日本の心

激動する時代に日本人はいかに対処したのか振りかえる。

松岡洋右『東亜全局の動揺』第三章 對支外交 四、蒋介石、王正廷の放言

2022-11-28 22:31:01 | 英帝国ユダヤ・フリーメイソン

松岡洋右『東亜全局の動揺』
――我が国是と日支露の関係、満蒙の現状―― 
  
  

第三章 對支外交

四、蒋介石、王正廷の放言

 萬寶山事件、次いで朝鮮事件、後者に関する幣原外相の陳謝、叩頭、これに對する一大排日運動の擡頭、日支の間、此等の交渉に日も之れ足らざる裡に、八月に入り驚くべき残虐非道なる中村大尉事件の發表が我が朝野を震駭したかと思ふ間もなく、矢ぎ早に青島にける邦人襲撃事件が勃発した。

       

 

 中村大尉事件に関しての王外交部長の絶對否認の暴言があるかと思へば、苟しくも一國の宛然元首たる地位にある蒋介石の、日本を誣るつも甚だしき方言を見るに至った。彼は九月七日國民政府記念週の演説に於いて曰く南京事件の裏面に日本の陰謀あり、陳友仁の赴日に對しては多量の武装彌薬を供給し、種々なる便宜を與へたといふ。
 その結果廣東軍の意気揚り、俄かに軍隊を進め、既に湖南衡州に達するに至った。之が為め中央は廣東に對し武力解決の已むなきに至った。日本は朝鮮にて支那人百數十名を惨殺し、満州では萬寶山を占領した。支那内亂の助長を敢えてする日本はに文明国の資格なし。

  


 と激越なる語調で日本を誣し排日を煽った。我が國民は此の放言を見よ。我が外務省はこれに對して、重光公使に對し、支那政府に難詰の電命を發したとのことである。ところが、十四日に蒋介石は復た又同様の方言を繰りへした。一體支那の無軌道なる行動と放埓なる暴言は今の支那のヒステリー現象として、致し方ないではないかといふ論者もあろうが、しかし、斯る暴慢放埓なる支那の態度について、果して幣原外交は何の責をも分っの義務はないのであららか、私は斯る事態は寧ろ幣原外交の當然の歸結であると思ふ。

 若しそれ日貨排斥、上海にて白晝公然、我が商人の貨物を強奪するの暴擧に對して、口舌の交渉は何の効験もないので、我が出先海軍軍憲は遂に癇癪玉を破裂させ、陸戦隊を上げて強盗取り押へをした。この敢然たる直接行動は確かに支那側を反省せしめたらしい。が、我が出先のかかる直接行動は、取りも直さす、外交の破綻を意味するものでなくて何であるか。腕力の行使は外交ではない。已に我が國には外交はなくなったのである。それならば、経済國難の今日、年に一千五百萬圓も費して我が震ヶ関を存續するの必要は何處にあるか。


 最後に、蒋介石から(一説には張學良が仲介したと傳えられてゐる)廣東政府に對して、五十萬の大軍を朝鮮に集中しなければならないといふ主張を以て、民國の融和協力を説いたと云ふ、提議なるものを廣東政府から公表し、米國新聞などでは大きな見出しで之れを報道し、又論評も可成り試みて居る、がどういふ譯か日本人は一向、こんなことに注意を拂はない。

 それは餘りにも馬鹿馬鹿しいことであるからかも知れないが、兎も蒋介石は支那内爭の各派を融和するの手段としてか、隣邦日本に對して、如何なる暴言も、聊かの躊躇なく、敢えてするのである。否これは獨り蒋介石だけではない。アグレマン問題の結果について憤激の餘、大阪毎日新聞が論じた通り「最近の支那政府及國民は、殆ど隣境に我が日本の存在することを忘れてゐる」と吾人も亦言ひたくなる。
 全く支那人は、今や日本と日本國民、而して其の感情などは眼中に置いてゐないのである。我が國外交の全責に任じて居られるところの幣原外相は、斯かる事態に對して何等の責任なしと言はるるか。


 要するに幣原外交の明白なる結論として、前には、大和民族史に拭ふべからざる一大汚點を染めた南京事件があり、後には、維新開國以来未だ嘗って蒙りたることなき一大國辱たる小幡公使アグレマン拒否事件がある。
 由来敗北宗の信條は無紙抗であり、譲歩であり、叩頭である。自ら屈する者に敵意を拂ふ國は今日世界に一國もない、又腹のない者に、腹をくつ付ける事は所詮不可能である。そして腹のない外交に、百の技巧を装はせても、それは何んの役にも立たないのである。

 今日見るが如き支那の態度、日支の開係も蓋し當然の歸結ではあるまいか。對支外交に於いても結局復の問題である。先づ腹をしつかり据えて障容を立て直し、以て國国の失墜を挽回しなけれはならぬ。併し之は敗北宗の信徒には到底望み得られないことである。これが望まれぬ以上、個々の事件や之に関する遣り方を論じても仕方のないことではあるが、最近朝鮮の暴動事件勃発に會ふや、我が幣原外相は倉長として支那政府に叩頭し、遺憾の意を表せられ。

 成る程之は結構な紳士道とやら云ふものであらう。併し紳士道も時と場合と相手を見なければなるまい。鮮内の者が全然謂れなく、憤慨し暴動したのではない。而かも相手はその動機を成し、原因をなして居る。即ち満蒙に於ける鮮人の壓迫排撃、これに就て先方は毫も改むる色はいのみならず、其の非彼にある事明かであるに拘わらず、我に逆捻な喰はさんとする横着者である。

 現に其の後鮮人は引續き各地から追はれ、最近奉天に三千五百人も避難鮮人が集って居ると報ぜられてる様な次第である。せめては先づ彼をして我に遺憾の意を表せしめ、然る後に、陳謝したければ、しても遅くはあるまい。單に之を外交技術としての見地からても、失禮ながら拙劣迂愚なる行き方である。此の芸當が、あの支那と云ふ相手に對して何の効果も無かった事は、先方の應酬振りで明らかである。
 即ち幣原さんの此の陳謝の叩頭に酬ゆるに、彼は一大排日の鐡槌を以てしたではないか。これでも、未だ幣原式が外交の要訣だといふ人があるか。




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