音楽は語るなかれ

音楽に関する戯れ言です。

フィルモア・イースト・ライブ (オールマン・ブラザーズ・バンド/1971年)

2009-08-11 | ロック (アメリカ)


アメリカンロックで最初に自分で買ったアルバムってなんだろうとずっと考えていた。何しろ、最初の1000枚くらいを記録したノートは、アーティスト別にはなっているがレコードの購入日までは書いていない、あの当時、エクセルかアクセスがあったらと本当に残念に思うが、分かっているのは、ジミへンでも、ジャニス・ショップリンでもないこと。シカゴかもしれないが、レコードを手に入れたのはもう少し後かもしれなく、色々考えると実は、このアルバムなんじゃないかと思う。そう、アメリカン・ロックなんて最初は大した興味を持たなかった。ジャクソン・ブラウンに出会うまでは・・・。私が多大な影響を受けたミュージシャンはジャクソン・ブラウンである。だからもう少し後に彼に出会うのだが、それからは自然にアメリカン・ロックも自分の中の一ジャンルとして確立されたから、イーグルスやリンダ・ロンシュタットという所謂、ジャクソン・ブラウンの仲間たちや、ザ・バンド、ドゥービー、スティーリー・ダン、グレイトフル・デッドなどに出会うことになるのも、すべてジャクソンのお陰なのである。だが、それまでの間、このオールマン・ブラザーズに関しては(シカゴはどうもアメリカン・ロックには括りにくかったので)、アメリカンロックのバンドとして唯一、認知していたバンドである。

特にこの「フィルモア・イースト・ライブ」の味気ないのだがなぜか印象に残るジャケットといい、このアルバムにおける、全てのデュアン・オールマンの演奏に関しては脱帽である。勿論、私がこのアルバムに出会ったのは、オールマン兄弟の兄で、ギタリストのデュアン・オールマンがオートバイで非業の死を遂げた事実よりも後のことであるから、もう、このアルバムで奏でられている見事なギタープレーを生で見ることが適わないという失望感も相俟って、私の中では名盤の1枚に数えられている。デュアンはボトルネックというスライドギター技を始めてエレキギターに取り入れた(定説では)革新的なギタリストであったが、私のバンド活動当時には、既にスライドバーが普通に楽器屋で取り扱っていたから、察して珍しくもなかったが、軽音の仲間もスライドギターは知っていても、デュアン・オールマンはなぜか知名度が低かった。私がギター1本でやっていたら、もっとこのオールマンの曲はコピーして演奏したと思う。だが、名曲「ウィピング・ポスト」だけは、デュアンのギターパートを懸命にコピーしてスライドを使ってみたが、やはり、ボトルネック(薬瓶など、牛乳瓶だと大きくて重い、指が入れば精力剤くらいの大きさが丁度よかった)で弾かないと、デュアンの音には近づかないし、それは大変なテクニックであった。また、彼は、デレクアンドドミノスの「レイラ」にも参加していて、このアルバムではエリック・クラプトン(クラプトンが当時最も尊敬していたのがデュアン・オールマンであった)と、まさに「夢」の共演をしているが、彼らふたりのギターを聴き分けるのは難しく、当時、クラプトンはテレキャスター、若しくはストラトというフェンダーのギターを多用していたが、デュアンはそもそもギブソンしか使わないので、かん高い音がデュアンのパートだと思う。このふたりは基本がブルースだから、なぜかポップな曲を演奏しても、ただ派手なだけでなくズシっと纏めているあたりは流石に一流の共演である。これはまたあくまでも憶測だが、クラプトンが色々な方向性を示しつつも最後にはブルースに帰ったり、コンサートでもやたらとデレクアンドドミノスの曲を今でも演奏するのは、如何に彼にとってデュアン・オールマンの存在が大きく、彼と共演したことが現在でもクラプトンの一番の誇りなんだと思う。デュアン・オールマンという人は音楽ファンよりも、音楽ミュージシャンに沢山の影響と遺産を残してくれたプレーヤーである。

デュアンの死後、このバンドがどういう変遷を辿ったのかは良くしらない。しかし、「フィルモア・イースト」だけは今でもターンテーブルに乗っけたいと思う1枚である(残念ながら、ターンテーブルもレコードも実家に置いてある。住いから100メートルも離れているので中々行けないのだ)。


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