夢のもつれ

なんとなく考えたことを生の全般ともつれさせながら、書いていこうと思います。

レクイエム・ノート~シュッツ:音楽のお葬式”Musikaliche Exequien”

2005-07-25 | music

 ちょっと奇妙な題名ですが、1636年に行われたロイス侯ハインリッヒ・ポストフームの葬儀のために書かれた音楽で、プロテスタントによるレクイエムと言ってよいものです。シュッツの作品については、4/21の記事で「イエスの十字架上の7つの言葉」を彼のプロフィールとともに紹介していますので、ご覧いただければ幸いですが、この作品は彼の多くの傑作の中でも最高のものの一つだろうと思います。ドイツ語の歌詞を持つ点で、しばしばブラームスのドイツ・レクイエムの先蹤のように言われますが、私の偏った見方では小規模ながら、その宗教的深さと精神的な高みにおいてそれを凌駕するものでさえあるのです。

 この作品は3部構成からなり、ロイス侯が自ら選んだものや侯にちなんだ聖書の一節が使われています。第1部は「ドイツ埋葬ミサの形式によるコンツェルト」となっていて、ヨブ記の「我は裸にて母の胎を出たり」、「裸にてかしこに帰らん。主は与え、主は奪う。主の御名は誉めたたえられよ」が冒頭に置かれ、続いてキリエとグローリアに倣った歌詞がドイツ語で歌われます。グローリアは通常のレクイエムには含まれませんが、ヨブ記の内容と照応したものとなっていて、ロイス侯とシュッツ自身の死を超える神の栄光という考えがよく現われています。

 第2部は、詩篇73章によるテクストで「主よ、あなたさえこの世にあれば”Herr, wenn ich nur dich habe,”」で始まる一節が歌われます。ここでシュッツはまことに意味深い工夫を行っています。アルトがこの冒頭の歌詞を3度繰り返すときに、ich(私)は、他の声部の歌うdich(あなた=神)と一致するのです。我と神が出会い、一体化することが表現されているわけですが、これを単なる技巧と解しては誤りだろうと思います。物語の方で示したようにこの歌詞は、自己を放擲し、神に全面的に帰依することを内容としていますが、そうしたことによって神と一体になれるという宗教的な真実が示されているのです。信仰に対する厳しい姿勢を貫きながら、彼方における甘美とさえ言えるような調和感がシュッツの音楽の最大の魅力だと思います。

 第3部は、幼子イエスを讃える義人シメオンの言葉に導かれ、二つに別れた合唱が歌い交わすようになっています。シュッツは合唱とソロを離れて配置し、声が空中を漂うように演出することを勧めていたそうですが、教会という空間全体を使うことで、信者たちを包み込むいわば音の天井画を示そうとしたのでしょう。シュッツの音楽は簡素で、無駄がないのですが、彼の考えていたことをたどっていくと極めて大きな世界が広がっているのです。


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