留まった全ての宗教要素をもっているのです。かっこよく言えば、世界宗教なのです。これはなにも宗教に限ったことではなく、日本語を見ればよくわかります。縄文語を基点にユダヤ語と漢字や朝鮮語、ローマ字、英語など多分もっとたくさんマーブルになっているのです。次回は「臨死体験」です。


弥生時代の宗教は

2017-02-21 17:19:05 | 日記

弥生時代は言わば突然に訪れます。それまで1000年単位で動いてた時代が100年単位になったようなものです。それは国外の情勢が急激だったからですが縄文文化と明らかに違います。違いすぎ。

土器や稲作のことは特に有名です。他にも金属器が伝わり大きな集落から国へと急激に変貌したのです。縄文人たちを圧倒したでしょう。

 宗教も超自然崇的アニミズムとシャーマニズム だったのが職業として分化体系化そして巨大な神殿まで出現しました。

 これらは当然渡来人(弥生人)の文化と技術力に他ありません・では、どんな人たちがやって来たのでしょう。当然、大陸と海からです。大陸ではこのとき戦国時代で大勢の難民が出たでしょう。しかし、この人たちが弥生人の主体であったのは間違いないでしょう。しかし、日本に突然巨大な宗教的建造物が作れるのでしょうか?

 ここからは僕の考えですが、これらの巨大建造物を指揮指導したのは大陸の難民ではなく他の人々

だったでしょう。

 このころちょうどイスラエルの方でアッシリアが勢力を伸ばしユダ王国やイスラエルが滅ぼされました。そこの難民が神官の教えからみんな東へ民族の大移動が始まり支配層や高度な能力を持った人々は船で東を目指したそうです。他の人民は徒歩でシルクロード沿いに東へ行ったそうで、そのため中国は混乱し戦国時代になったようです。又続き


日本人は無信心か?

2017-02-20 10:16:34 | 日記

「日本人は無信心か」については、自分自身にあてはめて考えればそのように思うし、思わない。心から神様を頼ったことも恐れたこともない。漠然としている。たぶん一神教の人は強いイメージを持っているのでしょう。僕も中学までキリスト教会に日曜礼拝に通っていました。牧師さんの話から全知全能の神とその掲示を授かったキリストの話を熱心に聴いたものです。しかし、いろいろな知識が身についてくると単純に信じれなくなり遠ざかってしまいました。

 今では仏教や神道などいろいろな宗教にも興味があり本を何冊も読みました。たぶん、僕のような人は少なくないと思います。漠然としたイメージとそのときそのときの神様を拝むのです。一神教から見ればやはり無信心なのでしょう。

 なぜ多くの日本人はこのようになったのでしょう。日本の宗教の歴史から来るものと思います。たぶん何千年もの積み重ねだと思います。

 石器時代は1万年以上続き氷河期に大陸から来た人々のだと思います。宗教的なものは無く単に自然崇拝だったようです。

次の縄文時代は明らかに違う人たちです。 それはあまりにも高度な文化だと思うからです。もちろん大陸からですが、すでに文字が存在してたのです。 日本語の元は存在し宗教的な行事が行われてようです。 神道の元が存在してたようです。日本の文化の基礎は縄文だと言えるでしょう。石器時代の人々は少しは衝突があっても、完全に取り込まれ同化したようです。まだこのあたりまでは激しく時代が動いたのではなく数百年単位です。しかし、次の弥生時代から急激に時代が動いていきます。それは次回に


宗教について

2017-02-19 14:42:08 | 日記

今日から宗教について考えたこと、思ったことを書いていきます。

まず、我々日本人は無宗教、無信心なのか?

よく外国の人から言われることです。キリスト圏などの一神教の圏の人から見れば日本人の節操の無さ一体何を信じているのかわからないでしょう。正月には初詣に神社やお寺に 行きます。じゃあ、神徒かといえば、そうでもありそうでもない。一応、日本は仏教の国に分類されます 

しかし、「あなたは仏教徒ですか」と聞かれれば、「う~ん」と言わざるおえないでしょう。

そうなのです。僕もお葬式では仏教になりお願い事では信徒になるのです。その上クリスマスはキリスト教で娘の結婚式もそうでした。時には儒教的であったり、万物に神が宿ることにも否定はしません。八百万神の存在や死ねば誰でも仏様と言うのも別に違和感はありません。

実際道端の祠にも手を合わせます。このように日本中に神様がいるのです。これだけ多くの神様のいる国は無いでしょう。どけ行っても寺や神社があり、無数の祠や地蔵・仏像だらけなのです。絶対に無宗教ではないのです。

外国人からは理解しがたい国だと思います。日本の神様は八百万もいるのですから)これだと言う神様はいないので、多すぎていないように見えるのど思います。

では日本人は無信心か?は次回です。


絵手紙

2017-02-18 20:43:44 | 日記

今日は昼から春に合うような絵手紙を描いていました。

ちょっと思うのですが、日本人の宗教観はふしぎだな~と思います。

最近話題にもなっているので次回はこの話をしたいと思います。


宿り木(ヤドリギ)

2017-02-18 10:57:49 | 日記

能勢の大けや木にはたくさんのヤドリギが寄生しています。

ヤドリギとはヨーロッパおよび西部・南部アジア原産。半寄生灌木で、他の樹木の枝の上に生育する。30-100cmほどの長さの叉状に分枝したを持つ。黄色みを帯びた緑色の葉は1組ずつ対をなし、革のような質感で、長さ2–8センチメートル、幅0.8–2.5cmほどの大きさのものが全体にわたってついている。花はあまり目立たない黄緑色で、直径2–3cm程度である。果実は白または黄色の液果であり、数個の種子が非常に粘着質なにかわ状の繊維に包まれている。(wikipedia)

このときは大掛かりに除去作業の真っ最中でした。



教育の話はもう飽きが来たみたいで、今度暫くは近辺の日記です。

2017-02-17 13:57:25 | 日記

能勢の野間と言う所に「大欅」が生えています。

樹齢1000年だそうです。鎌倉時代から生きているのです。

この欅にヤドリギが繁殖して5から6年に一回取り除くそうで、それを見学に行ってきました。ヤドリギも全部で2トンもあるそうです。ちょっと貰えないかな?お願い・・・


結局、教科の進路まで自由に

2017-02-16 20:01:54 | 日記

この寺子屋式では時間割だけ先生が決め宿題や教科の進め方も自由になってしまうのです。出来る子供たちはどんどん前に進み困難な子供たちは個別学習でもっと前の段階になってしまう訳です。

しかし、子供たちはそんな格差は不思議と気にしません。一時間の授業といっても誰も前に立って教える訳ではないのですが、みんな一生懸命に取り組みます。個別ですから先生はものすごく忙しいです。

もう一つ朝の帯の時間は子供の先生に任しています。漢字の先生、計算・笛などいろいろな先生を任命しているのです。 このときは子供たちによる一斉授業のようです。黒板に問題を書いたり聞き取りだったりプリントだったりです。それもちゃんと点数をつけて一覧表にするのです。どっちが先生かわかりません。

これで「寺子屋式」教室を終わります。あ~~~しんどかった。

一斉の学年共通の試験だけはこちらがしました。

なんと驚くことダントツの平均点をわがクラスは取っていました。理由は低い点の子供がいないからです。

6年ではこの子供たちに修学旅行の全てを任しました。計画から旅行社の打ち合わせまでです。旅行社の方はびっくり。でも、実際の修学旅行では添乗員の方々の絶賛を受けました。行く先々でも同じです。こんな学校は見たこと無いなどです。運動会でも同じようにし、すばらしい演技が出来ました。もちろんこれらは学年全体で取り組んだのですが、僕のクラスが全ての中心になっていました。

ちなみにこのような我儘なことができたのは僕が学年で生活指導・特別(児童会)活動・などの主任で学校のほとんどを仕切っていたからです。たぶん文句はあったと思います。


いよいよ寺子屋学級充実

2017-02-15 12:53:42 | 日記

先生からの宿題が無い替わりに自分で宿題を探して持ってくるのです。何でも良いのです。 漫画やイラストなどはやったり女子プロのことをいっぱい集めたり自分の好きなことが出来て宿題なのです。これこそ自由な学習と思います。ただし後に漫画家や女子プロになった子供はいません。 本来学習は自由なはずです。強制されたり押し付けるものではないはずです。大人に許されて子供には許されないものではないはずです。

もちろん真面目な子供は教科の課題や問題集を出しました。それも自分から選んだものです。 3学期には親たちに「うちの子は遅くまで勉強するようになった」と感謝されました。また、反対に「漫画ばかり描いていて大丈夫でしょうか」とも言われましたが、「漫画家もりっぱん職業です」と納得してもらいました。