near streams of water


人生という旅・旅という人生。
流れのほとり、日々の歩みの中で、見たこと、聞いたこと、行ったこと、思ったこと。

merry christmas

2009年12月24日 06時53分50秒 | Weblog

                   Merry Christmas!                       

                    「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。」ヨハネ1:4
                          2009年、にこだけのクリスマスになりました。
                              皆さまに祝福がありますよう。


                                 ※ ※ ※ ※ ※ ※


2009年、1月早々、息子夫婦に女の子が生まれた。退院してから我が家での育児が開始され、きらとにこは、また新たな赤ん坊とそれぞれの距離を保って生活するようになった。
3月にきらの左前足の完治が宣言された。
それでも2か月に一度程度は診察に行くことになり、7月になってレントゲン写真で内臓部の腫瘍が発見された。

早期なので摘出すれば広がることはない。

そんな告知を受けて、家族で検討し、8月を迎え、手術の決断をした・・・

その後のことは、8月26日のブログに書いた。もうそれで充分だろう。

息子のところの赤ん坊と母親は、6月半ばから8月25日(きらの手術の日)まで台湾に帰省していた。帰って来てからきらに会うことはなかった。
5月の末に、きらとにこと2人の赤ちゃんとで撮った写真が、4人で撮った最初で最後の写真となった。
赤ん坊たちはきらのことは覚えていないだろうが、いつか写真を見て、自分たちが赤ん坊の時、きらという犬がいたことを知ってくれるとうれしい。

                 



犬を飼ったのは3度目。
子どもの時は「むく」という名の雑種がいた。
高校時代は「ペップ」という猟犬(ポインター)を親戚から預かって飼った。
むくももちろん死んだ。その時のことはかすかに覚えている。
ペップは短命だった。猟犬としての訓練を受けるために長野だかの方にしばらく預けられ、それで体を壊した。戻って来た時、というか戻されて来た時は、かつてのような活発さはなくなっていた。高校を卒業したクリスマスの頃に、苦しんで死んだ。わずか数歳だったのではないか。私は自分の人生のことで忙しく、精一杯で、ペップがなくなる前後の日々のことをあまり覚えていない。土間で苦しそうに横たわっていた姿だけ覚えている。
最期を懸命に介護した母は、今でも「犬はかわいいけど、死ぬ時がかわいそうで。」と口にする。

どちらの犬も懐かしく思い出すが、悲しみがよみがえるというのとは違う。
きらもいつかそのような思い出になっていくのだろうか。
「40代後半から50代後半にかけての10年間、きらという名の犬を飼っていてね。とてもかわいかった。」
そう懐かしく口にするだけの日がいつか来るのだろうか。

きらには、実はお別れを言っている。
手術の前日、リビングでくつろいでいると、いつものようにきらが体を寄せてきた。
なでてあげるとうれしそうに横たわりながら体を伸ばす。
「明日は手術だけど、特に問題ないとは言われているけれど、それでも手術だから何が起こるかは分からないから。もし万一のことがあるとしたら、お別れを覚悟しなければならないけれど、きら、10年間ありがとうね。一応、念のためだけど。」
そう語りかけていた。
お別れができていて良かった。きっと、そう思うべきなのだろう。

映画「スタンド・バイ・ミー」。
ひとりの男の死を報じる新聞記事をきっかけに、少年時代の友情の日々を思い出した作家が、「あの頃のような友人に出会うことは、人生でもう二度とないだろう。God knows.」と記すラストシーン。

きらは、かわいい犬だった。お転婆なにこももちろんかわいいが、そのかわいさとは違う。切ないくらい、かわいい犬だった。
けなげで、忍耐強く、気品があって、切ないほどにかわいかった。
10年前、危機の時代を過ごしていた頃の我が家に遣わされて来て、10年間、我が家でその一員として過ごし、務めを果たして、10年後、それぞれの子どもたちに赤ん坊が生まれてきた頃に、自分を遣わした方のところに静かに帰って行った。

きらのような犬に出会うことは、おそらく人生で二度とないだろう。神様しかわからないけれど。


                            ※ ※ ※ ※ ※ ※


今年の更新は、これで終わりです。良いクリスマス、そして良い年を!


day 1 before Christmas

2009年12月23日 21時54分05秒 | Weblog

                                           2008年12月
夫婦二人ときらにこだけの穏やかな日々が数年続いた。
それが2008年になると、大きく変わることになる。
きらにこにとってはうれしさ半分、ストレス半分の日々になったかもしれない。

きらの左前足の腫れの検査と処置は、2008年も2か月に一度程度続いた。肥満細胞腫とのことで、食事に混ぜて薬を飲ませたり、好転してしばらく投薬をやめたり、の日々。
完治の診断が下されるのは、結局、翌年の春になった。
歯の衰えも確実に進んでいた。

大学を卒業してからさらに1年アメリカにとどまっていた息子が、3月に結婚することになった。アメリカの大学で一緒だった、親の仕事が似ている台湾のお嬢さんと。
LAでの結婚式のために家族皆で渡米するはずだったが、翌月に出産を控えている娘が渡米をあきらめ、きらにこの面倒を見ることになった。
きらにこにとっては、ペットのホテルにまた1週間も預けられることなく、自宅で久しぶりに娘と過ごすことができたのは、かえって幸せだったことだろう。

4月半ばになると、娘は本格的に我が家に戻って来て、予定よりも早くすぐに女の子を出産。退院してからは、我が家で2か月あまり過ごした。
新しく小さな存在が自分たちの後から登場してかわいがられる。
きらにこにとっては突然の危機だったことだろう。
できるだけきらにこがさびしがらないように、ストレスがたまらないように、接してあげるよう気を使った。

6月初めに息子がアメリカから帰国するのと入れ替わりに、娘は赤ちゃんを連れて自分の家に戻って行った。
数週間日本で過ごした息子は、一足先に米国から台湾の実家に帰国していたお嫁さんのところに迎えに行き、7月の初めに一緒に帰って来た。
息子夫妻を迎えての生活が、我が家で始まる。
息子は結局7年間のアメリカ生活で、前後1年ずつを挟み、大学卒業という一つの大きな目的を達成しての帰国となった。いつかまた羽ばたいていくかもしれないが。

きらにこにとっては、一難去ってまた一難。今度は見たことのないような、しかも言葉も違う女性と仲良くしなければならない・・・

こうした出入りのたびに、家中のあちこちの部屋の掃除、配置換え、移動、模様替え、家具の処分や新規導入が繰り返される。人間たちもきらにこに気を使ったが、きらにこも気を使ったことだろう。ストレスもそれなりにあったに違いない。

にこは新しい経験のたびに、興味津津で新しい存在に近づいていき、大いに自分を売り込む。きらは、さっさと人里離れた、静かな自分の場所を見つけて避難していた。

娘一家も我が家をよく訪れた。何人も大小の人間が加わったが、きらにこにとっては、最初から自分たちの面倒を見てくれた懐かしい家族4人が戻って来たことになる。きっと喜んでくれたことだろう。

息子夫妻の赤ちゃんの誕生を目前にしながら、きらにとっての最後のクリスマスが終わり、2009年を迎えた。
10年間撮り続けたクリスマスのきらの写真。最後の1枚。



※ ※ ※ ※ ※

妻は、きらを迎えた時からずっとホームページを作り、ブログの時代になってからは写真付きの日記を毎日更新している。
(ホームページはきらの子ども時代のもので、もう何年も更新していません。今はブログ日記です。)
きらとにこの膨大な写真、毎日の記録、旅日記、友人たち、等々、このブログの左にある2つのブックマーク(リンク)から見ることができます。全部見るのは大変ですが、どうぞ訪れてやってください。きらの思い出に。



day 2 before Christmas

2009年12月22日 22時02分53秒 | Weblog
                                                                                              2007年12月
2007年になり、3月半ばにきらの左前足に腫れが見られたので、病院に連れて行った。
打撲ではないようで、血液検査をすることになった。

きらは、基本的には病気と無縁の元気な子だったが、いくつか問題点もあった。
小さい時から骨が弱いと診断されたことが一つ。
膝蓋骨脱臼の恐れがあり、幾つかの病院で診てもらった。
これが、赤ん坊を作るのをあきらめた理由の一つ。
階段を無理に上り下りさせたり、骨に負担がかかるような抱き方をしないように気をつけなければならなかった。ベッドやソファーに飛び乗り、飛び降りる際も、無理をしないように気をつける必要があった。自分でもわかっていたようで、決して無理はしなかったが。
将来の老後に備えて慎重にしなければならなかったが、骨のことは、結局、大きな問題にはならなかった。その老後がなかったから・・・

歳と共に歯も衰え、歯周病の心配をする必要も生じてきた。
妻は、ペットの健康保険にきらにこを加入させた。

左前脚の腫れは一種の腫瘍のようで、悪化すれば足を外した方が良い(犬は3本足でもけっこう問題なく歩行するから)とか医者からは脅されたりしたが、そんなことはしたくない。薬の投与で腫れをおさえることにした。毎日ごく少量を食事の際に混ぜて食べさせ、定期的に医者に診てもらって様子をうかがう日々が始まった。

5月末、息子の大学卒業が決まり、卒業式のため、夫婦で渡米。娘が家に来て、1週間きらにこの面倒を見てくれた。

6月末、きらと一日違いの誕生日を持つ、幼馴染でお見合い相手でもあったマックが病気でなくなった。8歳だった。マックも医者からはあと少しと診断されてからも、最後まで元気で公園を飛び回っていた。さすがになくなる少し前からは伏していたようだが。海岸の公園に集まるワン仲間たちの中では最初に召されていった。

きらのために、それまでの病院に加えて、専門医が週に一、二度やって来て診察する、もう一つの病院にも通うようになった。どちらにしても、同じ通りに数百メートル離れてある病院だったが。

抗がん剤の投与は、止めたり、再開したり、様子を見ながら継続し、どのくらい続いたのだろうか。いったんは完治の診断をもらい、薬の投与を終了させた。

結局、最後に問題となって来たのは、2年後に症状が出てくる腹部の腫瘍だった。
とはいえ、きらの日常自体に症状や痛みが出ているわけではなかった。
いつものように生活し、遊び、食べ、まどろみ、散歩に出かけ、8歳から9歳へとゆっくりと穏やかに歳を重ねていった。

day 3 before Christmas

2009年12月21日 21時07分15秒 | Weblog
                                           2006年12月
きらには、特徴的な仕草がいくつかあった。

うれしいと高速回転でクルクル回ること。
もう一つは、何か用事や願い事がある時に、片足でちょんちょんと人間をつつくこと。

にこはそんなことをしない。他の犬はどうなんだろう。
きらは一貫して、つついてきた。

ベランダに出たいが窓が閉まっている時、そばにいる人間のひざをちょんちょんとつついて、開けてくれと要求した。
冬、リビングのこたつ(何とジャパニーズ!)の中に入りたい時、自分で毛布をくぐって入ることもあるが、ちょっと入りづらいと、そこにいる人間をちょんちょんとつつく。
人が食べているものを欲しい時、ちょんちょんとつつく。
一生懸命願ってくる時もあれば、かなり厳かな感じで命じてくることもあった。
きらに請われると、もう断れない。

食べ物に対する関心も、犬ならみんなそうだろうが、かなりのものがあった。
普段はおとなしいきらが、何か食べることができそうだとなると、積極的に近付いて行った。
食べ物のためなら、見知らぬ人にすら付いていきそうな、危ない雰囲気もあった。

そうだ。抱く時は、きらは絶対に頭が左向きでないと抱かれなかった。
なぜだったんだろう。右向きはかたくなに拒否をした。
赤ん坊の時からこちらがそうしていた蓄積が、左向きの好みを身に着けさせたのだろうか。人間の側に利き腕の関係で向きの得手・不得手があって、右向きだと抱き方が下手になるのを敏感に感じ取って、不安感から拒否反応を示していただけなのかもしれない。

洗濯の終えた靴下など、小さくて柔らかい布地を見つけると、さっと取って自分のところに蓄えておくのも、きらの習性。
犬ならば皆やりそうなことだが、にこにはそういう習性はない。物を蓄えることへの関心はない。きらは飽きずに繰り返して貯めていた。夜帰って来て脱いだ靴下をほんのちょっと床にでも置いておこうものなら、いつやって来たのか、あっという間にどこかに持っていかれていた。戦果を鼻先に置いて、丸くうずくまっている。返してもらおうとすると、ちょっと威嚇する感じで「取るな!」とうなった。

散歩をしていて、きらが突然立ち止まり、動かなくなる時は、必ず理由があった。
足の裏を見ると、小枝や葉っぱが付いていた。取り除くと、また元気に歩き始めた。

2006年は、こちらも新しく加わった仕事の関係で生活の変化があったので、あれやこれや忙しくて、あまり構うことができなかった。
夏に毎年恒例の海水浴に出かけ、10月に、2年ぶり、2度目の奥日光への日帰り旅行に出かけた。
妻は、このころの数年間は、きらにこを中心として公園に集まるワン仲間たちの写真カレンダー(月ごとに変わる12枚つづりの豪華なもの)を作っては、皆に分けていた。

きらは(にこもそうだが)基本的には病気知らずの元気な子だった。
それでも、体のことで気になることが、この頃から少しずつ生じ始めてきていた。

day 4 before Christmas

2009年12月20日 21時14分14秒 | Weblog

                                           2005年12月
2005年5月、娘が結婚して我が家から巣立っていった。
息子はすでにアメリカでの大学生活を開始してから数年経っている。夏休みにしか帰ってこない。

我が家には、親ふたりときらにこが残った。
決して嫁ぐことのないふたり。最後の時まで我が家で過ごすことになるふたり。

きらにこと私たち夫婦の4人だけの生活が始まった。

きらにこを置いてどこかに出かけるわけにいかない。むしろ、実の子どもたちに代わって、きらにこを自分たちの子どもたちとして扱うことになる日々。

きらはどこに出かけたことがあるのだろう。
飛行機には熊本の実家に里帰り訪問をする時に一度乗った。
パスポートはもちろん持っていない。海外旅行の経験はない。
にこの実家を訪ねて新幹線で関西に出かける旅が数度。三重あたりにも立ち寄っている。
房総一周の日帰りドライブは、季節の折々に。
夏の海水浴、春の花を求めてのドライブ。
箱根に一、二度。奥日光に二度。湘南のドライブが何度か。
近場のあちこちの公園に。
お台場は何度も。
息子などの送り迎えに成田空港へは何回も行った。
娘の東京の友達のところに一泊でお泊りに行ったこともある。
そんなに遠出の経験があるわけじゃない。基本的に我が家とその近くで過ごした一生。人間は時に遠くに出かけるが、犬は飼い主たちとの日々がすべて。自宅とその周辺がすべて。

逆に留守番をしてもらったこともある。きらとにこを一緒にペットのホテルに預けた最初は、2004年の夏、人間たちが甲府に行った数日間。
これは様子見のためにあえて試してみたもので、その年の9月に、仕事半分で、私たち夫婦と娘とでイタリアとスイスに旅立った時は、1週間ホテルに預かってもらった。
ふたりで一つのケージの中で仲良くしていたようだが、むしろ不安と恐怖を感じながら寄り添っていたのが実際だろう。
1週間後に成田空港から直行し、受け取った時は元気で、再会を大喜びしてくれたが、やはり体調は少し壊していたようだった。

その後は、必要がある時は、娘のところで預かってもらったり、娘に家に来てもらって面倒を見てもらったり。

大きな世界を経験した生涯じゃない。
私たちと一緒に過ごすことだけを喜んでくれた生涯だった。


day 5 before Christmas

2009年12月19日 22時02分39秒 | Weblog

                                           2004年12月
動物は毛皮だから夏は暑いだろう。
夏休みはやっぱり海水浴だ。
犬はきっと最初っから泳げるんだろうね。
きらを海水浴に連れていかなきゃ。

ということで、最初に泳ぎに連れて行ったのは、2002年の夏。
まずは小手調べで、海ではなく、房総半島の中ほどにある養老渓谷へ。

千葉の人間にとって養老渓谷は、子どもの時にまず行く所。我が家の子どもも渓谷の河原で水遊びをさせたことがある。東京の人間にとっての奥多摩のようなものか。奥多摩よりずっとちゃっちいが。

養老渓谷の水たまりのようなちっちゃな河原でボールだかたまごちゃんだかを投げてみたが、きらは水の中に入らず、片足でちょんちょんと水際をつついて、何とかボールを取ろうとしている。水の中に入れてみたが、浅いし、距離もないしで、きらが泳げるのかどうかよくわからない。
それがきらの水遊びデビュー。

翌週、本格的海水浴デビューを目指して、房総一周のドライブへ。
房総一周のドライブにはその後、季節の折々に何回連れて行っただろう。
房総一周といっても、正確には南房総半周。

この時は、アメリカから夏休み帰国していた息子も同伴していた。外房のほうから内房に回り、館山の自衛隊の裏手にある沖ノ島海水浴場へ。穴場のような場所。

きらは最初から上手に泳いだ。迷惑だったのか、楽しんでくれたのか。
翌年も、この沖ノ島やもう少し外房の方に行った房総半島の南端、根本キャンプ場の海水浴場へ。きらは静かに泳いだ。

にこが来ての最初の夏になる2004年。8月にまたふたりを海水浴へ。
この時は、そしてこの時から後は毎年ずっと、館山の手前の富浦の多田良北浜海水浴場へ。
大房岬に覆われるような形で外洋から守られている、ほとんど波のない、静かできれいな海水浴場のはじっこのほうで、人間の迷惑にならないように、きらとにこを泳がせる。(夏の終わりころの平日だから、もともと人はもうほとんどいない。)
初泳ぎのにこは、バタバタと派手に、ほとんど溺れているのかと思わせるような水しぶきを上げながら泳ぐ。その隣できらは静かにすいすいと泳ぐ。

翌年になるとにこも上手に静かに泳げるようになった。

この海水浴場には毎夏出向いた。
去年と今年は行かなかったが、最後の海水浴となった一昨年の夏あたりは、きらは泳いだ後、ぜいぜいと苦しそうに息をした。泳ぎも多少下手になったような感じで、きらはもう歳をとったのだ、と感じさせられた。

2002年から2007年までの6年間、夏の終わりには必ず連れて行った海水浴。きらはありがた迷惑だったろうか。
楽しんでくれていたんだったらいいな。

来年の夏には、にこだけになったけれど、思い出の南房総の海にまた出かけよう。

2004年は、9月に1週間の長期にわたってペットのホテルに預けられることになるという試練も、きらにこは経験している。



day 6 before Christmas

2009年12月18日 22時07分02秒 | Weblog

                                           2003年12月
きらの妹分にはどんな子犬がふさわしいか。
妻と娘とでいろいろと話し合い、探していた。ペットショップを回っても見た。

9月になって生まれた赤ん坊犬の成長がインターネット上にアップされていた。
それを毎日見ていた妻が、その赤ちゃんを我が家に招くことに決めた。
「にこ」と名付けることは、会う前から決めてあったのではないだろうか。英語名は「smile」。

京都生まれのパピヨンの赤ちゃんで、10月の末にひとりで伊丹空港から飛行機に乗って羽田空港にやって来た。きらを連れて迎えに行った。
空港の貨物受取場で小さなケースに入れられた小さな赤ん坊を受け取る。
ほんとうに小さかった。

車に戻り、後部座席に座った妻がにこをケースから出す。
出た途端、にこは、おそらく実家で実の母にその日の朝までしていたように、きらのお腹の下にもぐり込もうとした。

きらは突然のことに、驚き、あわてふためき、パニックに陥り、恐怖すら抱いたようだった・・・

ふたりの出会いは最高、とはいかなかった。

その時からきらとにこのふたりの生活が始まった。
きらとにこ。twinkle and smile。
小さなにこは、予想以上に怖いもの知らずのおてんばだった。
考えてみれば、独身を謳歌していた30代のキャリアウーマンと赤ん坊とが同居生活を始めたようなものだ。初めからすぐに合うわけがない。

にこはきらを新しい母親と思ったのか、何でもきらのまねをした。きらが行くところに付いていき、きらが食べるものを欲しがり、きらが遊ぶボールを取りたがり、きらが寝るところのそばで寝たがる。

きらにしてみれば迷惑だったろう。最初のうちこそボールやフリスビー、たまごちゃん取りっこにライバル意識を燃やしていた(その動画がどこかに残っているはず)が、小さくすばしっこいにこがおおむね先んじるとわかると、やがてにこに遊びの部分はまかすようになった。にこと距離を置くように努めていた。食べることが大好きなきらは、食事の時だけは負けなかったが。

それでも散歩の時は、ふたり並んで仲良く歩く。寝る時に意外と寄り添っていることもある。
何年もしてから、朝の散歩の後の食事前のわずかな時間に、きらのほうから遊びをしかけてふたりで走り回ってひと時を楽しむようになった。

年つきを重ね、にこも大人になり、熟成した関係に進むようになったのだろう。

きらがなくなってから、しばらくはキャベツやリンゴをにこが食べることはなかった。自分から進んでベランダに出ることもなかった。
いろいろなことがそんなに大好きというわけではなかったのか、きらと一緒だから負けずに食べていたのだな、と分かった。

きらがいなくなり、にこもそれなりにさびしいのだろうか。
動物は、別れの悲しみを表現するすべを知らない。ことばを持たない。
「表現する」というのは、人間に与えられた特権であり、責任なのだろう。
喜びや悲しみを人間が表現しなければ、宇宙はことばを知らない。

写真はにこときらのふたりになっての初めてのクリスマス。
まだ落ち着くことを知らなかったにこはうまく撮れなかった。にこは、きらの向こうに一部だけ見える。
いちばん奥に小さく見える犬は、にこじゃない。ただの人形。



day 7 before Christmas

2009年12月17日 21時57分26秒 | Weblog

                                                                                               2002年12月
「きらに子どもを産ませようか。」
「昼間ずっとひとりだからかわいそう。自分の子どもを育てたいかもしれない。」

大人になったきらの避妊手術をどうしようか。
そんなことが家族の話題になる年齢になった。
手術に踏み切る前に、子どもを産ませる可能性を考えよう。
お婿さんの候補者はとりあえず二人いた。
きらとほとんど同年齢のマックとワート君。(なぜかワート君だけ「君」が付く。)

海岸の公園に散歩に行くようになった最初のころからの、きらの友達は、同じパピヨン仲間のマックとワート君。チワワのルンルンとシュガー。

マックもワート君もきらのことが好きだった。会うとすぐ近寄ってにおいをかいでいた。マックは公園中を走り回りながらいろいろな犬にあいさつをしていたが、きらに対しては少し特別な感じだった。。ワート君は犬同士のお付き合いがちょっと苦手だった。毛の色は、マックがきらと同系色で茶と白(少しだけ黒)、ワート君は黒と白。

結局、マックに我が家に来てもらって、きらとお見合いをした。
きらに赤ちゃんができたような兆候があり、お医者さんにもそんなことを言われたが、赤ちゃんが生まれることはなかった。お見合いの時からうまくいってなかったのか。最初から赤ちゃんができてはいなかったのか。途中でついえてしまったのか。

よくは分からないが、きらの腰骨が弱いこともあり、赤ちゃんをもうける努力をこれ以上することはやめた。妻と娘は、きらの子はあきらめて、きらに妹分を招いてあげる計画を立て始めた。きらはやがて避妊手術を受けた。

マックは、もう何年も前に病気でなくなった。ワート君には別のお見合いで子どもが生まれて、今は親子で公園を散歩している。
ルンルンとシュガーのところには、妹分のレンちゃんがやって来て、3匹でいつも散歩している。レンちゃんは気質や雰囲気がにこそっくり。どちらも典型的な末っ子タイプ。

「マックときらは、二人の間に生まれるはずだった赤ちゃんと一緒に今頃天国で遊んでいるかもね。」
マックの骨の一部が埋葬されている公園に今でも時々やってくるマックの飼い主はそう口にする。

赤ちゃんの代わりににこを我が家に迎えるのは、翌年の秋のこと。



day 8 before Christmas

2009年12月16日 23時53分41秒 | Weblog
                                          2001年12月

きらはたまごちゃんが好きだった。

たまごちゃんといっても、幼児言葉を使っているわけではない。
「たまごちゃん」というれっきとした商品名。
ペットショップに売っている。
たまご型をした5センチくらいの大きさの、赤とか黄とかの色をしたゴムボール。
表面に目やまゆが書かれている。

何かのおいしそうな香りがしみこませてあるのだろうか。好む犬が多い。
投げると、楕円形なので予測もしない転がり方をする。

子どもの頃のきらは、飽きずに遊んでいた。
持ってきては「投げて!」と要求し、投げると走って取って来る。ボール遊びやフリスビーは犬のお得意芸。

数年後、にこが来てからは、すでに大人になっていたきらは、最初のうちこそ、にこと張り合っていたが、やんちゃな子供だったにこにいろいろなことを譲って、大人らしく静かに過ごすようになった。けれども、子どもの頃のきらは、おとなしく忍耐強かったが、ここというところでは快活な、みごとな走りを披露する犬だった。走り始めてからある瞬間にターボがかかると、だれも追いつけない感じだった。

公園に散歩に連れていくようになった最初の頃、朝の公園でリードを外すと逃げてしまって、つかず離れず距離をとったまま、まったくつかまらなくなったことがある。
都内の高校に通っていた息子を最寄りの駅まで送って行く時間になったので、仕方がなく娘を携帯で呼び出して来てもらい、交代した。
息子を送ってから公園に戻ると、娘ときらはあいかわらず距離を置いて対峙していたが、公園にやって来た私を遠くから認めて、猛スピードで駆け寄って来て、何なく捕獲できた。

妻がきらを公園に連れて行っていて、こっちが遅れて行った場合、遠くからそれと認めると猛ダッシュで駆け寄って来ることは、最後まで変わらなかった。

反抗期の長かった息子だが、きらのことは抱きしめるようにして接していた。
その息子も、2001年春に高校を卒業して、アメリカの大学に進学すべく、まずは大学付属の語学学校に入学するため、8月末にアメリカに渡った。その直後に、あのテロがあった。

そんな年のクリスマスの写真。


day 9 before Christmas

2009年12月16日 00時25分15秒 | Weblog
                                        2000年12月。

きらの英語名は「twinkle」。きらきら輝いているから。
熊本のブリーダーのところで生まれ、ひとり飛行機に乗って(たぶん)、関東のペットショップにやってきた。
送られてきた血統書の本名には「rainbow ark...」とあった。
「虹の方舟」。

来た時から最後まで、最大の特徴はうれしいとその場でクルクル回ること。
その場の定位置で見事な高速回転をする。
室内を大きくクルクルと、あらゆる障害を上手にやり過ごしながら回ることもある。
動画で撮ったこともあるのかなあ。

一度、娘と妻がきらの両親を訪ねて熊本のブリーダーのもとに行ったことがある。
2002年9月のことかな。
もちろんきらを連れて。
熊本では家族一同みんなクルクル回っていたらしい。家系なのか。

その時は飛行機で行ったが、乗る前と降りてからも含めてかなりの時間を機内の荷物室で過ごさなければならない。
かわいそうで、飛行機での旅はその1回で終えた。

ほんとうに、きらの高速回転はほれぼれするくらい見事だった。
見た人はみんな感激した。あきれてもいたけど。