好評の「ナマで聴いてもわからない」シリーズですw。一昨日(1/25)にサントリーホールで小林研一郎指揮の日本フィルによるマーラーの交響曲第9番を聴いてきました。1週間に2回も行くなんてどういう騒ぎだと思いますが、たまたま興味があるのが重なったからです。この後の予定は今のところありません。
この80分ほどかかる大曲については私も記事を書いたことがありますし、それなりわかっているつもりでしたが、実演で聴いてみるとまだまだわかんないことだらけだというのが本音です。ふつうのコンサート評っていうかブログだと「今回で日本フィルの音楽監督を辞する炎のコバケンは、マーラーの死と別れのシンフォニーを(中略)という斬新なアプローチで捉え、またオーケストラもこれによく応えて(中略)と演奏した。まことに別れにふさわしい一夜であった」といったものなんでしょうけど、そんなことはとても書けません。だって、そういうのってマーラーの表現したかったことを十分把握していることが前提としてあって、それと演奏を比較するってことだと思いますが、演奏終了後にコバケンがしゃべった(ちょっと驚きました)ところによると彼だって底知れないマーラーの世界に戦いていたそうですから、私がわかるはずもありません。
次に、聴く人がマーラーの作品を十全に理解しているとしても、直接聴いた音と全く音を出さない指揮者が考えたことをなんで、すっと結びつけられるのか違和感があります。そこがピアノとかの演奏を批評する場合と指揮者の「演奏」を批評する場合との違いがあります。よくクラシックをあまり聴いたことがない人が「同じ曲なのに指揮者で違いがあるの?」って疑問を口にしますが、まあそれと同じようなことです。クラシックファンはそういうのを聞くとせせら笑いながら(少なくともお腹の中では)何枚かのCDを聴かせるでしょう。……すると「おおー、全然違う!」でも、それってテンポの違いに由来する場合が多いでしょうねw。
なんだか揚げ足取りや嫌味を言ってるみたいですけど、この曲の解説なんかを見るとだいたいは作曲当時のマーラーの状況を述べて、彼自身が楽譜に書き込んだことと合わせてこの世との別れや死への不安なんかを描いたものとされてるんですが、ホントなの?って思っちゃったんですね。みんな音だけ聴いててそう聞こえるの? そう思って聴くからそう聞こえるんで、縛られちゃってんじゃない? そんな気がします。作曲家が楽譜にどんな言葉を書こうとそれはせいぜいが演奏家に向けられたものであって、その言葉を聴衆に周知徹底してくれなんてことは夢にも思っていないでしょうに。
確かに実際聴くとそういった想いに捕らわれることは事実です。しかし、私が実際に聴いてこれがそうだと指摘できるのは2つだけです。コントラファゴットの音を聴いて「ドンジョヴァンニ」の騎士長の石像を連想したのと、だんだんに楽器が減っていく末尾の構成からハイドンの「告別」シンフォニーを連想した、それだけしか死や別れを具体的に聞き取ることはできませんでした。でも、そう思ってしまう。ベートーヴェンの第9と並んで「感染力」の強い作品だなと思います。聴き終わった人が人類みな兄弟って思ったり、人生のはかなさを感じながら帰るってなんかいかがわしいんじゃないかって思いますけど。
少なくとも「それだけかいっ!」て思います。そんな簡単に言葉に還元できるような代物ではないでしょと。楽器だけ見ても、ピッコロ、バスクラリネット、コントラファゴット、大太鼓、小太鼓、シンバル、トライアングル、タム・タム、グロッケンシュピール、低音の鐘(別に大きなものではありません)といったあまりオーケストラに登場しないものがいっぱい出てきて、まるで子どもためのオーケストラ案内ですが、ウィーンで指揮者をずっとやってたマーラーはそういうサーヴィス精神が旺盛な人だったと思います。
その使い方も例えばピッコロとヴァイオリンのハーモニクスを重ねて出てくる音は、かわいいだけって思ってたこの楽器のイメージを一新するものでした。席は2階席の最後列近くほぼ正面でしたが、耳だけじゃなくて目も悪いので誰が何をやってるかがあまり見えなくて、シューマンのときの席の方がよかったなと残念です。……ついでにいうとトライアングルだけとってもシューマンよりはるかに上手に使っています。
オケのメンバーのみんなの顔を立てるっていうのはマーラーの場合、おそらく本能みたいなものだったのかなって思いました。ヴァーグナーとかレハールとかの引用なんてことよりも「お、ここの田舎の踊りはヴィオラにやらせますか」とか「このモチーフは第2ヴァイオリンから始めるんだ。なるほどね」とか「今、コントラバスは何をした?」とか「へえ、最後になってチェロにソロをやらせるのか」とか、聴いてないと(というか聴いてても)さっぱり何を言ってるのかわからないところがぞくぞくするほどおもしろいんです。……きっとこういう言葉にできない仕掛けや工夫はマーラーが書いた楽譜にはいっぱい詰まっているはずで、それを汲み取る楽しみがまだまだあるってことです。
私は前回も指揮者やオケのことは書きませんでしたし、これからもあまり書くことはないでしょう。それは最初の話と関連しますが、演奏を軽んじてるわけでなく、曲や作曲家のことを書いていても当然聴いた体験を元にしているわけで、上に書いたようなことはすべて彼らのお蔭だと思っているからです。だから書くとすると、曲を味わう上で妨げになったようなこと、例えばトランペットがしばしば音程をはずし、音色も軽薄だったとか、コバケンがひょいっと脚を上げるのがウィーンで見た小澤征爾と似てて恥ずかしかったとか、そういう悪口にしかなりませんw。
この80分ほどかかる大曲については私も記事を書いたことがありますし、それなりわかっているつもりでしたが、実演で聴いてみるとまだまだわかんないことだらけだというのが本音です。ふつうのコンサート評っていうかブログだと「今回で日本フィルの音楽監督を辞する炎のコバケンは、マーラーの死と別れのシンフォニーを(中略)という斬新なアプローチで捉え、またオーケストラもこれによく応えて(中略)と演奏した。まことに別れにふさわしい一夜であった」といったものなんでしょうけど、そんなことはとても書けません。だって、そういうのってマーラーの表現したかったことを十分把握していることが前提としてあって、それと演奏を比較するってことだと思いますが、演奏終了後にコバケンがしゃべった(ちょっと驚きました)ところによると彼だって底知れないマーラーの世界に戦いていたそうですから、私がわかるはずもありません。
次に、聴く人がマーラーの作品を十全に理解しているとしても、直接聴いた音と全く音を出さない指揮者が考えたことをなんで、すっと結びつけられるのか違和感があります。そこがピアノとかの演奏を批評する場合と指揮者の「演奏」を批評する場合との違いがあります。よくクラシックをあまり聴いたことがない人が「同じ曲なのに指揮者で違いがあるの?」って疑問を口にしますが、まあそれと同じようなことです。クラシックファンはそういうのを聞くとせせら笑いながら(少なくともお腹の中では)何枚かのCDを聴かせるでしょう。……すると「おおー、全然違う!」でも、それってテンポの違いに由来する場合が多いでしょうねw。
なんだか揚げ足取りや嫌味を言ってるみたいですけど、この曲の解説なんかを見るとだいたいは作曲当時のマーラーの状況を述べて、彼自身が楽譜に書き込んだことと合わせてこの世との別れや死への不安なんかを描いたものとされてるんですが、ホントなの?って思っちゃったんですね。みんな音だけ聴いててそう聞こえるの? そう思って聴くからそう聞こえるんで、縛られちゃってんじゃない? そんな気がします。作曲家が楽譜にどんな言葉を書こうとそれはせいぜいが演奏家に向けられたものであって、その言葉を聴衆に周知徹底してくれなんてことは夢にも思っていないでしょうに。
確かに実際聴くとそういった想いに捕らわれることは事実です。しかし、私が実際に聴いてこれがそうだと指摘できるのは2つだけです。コントラファゴットの音を聴いて「ドンジョヴァンニ」の騎士長の石像を連想したのと、だんだんに楽器が減っていく末尾の構成からハイドンの「告別」シンフォニーを連想した、それだけしか死や別れを具体的に聞き取ることはできませんでした。でも、そう思ってしまう。ベートーヴェンの第9と並んで「感染力」の強い作品だなと思います。聴き終わった人が人類みな兄弟って思ったり、人生のはかなさを感じながら帰るってなんかいかがわしいんじゃないかって思いますけど。
少なくとも「それだけかいっ!」て思います。そんな簡単に言葉に還元できるような代物ではないでしょと。楽器だけ見ても、ピッコロ、バスクラリネット、コントラファゴット、大太鼓、小太鼓、シンバル、トライアングル、タム・タム、グロッケンシュピール、低音の鐘(別に大きなものではありません)といったあまりオーケストラに登場しないものがいっぱい出てきて、まるで子どもためのオーケストラ案内ですが、ウィーンで指揮者をずっとやってたマーラーはそういうサーヴィス精神が旺盛な人だったと思います。
その使い方も例えばピッコロとヴァイオリンのハーモニクスを重ねて出てくる音は、かわいいだけって思ってたこの楽器のイメージを一新するものでした。席は2階席の最後列近くほぼ正面でしたが、耳だけじゃなくて目も悪いので誰が何をやってるかがあまり見えなくて、シューマンのときの席の方がよかったなと残念です。……ついでにいうとトライアングルだけとってもシューマンよりはるかに上手に使っています。
オケのメンバーのみんなの顔を立てるっていうのはマーラーの場合、おそらく本能みたいなものだったのかなって思いました。ヴァーグナーとかレハールとかの引用なんてことよりも「お、ここの田舎の踊りはヴィオラにやらせますか」とか「このモチーフは第2ヴァイオリンから始めるんだ。なるほどね」とか「今、コントラバスは何をした?」とか「へえ、最後になってチェロにソロをやらせるのか」とか、聴いてないと(というか聴いてても)さっぱり何を言ってるのかわからないところがぞくぞくするほどおもしろいんです。……きっとこういう言葉にできない仕掛けや工夫はマーラーが書いた楽譜にはいっぱい詰まっているはずで、それを汲み取る楽しみがまだまだあるってことです。
私は前回も指揮者やオケのことは書きませんでしたし、これからもあまり書くことはないでしょう。それは最初の話と関連しますが、演奏を軽んじてるわけでなく、曲や作曲家のことを書いていても当然聴いた体験を元にしているわけで、上に書いたようなことはすべて彼らのお蔭だと思っているからです。だから書くとすると、曲を味わう上で妨げになったようなこと、例えばトランペットがしばしば音程をはずし、音色も軽薄だったとか、コバケンがひょいっと脚を上げるのがウィーンで見た小澤征爾と似てて恥ずかしかったとか、そういう悪口にしかなりませんw。
あるオケの練習場に行ったら(私はくるみ割のチェレスタのために行ったのですが)グロテスクな打楽器がたくさん並んでて、チェレスタも2台も!あったので、「何の曲やってたんですか?」て聞いたらマーラーでした。
あの楽器群見ただけですごいエネルギーの人だと思いますね。
ただ大層に言われることが多いけど、偉大、というよりは私にはとても親しい音楽のように聴こえます。映像が自然に浮かぶっていうか…9番の最終楽章はまっすぐに美しいです。
でもシンフォニー、ちゃんとは知らないんですけどねw
で、もしかしてコバ研さんかな?
(私も間違い探しw)
グロテスクな打楽器かあ。チェレスタが出てくるのは6番、8番、大地の歌みたいですが、やっぱそこまで言うのは6番のむちかな?
親しくてまっすぐに美しいっていうのは私も同感です。偉そうなところはほとんどない人ですね。