月あかりの予感

藤子不二雄、ミュージカル、平原綾香・・・好きなこと、好きなものを気の向くままに綴ります

夕凪の街 桜の国

2006年08月27日 21時42分11秒 | 漫画(藤子以外)
先程、24時間テレビで、2004年9月に起きた、ロシアのベスラン学校占拠事件の
被害者の少女のことが取り上げられていました。死者350人以上、そのうち半数が
子どもという、あまりにも痛ましい事件です。事件の現場となった学校には、今も
生々しい当時の傷跡が残されていて、その場を被害者の少女(本人も九死に一生
を得た経験をしているばかりか、妹さんを亡くしています)とともに訪れた広末涼子
さんの、いたたまれないような苦しい気持ちが伝わってくるようでした。

チェチェンの独立も大切なんでしょうけど、これだけの無関係の子どもの命を犠牲
にしてまでやらなければならないことなのだろうかと、当地の状況など知る由もない、
極東の実質的に平和な島国の住民である私なんかは、ついつい考えてしまいます。
絶対に国際社会の理解などを得られるはずもないような蛮行が繰り返されることは、
「平和な未来」のはずの21世紀に入って6年目の現在に至っても、どうにもならない
ものなのでしょうか。どこかで負の連鎖に歯止めをかけられないものなのでしょうか。

今でこそ空爆を受けるおそれもなく、実質的には平和な社会である日本も、今から
61年前の 8月 6日と 8月 9日、世界で初めて使用された驚異的な核兵器によって、
2つの都市が壊滅的な打撃を受け、多くの子どもを含む市民が犠牲となりました。
ウィキペディアによれば、広島で1945年12月末までに14万人、長崎で7万人以上
が死亡したとされています。

核の使用はやむを得なかった。これがなければ戦争が終わらなかった。

核兵器を使用した側の国は、いつもそう言います。確かにそうなのかもしれません。
そうではないのかもしれません。しかし厳然としていることは、アメリカ合衆国による
原子爆弾の投下で、数十万人の日本の市民が犠牲になったという事実なのです。

こんな、あまりに固い内容は、このブログには似つかわしくないでしょうか(^^);
先程の24時間テレビを見て涙が出て、どうしても書きたくなってしまったんです。
それに今朝、こうの史代先生の「夕凪の街 桜の国」が届いたからでもあります。

この作品は初めて読んだわけではありません。元妻が購入したものを読みました。
もちろん彼女がこの本を持って行きましたので、今回は買い直したということです。

原爆に関しては、今は、また他の学校はどうなのかは知りませんが、私が通って
いた大阪の小学校では、当時いわゆる「原爆学習」を非常に熱心にやっていました。

小学校の修学旅行は広島、中学校は長崎と、どちらも原爆関連の施設がメインで、
小中学生当時の気持ちとしては、「もういいよ」と言いたくなるほど、原爆および戦争
についてはいろんなものを見させられましたし、調べさせられました。

原爆の惨状については、本当に大量の資料を見ました。原爆の被害を受けた建物、
被害者のケロイド状の肌、8:15の瞬間、そこにいた人が一瞬にして消えてなくなり、
その場に焼き付いたままのの影というものも見た記憶があります。授業であったり、
グループごとの自由学習であったり、さまざまな形で学習しました。

正直、二度と見たくないような、あまりにも恐ろしい写真や映像も相当に見ました。
旧日本軍により惨殺されたとされる、頭部が切断された遺体の写真もありました。
白黒ではありましたが、小学6年の自分にとって、あまりに惨たらしい、恐ろしい写真
で、それを小学生に見せるというのは、別の意味で良いのか?と思ってしまいます。
あれから20年近く経って考えてみれば、少しやりすぎのような気もします。

しかし、あれだけの残酷さを、これでもかというほど見せつけられたからこそ、今でも
戦争という愚行を憎む気持ち、忌み嫌う気持ちがかなり強く残っているのも、また
事実なのかもしれません。

そんなわけで、原爆の「表面上の恐ろしさ」は、こちらの身が痛くなるほどに調べて、
見て、聞いて、理解しているつもりでした。

しかし、原爆を落とされた地域に住む人々、実際に被害を受けた人々、身内が被害を
受けた人々の「心」の様までは、表面的な資料をなぞらえていても、到底理解の及ぶ
ところではありませんでしたし、正直、考えたことすらありませんでした。数字で14万人、
7万人と聞いたところで、心からその重みに気付くことの出来る人などいないと思います。

「重みに気付くことの出来る人などいない」ということを、改めて気付かせてくれた作品
が、この「夕凪の街 桜の国」だったのです。

同時に、漫画という媒体、しかもこれほどシンプルな線で、ここまでの表現が出来る
こと、こういうテーマの、こういう物語が、こういう組み立て方を出来るのだということ
をも気付かせてくれました。

この作品は、「夕凪の街」1話、「桜の国」2話の合計3話から成り立っている物語です。
原爆が落とされたときの様子、阿鼻叫喚の図というのは、「夕凪の街」に数カットしか
登場しません。それもシンプルにデフォルメされた線で抑制された表現としてのみです。

「夕凪の街」の物語は、原爆投下から10年経った広島からスタートします。

主人公の皆実は、原爆の被害を受けつつも、それまでは特に何事もなく、生活して
いました。恋の予感もあります。しかし家族を多く原爆で失っています。生き残った
自分は、「生き残ってしまったこと」への後ろめたさのような感情から、自分が幸せに
なることを拒んできたのです。

ところが、打越氏(恋人の名前)も同じように叔母を原爆で失っていることを知り、
彼と結ばれる決心のついた直後、突然眠っていたものが皆実に襲いかかるのです。

「そして それきり 力は抜けっぱなしだった」

この表現は、本当に目からウロコでした。
よほどの感性と才能がなければ、このシーン以降の悲劇の始まりとなる部分に、
こんな台詞を持ってくることは出来ません。正直びっくりしたのを覚えています。

続く「桜の国」第1話では、突然舞台が昭和62年に移り、よほど注意深く読まないと、
前の物語との関連に気が付かないどころか、原爆の物語であることすら忘れさせる
構成を取っています。第2話で、ようやく第1話の登場人物と「夕凪の街」の関連が
明らかになるのです。あまり詳しく書きませんので、ぜひお読み頂ければと思います。

この構成が非常に秀逸で、従来この種の作品ではあり得なかった「謎解き」の要素
までをも持っています。同時に原爆というものが、被爆地においてはどれほど根強い
影響を持つのか、広島のお墓には、8月6日から数日間が命日の人が多いのは何故
なのか等、ふだん平和に生きている我々、しかも広島でも長崎でもない地域に住む
人間には、なかなか意識できないようなことを、改めて思い起こさせてくれる作品です。
漫画表現としても一つの到達点に達したとも言えると思います。


第9回手塚治虫文化賞新生賞
第8回文化庁メディア芸術祭大賞

こうの史代 著
夕凪の街桜の国
双葉社
詳細

※映画化が決定したそうですが、私はこの作品を漫画だからこそ高く評価しています。
 漫画ならではの優れた表現であるが故の感動であると考えているからです。
 監督はじめ俳優の皆さんの手腕に掛かっていると思いますが、この作品の映画を
 決して「単なる原爆映画」にはしてしまわれないようにと祈っております。


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