日本の心

激動する時代に日本人はいかに対処したのか振りかえる。

笠井 孝著『裏から見た支那人』 忘恩 

2024-03-14 12:07:19 | 中国・中国人

   
    笠井
孝著『裏から見た支那人』

  




忘 恩
 

肺肝と天日・・・・・反逆の名人・・・・・利用された日本・・・・・御禮は現場で

・・・・・親切は斧で・・・・・恩義は商取引・・・・・神様も商売・・・・・豫譲野暮
・・・・・命がけも表情で  

〔肺肝と天日〕
 支那の歴史を通覧するに、歴代の革命なるものは、多く忘恩反逆の歴史である。
 古代では、商の夏を亡し、周の商を滅ぼしたるが如き、春秋戦國の興亡の如き、
は漢の高祖の創業の臣、張良、韓信が、諸侯に奉ぜられるや、
これを機として叛逆を翻したと傳へらるるが知き、唐の案禄山が謀叛せるが如き、
最初忍従を以ってし、然して暫らくして勢力を得るや、
俄然爪牙を露はして、主家の転覆を図る。
 
 恩を蒙むるも恩とせず、徳に浴するも徳とせず、反ってこれを利用して、
私利を図るとふ風が、昔から濃厚である。

 利己に底して居る徒等は、人に恩を享けても、恩を施すは利用の手段であり、
報酬を得る爲めの売買である位にしか考へて居ない

 
 柳子厚といふ人の墓碑銘に
『手を握り、肺肝を指して、相背負せすと誓ふ。
  直ちに信ずべきが如きも、一旦小利に臨めば、
 纔かに毛髮の如きも、相識らざるが如し云々』と書いてあるが、
實に支那人の不信を穿ち得て妙である。 

  
  

〔反逆の名人〕  
 支那人が、恩の人に叛いた例は無数にある。
 宣統三年(1911年)、武昌に革命起るや、
袁世凱
は、内閣總理の地位を利用して、反って清朝を裏切り、
段祺瑞、馮國璋、曹錕等を利用して、國體改革と、清帝の退位を迫り、
百年の恩に報ゆるに、仇を以ってし、
特別なる恩顧と、隴遇とを捨てて恥ぢとせなかった。
 
  

 民國になってからでも、四川の熊克武は、劉存厚を駆逐せんが爲めに、
雲南の唐繼堯の力を利用し、一度その地位を得るや、陸榮庭と通じて、
唐繼堯に反対し、その軍隊を攻撃した。

 震南の顧品珍は、唐繼堯設肱の部下であったが、
唐の大震南主義が敗れて、名聲地に墜ちるや、
自らこの機に乗じて、唐を省外に駆逐した。

 さらに湖南の趙恒楊は、謝延闓の後輩なるに拘はらす、譚を圧迫して、
自ら遂に湖南省督軍兼省長の位置を奪った。

 
 それか呉佩孚は、元と港北督軍王占元の知遇により、第三師長の地位を得たのであるが、
王占元部下に兵變あるや、これを機會として、〇〇南(注、〇〇不明)をして、
遂に王占元を駆逐して、これに代らしめた。
 
 最後に馮玉祥が、民國十三年(1924年)、呉佩孚の窮境に乗じ、
反って奉天軍と通じて、叛旗を翻がへし、北京に侵人したことや、
同十五年(1926年)郭松齢が、〇(注、不明)州に叛旗を翻して、
張作霖に叛いた如きは、餘りにも顕著なる事實である。

 

〔利用された日本〕
 支那の続治者が、自己の利害と、打算の爲めに、叛逆を敢てし、
忘思的行動を爲したことは、二十四朝の歴史が、餘にも多くこれを語り過ぎて居る。

 一般に志那人は、極度の利己観念より、
昨日の味方も、今日の敵となり、今日の友も、
明日の仇となる
ことが通常である。
    
     

 日本の志士は、孫逸仙や、黄興が、
日本の保護を受けて、革命運動を成就しながら、排日運動に加擔したり、
或いは梁啓超、谷鑪秀等、日本の援助を受けたものが、一度相當の地位を得るや、
賣名と、自己の都合から、反日的態度となり、排日となるに驚いて居るが、
昭和二年(1927年)、蒋介石が失脚して、日本に遊ぶや、
利害を超越して、これを援助したものは、日本の朝野であった。
 
 然かも排日悔日の急先峰鋒となって、國民黨をリードして、
學良を煽てて、遂に満洲事變を勃發させたものは、彼れ蒋介石ではないか。
  
    


 日露戦爭の間、露軍の別働隊として、一時日本に反抗した張作霖が、
福島大将に助けられるや、彼れは三拝九拝して、
我れ日本の爲めに、この以を報ぜんと、誓ったではないか。

 然かも被れの晩年が、如何に排日であり、悔日であったかは、今さら述べるまでもあるまい。
 
             

 歴史上の主要なる人物にして既にこれである。

 その以下の人士が、恩を仇で返へし、
冷酷と、叛逆を以って、舊恩に應酬するのは、
敢えて珍しいことであるとは云へない。

 これに就いて、以下さらに數例を加へる。


 日露戦役の末期に、法庫門の野戦病院に動務して居た一看護長があった。
彼れは土人の施療を負餮したことから、土地の人々と懇意になり、
彼等から別れを惜しまれるやうになった。

 そこで彼れが、現地を引揚げんとするや、
土地の某々有力者等から、平和克服の後、
再び是非この地に來て、開業して貰ひたいと懇願されたので、
土人の言を信じた彼れは、凱旋後遥々と、この地に来たが、
某等は、彼れを待つに路傍の人の知く、
頗る冷淡で、何等の便宜をも與へなかった。
    
 これは支那人の御世辭、謂はゆる『官話』と云って、
御座なりの御愛想を云ったので、この御世辭そのものが、
つまり単なる御禮の積りなのであるが、
これを知らないところから起った、氣の毒な話である。
 
  
〔御禮は現場で〕
 北清事變の際、日本人から危急を救はれた一支那人は、
京都の商業學校へ、支那語敎師として世話されたが、
後年彼れは、奉天中學に轉任し、世話した人も、奉天に商業を營んで居たけれども、
その支那人は、生命の親であるこの日本人を訪問もせず、
途中出逢っても、逃げるやうに隱れて居た。
    
 支那の諺に『生命の親に二度會ふな』と云ふことがある。

 命を助けられたやうな恩人には、
何時何んな謝禮を、要求せられるかも知れないから、避けろと云ふのである。
 
 私も、支那の要人を、兵亂の満中から救出したことが、一再ならずあるが、
多年この諺の眞味を、實地に體験させられて、徴苦笑を漏らしたものである。
 
 大正六年(1917年)漢口で、支那の某大佐は、
母規が、難病で入院を嫌ひ、且つ苦しむと云ふのでを強ひて日本医に自宅手術を懇願し、
『母の大病なれば、如何なる犠牲もイトはず』と三拜九拜しながら、
手術後、二、三日で、悪性の〇(注、不明)疸も直ほり、
月餘にして復したが、彼れは爾後治療費も、薬價も拂うはず、
途中では、顔をソムけて通ると云ふ有様であった。 
   
 雲南某高級武官は、
幼少から身體が弱く、親の懇切なる指導で、漸く相當の位置を得たが、
一旦兵亂に逢ふや、親を捨てて一人亡命し、
両親は、爲めに憤怒失望の極死亡するに至った。
 
 昭和の初めごろ、満洲その他に於ける學生の状況を見るに、
成績悪ければ先生の罪だとし、
落第すると、先生が自分に親切でないと恨み、
数年の學校生活を送りながら、一度門を出づれば、
また振り向きもしないのが、ザラにある。
 
 日本人の敎育を受け、日本人の親切によって、相當の地位を得ながら、
一度その位置を得るや、地位と、力を濫用して、私利私慾に沒頭し、
恩義よりも自分が大切、他人よりも、自分が大切と云ふことを、
露骨に表示するのは、常に彼等であった。


  
〔親切は斧で〕
 下級の支那人の忘恩的行動は、更にヒドいのがある。
 青島で、多年支那に居住した一外國人は、
或る事情の爲めに、歸國することになったが、
その準備中、多大の私財があるのを見た支那人ボーイは、
数年間使はれた、極めて正直なポーイであったにも拘はらず、
その外國人を殺して、金を盗んで終わった。

 利欲の爲めには、反覆常なく、恩を仇で報ゆる實例である。
 
 大正十年(1921年)のこと、山東鐵道の丈嶺駅前の一支那人は、
用心棒に雇ってあった支那人から、百元内外の金を見せた爲め、毅されたことがある。
金が欲しさに、恩顧の人を殺すことは、彼等としては平気である。

 支那の下級使用人は、金を得ることが容易でないのと、
雇用関係は、恩義的でない商取引であると考へる爲め、
数字金錢の爲めに、非道なことをするのである。
 
 彼等は、利己心の爲めには、十数年来の雇人でも、時に主家一族を塵殺し、
或は放火する等の例は、殆んど枚擧に遶まないほどである。

 大正五年(1916年)、奉天の一市街で、捨てられた八歳の小児を拾うた山本某は、
懇切に保護を加へ、十五歳まで靴工として訓練を與へたが、
自己の職業を覺えると共に、
店にあった若千の靴を入質して
『自分は無給であるから、過去の労働に対する報酬としては、これでもまだ安いものだ』と、
平然として去ったのがある。

 大正五年(1916年)、四平街の特産物商岡薬方の十年間も使用せる支那人ボーイは、
主人の不在中、細君を殺して、金を窃取逃亡した。

 大正十年(1921年)、四平街小迫幸太郎は、
家族同様に優特し、八年間も使用したボーイから、
主人の不在中三千五百圓を持ち逃げされた。


 大正七年(1918年)、奉天在住某下駄商は、
五年間使用した支那人ボーイに、一家四名が、
下駄製造用の斧で以って惨殺せられ、前日手に入れた百餘園を取られた。
 

〔恩義は商取引〕
 奉天の某病院長の感想を聞くに、
支那人患者は『命の恩人だから、必す報恩する』と口に云ふけれども、
後になって訪ねて来るものは、三十乃至四十分の一である。

 これに反して蒙古人は、黙々として去るが、
五年、十年の後に至るも、機會あれば、必らず來訪して、
謝恩の意を表する
と云って居る。
  
 支那人の謝恩観念は、日本人のそれとは、多大の懸隔がある。
志那人と雖も、謝恩観念が、絶無ではないけれども、
報恩は一種の禮節と心得、禮節は衣食足って、始めてこれを全うし得るもので、
要するに謝恩は取引である。
 

 自分の都合が悪いのに、無理に奉仕謝恩をする必要はないと考へて居る。

 また報恩は、その思の輕重、大小に應じ、
相對的、打算的に報恩すべきものであって、
一事をなせば、報酬的に代金を與へるのと、同一であると考へ、
精神的よりも、物質的に謝恩を考へる風がある。
御禮も、交換的であり、その場主義、刹那主義なのである。
 
  
〔神様も商売〕
 従って支那人は、神様を拜むにも、謝恩主義ではなくて、因果應報主義である。
昨夜悪いことをしたから、明日にも崇られては困ると云ふ考への爲めに神様を拝むのであって、
故なく神を拜むなどのことはない。

 財神廟、馬神廟、鳩々廟など、
試みにその扁額を仰げば『有求必應』と書かれてある。

支那では、神様までも、ナカナカ、實利的である。
神様も『オレに御願ひをすれば、必らす御利益を授けてつかはすぞ』と云ふ譯で、
どこまで即効主義、交換主義であるのか分らない。
  
 我々日本人は、社寺の前を通ると、自然に拝みたくなる。
私が曾て田舍族行をした際、孔子廟の前を過ぎて、脱帽敬禮したところが、
ポーイ曰く『旦那、昨夜何か悪いことでもしたか』。
イヤと云ったら『では何か御前は、孔子様の親類か』と云ったことがある。

 自己の祖先でもなし、また何等求むるところなく、
さらに罪減しの爲めでもなくして、他家の神様を拜むなどは、
彼等の到底理解し得られない謎である。
 
 だから日本人は、能く日支親善等と云ふけれども、
この一評を聞いて、支那人の頭に、ピンと来るものは、利益交換主義である。
求むるところなくして、我れに近接することはない筈であり、
不可解至極なことであると、彼等は不思議に思ふ。
  
 そこで
『ハハア日本は、土地貧にして、五殻豊かならナ、
 石炭なく、鐵なし。成るほどこれで分った。
 善哉々々、我に好策がある。経済絶交!』だと考へるのも、
彼等として當然なのであらう。

 一體に物事を僻んで考へることと、
機會あるごとに、自己を成るべく高價に、
人に賣附けようとするのが、彼れの傳統的政策
である。


 だから日支親善を舁ぎ出すと、
彼はすぐその裏を考へ、反って日本の困るところを、
成るべく強く厭へて、自己を有利に展開しようとして

彼等一流の駆け引き勘定に、入るのである。
  
 支那人の道徳観は、
親子の孝道を第一とし、『孝は百行の基』として、
流石に親子の關係は離散することは稀であるが、
孝道は供物、奉仕、慰安、尊崇等の外に、
祖先崇拜、家門、子孫の繁榮にまで及ぶけれども、
謝恩的ではなくして、多少交換主義、因果應報主義なところがある。

 親を大事にし、祖先を祭れば、自己に福が來ると云ふ現實主義が、
何所までも附うて居る。
  
〔豫譲野暮〕
 師弟の恩に至りては、時々美談を聞くこともある。
謝恩會とか、老師を敬ふとか、曾て大隈候の死に對して、
早大支那學生の拂った衷情の如きも、見るべきものがないではないが、
最近の學生根性は、前に述べた如く、多く交換主義であり、代償主義である。 

 
 君臣の關係に至りては、謂はゆる知遇に對する應報主義であって、
三顧の恩に感激する孔明の如き、豫譲の死節の如きも、
何所までも知遇の報酬本位である。
  
 『豫譲野暮、女郎買ひでも忠は出來』と云ふ川柳があるが、
大石と、豫譲を比較した譯でもあるまいが、
カタキ打ちの切賣をやり、商取引なみにやるのなら、
何も乞食の眞似までせんでも、日本の大石は、祗園で遊んで居ても、モッとモッと、
大業を遣ったぞと、皮肉られても一言もあるまい。
  
 『民從はざれば王去る。』これが君臣の道に對する支那人の考へであって、
日本人の如き感激と、犠牲とを本位とする忠道は、支那にはないのである。


 主従関係は純然たる雇用關係のみで、
報酬の外に、門錢を取り、賄賂を貪り、
他に善い奉公があれば何時でも去る
のが、彼等である。
 
 或る日本人は、青島で、某支那人を、支那の役所に斡旋したことがあるが、
その支那人は、経済上頗る不如意であったので、
就職前、一時生活の金錢までも、援助して遣ったものである。

然るに彼れが一度び職を得るや、月日と共に、過去のことを忘れ、
後には先方から、コッチを虐めるやうなことすらあった。


 先年膠州の或る日本人の家で、
二人の支那人が増俸を要求し、家計不如意の故を以って、
相前後して暇を取ったことがあるが、数日を出ですして、
その一人は舊主に舞戻って、恬然とし、再び使傭を乞ふたことがあるが、
コンな例は、蝕りに沢山に有り過ぎる。
 
從って志那人を使ふには、他所よりも給料を多くして、
非常に過度の仕事を命するが善い。
斯うするならば、一つ二つプン殴っても、金故に奉公を怠らない。
これは支那人自身の説であるが、穿ち得て砂である。

    
〔命がけも表情で〕
 支那人は、お禮を云はぬ國民である。
 招待をされた時にも、今晩は有難うと云へば、歸り黙って帰る。
歸りにお禮を云へば、明日は云はない。
來る時も、歸りも、翌日も、トウトウ、お禮らしい顔もしないのもある。

 日本人は、道で出會うても『ヤア先日は失禮しました』と思わず云ふ。
四、五日たっても『この間は有難う御座います』と、思はず云ふのであるが、
支那人は、御禮は一度云へば沢山である。

 有難かったと云ふことを、表示するだけで、
命を助けられた御恩でも、帳消しになるものと考へて居り、
恩義が深ければ、態度とか、様子とかで、
念入りの表情をすれば、それで善いと考へて居る。
  
 青島で、或る支那官吏が、三年の刑に處せられんとした時に、
彼れの誠實悔悟に同情した一歐洲人は、彼れの爲めに非常に努力をして、
遂に官に縋って赦免させたことがあるが、
その時彼は三拝九拝して『この御恩は死すとも忘れません』と、述べて別れたが、
爾後途上に出會うても、一面識だにない様子をして、顔をソムけて通過した。
 
 後年この外人が、彼れに一支那人の就職を依頼したところ、言下にこれを刎ねつけた。
そこでこの外人は、腹に据えかねて、
先年の事を語り出すや『あの時云った言は、今でもよく記憶にある。
 併しそれは、人の就職を、世話するとは、約束しなかった』と答へたことがある。
   
 丁度張作霖の福島大将にける例と、一對であるが、
彼に云はすれば、死すとも忘れないと云ふのは、
その言葉そのものが、既に十分謝禮になって居る譯で、
日本人の如く、終生その恩を忘れないと云ふやうな、
律義な観念からではない
のである。 




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