~第二期オバマ大統領就任演説より~
2013年に第二期オバマ大統領就任演説があり、マスコミ各社から独自の日本語訳が公表されました。2年前のことで、タイムリーな内容ではありませんが、演説の訳文をめぐり、どのように訳出するべきか議論が噴出したということがありました。今回は、この事例から翻訳の仕方と、翻訳者が抱える問題について記述してみます。英語の翻訳だけでなく、どの言語の翻訳、通訳にも言えることです。
Barack Obama 2013 Inauguration Speech - Full Speech - Second Inauguration
この記事で取り上げる該当箇所は4:53~5:50にあります。
以下の英文は、ホワイトハウスのサイトから引用したものです。この原文をA~Fに分割します。特に議論となったのが『D』の文です。
The White House 大統領演説原文
A) But we have always understood that when times change, so must we;
B) that fidelity to our founding principles requires new responses to new challenges;
C) that preserving our individual freedoms ultimately requires collective action.
D) For the American people can no more meet the demands of today’s world by acting alone than American soldiers could have met the forces of fascism or communism with muskets and militias.
E) No single person can train all the math and science teachers we’ll need to equip our children for the future, or build the roads and networks and research labs that will bring new jobs and businesses to our shores.
F) Now, more than ever, we must do these things together, as one nation and one people. (Applause.)
次の訳文は、日本経済新聞電子版に掲載されたものです。本当は、大手メディア各社の訳文を載せたかったのですが、2年前の記事なので、現在見れなくなっているため、やむなく、一社のみの引用とさせていただきました。個人のブログに各社の訳文を載せているものがあり、それを見ると、訳文に大きな違いはないようです。以下の訳文もA~Fに分割します。
オバマ大統領演説訳文、日本経済新聞電子版より引用
A) しかし、時代の変化とともに我々も変わらなければならないということも常に理解してきた。
B) 建国の精神への忠誠は、新たな挑戦への新たな対応を求めている。
C) 個人の自由を守るためには、最終的に集団行動が必要となる。
D) 米国民が今日の世界の要求に単独の力で応えられないのは、米兵がマスケット銃(旧式歩兵銃)や民兵組織でファシズムや共産主義の勢力と戦えなかったことと同じだ。
E) たった一人の人間では子どもたちの将来に欠かせない数学や科学の大勢の教師を訓練できないし、米国に新たな雇用や事業をもたらす道路やネットワーク、研究所もたった一人で築けない。
F) 我々は一つの国、一つの国民として、今まで以上に協力して取り組まねばならない。
英文を元に、以下、私訳を作りました。
私訳
A) (その一方、)私たちはいつの時代も変化を遂げてきましたが、今がまさにその時です。
B) 建国理念に忠誠を誓った私たちは、新たな時代に相応しい、新たな対応が求められています。
C) 建国理念で謳われた個人の自由を守るため、私たちは結束しなければなりません。
D) 国民の一致なしに、社会が期待する責務を果たすことはできないからです。独立戦争で、アメリカ軍はマスケット銃と民兵の力を使い戦いましたが、果たして、この装備のまま、第二次世界大戦と冷戦を戦うことができたでしょうか。時代に合わせた戦術が求められるのです。
E) 数学と科学の教員育成をはかり、こどもたちの教育環境を整備します。道路整備事業、情報通信網の整備、研究機関の設置をすすめます。これは、アメリカにビジネスと雇用の機会をもたらすものです。国民の足並みが乱れたままでは、これをなしえません。
F) 私たちは、今まで以上に力を合わせましょう。同じ国民、同じ人間として。(拍手)
なぜこのような訳文ができたのか、以下説明をさせていただきます。
~輪郭を設定する~
輪郭を設定するにあたり、次の3つのポイントを検討します。
ハイコンテクストと比喩の解釈
キーワード
ストーリーの把握
ハイコンテクストと比喩の解釈
この就任演説は、アメリカの大統領がアメリカの国民に語ったものです。演説の中で、アメリカの歴史、価値観といった、アメリカ独自の味付け表現も出てきます。こうした自国文化に関わる表現がネイティブの間で交わされる場合、ハイコンテクスト(ことばが省略された表現)となる傾向があります。翻訳者にとって、注意信号です。アメリカ人同士では、ハイコンテクストで通じ合えるのですが、これを直訳した場合、必然的に、日本人には理解できない謎解き文になります。具体的な解釈は後述いたします。
キーワード
文全体からキーワードを探します。英語では、同じ単語を繰り返し使用することを忌避するという規則があります。同じ単語が何度も繰り返し使われることは少なく、同じ意味なのですが、違うことばに変えて表現されることが一般的です。
『変化』を意味するキーワード change, new responses, new challenges
『一致』を意味するキーワード collective action, no more...acting alone, No single person, together, one nation and one people
キーワードから、国民に『変化』と『一致』を求めていることが分かります。
ストーリーの把握
意味上のまとまりから全体を3つに分け、ストーリーを把握します。
A~C アメリカの建国理念を引き合いに、変化と一致が必要であると述べる
D 独立戦争のたとえを引用し、新たな政策の必要性を訴える
E,F 政策の具体的内容を挙げ、国民が一枚岩となり取り組むことを求める
ここまで押さえておけば、半分は解釈が終わったようなものです。次から、細部の解釈にはいります。
~ハイコンテクストと比喩~
American soldiers ... with muskets and militias
上記の文は、ハイコンテクストの典型的な英文です。ネイティブがこのフレーズを聞いたとき(読んだとき)次のイメージが頭の中に広がっているはずです。
『マスケット銃と民兵』は、240年前のアメリカ独立戦争の象徴。訓練を受けず不十分な装備で、一般市民がマスケット銃を手に、強豪イギリス軍と8年間戦い独立を勝ち得た、という記憶がよみがえるでしょう。また、時代遅れの鉄砲とも揶揄されています。次の動画をご覧いただければその意味が分かると思います。
Long Land Brown Bess.MPG
fascism or communism
この英語は、比喩、象徴の意味で使われています。独裁主義とは第二次世界大戦の象徴で、ドイツ、イタリア、日本による三国軍事同盟のことです。共産主義とは冷戦時代の象徴で、ソ連、中国などの社会主義国家のことです。
英文
D) For the American people can no more meet the demands of today’s world by acting alone than American soldiers could have met the forces of fascism or communism with muskets and militias.
以上の表現を考慮し、解釈文を作ります。(原文放棄をしていないので、まだ訳文ではありません)
解釈文
D) アメリカ国民の一致なしに、社会が期待する責務を果たすことはできない。独立戦争で、アメリカ軍はマスケット銃と民兵の力を使い戦った。しかし、時代遅れの装備のまま、第二次世界大戦と冷戦に立ち向かうことができたであろうか。不可能である。我々は時代に合わせた戦略を持たなくてはならない。
大統領は、こうした内容を言いたかったのだと思います。また、アメリカ国民も、こうした内容で理解していたはずです。翻訳者は、ネイティブの頭の中にできるイメージを理解することが大切で、字面を追いかけることに終始してはいけません。
解釈文に原文放棄という処理を加え訳文を作ります。英語では『fascism』『communism』ということばがありますが、これを『独裁主義』『共産主義』と直訳した訳文と、『第二次世界大戦』『冷戦』と訳した訳文を作りました。読み比べてみてください。
訳文1
・・・独立戦争で、アメリカ軍はマスケット銃と民兵の力を使い戦いましたが、果たして、この装備のまま、独裁主義や共産主義と戦うことができたでしょうか。時代に合わせた戦術が求められるのです。
訳文2
・・・独立戦争で、アメリカ軍はマスケット銃と民兵の力を使い戦いましたが、果たして、この装備のまま、第二次世界大戦と冷戦を戦うことができたでしょうか。時代に合わせた戦術が求められるのです。
日本人が読んだ場合、訳文1よりは訳文2の方がすんなり理解できると思います。『独裁主義と共産主義』は『第二次大戦と冷戦』の象徴として使われています。『第二次大戦と冷戦』という訳文のほうが読みやすいと思います。細かいことかも知れませんが、こうした配慮の積み重ねが訳文の品質を向上させるのだと思います。
日本で議論が沸いた箇所というのは『A no more~than B~』という構文で、これをどう訳すかで議論がありました。通称クジラ構文といわれるもので、『AはBが~ないのと同様に~ない』『Aが~ないのはBが~ないのと同じ』と解説されますが、これに当てはめて訳文を作るとトンチンカンな日本語になります。
英文
D) For the American people can no more meet the demands of today’s world by acting alone than American soldiers could have met the forces of fascism or communism with muskets and militias.
次は、クジラ構文で訳されたトンチンカンな訳文。
D) 米国民が今日の世界の要求に単独の力で応えられないのは、米兵がマスケット銃(旧式歩兵銃)や民兵組織でファシズムや共産主義の勢力と戦えなかったことと同じだ。
日本人がこの訳文を読んでも、何が言いたいのか分からないのではないでしょうか?読んで意味が分からない訳文は、目的言語に訳出したとはいいがたく、翻訳本来の目的を達成したことになりません。クジラ構文に当てはめて訳した結果、日本語の単語を寄せ集めて作った意味不明な非日本語文ができたものです。日本語のネイティブであれば、誰もこのような言い方はしないはずです。これは学校英語に忠実に訳せば訳すほど、意味不明な訳文ができあがるパラドックスです。この英文は、学校や塾が教えるクジラ構文に当てはめて翻訳することができません。
英語に『A no more~than B~』という構文表現があることは事実ですが、日本語の中に、クジラ構文にピッタリと当てはまる構文や係り結びなどの定型表現があるのでしょうか?ないですよね。英語独特の構文表現を、あたかも日本語にピッタリと当てはまる構文があるかのように装い、教えていることに問題があるのです。言語には恣意性があるのですから、英語の構文表現を、日本語にそのまま持ち込むこと自体無理があるのです。
ネイティブはクジラ構文のことを考えながら、会話を理解しているのでしょうか?そうではないと思います。もっとシンプルな理解の仕方をしているはずです。複雑なクジラ構文を持ち出すのではなく、シンプルな『A than B』に当てはめた理解で良いと思います。これは、『AとBは比較の関係にある』という意味です。そして『no more』があるので、AとBの文は両方とも否定された意味になります。こうした解釈をしないと、この大統領の演説は翻訳できません。構文や文法を理解することはそれなりに必要ですが、日本の英語教育の問題は、教科書で教えることに絶対的権威を与え、生徒も絶対的基準のように思いこむことで、フレキシブルな対応をできなくさせていることです。この D) の英文は、学校や塾で教えるクジラ方式が万能でないことを示す例文です。
学校の中で教える、文法、構文、単語の定義は、教科書の理屈に合う英文のみが集められていて、理屈にそぐわない英文は教科書から排除されています。この大統領が使った構文が、クジラ構文を解説する教科書や参考書に引用されることはありません。都合が悪い例文は排除されるからです。生徒は教科書の理屈に合うことしか教わらないので、学校で教わった方法で、通訳や翻訳をやっても通用しないのはそのためです。余談ですが、こうした問題は英語だけではなく、国語の文法教育にも見られることです。
語学学習では、根本的な考え方を変えなければなりません。英語の勉強の仕方について、分かりやすく説明された動画があるので紹介させていただきます。分かりやすい語り口ですが、第二言語習得理論、異文化コミュニケーションに基づいた内容です。言語というのは直訳できないということを説明しています。動画を作った、デビッドさんに感謝を申し上げます。中学一年生に見て欲しい内容です。
[語学] 英語学習のコツ!? 考え方を変えよう!
1:00~本題に入ります。
~細部の解釈~
A) But we have always understood that when times change, so must we;
上記の英文を、直訳で訳すと以下の訳文になります。
A) しかし、時代の変化とともに我々も変わらなければならないということも常に理解してきた。
この訳文は『理解はしてたけど、変化できなっかた』というニュアンスを含む表現になりますよね。変化をしてきたという意味なのか、理解だけしていて変化をしなかったという意味なのか、読者に混乱を与える訳文になっています。ここで大統領が言いたいのは『過去を振り返ってみると、私たちは、時に応じ変化を遂げてきたではないか』という意味です。understood を『理解する』と直訳したのでは、原文の意図が変わってしまうということです。
文頭の『But』は、大統領の肉声にはないのですが、私訳では(その一方、)と訳出しておきました。接続詞は文脈をつなぐ大切な働きをするので慎重な訳出が必要です。ここに載せてはいませんが、butの前文は『勤勉さ、責任感といった国民の誇るべき資質は、時代を通し変わらない』という内容です。『but=しかし』という一語一訳式に訳すのではなく、butの前後の文を理解し、最も相応しい訳語を選択するという作業をしなくてはなりません。『しかし』ではなく『その一方』という訳出が相応しいと思います。『しかし』には前文を否定するニュアンスがあるからです。
英語の文に接続詞があるからといって、訳文にも接続詞を入れなければならないという翻訳ルールはありません。接続詞が省略される場合もあります。言語には恣意性があるからです。
C) that preserving our individual freedoms ultimately requires collective action.
上記の英文を、直訳で訳すと以下の訳文になります。
C) 個人の自由を守るためには、最終的に集団行動が必要となる。
『最終的な集団行動』という文を読むと『タカ派発言か?戦争でもはじめる気か?』というニュアンスを感じます。こうした訳文は外交に影響を与え、文化摩擦を生む危険があります。政治、外交に関する翻訳で、こうした訳出は最大のタブーです。クジラ構文を誤訳するよりも深刻な過ちです。
大統領が言いたいのは『集団行動が必要』ではなく『一致しようではないか』という意味です。通訳や翻訳というものは、直訳をしてはダメなんです。
『ultimately』が『最終的に』と、とても強いことばに訳出されていますが、『ultimately』は、後続の文が結論(結果)であることを意味しているのであって、『最終的に』といった強い意味だけで使われるのではありません。英日辞書を、バイブルのような絶対的基準として使うのは間違いです。
E) No single person can train all the math and science teachers we’ll need to equip our children for the future, or build the roads and networks and research labs that will bring new jobs and businesses to our shores.
上記の英文を、直訳で訳すと以下の訳文になります。
E) たった一人の人間では子どもたちの将来に欠かせない数学や科学の大勢の教師を訓練できないし、米国に新たな雇用や事業をもたらす道路やネットワーク、研究所もたった一人で築けない。
ここで大統領が言っているのは、具体的な政策を挙げ、これを遂行するため一枚岩になろうということです。英語の文体をそのまま直訳し『一人では~できない』とすると、日本人に『大統領は自分の政策に自信がないようだな。いじけてるようだな』という印象を与える文になります。日本の首相が政策をアピールする時、弱気な表現はしないですよね。英語の文体に引きずられた翻訳をしてはいけません。大統領が何を言いたいのかを理解し、それに等価な日本語表現にしなくてはならないのです。
もし、オバマ大統領が日本語を理解できる方で、直訳された訳文を読んだとしたら『オレはこんなこと言ってないぞ!』と言われると思います。『直訳が正しい翻訳なのでこれでいいのです。ここはクジラ構文ですから、多少おかしな日本語でもいいじゃないですか、大統領』このように言えるのでしょうか?大統領は『理屈ばかりこねてないで、オレが言いたいことをまともな日本語で伝えてくれよ』と言われると思います。これが通訳や翻訳の本来の目的ではないでしょうか?日本人が読んで意味が分からないような訳文、誤解を与えるような訳文ができてしまうとすれば、どこか、翻訳の仕方が誤っているのです。これでは、翻訳の目的を達成したとは言えません。これはあらゆる翻訳、通訳に共通して言えることです。
以上が、訳文を作るポイントになると思います。
私訳
A) (その一方、)私たちはいつの時代も変化を遂げてきましたが、今がまさにその時です。
B) 建国理念に忠誠を誓った私たちは、新たな時代に相応しい、新たな対応が求められています。
C) 建国理念で謳われた個人の自由を守るため、私たちは結束しなければなりません。
D) 国民の一致なしに、社会が期待する責務を果たすことはできないからです。独立戦争で、アメリカ軍はマスケット銃と民兵の力を使い戦いましたが、果たして、この装備のまま、第二次世界大戦と冷戦を戦うことができたでしょうか。時代に合わせた戦術が求められるのです。
E) 数学と科学の教員育成をはかり、こどもたちの教育環境を整備します。道路整備事業、情報通信網の整備、研究機関の設置をすすめます。これは、アメリカにビジネスと雇用の機会をもたらすものです。国民の足並みが乱れたままでは、これをなしえません。
F) 私たちは、今まで以上に力を合わせましょう。同じ国民、同じ人間として。(拍手)
イザヤ書40章8節 口語訳
草は枯れ、花はしぼむ。しかし、われわれの神の言葉はとこしえに変ることはない。