音楽は語るなかれ

音楽に関する戯れ言です。

1999 (プリンス/1982年)

2012-01-18 | ソウル・アフロアメリカン・ヒップホップ等


実はこの音楽ブログにおいて、プリンスの作品に関しては、前作「戦慄の貴公子」のレビューだけで終わりにしようと思っていた。その理由としこのアーティストに関してはその後の活躍は衆目の認めるところ(賛否両論あるが)であり、私なんぞが兎や角言わなくても、その存在は確固たるものであり、日本では今ひとつだったかもしれないが、世界においては同世代のマイケルマドンナ(いずれも1958年生)に並ぶセールスと成功を収めた人であるから、なにか評論を必要としない存在だと解釈したからだ。だが、今回、やはりどうしても最低やはり「パープル・レイン」までは書かなくてはいけないと思ったのは、私の音楽知識不足が背景にある。スティビー・ワンダー「インナービジョン」のレビューでも少し書いたが、私は本当に黒人音楽を全く理解しないでロックに浸透していった。だから当時は本当の意味でこのプリンスの音楽性を理解できなかったのである。評論家が彼の表面だけに着目しすぎている前作のレビューでも多少皮肉を書いたが、一番それが顕著だったのが自分であったことにも気がついてしまい、そうなったらきちんとそれを書くことが必要であると強く感じたからである。

簡単にいうと、プリンスはデビュー時からポップ音楽の商業市場において、ソウルミュージック、及びファンクの限界を予測していたのである(それは、モータウンもマイケルも同様)。そしてプリンスが求めた部分はなにかと言うと、ロックとファンクの融合であった。それはプリンスが考えていたよりも実はずっと早いタームで現れた。例えばディスコブームである。1970年代中盤からディスコはそれまでの「ソウルトレイン」に代表される黒人音楽による黒人のダンスクラブから、音楽好きなビートルズ世代の人種を越えた社交場へと変化を遂げていった。そしてそこで流される音楽も徐々に白人系ファンクが増え始め、1975年以降はディスコイコールごく普通の音楽社交の空間として世界に広がっていった(日本は残念ながら少し遅い)。また一方で(これも私の認識不足だったが)ファンクは1960年後半から70年にかけて、次の新局面にはいりつつあった。そう、それがラップであり、ヒップホップである。そしてプリンスは、何故かは分からないが、そのヒップホップには傾倒しなかった。それは世代的な問題もあったかもしれないし、また、マイケルと共通する部分で言えば、音楽的には恵まれた環境に於かれていたというのがその理由かもしれない。なので、「パープル・レイン」に至るまでの彼の作品は、すべて「ブラックミュージックとロック」も融合の為の実験的施策であり、そう結論づけると彼のこれまでの作品、特に、「ダーティーマインド」と前作の2作は音楽以外にもファッションとして、この融合がどうなるのかという模索を行っていて、私が前作レビューで強調した「性倒錯」な一面は、この音楽融合をセックスに比喩して模索した実験的主張である部分については私の論旨も強ち外れていないし、「主の祈り」のリリック部分も外れてはいなかった。この作品では一転して妙な尾鰭は外してあってかなり正統的なファンクに徹している一方で、シングル・ヒットになった"Little Red Corvette"はポップでチャートを意識した曲となっていてアルバムの中では浮いているが、ビルボードでは2位まで上がり、平均的な音楽ファンをアルバムに誘導することにも成功している。要するにプリンスはかなり計算した作品作りをしていることがこういうところからも垣間見られるのである。

この作品、レコード時代は大胆にも2枚組だった。私も発売時には可也思い切ったことをやったなぁと感心したが、注目していたアーティストだっただけに「全米トップ40」で湯川さんが取り上げてくれた時は嬉しかったし、聴き応えがあって面白いアーティストと言っていた。勿論彼女なんかは無名時代から知っていたから、きっと次の作品への展開は読めていたのかもしれないが、いよいよ次作は世界のプリンスへと変貌を遂げるのだ。


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