宮古on Web「宮古伝言板」後のコーケやんブログ

2011.6.1~。大津波、宮古市、鍬ヶ崎復興計画。陸中宮古への硬派のオマージュ。
 藤田幸右 管理人

悪い話

2014年08月04日 | どうなる鍬ヶ崎

[悪い話] <web 岩手日報>2014.8.2)より。祈願祭会場写真も

 

宮古・鍬ケ崎の防潮堤着工 逆T字型を採用


 漁業の町の海側と陸側(おか)とを分断する巨大な黒い壁がこの真ん中を通る。将来、鍬ヶ崎にどのような影響が出るのか? 住民は絶望的に沈黙している…(赤字文章はブログ管理人のもの。以下同)


 県が整備を進めている鍬ケ崎地区防潮堤(延長1・6キロ)の本格着工に伴う安全祈願祭は1日、宮古市臨港通の整備予定地で行われた。同地区は防潮堤が未整備だったため東日本大震災の津波で大きな被害を受けた。鍬ケ崎上町周辺の120メートル区間から工事に入り、全体の完成は2017年3月を予定している。

 防潮堤は高さ10・4メートル。日立浜地区の竜神崎付近から閉伊川河口部にかけて整備され、幅約10メートルの門扉を9カ所設ける。事業用地は土地区画整理事業の換地などで確保する。

 用地幅が限られるため、厚さ1・4メートルで逆T型の直立型防潮堤を採用した。強度確保のため地中33メートルまで鋼管くいを打ち込み、眺望と景観対策を兼ねて、アクリル板の「窓」も設置する。総事業費は約90億円。

写真=アスファルト舗装された鍬ケ崎地区の防潮堤建設予定地(写真中央)=宮古市臨港通】

いよいよ地元で防潮堤の議論が始まろうかというとき特定の無関係者が集まって神主を入れたり下手な芝居の鍬入れをしたり、迷信や形式で既成事実に誘導しようとしています。地元の町内会長を抱き込んでなでなでしながらの…。鍬ヶ崎が将来どうなるか住民も官庁も議会も真剣に議論するべき事柄をこのようにまぜかえすのは時代遅れで下品です。

 

防潮堤に伴う海底地質調査の日立浜前浜の人身事故は、同じ海の複雑さ危険さをあまく見た岩手県の手抜きによる人災でした。この事故の原因究明、責任糾明は進んでいないように思われます。繰り返しますが、個人の不注意や下請け業者の問題ではなく、全体管理者、発注者としての県の手抜きないし認識不足に起因した人災なのです。下請け業者向けの発注書や指示書を見れば明らかになる事です。犠牲者への弔意労災保障や慰霊祭の事等はどうなっているのでしょうか? その同じ場所でする、同一主催者のする安全祈願祭ですからかえって未解決の責任問題を際立たせたものと思います。未解決を抱えての再びのやっつけ祭り、行政の品性を疑うだけです。

 

人身事故はおろか、まだ地元住民への説明も行っていない「直立式」とか「逆T字」と言われても鍬ヶ崎の防潮堤計画の中味の事はまだ誰も知らない。住民のコンセンサス、合意はどこにもない。勝手に岩手県がもってきてここに据え付けると言っているに等しい。今、やっと地元では防潮堤議論が始まろうとしているが、遅くはない。岩手県、宮城県、福島県等東日本沿岸一帯で防潮堤見直し議論が始まっているのが今現在の日本の状況なのです。先進漁村で始まり政府や県知事の中からも地元の意向重視の声が聞こえるようになってきている。鍬ヶ崎でもこれから大いに横の話し合いが進む事を願う。

 

岩手日報は鍬ヶ崎の事を、なんでばせ「同地区は防潮堤が未整備だったため津波で大きな被害を受けた」と書いているが、大ウソである。少なくとも検証されていない事をいつもいつも空念仏のように書くのはやめていただきたい。イージーな結果論と防潮堤還元主義の新聞記者の頭の構造を疑う。被害のなにが防潮堤(未整備)のせいだと言うのか?! 頭を冷やしてから記事を書けと言いたい。田老を始め東北沿岸の死屍累々の防潮堤被害、そして防潮堤加害の現実を見てきた方がいい。報道機関ともあろうものが他所の事を知らないから宮古の事も知らないのだ。

 

「アクリル板の窓も設置する」。そうなったら鍬ヶ崎は本当に死んだ鍬ヶ崎になる。計画する方が一番の問題だが無批判的に報道する報道機関のありかたにもあきれる。この辺りこそ報道機関が一番に突っ込むべき場面ではないのか? そもそも漁師が窓から海をのぞいてどうするのか! 地元市民が背伸びして窓をのぞくというのか? 観光客が列をなして窓から海を見るというのか? 又そうさせるつもりなのか? 海の町を知らない県庁が鍬ヶ崎の施設をつくる無意味!ナンセンスとはこの事である。鍬ヶ崎にとって海はほとんど全てであり盛岡県庁の役人にとっては海は小賢しいアクリルの窓なのだ。彼らは本心で鍬ヶ崎の津波防災の事は考えていないのだ。アクリル窓が何よりの証だ。「海が見えなくなる」というから窓をつけるというサイテーの発想。品性を疑うだけです。「海が見えなくなる」というは鍬ヶ崎で生活する事の本当の意味(identity)のことを言っているのだ。生理的視野の事ではないのです…


「海が見える」という事は持続可能な漁業産業の絶対条件のことである。スムーズな後継者問題であり、他からの節度的参入であり、資源の継続的計画的な再生である。ひいては養殖漁業、沖合漁業、遠洋漁業、加工、運送業にも波及する漁業産業そのものの継続的なサイクルなのだ。いつでもどこでも誰にでも「海が見える」事で成り立つ地場産業ということです。陸(おか)があっての漁業、漁業があっての陸(おか)、の関係はこれからも続けなければならない。陸(おか)の生活と岸壁周辺、磯浜周辺の協力的交流に防潮堤は障壁である。鍬ヶ崎の産業、又風俗、文化というものはその「海が見える」関係性で成り立ってきた。


防潮堤はその全ての関係性を切断、分断する。「海が見えなくなる」という事は将来に向かって鍬ヶ崎が衰退し、亡くなる事だ。多くの住民がそのように考えている。

アクリルの窓は何の解決にもならない、いかにも海を知らない盛岡人の愚考だ。問題は防潮堤そのものであるという事を地元で今後再確認していく事である。

 



 

 

 

 

 
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