音楽は語るなかれ

音楽に関する戯れ言です。

戦慄の貴公子 (プリンス/1981年)

2010-09-28 | ソウル・アフロアメリカン・ヒップホップ等


私の知っているミュージシャンで、プリンスほど最初に音楽を聴いてみるまでの間にワクワクした人はいない。色々な噂とベールに包まれている部分が沢山あり、同時に当時は中々情報をすぐ取得することも出来なかったので、我々は音楽関係者の感想や解説を中心にしか得ることが出来ず、それらは余り客観性のあるものではなかったから、寧ろ行間を読み取る事に苦労をしたものだ。

プリンスに関して言えば、性倒錯者という印象が強すぎて、だが、一体それが本人の性癖なのかそれとも音楽スタイルなのかは本当の所は全く分からなく、性倒錯的はリリックの分析を中心とした音楽解説が殆どだったし、当時は既にフレディマーキュリーに代表されるようなゲイの存在は一般の海外ニュースではなく、音楽界の話題として得るような事が多かったから、そのニュースソースの重要度と共に、音楽情報は世界のトレンドを優先していた。プリンスを最初に聴いたこのアルバムでは、やはり、その音楽スタイルがかなり評判になっていた様にジャケットから得るインパクトに比べると音楽はとても正統的であったが、やはり、リリックはそれなりに面白く例えばコントラバーシーでは主の祈りを、"Our Father who art in heaven"「天にましますわれらの父よ~」と小学校では習ったが、それをリリックにしてしまっていて驚いたり、4年生の聖書の時間に英文の暗唱をさせられた事がこんなところで役立つとは思ってもみなかった。しかし、そのリリックと音楽のバランスはとても良かった。ある意味で彼の性倒錯な部分というのは、このアルバムでは強調されていたものの、この後の作品では殆ど前面に出てこなくなった様だ。というより、後々のマイケルジャクソンもそうだが、ブラックで在ることに特別扱いを課さない傾向があり、プリンスは敢えてブラックミュージックとしてのハードロックに傾倒しているのが分かる。つまり性倒錯という洒落で、人種倒錯、この場合は長所としての人種超越を試みているとも、受け取るのが普通なのかも知れない。そう考えると、その後の彼の作品傾向と辻褄が合ってくると思う。プリンスの音楽というのは特に境がなく、ロック、ファンク、ソウル、ブルース、ジャズ、ニュー・ウェイヴ、ヒップホップというところをすべて自在に取り込んでいる。そういう意味ではその音楽性が安易に写らない工夫としての「性倒錯」という触れ込みなのかもしれないが、そんなに安易な筈はないのかもしれない。但し、このアルバムまでのプリンスは評価できるのだが、これ以降のプリンスは正直なところ余り評価に値しない。不思議なのはそのことに関しては殆どの音楽関係者がこぞって同じような評価をしているのは、私と同様にそれまでのプリンスへの期待が一転してしまったという理由なのかもしれない。「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も過小評価されている25人のギタリスト」に於いて第1位に選出されたり、デビュー以前から一生分の楽曲をストックしていると揶揄されたり、色々余計な尾鰭が付いてしまったのである。しかしよく考えると、やはりプリンスはキャラクターのコンセプトが当時のアメリカミュージシャンにてしは珍しく明確に打ち出していて、その点は同じセクシャル路線でもマドンナの様に後付けではなく、確固としたものを持っていた、ところが、後々のヒットによってその牙城が崩れてしまったことがなんとも惜しいアーティストである。そう考えると、このアルバムを出した時がまさにミュージシャンとしての円熟期であり、彼のコンセプトが音楽ファンに浸透しただけでも成功と言えるのではないかと思う。

プリンスが、アンダーグラウンド的なプリンスではなく、正統派としてもプリンスになってしまったことは彼自身でも意外だったのかもしれない。そして、この後の大成功を手にした彼の作品から聴いたファンが、振り返ってこのアルバムの時代は中々聴いてくれないのが悲しい。本来あった姿の方が私に取ってはずっと魅力的だし、音楽的にも可なり優れていたと思われるのであるが・・・。


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