蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

トンカツ画伯訪問記 2

2010年01月17日 | 小説
私の心に画伯の言葉が重く沈潜したのだった。その「小説はトンカツと絵画の中間」「トンカツ並みに小説を書けば売れるのだ」それは貴重な助言でもあった。横で大声を出している元編集長の主張「底流としての時代精神を共同幻想に転換させ作家個性を展開」なんかよりは遙かに分かりやすい。そこでトンカツ画伯に再度尋ねました「トンカツを揚げるとはいかに」と。
その質問を画伯も待っていた。画伯の独自のトンカツ論を怒濤のごとく、別の言い方では酔っぱらいの戯れ文句のごとくに聞くことができた。しかしこれが私には非常な驚きだったのだ。驚いた理由は後にしてまずは画伯のトンカツ論、なにせこれを実践すれば小説が売れるというのだから。
「まずトンカツが旨くなるには美人の配偶者を持たなければならない」と理解不能の珍説が再び。トンカツ味がなぜお上さんの面構えに左右されるのだ。この無理難題にはお手上げだ。「手遅れだ」と叫びたい私を無視して画伯は話を続ける。
「君は私のワイフを見たことがない。それは幸福者だ。今日もワイフを連れてこなかったのは、君やここの主人がワイフを見るとどうしても自身の配偶者と比べて、その結果、面造作の差異にガクゼンとして相対不幸を感じてしまう。君たちが正月から不幸にならんよう心配りしているのだ」そこまでの配慮、画伯は心優しい人だったのだと感心した。
「カミさんが美人であれば、どうせ口漱ぎのアルバイト仕事なんだ、どうでもいいやと投げやりになれる、結果トンカツプロセスを固定化する。そこが大事だ。いったんプロセスを決めたら変えないのが味を保つコツなのだ。どうせトンカツ一枚、せいぜいトンカツキャベツの一皿なのだの投げやり気分、しかしその限定仕事で最善をつくす。トンカツ命なんて真剣に取り組んだらプロセスをちょくちょく変えて、最後にはトンカツ泥沼にはまり込む。これを避けなければ玄人にはなれない」
アルバイトのトンカツ仕事でも玄人化を目指しているのだ。心優しいだけでない、画伯はえらいのだ!と再度感心した。画伯の言葉を続ける。
「トンカツ味を決めるのが三角形だ。トンカツ料理の三角形とも言う、かのレビストロースの料理の三角形とは異なるからよく聞け。構成は水・油・温度である。油は膏と相関している。トンカツの主原料の豚肉は水と膏、これを熱い油に浸し水油(すいゆ)転換を促進する。それが温度管理の極意なのだ」
これではトンカツ構造主義ではないか、しかし聞き慣れない言葉「水油転換」が出た、知らないのはトンカツ素人の私だけで、トンカツイーター仲間内ではなじみの技術かも知れない。恥を忍んで質問すると、
「君が知らないのも許そう、トンカツ玄人仲間内では知られている技法じゃ。ウチでは90%を設定している。
豚肉はタンパク質と水、膏でできている。旨いのはタンパク質であるが生では食えない。水、膏が生臭いからだ。これを油の高熱でじわりじわりといぶり出すのが料理となる。水気を出して揚げ油を肉内に浸み入らせる、膏身も本来の膏を滲み出して油に転換させる。しかし全てを油転換しては駄目だ、幾分の水分、膏分を残す。あたかも一枚の豚肉片なれど、その豚が豚舎でオカラや残飯を旨そうに食っていた昨日、いや殺戮まえの一昨日の楽しかった豚記憶を残すために、元々の水と膏をトンカツに封じこめる、それが秘伝なのだ」
「トンカツ師匠いや間違えた画伯、質問ですが」と私はあわててしまった。どうしても確認しなければならない「温度管理が秘伝は分かったが、豚のロース肉の水と膏にはその親豚が生きていた記憶、ぶーぶー鼻を鳴らしてオカラを喰っていた記憶が残っているのですか」
「その通りよ、その記憶の多くを揚げ油に排出させる、これは言うなれば人に喰われよとの引導渡し。しかし全て転換したら旨くない、ほんの少し豚の記憶を残すのが味で、それが90対10%なのだ。喰われいく豚への哀悼でもあるのだ、合掌」
画伯の説はかの帝都線駅前で「沿線随一」と看板を掛けている焼き鳥サブちゃんの「業火地獄焼き」と同じではないか。サブちゃんの主人も、炭火をカンカンに熾し焼き鳥串の鶏肉をジュウジュウいわせているが、その目的は水と膏をいぶりだし、生きていた鶏の記憶を排出するためだった。
トンカツと焼き鳥、技法の差はあるが「生きた記憶、水と膏」を取り出すのが秘伝だった。私事にはいるが、となると「生きる今の記憶を殺し、私の身体の水と膏をじわりじわりと炙りだして、10%くらい自分の個性で」小説を書けばよろしいのか。
この疑問を解決するには画伯の作品に触れなければならない。美人のお上さんを見てしまうこの身の不幸を我慢する一つの勇気を持てば良い、いざ行かんと十五日の(旧)藪入りに京成お花茶屋はトンカツ工房を訪ねました。

なおサブちゃんの焼き鳥技法は09年10月19日のブログ「サブちゃん焼き鳥…」に説明しています。
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トンカツ画伯訪問記 1

2010年01月16日 | 小説
今年の正月の話です、このブログにするに遅れたのは理由がありましてその理由と結末も2回に分けてブログ掲載します。
正月の2日の朝方、縁ある方から電話があってちょっとした集まりがあるとのお誘いでした。場所は千葉県船橋市、小宅は多摩地区なので遠方ですがせっかくのお呼び、おっとり刀でジャンパーひっかけ出かけました。
久しぶりの外出です。個人事情で恐縮ですが、私は一昨年9月に勤め先を自主退職して著述三昧の禁欲生活に入りました。以来十六月、机の前と図書館往復の生活にのめり込んでしまいました。人に会う機会がありません、言葉を聞く・話す、会話するというごく普通の活動を実践していませんでした。十六月ぶり外出、久方の街角の光景、全て新鮮で楽しく感じられました。N駅から乗り込んだ帝都線特急の車内は、以前の勝手知った通勤電車と違って明るさが感じられました。乗客には家族連れ、恋人らしきカップル、あどけないが騒がしい小・中学生グループなどで満員。それぞれが正月の外出の喜びではしゃいでいました。
呼ばれた方宅に到着すると集まりはすでに盛り上がっていて、遅れた私には「駆けつけ三杯」が強要されてしまいました。珍しい赤のサンセールを注がれたのですが、下戸なのでグラスの半分も飲めず、これも珍しいバドワに氷りとレモンを浮かせて「薄めのジンロック」のつもりでチビリとやりながらお節と揚げ物をつまみ始めた。
集まりの中でひときわ声の大きな方が、当家の主人私を呼びつけた本人で、元雑誌の編集長、今も都心に事務所をもち出版関係で活動している。実はこの方、というかこの者は私の遠縁にあたり、子供の頃から知っていました。三月前に書きかけの作品を送っているので、その批評を貰おうとの目論見があった。話の盛り上がりの狭間に私の未完成作品に話題が移り、元編集長の批評はさすがというかやっぱりというか辛辣でした。
作品になるにはまず売れないとならない。売れるためには時代の底流となる精神を取り込まなければならない。さらに作者の独自性「彼でなければ書けない」何かが無ければならない、とここまでが前段で私の作品は
「全く商品にはならない。100%作家個人(私)の精神なので共感が得られない、金を払って買いたいと思わしめない」との批評でした。ただ「描写、説明、文章のまとめかた」には問題がないとも言われた。しかしこの賛辞はまあご愛想、取ってつけた印象でしたので、前段部分の辛辣批判をメッセージとして言いたかったようです。その後「時代の底流、時代精神の取り込み方」などの文章技法に入って最後には「Hセンセイを見習え」とのご託宣、小生には「なるほどと唸ってしまう」視点がありました。
この話を横で聞いていた方がこの会話に入ってきて、奇妙な話になりました。
「まあ小説なんてトンカツと絵画の中間にある。楽なもんだ」と。理解できない比喩ですが気になりました。初対面なので失礼にならないように「その理由とは」を尋ねたところ、
「トンカツは丁寧につくれば売れる。店は繁盛する。しかし絵画はどんなに丁寧に描いたところで売れない。今の話を聞いていれば小説をトンカツ並みに丁寧に作り込めば売れるという。しかし絵画は…」でこの後は愚痴混じりの恨み節を聞かされました。
年齢は60を越している風情、白髪勝ちの髪を短く切っているのは職人風。トンカツ屋主人とは仮の姿で野鳥の絵画では「第一人者とは言わないが五本指の一人」と自己紹介されたあと、私が喰っていた目の前のトンカツが旨いのは、正月休みを返上して腕によりをかけて揚げたからだと恩を着せられました。そのあと
「半プロの絵描き集団に属しているが、200人ほどの技巧派で腕自慢でも絵画で喰っているのは一人もいない。絵に近い挿絵、グラフィックなどは2-3人で残りはアルバイトつもりの仮姿、あるいはラーメン餃子、運の良い奴は髪結い亭主で稼いでいる。ともかく絵は売れない」と話でした。画伯の丁寧な作品のトンカツはさすがに上出来、キャベツの千切りはふわりと真綿のように盛り上り、特製ソースの香りには感心しました。このトンカツ作品と彼の描く野鳥作品の間に私の売れない小説が位置するのか。なるほどと感心して、このご説を確認するために、トンカツ画伯の工房におじゃまする話でまとまりました。場所は京成お花茶屋駅の近く(東京葛飾区)。次号はその訪問記をブログします。
元編集長から売れない小説と喝破された小説は左のブックマークから入って下さい。冷たい宇宙はヒット数が絶好調です。


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国宝土偶展での金枝篇的雑感=3=完

2010年01月13日 | 小説
本年(2010年)2月21日まで東京国立博物館で開催される国宝土偶展、会場は盛況とのこと、企画した方々に歓び申し上げます。
私も昨年末に訪問して土偶の神髄に圧倒された一人でした。数ある逸品のなかから祈る土偶(国宝合掌土偶)は謎であるとの雑感文を先にブログしました。(09年12月17日ブログ)。その謎とは修理の痕がある、(墓に捨てられたでなく)居住空間、宅内の奥に置かれていた(これは発掘の八戸市教育委員会HPから借用)でした。土偶らしからぬ発掘状況、この謎解きを正月はじめから考えてようやく纏まってきた。解明にあたり梅原猛博士の3500年前と我々は繋がっているとの一文に勇気つけられました(1月2日のブログ)。謎解きにもう一つの国宝「中空土偶」についての省察から始めます。
会場での知識で中空土偶とは名の如く身体が中空になっている。このように形成するのは大変難しく、焼成にも高温が必要とのことでした。技法として高度化したとの説明があります。しかし高度技術は結果であります。原因には「世界観、精神として高揚した背景」あるのではと疑りました。
技法とは目的や使用法を反映しているだけで、それまでの土塊の土偶は当時(縄文後期)の精神、目的にそぐわない何かが合ったのだと考えます。国宝中空土偶は均一に中空にしているのでなく、壊れやすい箇所を設定している。これは函館市立病院でのCT検査で中空内部の構造が見えたことから判明しました。そして会場での説明は「あえて破壊しやすく作製した」とありました(この辺りはメモ取らなかったので要再チェックですが)。
「あえて壊れやすい」に驚きました。さらに深い理由があるはずと部族民(トライブスマン)精神を巡らせました。すると別の背景が浮かんできた。それは縄文人の「人間観察の進歩」です、「医学知識の発達」でも良い。
ようやく3500年前にして縄文人に「人とは弱いものだ、ちょっとした怪我病気で死んでしまう」との世界観が芽生えた。言わば無常感、死生観の反映が人形(ひとかた)を中空に作製し、脆弱な部分をあえて残す。そして「人は多く怪我(病気)で死ぬ、だから脚腕(あるいはお腹など)を弱くする」と死因を土偶に託した。死生感の発達を受け入れた土偶が結果として壊れやすく作製された。技術は後追いと考えました。
そこまでが中空土偶の分析。本論の合掌土偶の謎の解析にようやく辿り着けそうですが、ここまで到達したらあとは一直線ですね。前述の「補修の痕、居住空間の奥に置かれていた」とあれば信仰の対象です。今でも宅内に神棚仏壇、聖人の絵画彫像などを置き、それに祈る習慣は多く家庭であります。信仰の対象は、出入りの煩瑣な玄関横にはありません。祈り、信仰は個人精神に属する、やはり宅内の奥まった一角に置くでしょう。補修した痕とは怪我、病気で重篤になった家族の代替に土偶を疾病を破壊し(穢れの祓え)、その後に補修する。怪我で死にそうな縄文夫に妻が「お父さんの穢れを受けた土偶が直ったわよ、あなたも直ります、しっかりしてね」(類感の呪術)と勇気づける。そして奥まった所に修繕した土偶を鎮座させて祈る。これが合掌土偶の真実かもしれません。このように考えれば発掘状況も補修痕跡も説明できる。以上あくまで推察ですが、梅原博士の縄文と現代の繋がりに勇気うけて、現代の部族民感覚での分析でした
土偶は1万3000年にわたり作製されてきた。中空土偶、合掌土偶はその最晩年の3500年前の。その当時ですでに1万年の歴史を受け継いでいる。1万年の進歩の行き着く頂点に合掌土偶があった。それは縄文人の信仰、世界観を集大成したものに他なりません。
祈るとは世界あらゆる人種、部族に共通した人の本性です。3500年前の土偶の祈りにはさらに類感の呪術(類似したものは影響しあう=12月17日ブログをご参照)=フレーザー卿の金枝篇から拝借=、日本神道の原点の「穢れと祓え」があったのだ。まさに縄文は今の世に繋がるです。

独り言:類感呪術など非科学的、原始的とお思いの方が多いが、そんなことはない今の世にも類感は流行っています。たとえば血液型の世界観、これは血液型が同類であれば同種の思考、行動を起こす。まさにフレーザー卿の言う類感呪術ですね。
部族民通信ホームページにも宜しくご訪問お願いします(左ブックマークをクリック、部族民信仰の小説です)

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国宝土偶展での金枝篇的雑感=2

2010年01月02日 | 精霊
2010年あけましておめでとうございます。旧年中は弊ブログ、およびHP(部族民通信)をご拝覧頂きまして有り難うございました。今年も宜しくご訪問お願い申し上げます。
さて昨年末、いろいろな本を通し読みしている中で気になった部分がありました。気にとめた一節を土偶、特に合掌土偶と重ね合わせて新しい解釈が出来ないかと年末の焼き鳥バイト(駅前のサブちゃんで31日夜まで)の中、元日はお屠蘇に浮かれながら考えていました。結論を今年のブログ始めにと早速書き込みです。
気になった一節とは梅原猛著の古代幻視(文藝春秋)北の天神縁起の謎の二章から。「愛知県知多郡内海町の汐干の天神は汐が満ちると隠れ、引くと現れると言い伝えがある。しかしそこは海から1キロも離れているので汐が満ちたり引いたりとは何時のことか、少年の私はおそらくそれはあり得ない、何かの間違い(伝承)なのだと考えていた」しかし鉄道工事があって天神社近くを掘り返したところ「その近くから貝塚が出てきた。それも元々貝塚があって、いったん海になりまた陸に戻り、その上に貝塚が堆積したことが明らかになった」。
Yahoo地図で南知多町内海の天神社を確認すると、名鉄知多船の内海駅北側100メートル辺りに天神社がありました。ちなみに梅原邸は駅の南側で博士が小学生の時期に聞いた言い伝えとも合致しているので、この社であることは間違いない。
海から遠くの一帯にかつて汐の満ち引きがあった。これは縄文海進と呼ばれる現象でした。縄文の一時期、気温の上昇に伴い4-5メートル海水が上昇して、海岸線が内陸深く入り込んだ。今の沖積平野と呼ばれる河口平野の多くが海におおわれていました。海進のピークは6000年前とされます。4000年前からは海退が始まるとされる。梅原先生は汐干天神の伝承を3500年前としています。その時に海進が最大になったと言っているので、海退の反動期があって、3500年前頃に海がまた押し寄せた期間があったのかも知れません。
梅原先生は「伝承という物は果てしなく遠い時代の記録を留めるものであると思い知った。3500年もの間ずっと(海進)を言い伝えてきたのだ」と哲学者らしき分析を披露しています。そこで考えました、「遠くの過去との繋がりを安堵させるのはは言い伝えだけではない」と。ではどの社会条件下でかくも長い伝承が可能なのか。
まず民族が連綿と同一で続いていることが条件です。言葉も芸術も歴史価値観も、一体に文化とよばれる精神活動に同一・連続性があることがその社会の、ひいて伝承の継続である。日本は列島なので他民族の征服を受けなかった、民族言語は連続性がある。弥生人の影響も軽視出来ないが、基盤は1万年以上続いた縄文だ。この観点から縄文文化を見直す動きがあり、梅原先生はその旗手といえます。
縄文人は今の日本人と同じ感性を持つ「日本人」であると言えるのではないでしょうか。国宝合掌土偶は縄文後期の作製とされます(八戸市風張遺跡出土)縄文後期がまさに3500年前。この土偶を観察、分析するにあたり、いまの私(部族民トライブスマン)の感性で良いのだ!と気付きました。
前回の「国宝土偶展での金枝篇的雑感」でこの土偶には謎が多いとしました。それは私のなかに、「縄文と平成の世では感性的に断絶がある。今の我々には分からない何かを表現している」のだとの思いこみで勝手に複雑化したようです。梅原先生の「伝承」に勇気づけられ、今の部族民感性から論じるととてつもない結論が導きでる予感に年初から昂奮しました。その結論とは「祈り」に対する考察ですが、次回に(4日予定)
HP(左のブックマーク)も宜しく。
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