避難ってなに? 防潮堤ってなに?
平坦な地形、困難な避難
鍬ヶ崎「防潮堤」(4)で、陸前高田の3.11津波被害について、その平坦な地形の事について少し描いた。広田湾を襲った津波は防ぎようがなく根こそぎ市街地が壊滅したばかりか市民の避難もままならずに、結果的の1700人以上の死者・行方不明者を出している。防災用でもあった7万本と言われた松原も全てなぎ倒され、どの程度のものだったか? 堤防や防波堤や防潮堤も役に立たなかった。何よりも平坦な地形を津波は駆け上がってきて、避難に間に合わなかった人が犠牲になったのでは? と考えられる。
避難の路
単純すぎる比較と言われるかもしれないが、鍬ヶ崎や田老の人が比べて気づくのはそこの平坦な広い地形のところと思われる。鍬ヶ崎や田老の地元の人は、このような地形については住んだ事もなければ津波避難との関係で考えた事もないはずである。「津波てんでんこ」は今は沿岸地帯一帯での標語となったが、家のすぐ近くに避難目標の高台が存在するから言える事である。子供たちは高台避難を教えられ、その意味を理解している。教えは世代の伝統となり、訓練は繰り返され、結果として今次津波でも被災者のほとんどが命を長らえている。しっかりと、地元の人は近くの坂道を走って登れば助かるというイメージを持っている。
【写真】丸く写っている校舎から大川小の生徒と先生は山際の道を中央の橋の根元に向かって行進し被災した。橋の根元の交差点は高台になっているという。
あの石巻市の大川小学校の惨事を、鍬ヶ崎や田老の人はわが肺腑をえぐる悔恨の思いで聞いたはずである。「学校の裏の崖をなぜ子供たちは…先生は…よじ登らなかったのか」の思いである。事情はあったのだろうが津波から助かる道はそれしかなかったのに…と。そうすれば死ぬことはなかった、と。
鍬ヶ崎の急峻な避難路
鍬ヶ崎は古いまちで、山道や坂道や高台に続く津波避難の沢は無数にある。浄土ヶ浜の方から数えて、下から臼木山に登る路は何本あるだろうか? 日立浜や山根町の方では納屋の沢や鉄砲沢。心公院に向かう蛸の浜通(今次津波では裏目に出た、波が蛸の浜を越えて被害もでた、両脇の沢伝いに真上に登るしかない)。熊野神社、日影町、金勢(様)沢、館山、小山の坂、十分沢、道又沢、上ノ山、漁協高台、切り通し、大杉神社、等うろ覚えながら主なものを数えても、鍬ヶ崎の市街地はどこも津波からの避難経路に囲まれていると言っていい。いろいろなケーススタディーは残るが家の裏に走り出せば必然的に津波からの避難路を辿ることになる。避難路から一番遠い住宅でも200メートル以内でなかろうか。
誤解を恐れず、敢えて「イメージ」を 言えば、鍬ヶ崎は山側に完璧な自然の防潮堤を有している、ということである。海側の不確かな人工の防潮堤に比べて、海抜20メートルを登れば(市街地地面からは15~16メートルということであろう)ほとんど完璧に避難できる。海側の防潮堤の強度不安の崩壊の心配、高さ不足の越流の心配、高い擁壁の景観・環境に及ぼす弊害の発生、工事の信頼性の不確かさ、官僚主導の計画案、などと比べてほしい。それらの不具合、不信、不安は全くないと言える。
鍬ヶ崎地区には、防潮堤より防潮堤らしい防潮堤がすでに存在しているということだ。しかしこのことは、鍬ヶ崎地区が特別だ、ということではない。概ね田老や小本、田野畑など、三陸沿岸のリアス式沿岸集落には共通して山が迫っている。いや、山と海の狭い平地を選んで集落が発展したという方がいいかもしれない。そのような位置関係で、例えば陸前高田市のような広い市街地の立地とは異なって、山際に沿って細長い市街地を形成している。だからどこでも津波避難の形(コンセプト)は同じである。
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