トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

南海電鉄高野線の秘境駅(1) 紀伊神谷駅を訪ねる

2019年08月27日 | 日記
南海電鉄高野線の紀伊神谷(きいかみや)駅です。牛山隆信氏が主宰されている秘境駅ランキングの67位にランクインしている秘境駅です。南海電鉄高野線はなんば駅と、高野山の麓の極楽橋駅を結んでいます。極楽橋からは鋼索線で高野山に向かうことになります。この日訪ねた紀伊神谷駅は、高野線の終着駅、極楽橋駅の一つ手前にありました。
新今宮駅から乗車した橋本駅行きの急行は、50分ぐらいで橋本駅に到着しました。橋本駅のホームにあった出発案内です。「先発」は、特急列車の ”こうや号” ですが、極楽橋駅まで停車しません。「次発」の2扉車の各停で、紀伊神谷駅に向かうことにしました。

ホームにあった色鮮やかな駅名標です。「こうや花鉄道」と書かれています。これは、南海鉄道高野線の橋本駅から鋼索線の高野山駅までの愛称です。平成16(2004)年7月7日、「紀伊山地の霊場と参詣道」がユネスコの世界遺産に指定され、紀伊半島にある「吉野、大峰、熊野三山」とともに、「高野山石道と金剛峯寺境内」も指定されました。それを受けて、南海電鉄では高野山への旅の魅力づくりのため、地域の人々とともに取り組む「こうや花鉄道プロジェクト」を展開しています。この駅名標もその一つの取り組みです。
南海電鉄は、JRと同じ軌間1067ミリの鉄道です。引込線で待機していた極楽橋駅行きの各停が入線してきました。プロジェクトの一環として「こうや花鉄道」のヘッドマークがついています。ズームカーの最新車両、2300系車両です。橋本駅から極楽橋駅間の旅客の減少に対応するため、2両編成、ワンマン運転で運行できる車両として、平成17(2005)年から営業運転が始まりました。
車両の長さ17m、2扉車の2300系車両は、2両編成4本(8両)が導入されています。4本の2両編成には、それぞれ「さくら(赤)」、「はなみずき(黄)」「しゃくなげ(緑)」「コスモス(青)」の愛称がつけられており、側面にカラーの縁取り(赤・黄・緑・青)がなされています。この日は「さくら」と「コスモス」の4両編成で、ツーマン運転での運行でした。

先頭車の「コスモス」の内部です。広い窓とクロスシートが印象的です。橋本駅・極楽橋駅間は、19.8km。橋本駅は標高92mのところにあります。途中の学文路(かむろ)駅が路線内で最も低い標高79mで、終着駅の極楽橋駅は標高535mです。かなりの山岳路線になっています。定時に出発しました。
極楽橋駅までで最も長い椎出(しいで)トンネル(399m)を抜けると、標高108mにある高野下(こうやした)駅に着きました。こうや花鉄道プロジェクトの一環として、地域の方々がつくられた「花屏風」がホームに彩りを添えていました。窓枠が写り込んでいて、見えにくいのですが・・。
橋本駅を出発してから、紀伊清水駅(87m)、学文路駅(79m)を経て高野下駅までやって来ました。高野下駅から先、車体長17mのズームカーは、レールの音をきしませながら、50パーミル(‰)の急勾配、曲線半径(R)100m以下の急カーブを、制限時速33kmで上って行くことになります。

高野下駅から猪子山トンネルと下古沢トンネルの2つのトンネルを抜けて、下古沢(しもこさわ)駅に着きました。下古沢駅は標高177m。高野下駅から70m近く上ったことになります。狭いホームのベンチの脇に「12:47 お乗り遅れなさいませんようご注意ください」の掲示がありました。行き違いのためのやや長い停車でしたので、注意を促す掲示でした。細かいお心遣いに感謝です。

行き違いの特急「こうや号」がやって来ました。
下古沢駅から、上古沢駅(標高230m)、紀伊細川駅(標高363m)を経て、めざす紀伊神谷駅に着きました。駅名標にもあるように、標高473mのところにあります。下古沢駅から296mの高度差を、16のトンネルを抜けて上ってきました。下車したのは私だけでした。

電車はすぐに出発して、すぐ目の前にあった大迫トンネルの中に入って行きました。次は、終着駅、極楽橋駅です。

大きくカーブしている島式1面2線のホームを駅舎に向かって、橋本駅方面に歩きます。ホームの上屋がありました。紀伊神谷駅は、昭和3(1928)年6月、高野山電気鉄道の終着駅「神谷駅」として開業しましたが、翌年の昭和4(1929)年には、極楽橋駅の開業により途中駅になりました。現在の駅名の「紀伊神谷駅」に改称されたのは、昭和5(1930)年のことでした。そして、昭和22(1947)年、南海電鉄紀伊神谷駅となり、現在に至っています。
上屋の中にあった駅名標です。紀伊神谷駅は、和歌山県伊都郡高野町の山深いところ、紀伊細川駅から2.4km、極楽橋まで1.5kmの地点にありました。
牛山隆信氏の評価では、「秘境度」11ポイント(以下「P」)、「雰囲気」10P、「列車到達難易度」1P、「外部到達難易度」2P、「鉄道遺産指数」6P、合計30P で秘境駅ランキングの67位(2018年)。「周囲に人家なし」、「古い駅舎」で「うっそうとした林の中にある」というコメントが添えられています。この駅の周囲の環境や雰囲気が評価され、67位の秘境駅に位置づけられたようです。
上屋の中にあるベンチです。紀伊神谷駅の1日平均乗降人員は、2017年には10人であり、南海電鉄の100駅の中で最も少ない駅になっています。ちなみに、高野下駅から下古沢駅、上古沢駅、紀伊細川駅、紀伊神谷駅、極楽橋駅の6駅は、1日平均の乗降人員のワースト6位の中に名を連ねています。そのせいではないのだとは思いますが、ホームには、発車時刻表や運賃表なども全く掲示されていませんでした。
紀伊神谷駅の乗降人員は南海電鉄の100駅の中で最下位になっていますが、「無人駅」ではありませんでした。業務委託駅で、電車の発着の度に駅スタッフがホームに立って安全確保につとめておられました。橋本駅行きの電車が大きく左カーブしながら出発して行きました。
ホームの端まで来ました。構内踏切を渡って写真の右側の樹木の中にある駅舎に向かって進みます。
線路を越えた駅舎前で、ホームをふり返って撮影しました。構内踏切とホーム付近のようすです。
構内踏切から駅舎に向かって、9段の階段を下ります。樹木に覆われており、いかにも山間の駅という雰囲気です。
駅舎前の通路です。木造のどっしりとした造りの木組みが見えます。昭和3(1928)年の開業当時の建物だろうと思いました。

写真を撮っていたため、到着してからずいぶん時間が経過していました。事務所のドアを開けて駅スタッフにお詫びをしてキップを渡し、駅舎の脇の通路を出口に向かいます。駅舎の角の柱に「標高473米」と書かれた掲示がありました。灯りが無いと暗くて歩けないのではないかと感じるような通路です。
自動改札機が設置された駅舎の待合室です。正面に造りつけの木製のベンチ、上に座布団が並んでいます。右側に駅事務所に接するカウンターがあります。駅舎からの出口にはトイレが設置されていました。
駅舎の中から見た駅事務所の側です。右側に時刻表、中央に時計、左側に運賃表が掲示されています。駅周辺の案内のチラシも置かれています。時刻表を見ると、停車する列車の本数は多く、「列車到達難易度1P」という牛山の評価を裏付けるものでした。
カウンターにあった窓口です。少年時代に駅でよく見た事務所の小窓。ここからカウンター上の小皿でキップを受け取っていたのを思い出しました。ここで、帰りのキップを購入しようと思いましたが、スタッフの方は「ここではキップの販売はありません。乗車駅証明書をお渡ししますから、下車駅で精算してください」というご返事でした。

いただいた乗車駅証明書です。かつての硬券のような雰囲気がありました。新今宮駅で精算させていただきました。
駅舎に掲示されていた「近代化産業資産」の認定証です。平成21(2009)年、「こうや花鉄道」の紀伊清水駅から鋼索線の高野山駅までの9駅が、紀ノ川橋梁、丹生川橋梁、鋼索線とともに、経済産業省の認定を受けています。
カウンターの上に置かれていた「駅ノート」と周辺のマップです。マップを1枚いただきました。

紀伊神谷駅への出入りに使われる通路です。駅前広場はありませんでした。写真の左側に車も通ることができる道路があります。
駅舎を撮影しました。切妻屋根の手前に「紀伊神谷駅」の駅名標が掲げてありました。
駅舎へ出入りする道を左折して線路の方に向かって歩きました。緩い右カーブを曲がると南海電鉄の紀伊細川1号踏切が見えてきます。
左側に、制限時速33kmの標識が見えました。南海電鉄紀伊細川1号踏切です。
踏切から駅方面を撮影しました。極楽橋駅に向かう電車は、ここから大きく右にカーブしながら、登り坂を登り、紀伊神谷駅のホームに入って行きます。踏切の警報機の右側にあるコンクリートの向こうに、引き込み線の車止めが設けられていました。
紀伊細川駅・橋本駅方面です。踏切のすぐ先に50‰の勾配標がありました。ここから右カーブの先にかけて、50パーミルの下りになっているようでした。

帰りの電車まで少し時間がありましたので、駅周辺を歩いてみることにしました。紀伊神谷駅への入口まで引き返しました。近くに、「高野町神谷地区散策マップ」と書かれた案内板がありました。駅舎内に置いてあった「マップ」と同じ内容でした。坂道を進みます。

5分ぐらいで、三差路の脇に来ました。左側に道標がありました。廃校になった白藤小学校跡地を示す方向に進みます。これまでより倍以上の急勾配の道をゆっくりと上ります。「マップ」には、白藤小学校跡地について「懐かしい木造の校舎や中庭には、ゆったりとした空気が流れています」と書かれていました。

10分ほど登ると、左側に細い坂道がありました。上っていく細い坂道が白藤小学校跡地へ向かう道のようです。白藤小学校は、明治11(1878)年に「神谷小学校」として開校しました。昭和2(1927)年のピーク時には、152人の児童が在籍していたそうです。

すぐに、体育館のような白い建物が見えました。その脇を上ります。白藤小学校は、平成9(1997)年に、学校統合のため廃校になったそうです。
坂道を上りきると右側に校舎跡がありました。校舎の玄関に、「高野町立白藤小学校」の校名標が残っていました。廃校になってからは、地元町内会の管理の下、写真スタジオとして貸し出されているそうです。

「マップ」に「ゆったりした空気が流れている」と書かれていた中庭です。この日は、写真スタジオで撮影をしておられる方の姿が見えました。

その先にあった「御成婚記念道程標」です。「至椎出 4600メートル 一里六町十間  至高野口 10120メートル 二里廿町四十六間  至高野山女人堂 4400メートル 壱里四町二十間」と書かれた大正13年5月に建立された道程標です。昭和天皇のご成婚の時期に建てられたもののようです。後日、地図で確認すると、この通りは不動坂を経て高野山女人堂に至る「高野街道京・大坂道」だったようです。ちなみに「京・大坂道不動坂」は、平成16(2004)年7月に指定された「高野山石道と金剛峯寺境内」に続いて、同年10月24日にユネスコの世界遺産に追加登録されています。

旧街道の雰囲気が残る通りになりました。

5分ぐらいで、「むすびの地蔵」への参道がありました。「弘法大師がつくられたとされる地蔵堂」で、中に「三体のお地蔵様がいます」と「マップ」には書かれていました。参道への入口にあった道標が見えます。左と右の道標には「右 京・大坂道」、中央の道標には「是ヨリ高野山女人堂江 (以下読めず)」と刻まれていました。

「秘境駅ランキング」の67位にランクインしている紀伊神谷駅を訪ねてきました。高野山への参詣道に近い山間にある、秘境駅らしい雰囲気の山間の駅でした。「秘境駅ランキング」には、他に「こうや花鉄道」にある紀伊細川駅(147位)と上古沢駅(187位)がランクインしています。
機会をみてこの二つの駅も訪ねてみようと思っています。 





堺市にある「日本一低い山」、蘇鉄山に登る

2019年08月12日 | 日記

このところ「日本一低い山」を訪ねています。日本一高い山と違って、「日本一低い山」は、各地にいくつかあるようです。そのうち、徳島市にある弁天山(「自然の山で日本一低い山、弁天山を訪ねる」2019年7月25日の日記)と香川県東かがわ市にある御山(「もうひとつの『日本一低い山』、御山を訪ねる」2019年7月31日の日記)はすでに訪ねて来ました。

 

 写真は、堺にある蘇鉄(そてつ)山の「登山認定証」で、堺市の蘇鉄山山岳会が発行しています。「認定証」にも書かれているように、蘇鉄山は、一等三角点のある山で日本一低い山とされています。


蘇鉄山の山頂です。案内板の左側に、その国土地理院の一等三角点が見えます。この日は、大阪府堺市にある蘇鉄山に登ってきました。

新今宮駅から乗車した南海本線の急行電車で8分ぐらい、堺駅に到着しました。乗車してきた電車の最後尾の車両が見えます。南海本線堺駅の1番ホームです。ホームは堺駅の3階部分にあります。駅からの出口は、2階部分に東出口と西出口の2ヶ所、ホームの和歌山寄りの端から下っていく南出口の3ヶ所ありました。


 ホームから下りて、2階部分に降りました。「祝 百舌鳥・古市古墳群 世界遺産登録」の垂れ幕を見ながら西出口に向かいます。現在の堺駅は、南海本線の高架工事を経て、昭和60(1985)年に開業しています。西出口から出ました。


西出口を出ると東西連絡通路で、正面にある「ホテル アゴーラリージェンシー堺」につながっています。


 連絡通路から見た南海本線の高架です。堺駅を出ると堅川(たてかわ)を跨いで、和歌山方面に向かって進みます。正面の道路の向こう側を、堅川が右方向に向かって流れています。


連絡通路から降りたところにあった観光地図です。めざす蘇鉄山は、地図の左側に淡いグリーンで示された大浜公園の中にあります。地図の「現在地」から堅川に出て、南海本線の高架をくぐり堅川に架かる南蛮橋を渡ります。その後、堅川に沿って下流側に向かって歩き、堺旧港から大浜公園に向かうルートで歩きました。

蘇鉄山に向かって出発します。堅川沿いに南海本線の高架に向かって歩きます。

南海本線の高架をくぐり、南蛮橋を渡ります。写真は堅川の上流部分です。橋の手前の川の両岸にレンガ造りの橋脚の跡が残っていました。写真の左側の川岸にあった「説明」には「明治36(1903)年、この橋脚の上を通って、難波駅・和歌山駅間が開通した」と書かれていました。実際に使われていた橋脚跡のようです。                 
南蛮橋から堅川の上流側を眺めている「南蛮人」の像です。写真の中央右に橋脚跡が見えます。南蛮橋を渡り右折して堅川に沿って下流方面に向かいます。

堅川の対岸にある、ホテル アゴーラリジェンシー堺の手前に、大きな石碑のある公園がありました。このあたりは、堺旧港で上陸した人々が堺の中心部に向かう通路にあたっており、多くの人で賑わっていたところだそうです。
慶応4(1868)年、無通告で上陸したフランス軍艦の兵士11名を、警護に当たっていた土佐藩士が殺傷した堺事件で、妙国寺で切腹し隣の宝珠院に葬られた11名の土佐藩士を記念した「土佐十一烈士記念の碑」と、文久3(1863)年に、この地から大和国に向かい、五条代官所などを襲撃した天誅組の上陸地を伝える「天誅組襲来上陸地蹟」と書かれた石標がありました。

堺旧港に向かって進みます。正面に国道26号の高架が見えます。高架をくぐると、その先は堺旧港です。

堺旧港です。手前に呂宋助左衛門像、対岸に龍女神像が建っています。
これから向かう大浜公園は、江戸時代末期、外国船の来航に備え、港の防備のために大砲を置いた砲台場(お台場)があったところに整備されています。砲台場は、安政2(1855)年頃から、堺旧港を挟んで南と北につくられたといわれ、北台場は龍女神像が建つ対岸の大浜北公園に、南台場は大浜公園に設けられていました。
堺旧港から府道大阪臨港線の横断歩道を渡って、大浜公園の入口にやって来ました。横断歩道から見た堺旧港方面です。

大浜公園に入ります。大浜公園は、明治12(1879)年に開園しました。堺市営の公園で最も古い歴史をもっています。明治36(1903)年大阪で開かれた第5回内国勧業博覧会の会場となり、日本で最初の水族館が設けられました。この水族館は博覧会終了後に堺市立水族館となり、当時の最高水準の水族館として多くの観客で賑わったそうです。その後、公会堂や潮湯、海水浴場、料理旅館などもつくられ、明治から昭和初期にかけて、関西有数のリゾート地として賑わったといわれています。

大浜公園の入口にあった案内です。見えにくいのですが、蘇鉄山は地図の中央の下側にあります。写真の右に赤字で描かれた「現在地」から管理事務所の南側を南西に向かって行けば、めざす蘇鉄山に行くことができそうです。

管理事務所です。その左側を進んで行きます。堺市営水族館は、昭和9(1934)年に襲来した室戸台風による高潮で大破しましたが、昭和12(1937)年に再建されました。その後も「東洋一の水族館」として人気を博していましたが、臨海工業地帯の造成で大浜海岸が消滅するなどのダメージを受け、昭和36(1961)年に閉館しました。現在、大浜公園には、野球場、屋外プール、体育館、テニスコート、相撲場、猿飼施設などが整備されています。
5分ほどで、蘇鉄山の登り口に着きました。左側に「一等三角点のある日本一低い山 蘇鉄山登り口」と書かれた案内標識、右側に「日本一低い一等三角点」「そてつ山登り口」と書かれた石柱が見えました。登頂開始です。

蘇鉄山の登山道を登って行きます。
さて、ここで「日本一低い山」についてまとめておきます。国土地理院の地形図に載っている正式の山で、最も標高が低い山は日和山(仙台市宮城野区)で、標高3.00m。二番目に低い山が天保山(大阪市港区)で、標高4.53m。ただ、天保山には二等三角点が設置されており、「二等三角点のある山として、日本一低い山」ということになります。三番目が標高 6.10mの弁天山(徳島市)。1位の日和山と2位の天保山は盛り土をしてつくった人工的な山(築山)ですが、弁天山は自然の山です。そのため、弁天山は「自然の山として日本一低い山」とされています。

山頂に着きました。蘇鉄山山頂に設置されている一等三角点です。昭和14(1939)年にここに設置されました。それより先の明治18(1885)年に、蘇鉄山から300mほど東南にある御蔭(おかげ)山の山頂に置かれていた一等三角点が、御蔭山が削られて消滅したのに伴い、蘇鉄山に移設されたことによります。その当時、蘇鉄山の山頂からは、大阪城天守閣や生駒山、葛城山、六甲山などが展望できたそうで、三角測量に適していたところだったのでしょう。山頂にあった「説明」には、蘇鉄山と御蔭山の関係について、「蘇鉄山は、江戸時代の天保年間(1830~1834)に港と水路の浚渫(しゅんせつ)によってつくられた人工の山」で、同じように、安治川の川浚えの土砂を積み上げてつくられた天保山とは、「(同じ天保年間の誕生と言うことで)兄弟に当たる」と書かれていました。

蘇鉄山は、標高 6.97m。  国土地理院の二万五千分の一の地形図に「蘇鉄山 7.0m」と記載されている正式の山で、日本で4番目に低い山になっています。しかし、蘇鉄山は自然の山ではなく、明治12(1879)年に大浜公園が開園したとき、大阪湾を展望するのために人工的に造成された築山です。そのため、人工の山(築山)としては日本で3番目に低い山とされています。それとともに、一等三角点が設置された山としては「日本一低い山」ということになっています。
蘇鉄山という名前の通り、頂上の周囲にはソテツが植えられています。
「日本一低い山」だといわれている山の中には、国土地理院の地形図に記載されていない山も含まれています。前回訪ねた香川県東かがわ市の御山(みやま)もその一つでした。標高 3.60m。明治時代の郷土資料にも「自然の山」として記録されているそうで、地元の人々は、正式の山に認定してもらうため、国土地理院に地形図への記載を働きかけておられます。

管理事務所まで戻りました。事務所の建物の近くを右折して進みます。花菖蒲園の上を渡る橋が架かっています。ふり返って管理事務所方面を撮影しました。「日本一低い山」に関して、もう一つ気になる山があります。現状ではまだ正式の山と認められていないのですが、国土地理院が認定したときには、日和山(標高 3.00m)を抜いて、「日本で一番低い山」になるはずの山があります。秋田県の八郎潟を埋め立ててできた大潟村の人々が、歎願を続けている大潟富士です。高さは、富士山の1000分の1にあたる 3.776m、頂上が標高0mになるように造成された人工の山(築山)で、平成 7(1995)年6月3日に誕生しています。国土地理院から認められると、多くの人が関心を寄せることになるでしょう。

大浜公園は、幕末に南台場が築かれていたところに整備されました。このあたりは、南台場の南側にあたるところでした。安政2(1855)年頃から防御を担当していた彦根藩によってつくられた砲台場を、慶応 2(1866)年から始まった、より広い範囲を防御できる洋式の砲台場に改修する工事により整備されたといわれています。方形の砲台場の北・西・南側は石垣を積み、一部に堀を設けていたそうです。ここは、砲台場の南側にあたる地域で、当時の姿を伝える石垣が柵の左側に残っています。

蘇鉄山への登頂を終えこの日の目的は達成できたのですが、蘇鉄山山頂の案内板に「蘇鉄山山岳会」の名前で書かれていた「登山認定証をさしあげます 神明神社 南海本線「堺駅」南口すぐ」という記述が気になりました。神明神社を訪ねてみることにしました。

大浜公園に入る横断歩道まで戻り、そこから右に向かって歩くと、フェニックス通りに入ります。道路中央のフェミックスの並木の向こうに南海本線の高架とコンフォートホテル堺の建物が見えました。
南海本線の高架下です。通りの向こう側に”shop NANKAI 堺駅南口」の案内とその左側に「神明神社」の所在を示す白いポールがありました。白いポールの左側の通りを堺駅に向かって進みます。

5分ぐらい歩いて、神明神社の鳥居前に着きました。鳥居をくぐった先に社務社がありました。職員の方はご不在でしたが、「拝殿で50円以上のお賽銭を」と書かれていましたので、サインをして「登山証明証」を1枚頂戴し、お詣りをさせていただきました。冒頭にお示しした「登山証明証」がそのときのものです。

国土地理院の地形図に記載されている正式の山として、日本で4番目に低い蘇鉄山(標高 6.97m)に登ってきました。山頂には一等三角点が設置されており「一等三角点のある山では日本一低い山」でした。
ちなみに、「一等三角点のある日本一高い山」は南アルプスの赤石岳(標高  3,120m)で、「二等三角点のある日本一高い山」は富士山(標高 3,776m)だそうです。



もう一つの「日本一低い山」、御山を訪ねる

2019年07月31日 | 日記
前回、日本で3番目に低い山、徳島市西須賀町にある弁天山(標高 6.10m)を訪ねました(「自然の山で日本一低い山、弁天山を訪ねる」2019年7月25日の日記)。現在、国土地理院の地形図に載っている正式の山で「日本で一番低い山」は仙台市宮城野区にある日和山(ひよりやま 標高 3.00m)、2番目は大阪市の天保山(標高 4.53m)とされています。日和山も天保山も人工の山(築山)であり、弁天山は自然の山としては、日本で一番低い山でした。
国土地理院からは認められていなくても、「日本一低い山」といわれている山があります。その一つ大潟富士は、八郎潟を干拓してできた秋田県大潟村にある人工の山(築山)で、平成7(1995)年に、標高0メートル、周囲からの高さが3.776メートル(富士山の1000分の1)になるように築造されました。今後、国土地理院の地形図に載せられることがあれば、多くの人の関心を呼ぶことでしょう。
写真は、香川県東かがわ市にある御山(みやま)の山頂です。「御山 日本一低い山 3.6メートル」と書かれた石標が建っています。この日は、弁天山と同じ四国にある、もう一つの「日本一低い山」を訪ねるため、JR高松駅に向かいました。

高松駅の1番ホームです。折り返し徳島駅行きになる列車が到着していました。東かがわ市は平成15(2003)年、旧大川郡引田(ひけた)町、白鳥(しろとり)町、大内町が合併して成立しました。手袋メーカーの本社が集中しており、国内シェア90%といわれる「手袋の町」として知られています。

ワンマン運転、2両編成(後ろ側の車両は「回送扱いです」)の、JR四国が誇るエコ車両である1500系車両で、高松駅から約1時間半、最寄駅の讃岐白鳥(さぬきしろとり)駅に到着しました。

めざす御山は、この駅から徒歩20分ぐらいのところにある「白鳥の松原」の一角にあります。改装されていましたが、「昭和3年9月27日」と書かれた建物財産標のある木造駅舎を出て駅前広場に出ました。

「白鳥の松原」の手前にある白鳥神社に向かって出発しました。讃岐白鳥駅の駅舎のある反対側には、高徳線と並行して国道11号が走っています。駅舎を出て、国道とは反対の海側に向かって歩きます。駅から出て30mぐらい進み、新町橋を渡って左折します。

高松駅方面に向かって5分ぐらいで、高徳線の馬場前(ばばさき)踏切に着きました。国道11号で信号待ちをする車両が見えます。白鳥神社は、ここで右折した先にあります。

馬場前踏切から右折して、左側に日本伝道隊白鳥キリスト教会を見ながら、正面にある白鳥神社の鳥居をめざして進みます。

鳥居の前です。左側のお店は、勧商場というおもちゃ屋さんです。
白鳥神社は、日本武尊(やまとたけるのみこと)の霊が白鳥になってこの地に飛来してきたことに由来する神社です。境内にあった「説明」には、「九州や東国を征定した日本武尊はその帰途、伊勢国の能褒野(のぼの)で亡くなられた。天皇は厚く葬ったが、尊(みこと)の神霊は、白鳥となって大和国の琴弾原(ことひきはら)、河内国の旧市(ふるいち)を経由して、この地に舞い降りた。仁徳天皇の時代に初めて新廟を造営した」と書かれていました。
鳥居をくぐると広い駐車場がありました。参道の両側には立派な灯籠が10基並んでいます。江戸時代の寛文4(1644)年、高松藩の藩祖、松平頼重が、日本武尊を祭神とする神社に替えて、社殿の修築にも力を尽くしたそうです。

これは、「案内」にあった「境内の図」です。図の一番上に「日本一低い山」と書かれています。白鳥神社を抜けて裏参道から行くことができそうです。

その先にあった「一の門」です。左側の柱の礎石の左側に「御山山頂 280m」と書かれた案内が見えました。
「鶴の門」(随身門)です。寛文4(1644)年、高松藩祖の松平頼重が再建したものといわれています。市の指定文化財に指定されています。
 
鶴の門の手前を右折して進みます。案内図に「御厩」と書かれている建物です。木造の馬が置かれていました。

御厩の脇を進みます。敷地3000坪といわれる猪熊邸がありました。寛文4(1664)年、藩祖の松平頼重が白鳥神社の神官として招いた猪熊兼古(いのくまかねふる 元京都平野神社の社司)が拝領した邸宅です。松平頼重の弟である徳川光圀が、神道や国学について猪熊兼古を尊崇していたことによるそうです。昭和45年(1970)年から一般公開されていたそうですが、現在は行われていないようです。
猪熊邸の前にあった樹齢800年といわれる楠です。このあたりに白鳥となった日本武尊の霊が舞い降りたとされています。高さ30mで、環境省の「かおり風景100選」に選定されています。楠特有の香りが評価されたからだといわれています。

拝殿です。現在の拝殿は、明治13(1880)年に再建されたものだそうです。拝殿の左側に「御山山頂 240m」と書かれた案内板が置かれていました。

拝殿とその左側にある祓所の間を抜けて進みます。
その先にあった絵馬堂です。
広い絵馬堂のようすです。たくさんの絵馬が奉納されていました。横切って、裏参道を進んで行きます。

裏参道の鳥居の下に「御山山頂 190m」の案内板がありました。めざす御山が近づいてきました。御山は新しい山で、平成17(2005)年に山開きのイベントが行われたそうです。この年襲来した台風のため、この付近一体が水没してしまい、水が引いてから、一番高いところを探したら、明治時代に自然の山、御山があったところだったそうです。その地点の当時の標高が3.6メートルだったそうです

鳥居を抜けるとすぐ、熊手入れの隣に「御山山頂 190m」と書かれた石碑がありました。右折して進みます。

ここで、「日本一低い山」の変遷をたどってみようと思います。長く「日本一低い山」とされていた天保山(標高 4.53m)は、平成5(1993)年に、国土地理院発行の地形図から抹消されてしまいました。それに替わって、日和山(標高 6.00m)が地形図に載り「日本一低い山」となりました。そして、平成8(1996)年には、天保山が再度地形図に記載され「日本一低い山」として復活しました。その後、平成23(2011)年には、東日本大震災の津波によって削られて日和山が消滅してしまいました。しかし、平成26(2014)年に国土地理院によって、日和山が標高3.00mの山として復活し、再度「日本一低い山」となり、現在に至っています。

石碑の前で右折して進みます。その先にまた熊手の置き場があり、その脇に「御山山頂 90m」の石碑がありました。右折して進みます。御山は、残念ながら国土地理院の認定を受けていませんが、山開きを行った平成17(2015)年には標高3.60mで、当時、国土地理院が認めた「日本一低い山」の天保山(標高 4.53m)よりさらに低い山でした。同じように、国土地理院の認定を受けていない大潟富士を除けば、日本一低い山だったのです。
石碑には「御山山頂 90m」とありましたが、すぐに山頂に着きました。山頂と書かれていましたが、ここまで坂らしい坂もなく、平地を歩いていつの間にか山頂に登っていたという、山らしくない山でした。帰りに、白鳥神社の宮司さんにお聞きすると「裏参道の先にある海が0メートルで、一番高い所が3.6mということです」とのことでした。
石柱の右側にあった石標です。「十」の交差した部分が、3.6mの地点だそうです。宮司さんは「石標の厚さが10cmあるから、正確には 3.7mだけどね」とおっしゃっていました。石碑の平成17(2005)年8月17日は、山開きのイベントが挙行された日でした。

裏参道の鳥居まで戻ってきました。海側に石碑が並んでいます。明治時代、東かがわ市の手袋製造の先駆けとなった両児舜礼(ふたごしゅんれい)氏の石碑と棚次辰吉(たなつぐたつきち)氏の像が建っていました。その左側には、手袋製造の東洋手袋株式会社白鳥本町工場の門柱が、当時の写真とともに展示されていました。

白鳥神社の社務所でいただいた「登山証明書」です。スタンプのインクをこすってしまい見えづらくなっていますが、証明をしてくださる、白鳥名物の「ぶどう餅」の ”みなとや” さんが定休日だったので、鳥居前のおもちゃ屋さんの ”勧商場” の方にご無理を申し上げて、証明のスタンプを押していただきました。 

国土地理院の地形図に載っている正式の山ではありませんが、標高3.6mの「日本一低い山」御山を訪ねてきました。国土地理院から正式の山として認められる日が来たら、再度訪ねてみようと思っています。



自然の山で日本一低い山 弁天山を訪ねる

2019年07月25日 | 日記
平成26(2014)年4月の国土地理院の調査により、仙台市宮城野区に位置する日和山(ひよりやま)が、標高3.00メートルの山として認定され、日本で一番低い山になりました。2番目に低い山は、大阪市にある天保山。標高は4.53メートルだそうです。天保山は、天保年間(1830年~1843年)に安治川の浚渫工事で出た土砂を積み上げてできた山で、当時は20メートルほどの高さだったといわれています。その後、幕末の砲台建設のために削られ、高度成長時代には地下水が汲み上げられたため、現在の姿になったといわれています。長く日本一低い山とされていました。

一方、日和山は平成23(2011)年の東日本大震災で消滅したといわれていましたが、平成26(2014)年の国土地理院の調査により標高3メートルの山が確認され、日本一低い山となりました。上の写真は、徳島市方上町(かたのかみちょう)弁財天にある、標高6.10メートルの弁天山です。国土地理院の地形図にも掲載されている日本で3番目に低い山です。日本一低い日和山も、2番目の天保山も共に人工的につくられた山(築山)であるのに対し、3番目の弁天山は自然の山として知られています。そのため、弁天山は、"自然の山として日本で一番低い山”ということになり、”とくしま市民遺産” にも選定されているそうです。
この日は、その弁天山を訪ねることにしました。
徳島駅で、阿南駅行きの牟岐線の列車に乗り継ぎました。JR四国が誇るエコ車両、1500系のワンマン運転、単行のディーゼルカーは、徳島駅から10分ぐらいで4つ目の駅、JR地蔵橋駅に到着しました。

地蔵橋駅は、大正2(1913)年、阿波国共同汽船の駅として開業しましたが、開業と同時に国有鉄道が借り上げ小松島軽便線として運用されていました。名実ともに、国有鉄道になったのは大正6(1917)年。阿波国共同汽船が買収し国有化されたときでした。地蔵橋駅は、徳島市西須賀町(にしずかちょう)西開(にしびらき)にあります。文化の森駅から2.1km、次の中田(ちゅうでん)駅まで3.2kmのところに設置されていました。

これは、駅舎内に掲示されていた災害時の避難所になっている大松(おおまつ)小学校までのルート図です。見えにくいのですが、弁天山は地図の下を左右に走る徳島県道210号を地図の左に向かった先にあります。地蔵橋駅前からまっすぐ進み県道136号を右折して進み、「下多々良」のところのローソンの交差点を右折して、その先の牟岐線の踏切を越えて進めば、弁天山に行くことができそうです。

地蔵橋駅舎です。大正15(1926)年に建設されましたが、かなり改装がなされています。駅舎から出て歩きます。少し近道をして、上の写真の地図の「地蔵橋」の「蔵」の字の下を進み、「西開」の文字の近くで左折して、県道の「136」のところで県道に合流するルートで歩きました。

JR地蔵駅への取り付け道路です。正面突きあたりが県道136号です。

右側に「富岡学習室」の看板のあるお宅の先の横断歩道で右折して、住宅街をまっすぐ進みます。

正面にカーブミラーが3つ並んでところで左折します。栄光社を左に見ながら進むと、篠原ゼミナールの脇で、県道136号に合流しました。

正面に見える博愛記念病院の青い建物に向かって進むとローソンの脇の交差点に着きました。交差点の手前、左側に「弁天山」の標識が見えました。交差点を右折して、県道210号に入ります。この道は、江戸時代、「土佐街道」とよばれる藩道だったといわれています。
その先で、牟岐線の鶴島第3踏切を越えると、ゆるやかな右カーブになります。

道路の左側にあった天霊山正福寺の石碑を越えると、正面に小さな丘状の地形が見えました。それをめざして進みます。

道路の脇に立つ、黄色の「弁天市」の幟の先に、めざす弁天山がありました。正面には、地元の奉賛会の方々がつくられた案内看板が設置されていました。

道路脇にあった看板です。「徳島市方上町 日本一低い山 弁天山 国土地理院認定 標高6.1メートル」と書かれています。後ろに見える建物で「弁天市」が、毎週水・土・日曜日に開かれています。
冒頭に、弁天山は自然の山だと書きましたが、草創神社奉賛会の方々が、平成10(1998)年10月に設置された説明板には、「元暦2(1185)年、源平の合戦に際し、源義経は小松島市の田野町に上陸し、南西にある山を越えて香川県の屋島、壇ノ浦に平氏を討つために兵を進めたという伝説が残っている。当時はこのあたりは海で、現在の弁天山は海中の小島であった。室町期に入ってから海水が引き湿地帯となった。小島は小山となり、水田開発が進み、現在に至っている」と書かれていました。

弁天山の標高6.10メートルの山頂には厳島神社(弁財天)が祀られています。説明には、「かつて海だったので、市杵島姫命(イツクシマヒメノミコト)を神として、厳島神社(弁財天)を勧請した」と書かれていました。

この写真は、説明板に載っていたかつての弁天山の姿です。正面の鳥居に覆い被さるように、推定樹齢250年という松が聳えていたようです。江戸時代の中期からこの地にあった松の木です。説明には「松喰虫の被害により枯れ」たので、昭和55(1980)年12月に伐採」したと書かれていました。鳥居をくぐり参道を上ります。

上方から鳥居に向かって撮影しました。奉賛会の皆様が整備された手すりのついた参道です。頂上まで14段の石段がつくられていました。説明には、「弁天様は庶民の願いを叶える神。日本一低い山にふさわしい社殿、参道、鳥居などを整備した」とありました。鳥居にも、「草創神社奉賛会」、「平成10年10月吉日」と記されていました。

弁天山の山頂です。正面に祠、左側に記帳所がつくられていました。観音開きの記帳所には、他に、おみくじ(100円)、御朱印(3種 各300円)も置いてありました。

下ってきました。弁天山の周囲は一回りできるように舗装もなされていました。

標高6.10メートルの弁天山の登頂証明書です。山頂の記帳所に置かれていたものです。記帳した後、100円を置いていただいてきました。
山頂までは、14段の石段とスロープを登るだけ、自然の山で日本で一番低い山
でしたので、さほど苦労しないで登頂証明書をいただくことができました。





大崎上島へのフェリーが発着する町にある駅、JR安芸津駅

2019年07月02日 | 日記

大崎上島に向かって出発した安芸津フェリーの”第十五やえしま”(375トン)です。JR呉線の安芸津駅から歩いて5分の安芸津港と、大崎上島の大西港までを30分で結んでいます。大崎上島は、架橋されておらず、海上交通を利用するしかありません。同じ呉線の竹原港からも、大崎上島の白水港と垂水港を結ぶフェリーが運航されています。この日は、JR安芸津駅とその周辺を訪ねることにしました。


 
呉線は、軍港である呉と、軍の様々な施設が置かれた軍都広島を結ぶため、明治36(1903)年呉駅と海田市駅間を開通させたことに始まります。また、広島県東部の三原駅からは、三呉線として、昭和5(1930)年に三原駅と須波駅間を開通させました。その後も延伸を続け、昭和10(1935)年11月24日に呉駅までが全通し、呉線となりました。
JR山陽本線の三原駅から呉線の列車で、安芸津駅をめざしました。

三原駅の1番ホームで出発を待つ、JR広駅行の電車です。平成15(2003)年3月14日のダイヤ改正により運用が開始された227系車両、JR西日本広島支社管内の最新車両です。呉線では、ワンマン運転の2両編成で運行されています。
 
三原駅から50分ぐらいで、列車は大きく左にカーブをしながら安芸津駅の2番ホームに到着しました。2番ホームの上屋の柱に貼られていた「屋根スレート管理表」には、「施行年月日 平成8年8月6日」とありました。ホームの上屋の上に線路を跨ぐ横断陸橋 ”安芸津マリンアーチ” が見えました。また、反対側の1番ホームの上屋の中に見える建物は安芸津駅舎、その手前に見える白い建物はトイレです。安芸津マリンアーチの階段も見えました。
列車はすぐに次の風早(かざはや)駅に向かって出発して行きました。
 
2番ホームから見た三原駅方面です。2面2線の長いホームが見えます。背景の山の中腹には正福寺がありました。
 
2番ホームを広駅方面に向かって歩きます。ベンチの先に駅名標がありました。安芸津駅は、東広島市安芸津町三津にあります。三原駅側の一つ前にある吉名(よしな)駅(竹原市吉名町)から4.7km、次の風早(かざはや)駅(東広島市安芸津町風早)まで3.2kmのところにありました。その先には、駅舎に向かう地下道への入口が見えます。
 
さらに、広駅方面に進むと、隣の1番ホームの向こうに駅舎が、その手前にホームから駅舎に下る階段が見えました。
 
2番ホームの広駅側の端です。単線である呉線は、2本の線路がこの先で合流します。2番ホームの先に、広駅行の電車が走る線路から分岐する引き込み線がありました。
 
引き込み線です。横断陸橋、マリンアーチの下まで続いています。
 
2番ホームから地下道に下ります。全面に壁画が描かれていました。
 
地下道は駅舎まで続いていました。駅舎側は階段でなくスロープになっていました。改札口が見えました。
 
改札口です。ICOCAの精算機、自動改札機が、かつての雰囲気が残る改札付近に設置されています。通路の右の柱に白いラベルが見えました。
 
「建物財産標」でした。「駅の本屋」は「昭和10年2月」と記されています。安芸津駅は、昭和10(1935)年2月17日、三呉線が、竹原駅から三津内海駅(現・安浦駅)まで延伸開業した時に開業しました。開業時は、付近の地名から「安芸三津駅」と称していました。「安芸津駅」と改称したのは、昭和24(1949)年のことでした。これより以前、昭和18(1943)年に、賀茂郡三津町と早田原町、豊田郡木谷村が対等合併し、賀茂郡安芸津町となり、その後、昭和31年には、豊田郡に所属し、豊田郡安芸津町となりました。現在の東広島市に編入されたのは、平成17(2005)年のことでした。
 
改札口の前から1番ホームに上る階段です。
 
1番ホームから見た、広駅方面です。安芸津駅を出ると、短いトンネルを抜けるようです。2番ホームからは角度がよくなかったのか、トンネルは見えませんでした。
 
両側の窓ガラスから日射しが差し込む駅舎の待合いスペースです。広いスペースにベンチと自動販売機がありました。改札口付近にあった時刻表では、呉線の列車は、広駅行きが19本、三原駅行きが18本運行されていました。
 
安芸津駅は、窓口業務だけを委託する簡易委託駅になっています。受託しているのは東広島市だそうです。壁面の案内を見ると、6月は「月 火 木 金が営業日」になっていました。この日は土曜日でしたので、「非営業日」で、勤務するスタッフはおらず、窓口は閉まったままでした。窓口の脇に自動券売機が設置されており、近距離キップの購入には支障はないようでした。
駅舎の出口付近に掲示されていた安芸津フェリーの乗り場の案内図です。駅から出て、駅を跨ぐ横断陸橋(安芸津マリンアーチ)を渡って進めば、安芸津港にある「フェリーきっぷ売場」や桟橋に行くことができるようです。
 
駅前から見た駅舎です。入口の上の三角形の屋根のデザインが印象的です。駅前には庭園も設けられていました。ここから、安芸津マリンアーチを渡って安芸津フェリーの桟橋に向かうことにしました。
 
庭園前を進み、隣にある土蔵のようなトイレの前から階段を上ります。
 
安芸津マリンアーチから見た引き込み線です。安芸津町は、カキ、ジャガイモ、ビワなどの特産品で知られていました(東広島市に合併する以前の安芸津町の「町花」はジャガイモの花だったそうです)。線路の右側の白い部分から右側には盛り土がされていますが、かつては、貨物の積み降ろしをしていたところだったのでしょうか。
 
マリンアーチを下ります。駐車場の先の通りを過ぎると安芸津港になります。大崎上島へは竹原港からもフェリーの航路があると冒頭に書きましたが、竹原港はJR竹原駅から少し離れたところにあるため、JRの駅からの利便性は、安芸津港の方が優れているようです。
 
安芸津港です。次に、大崎上島の大西港に向かうフェリーが出発を待っていました。右側の建物が、乗船切符売場、安芸津港待合所です。
 
 
待合所の内部です。乗船切符のカウンターです。少し時間に余裕があるので、閑散としています。始発便の6時40分発から最終便の19時40分発の便まで、1日16往復運航されています。ただ、1月~3月は、始発便と最終便は運休になるのだそうです。
就航しているのは、”第十ニやえしま”(336トン 1998年竣工 旅客定員 280名)と ”第十五やえしま”(375トン 1990年竣工 旅客定員 250名)の2隻のフェリーです。
 
次に出発するのは、”第十五やえしま” でした。乗船が始まりました。10台程度の車と10名程度の旅客が乗船されました。
 
”第十五やえしま” が出発して行きました。フェリーの正面に見える大崎上島に向かってまっすぐに進んで行きました。
 
引き返します。港の周辺は宿泊施設や飲食店が点在しています。”旅館 木乃屋” の脇を進み、安芸津マリンアーチを渡ります。
 
マリンアーチ上から見た駅前ロータリーです。駅前には芸陽バスの停留所がありました。
安芸津町のある東広島市は、西条地区の酒造業がよく知られています。しかし、駅前にあった説明には「明治時代に、広島県の水質(軟水)に合った醸造法を生み出したのは、安芸津町出身の三浦仙三郎氏(1847年~1908年)でした。三浦氏の酒造りを継いだ杜氏たちは、”広島杜氏”として、全国で活躍しました。そのため、安芸津は ”広島杜氏のふるさと” と呼ばれるようになりました」と、書かれていました。


江戸時代、安芸津には船が入れる港があり、広島藩の米の集散地で蔵屋敷が並んでいたところであり、酒造りの条件がそろっていました。
写真は、榊山八幡神社につくられている三浦仙三郎氏像で、駅前の説明板に載せられていたものです。三浦氏の教えである「百試千改」は、今も”広島杜氏”の人たちに受け継がれているそうです。
現在、安芸津町では、2社が酒造業を営んでおられます。

JR安芸津駅前から見た駅前ロータリーです。町内にある2社の酒造会社を訪ねようと思いました。写真の右側に青い看板が見えます。”喫茶オアシス”のお店です。左側の和風の建物は、「素盞神社の御旅所」です。ここを左折して進みます。

左折してすぐ目の前にあった大邸宅が、柄(つか)酒造の建物です。嘉永元(1848)年、槌屋忠左衛門氏が創業。「於多福」や「関西一」のブランドで知られている酒造会社です。
 
酒造会社の看板である杉玉が軒下に吊されています。新しく青い杉玉が架け替えられたら、新酒ができた合図になるといわれています。
「御旅所」に戻り、”喫茶オアシス”のある通りをまっすぐ進みます。

 5分ほど歩くと、正面に祠、その隣に進徳海運株式会社の建物があります。祠の脇をまっすぐ進むと山の中腹に曹洞宗福壽院の唐様の山門が見えて来ます。祠の前を左折して進みます。
 
やがて、右側に「清酒 富久長」と書かれたレンガ造りの煙突が見えて来ました。 今田酒造です。明治元(1868)年創業。ブランド名の「富久長」は、三浦仙三郎氏の命名だそうです。

 

現在は、女性杜氏の今田美穂さんが受け継いで、地元の米、八反草を使用して酒造りをしておられるそうです。 

この日は、大崎上島へ向かうフェリーの発着場がある、東広島市安芸津町を訪ねて来ました。JR安芸津駅を訪ねるためにやって来ましたが、駅前の観光案内で知った「広島杜氏」の祖、三浦仙三郎氏の存在など、魅力あふれる町でした。 
 
 

仁堀航路の連絡駅だった、JR仁方駅

2019年04月15日 | 日記
太平洋戦争後の昭和21(1947)年、本州と四国を結ぶ国鉄の新しい航路が開かれました。戦後の混乱期、物資の輸送力の増強のために、広島県の仁方(にがた)港と愛媛県の堀江(ほりえ)港間に開かれた仁堀航路でした。その仁方港への連絡駅としての役割を果たしていたのが、国鉄の仁方駅でした。この日は仁堀航路の面影を求めて、現在はJR西日本の駅になっている仁方駅を訪ねることにしました。
JR呉線の仁方駅です。昭和10(1935)年に開業しました。今年、開業してから84年目を迎えています。仁方駅は、呉市仁方本町2丁目にあります。
JR仁方駅を訪ねるため、呉線の起点である三原駅の1番ホームに向かいました。ホームには、三原駅発11時31分発の広(ひろ)駅行きの列車が出発を待っていました。JR西日本広島支社の最新車両、227系電車の2両編成、ワンマン運転の列車でした。
11時55分頃、終点広駅の一つ手前にある仁方駅の2番ホームに到着しました。数人の乗客とともに下車したホームには、真新しいガラス張りの待合室がありました。そして、その先の広駅方面には新しく出口がつくられ自動改札機が設置されていました。列車は、その脇を、次の広駅に向かって出発して行きました。
下車したホームを広駅方面に向かって進みます。跨線橋がありましたが、撤去工事が進んでいるようです。跨線橋に上る階段部分は骨組みだけになっています。対面する1番ホーム側の跨線橋は、橋桁を支える支柱だけになっていました。
ホームの広駅側の端から見た仁方駅の全景です。2面2線の長いホームが見えます。右側が広・呉駅方面に向かう列車が停車する2番ホーム。三原駅方面に向かう列車が停車する左側の1番ホームに接して、トイレと広島銀行のキャッシュコーナー、そして、駅舎がありました。撤去中の跨線橋の先に見えるのは呉市が設置した仁方歩道橋です。
ホームを引き返して2番ホームのガラス張り上屋のついた出口まで戻りました。自動改札機も設置されています。その先が待合室でした。このとき、手に、集めた飲料の缶を持った高齢のボランティアの男性とお会いしました。「待合室などは、完成してから1週間ぐらいしか経ってないんだ。朝夕は、30人ぐらいの人が乗車されるから、雨の日の待合室は大変だ。昔は、このあたりに荷物の取扱所があったんだ。やがて駅舎も新しくなる予定だよ」とのこと。仁方駅は駅の改修が進んでいるようでした。
2番ホームの出口から広々とした駅前ロータリーに出ました。「昔は、駅前からこのロータリーの左側、今はマンションになっているあたりに枕木をつくる工場があって、そこまで引き込み線が敷かれていた」と、教えていただきました。
広場から見たホームと駅舎方面です。満開の桜の向こうにホームへの入口と駅舎の屋根が見えました。
仁方港にいってみることにしました。広場からまっすぐ進みます。その先の右側に、呉市立仁方中学校のグランドのフェンスが見えました。その手前にある交差点を左折します。
左折して「桟橋通り」(県道261号・仁方港線)に入ります。桜並木が続きます。通りの左側に「弘法桜」の石碑がありました。平成18(2006)年に、「桜による仁方活性化会議」の方々が整備された桜並木のようです。
通りの右側にあった案内図です。中央の左右の通りが桟橋通りです。通りの周囲は工場が並ぶ地域になっています。その中に「鑢(やすり)」「ヤスリ」と書かれた工場が目につきました。
写真は、ヤスリを製造している会社です。ヤスリは鋼(はがね)の表面に目立てをして(小さい目、突起を刻んで)焼き入れした、金属仕上げの工具のことですが、仁方で製造される「仁方のヤスリ」は、全国シェア90%を超える特産品になっています。江戸時代の文政年間(1818年~1829年)、大阪で製造技術を習得した仁方の町民によって伝えられたことに始まるヤスリの製造は、大正時代に機械化されてから発展したといわれています。
桟橋通りを進みます。通りの正面に、「仁方桟橋」と書かれた緑の屋根、玄関ポーチのついた建物が見えました。太平洋戦争後の昭和21(1946)年5月1日、当時宇高連絡船しか無かった本州と四国を結ぶ輸送力の増強のために新設された、仁堀航路の桟橋があったところです。
仁方桟橋の建物です。仁方駅から、歩いて15分ぐらいかかりました。当初は他の航路からの転属船で運行していた仁堀航路でしたが、昭和50(1975)年初めての新造船、瀬戸丸が就航しました。その6年後の昭和56(1981)年、フェリー瀬戸丸(399トン)は、仁方港から堀江港までの37.9kmを1時間40分かけて結んでいました。廃止の前年には、1日2往復が運行され、1日平均、乗客119人、自動車10台が利用していたそうです。しかし、昭和57(1982)年7月1日に、赤字を理由に廃止されてしまいました。運行便数が少なかったこと、駅から桟橋までが、離れていたことが主な原因だったとされています。
玄関から内部に入ります。ベンチが並んだ広い待合室と改札口、左側に桟橋の事務室の跡が残っていました。
仁堀航路が廃止されてからは、この桟橋は近くの島々を結ぶ航路の発着場になっていました。その時代の名残の時刻表がそのまま残されていました。近くにおられた方のお話では、「安芸灘大橋が開通してから、島への航路は廃止された」とのことでした。下蒲刈島と本土とを結ぶ安芸灘大橋が開通したのは、平成12(2000)年のことでした。
現在の仁方桟橋です。近くにおられた方にお聞きしますと、今は、近くの島々から産業廃棄物を回収するダンプカーを運ぶフェリーが発着しているとのことでした。
仁方桟橋から見た安芸灘大橋です。その後ろは蒲刈島、右側の島は下蒲刈島です。現在では、車で安芸灘大橋を渡って、下蒲刈島の見戸代(みとしろ)に渡り、その後、下蒲刈島から蒲刈島へ渡るのが、メインルートになっているそうです。
桟橋の近くに石碑がありました。「仁堀航路跡 局長 石井幸孝」と刻まれています。仁堀連絡船は、昭和31(1956)年4月から広島鉄道管理局の所管になっていました。石井幸孝氏は広島鉄道管理局の局長だった方だと思われます。
JR仁方駅前のロータリーまで戻ってきました。駅前広場の三原駅側に、呉線を跨ぐ仁方歩道橋が設置されていました。仁方歩道橋を通って、駅舎側に向かいます。
仁方歩道橋の駅舎側から下ります。ちょうどその時、三原駅行きの列車が1番ホームに入ってきました。下りきったところに「仁方歩道橋 1983年3月 呉市」と記されたプレートありました。
仁方歩道橋から下りたところの三原駅方面です。ボランティアの男性は、三原方面に向かう線路の外側には「貨物側線が一本敷かれていたよ。その先には日通(日本通運)の事務所と倉庫があった。今は住宅になっているところに倉庫と保線区員の詰所が並んでいた」とおっしゃっていました。そうすると、写真の通路があるところに貨物側線が、左側の住宅のあるところに日通の倉庫と保線区の詰所が並んでいたようです。
駅舎の正面に回ります。呉線は、明治36(1903)年に、海田市駅と呉駅間が開業したことに始まります。呉線の東の起点である三原駅からは、昭和5(1930)に、三呉線として、三原駅と須波駅間が開業し、その後、西に向かって延伸開業して行きました。そして、昭和10(1935)年に、三津内海(みつうちのうみ、現・安浦)駅と広駅間が開業して全通し、呉線と改称しました。仁方駅はこのときに開業しました。仁方駅は、平成15(2003)年から無人駅になっています。駅の入口の向こう側は、駅事務所があったところです。
駅舎への入口です。右側の柱に建物財産標がありました。
「日本国有鉄道 建物財産標 財 第9号 鉄 本屋 昭和10年11月」と記されています。開業時の駅舎が現在も使用されているようです。
駅舎に入ります。左側に駅事務所と出札窓口、正面にホームへの出口がありました。写真では見えませんが、左側には、1940円区間までの自動券売機が設置されています。
右側には3脚のどっしりとした3人掛けのベンチがあり、ベンチの右側には自動販売機が設置されています。
駅舎寄りの1番ホームに出ました、広駅方面から見た駅舎です。駅舎の手前にトイレと広島銀行のキャッシュコーナーがあります。駅に来られる人の多くが、キャッシュコーナーを利用されていました。
ホームからのトイレの入口です。ホームからキャッシュコーナーの脇から入って行くようになっています。
ホームの三原駅方面です。旅客上屋が見えます。上屋を支える柱の最も三原駅寄りの一本に建物財産標がありました。
「日本国有鉄道 建物財産標 第10号 鉄 旅客上屋 昭和10年11月」と読めました。ホームの上屋も、開業時につくられたもののようです。
駅舎に掲示されていた「仁方駅改修工事の案内」です。ホームで出会ったボランティアの男性は「やがて、駅舎も新しくなる」といわれていました。この「案内」で、その概要がわかりました。老朽化対策として、跨線橋の撤去、駅舎の上家解体と新設、トイレの外壁改修」の工事を、2018(平成30)年9月12日から、2019(令和元)年6月末日までに行う計画になっていました。2019年の4月11日には、駅前の広場からまっすぐトイレに入れるようになるそうです。
駅舎前からのキャッシュコーナーとトイレです。4月11日からは柵が撤去されて、こちらからトイレに行くことができるようになっているはずです。

かつて、国鉄仁堀航路への連絡駅として、物資や人の交流が行われていたJR仁堀駅ですが、老朽化対策として、2番ホームの待合室や自動改札機の新設が行われていました。今後、トイレや駅舎の改修も行われることになっています。
新しく生まれ変わった仁堀駅を見るために、また、訪ねてみようと思っています。


JR福塩線の秘境駅、中畑駅を訪ねる

2019年04月08日 | 日記
平成26(2014)年4月にJR武田尾駅を訪ねました(「トンネルと鉄橋の駅、JR武田尾駅」2014年4月30日の日記)。牛山隆信氏が主宰されている”秘境駅ランキング”で、当時200位にランクインしている”秘境駅”だったからです。ところが、2019年度の”秘境駅ランキング”を拝見すると、武田尾駅がランクアップしていて、その次にいくつか新しい駅がランクインしていました。その中に、199位にランクインしているJR福塩線の中畑駅がありました。この日は、その中畑駅を訪ねることにしました。

福塩線はJR山陽本線の福山駅が終起点になっています。福塩線が発着している福山駅の8番ホームに向かいました。ホームからは、満開の桜の奥に福山城の天守閣が見えました。絵のように美しい光景でした。

福塩線は、福山駅と塩町駅を結ぶ路線ですが、実際の運用は三次駅が終起点になっています。府中駅までは、平成29(2017)年からJR西日本岡山支社の管轄になっています。また、府中駅までは電化区間でもあります。JR西日本岡山支社管内の指定カラーであるイエローの105系電車が入線して来ました。そして、14時09分、定時に出発しました。

2両編成の電車は、福山駅を出発してから約40分後の14時50分に、府中駅に到着しました。府中駅から三次駅の間は、非電化区間です。到着した向かいのホームの三次駅方面に、JR西日本広島支社のキハ120系デイーゼルカー(以下「DC」)が出発を待っていました。このDCは、府中駅を15時05分に出発する三次駅行きの列車です。平成3(1991)年からワンマン運転になっています。福塩線の運行本数は、府中駅から先で極端に少なくなり、臨時列車を除いて1日6往復の運行になっています。この列車の一つ前の列車は午前8時11分発の三次駅行きで、7時間前に出発しています。その間、1本の運行もありませんでした。車内には、20人ぐらいの方が乗車されていました。

府中駅を出てからは、時速25kmの制限速度の区間がかなりありました。昨年(2018年)7月の西日本豪雨による災害のため、福塩線は全線が運休となりました。12月13日に全線が復旧しましたが、その影響が残っているのでしょうか、列車はゆっくりと進んでいきます。次の下川辺(しもかわべ)駅で2人が下車され1名が乗車されました。その先の大迫山トンネル(全長200m)を抜けると中畑駅です。15時21分に到着しました。中畑駅は、1面1線のホームで、三次駅方面に向かって右側にありました。地元の方とご一緒に2人で下車しました。ちなみに、中畑駅の1日平均乗車人員は平成28(2016)年には3人だったそうです。

ホームの三次駅側の端で下車しました。列車は、ホームのすぐ前にある踏切を越えて、河佐(かわさ)駅に向かって出発して行きました。福塩線は、大正3(1913)年、両備軽便鉄道株式会社が、軌間762ミリの軽便鉄道を両備福山駅と府中駅間で開業させたことに始まります。両備軽便鉄道は、大正15(1926)年に社名を「両備鉄道」に改称し、翌年の昭和2(1927)年には、両備福山駅・府中駅間の電化工事を成功させました。その後、昭和8(1933)年には、両備福山駅と府中駅間が国有化され福塩線となりました。

福塩線が終点の塩町駅まで延伸開業したのは、昭和13(1938)年のことでした。中畑駅は、下川辺駅から3.9km、次の河佐駅まで3.1kmのところにあります。中畑駅が開業したのは、昭和38(1963)年のことでした。

狭いホームを府中駅方面に向かって進みます。駅名標の他には、待合いスペースの上屋があるだけのシンプルなつくりになっています。

上屋の内部です。

3脚のベンチの間に、白い箱が見えます。中を引き出してみると、秘境駅によく置いてある「駅ノート」が出てきました。失礼ながら読ませていただきました。昨年の2月には、「山へ逃げるサルの集団を発見した」こと、8月には「大雨被害で不通になっていた」こと、12月には復旧を祝うメッセージが書かれていました。その中で、「いい感じの駅だった」と書かれた訪問者のことばが最も印象に残りました。

時刻表です。12時48分発の三次行きと13時48分発の府中行きの列車は、臨時列車になっています。

時刻表の脇に、臨時列車の運行日の案内が掲示されています。4月は8日(月)、9日(火)、20日(土)、21日(日)の4日間、5月は14日間運行されることになっています。

桜の花が咲いているホームの府中駅側です。

こちらは、三次駅方面のホームです。山の斜面の狭いところにつくられた駅で、ホームの向かいには上の集落に上っていく道があります。駅舎もなく上屋があるだけの”秘境駅”らしい姿でした。

引き返して、下車したホームの三次駅側に戻りました。ホームへ上がる階段の左側に細い道が見えます。

10メートルほど進むと、雑草に覆われた今にも崩壊しそうな木造の建物がありました。ドアは破れ、柱もいたんでいましたが、トイレの跡でした。今は、とても使えそうにありません。

周囲のようすを見てみることにしました。ホームの先にあった中畑踏切です。山の上の集落に上っていく踏切を渡って進みます。

集落への道から見た中畑駅のホームです。満開の桜です。

駅の後ろに広がる山の斜面に民家が点在しています。いい風景でした。道を下ります。

引き返して、渡ってきた中畑踏切を渡ります。その先は福塩線に沿って進む道になります。

正面に集落が見えました。集落の手前で右折して、福塩線に平行して流れる芦田川に架かる橋を渡ります。

芦田川の下流(府中駅)側です。福塩線の起点である福山市で瀬戸内海に注ぐ川です。福塩線はこの川に沿って敷設されています。山の斜面に集落が広がっています。

上流(三次駅)側です。この先に八田原(はったばら)ダムがあり、その麓に河佐峡(かわさきょう)があります。「キャンプ、川泳ぎ、釣りを楽しむ家族連れで賑わう」ところだそうです。中畑駅は八田原ダムや河佐峡を含む府中市河佐町にあります。河佐町の面積は、6,029平方メートル超。平成31年4月1日現在、109世帯250人の人々が居住されている(府中市市民課の資料による)そうです。

前を走る県道に出ました。府中駅方面です。山里の雰囲気が伝わって来ます。この道は主要地方道24号です。府中市父石(ちいし)町から、府中市上下町井永とを結ぶ県道です。府中市上下町は、平成16(2004)年に府中市と合併した、旧甲奴郡上下町です。江戸時代には代官所が置かれ、幕府直轄領(天領)の中心地として、石見銀山で産出する銀が運ばれた石州街道(銀山街道)の宿場町として、繁栄したところです。以前、訪ねたことがあります(「銀山街道の宿場町、上下」2013年3月9日の日記)。

16時17分発の府中行きの列車に乗車するつもりでした。芦田川に架かる橋を渡って駅に引き返します。

線路に時速25kmの制限速度区間を示す標識がありました。帰りもゆったりとした普通列車の旅になりそうです。


「秘境度1ポイント(P)、雰囲気2P、列車到達難易度1P、外部到達難易度1P、鉄道遺産指数2P、総合評価7P」で、秘境駅ランキングの199位。秘境駅ランキングを主宰されている牛山隆信氏は、中畑駅をこのように評価されています。
山里の雰囲気に包まれた自然豊かな駅。桜の季節の駅周辺の美しさには心を奪われます。「駅ノート」に書かれていた「いい感じの駅」という、ことば通りのいい駅でした。

























京都府にある”秘境駅”、JR山陰線立木駅

2019年04月05日 | 日記
牛山隆信氏が主宰されている”秘境駅ランキング”。2019年度、京都府からは3駅がランクインしています。80位の辛皮(からかわ)駅(京都丹後鉄道)、153位の保津峡駅(JR山陰本線)、そして、165位の立木(たちき)駅(JR山陰本線)の3駅です。この中の保津峡駅はすでに訪ねました(「橋梁上の”秘境駅”JR保津峡駅から、トロッコ保津峡駅へ」2016年12月29日の日記)。「青春18きっぷ」の季節でしたので、JR山陰線の立木駅を訪ねてみることにしました。

JR立木駅です。平屋建ての白壁の駅舎です。JR山陰本線の福知山駅と園部駅の間にあります。この駅をめざして、岡山駅を8時09分に出発するJR山陽本線の相生駅行きの列車に乗車しました。

相生駅から姫路駅行きの列車を乗り継ぎ、姫路駅からは播但線の列車でJR山陰本線の和田山駅へ。和田山駅から、山陰本線の列車で福知山駅へ。福知山駅から、園部駅行きの列車に乗車。舞鶴線が分岐する綾部駅から次の山家駅を過ぎ、上原トンネル(全長91m)を抜けた先に、立木駅がありました。到着は13時24分。岡山駅を出発してから、乗り継ぎ時間を含めて、5時間18分の普通列車の旅でした。乗車してきた、223系2両編成、ワンマン運転の電車は、行き違いのため2番ホームに停車しています。

時刻表を見ると京都駅発の”はしだて5号”との行き違いのようです。京都丹後鉄道(丹鉄)の車両がやって来ました。福知山駅から丹鉄を経由して豊岡駅に向かう列車でした。

園部駅行きのワンマン運転の電車は、次の安栖里(あせり)駅、その次の和知(わち)駅に向かって出発して行きました。山陰線の線路と電車を跨いでいる道路は、京都縦貫道(丹波・綾部道路)です。

立木駅は、京都府船井郡京丹波町広野北篠にあります。通ってきた山家(やまが)駅から3.5km、次の安栖里駅間まで4.8kmのところにあります。

到着した2番ホームを山家駅方面に向かって歩きます。長いホームの途中に柵が設けられ、先に進めないようになっています。柵の手前から見た山家駅方面です。立木駅を含む綾部駅から園部駅間のローカル駅はY字分岐のままで、いわゆる”1線スルー”にはなっていません。そのため、園部駅・京都駅方面に向かう列車はすべて2番ホーム側の線路を通過していきます。

2番ホームの端から見た立木駅の全景です。2面2線の長いホームと、ホームをつないでいる跨線橋が見えます。右側のホームは、綾部駅や福知山駅方面行きの列車が停車する1番ホームです。

2番ホームを跨線橋に向かって歩きます。跨線橋の手前にはホームの上屋が設けられており、待合いのスペースになっています。晴れ渡った空の青さと、周囲の山の緑、駅舎や道路の高架の白さが調和した、明るい雰囲気の駅になっています。

向かいの1番ホームに「JRたちき」という看板がつくられています。駅の存在をPRしておられるようでした。背後に、山の斜面にある集落が見えました。

1番ホームに移動します。上屋の下から跨線橋を上ります。JR山陰本線は、明治30(1897)年に二条駅・嵯峨(現在の嵯峨嵐山)駅間が開業したことに始まります。その後、延伸されて、立木駅がある園部駅・綾部駅間が開業したのは、明治43(1910)年8月15日のことでした。しかし、このとき、立木駅は駅の設置が行われませんでした。昭和8(1933)年、最後に残っていた須佐駅・宇田郷駅間が開業し山陰本線は幡生駅まで全通しましたが、このときにも、立木駅は設置されていませんでした。太平洋戦争後の昭和21(1946)年に立木信号場が開設されましたが、旅客や貨物を取扱う「駅」に昇格したのは、翌年の昭和22(1947)年のことでした。

跨線橋を歩きます。この地域は、江戸時代には広野村と呼ばれ、園部藩の領地になっていました。明治22(1889)年、町村制が敷かれてからは船井郡下和知村となりました。昭和30(1955)年には上和知村と合併して船井郡和知町になっています。面積の90%が山地で、わずかに、河川に沿ったところや山の斜面に集落が広がっているところでした。そして、平成17(2005)年、船井郡内の和知町と丹波町、瑞穂町が合併し、現在の船井郡京丹波町になりました。

立木駅が開業してから14年後の昭和36(1961)年、立木駅は貨物の取扱いが廃止となりました。さらに10年後の昭和46(1971)年には無人駅となりました。現在は、西舞鶴駅が管理する無人駅になっています。跨線橋を渡って1番ホームに降りると、ホームの上屋がありました。「1番ホーム」を示すマークの脇の柱に、建物財産標が貼ってありました。

建物財産標には「旅客上家1号 本屋側乗降場上家 昭和58年1月」と書かれていました。上屋がつくられたのは、昭和58(1983)年だったようです。

跨線橋の下に倉庫がつくられていました。ホームからは直接行くことはできませんが、ドア付近に「建物財産標」が見えました。

建物財産標には「倉庫1号 跨線橋下倉庫 昭和58年1月」と書かれていました。ホームの上屋を整備したときに、合わせて倉庫もつくられたようです。

そのまま進み、1番ホームの端まで歩きます。端から見た駅舎方面です。ホームに接して白い駅舎の建物と渡って来た跨線橋が見えます。駅舎の手前側にはトイレが設置されています。

駅舎に入ります。入った左側には待合室。その外側にはトイレが設置されていますが、待合室からは直接行くことができない構造になっています。この駅舎について、平成13(2001)年9月4日に、この駅を訪ねられた牛山隆信氏は「駅舎が撤去されてしまった跡地に、小さなカプセル型の待合室が建っている」と記されています。この「カプセル型の待合室」がいつ建てられたのか、資料がなくてはっきりしません。ホームの上屋や倉庫が建てられた昭和58(1983)年に一緒に整備されたのかも知れませんが、見た印象では、それより新しいのではないかとも感じました。

待合室の内部です。リサイクルボックスとベンチ。京丹後町町営バスの待合室にもなっているようです。驚いたのは「ホームにサルが出没しています。ご注意ください」の掲示でした。山間の人の動きの少ないところにある駅だと改めて実感させられました。

駅舎の通路に掲示してあった時刻表です。平日には、快速列車も含めて、1時間に1本の列車が停車しています。”秘境駅ランキング”を主宰されている牛山隆信氏は、立木駅について「秘境度3ポイント(P)、雰囲気2P、列車到達難易度2P、外部到達難易度2P、鉄道遺産指数2P」という評価をしておられます。列車到達難易度を2Pと評価されています。牛山氏の評価の割りには、停車する列車の本数は多いと感じました。こうした評価を見ていると「周囲を山に囲まれた、自然豊かで、人の動きが少ない」という駅周辺の雰囲気が大きく影響していることがわかりました。ちなみに、立木駅の1日平均乗車人員は、2016年には8人だったそうです。

駅舎から駅前広場に出ました。白い壁に黒色で「立木駅」と駅名が書かれています。すぐに、沢の音が聞こえてきました。駅の周辺を歩いてみることにしました。

駅前を走っているのは府道59号(主要地方道 市島・和知線)です。写真の先の兵庫県丹波市市島町につながっています。通りの左側の山の斜面に集落がありました。右側の倉庫風の建物は自転車駐輪場です。この日は春休みの期間中でしたので、3台ほどの自転車が見えました。

周囲を山で囲まれた、面積の90%が山地という旧船井郡下和知村や上和知村は、農業や林業を営む人が多い地域でした。米を中心に木材、クリ、松茸、椎茸、木炭などの生産が盛んでした。明治になってからは、養蚕が盛んになり、明治20(1887)年に器械製糸工場を創業しました。この工場は、明治43(1910)年に綾部市の郡是製糸会社(グンゼ)に買収され、同社の和知工場として、昭和23(1948)年まで操業していました。 府道59号を福知山方面に向かって歩きます。その先に、石碑がありました。

二つの石碑が並んで建てられていました。右側の「樋口良一君殉死の碑」が気になりました。昭和41年11月1日、立木駅振興会が建立した石碑でした。石碑の背面に建立の経緯が刻まれていました。「樋口良一さんは、和知町広野の万吉さんの二男として生まれた17歳の青年でした。立木駅の建設工事が始まった昭和21(1947)年4月27日、駅舎建設予定地の掘割の奉仕作業中に、突然土砂が崩落し下敷きになって亡くなってしまいました。翌日の28日に、地元の人たちが永遠の別れを悲しんだといわれています。この尊い犠牲は地元の青年たちを奮起させ、11月1日に立木駅が開業する運びになりました。開業20周年を迎えるにあたり、殉死の碑を建立し樋口良一さんの冥福を祈ります」(要約)というものでした。当時の立木駅長の撰文を、和知町長の字で刻んだものでした。鉄道の敷設に期待を寄せた地元の人たちと工事の犠牲になった青年の姿を、今に伝えています。

このとき、立木駅を出発した福知山駅行きの普通列車が出発して行きました。

牛山隆信氏が主宰する「秘境駅ランキング」の165位にランクインしている山陰本線立木駅は、周囲を山に囲まれた、いかにも秘境駅らしい駅でした。牛山氏は、この駅を訪れた時の印象を「事前に得た情報をもとに降りてみると、そこには、日常の煩わしさを忘れさせてくれるような、長閑な空間が広がっていたのである」と書かれていますが、そのコメントは、立木駅で私が受けた印象と共通していました。
この駅に来て、駅から見える風景を見ていると、おだやかな、長閑な気持ちになってくる、そんな雰囲気のある駅でした。






養父市場の町並みを歩く

2019年03月31日 | 日記

兵庫県養父市にあるJR山陰本線の養父駅です。明治41(1908)年に、和田山駅と八鹿駅間が延伸開業したときに開業しました。開業時につくられたレトロな駅舎が、現在も訪れる乗客を迎えています。

この日は、前回、簡易委託駅になっている養父駅を訪ねたとき、駅スタッフの方からいただいた「但馬各駅停車の旅レシピ たじま漫歩手帖(以下「マップ」)」(但馬地域鉄道利便性向上対策協議会夢但馬2014推進協議会作成)を手に、養父市にある養父市場の町並み見ながら、養父神社まで歩いて来ました。

養父駅前には、古くからの街道である豊岡街道が通っています。写真は和田山側に向かって撮影した街道の写真です。写真の家並みの裏側には、円山(まるやま)川が、街道にほぼ並行して手前に向かって流れています。円山川の源流は、生野銀山で知られた兵庫県朝来市生野町にある円山(標高641.1m)。そこから北に流れ、豊岡市で日本海に注いている一級河川です。

養父駅前の広場から、左(北)に折れて旧街道に入ります。養父市は、平成16(2004)年に、旧養父郡の4つの町、八鹿(ようか)町、養父町、大屋町、関宮町が合併して成立しました。 旧養父町は円山川の中流域に開けた地域でした。そして、養父市場は旧養父郡の中核をなす地域として発展して来ました。養父駅から北に向かって2kmほどの、豊岡街道に沿って広がる地域でした。

左側を走るJR山陰本線と並行して歩いて行きます。この付近の山陰本線は、円山川の氾らんによる洪水対策で、養父駅のある堀畑地区の2ヶ所の山裾からトロッコで運搬した土砂を使って、3mほどの盛り土をして敷設されたといわれています。

右側に「円山川グラウンドゴルフ村」と書かれた看板と、芝のグランドゴルフコースがありました。昼休みの時間でしたので、プレーをなさっている人の姿は見られませんでした。

旧街道は、右に緩くカーブして進みます。 やがて、右後ろから流れてきた円山川と並行して進むようになりました。護岸工事が行われていました。

その先の猿岩踏切で山陰本線を渡ることになります。京都駅から「126k963m」のところにあります。

猿岩踏切の手前から見た猿岩トンネル(全長131m)です。ここから、山陰本線の左側を歩くことになります。

左側にあった地蔵堂です。養父市場で、これと同じようなお堂を他に2ヶ所見ることができました。

左側の丘の上に養父小学校の白い校舎がありました。

養父市場の町に入りました。養父市場は、古くから行われていた「但馬牛(たじまうし)」の牛市のある町として、豊岡街道の宿場町として、また、鯉の養殖が盛んな町として発展して来ました。今も、白壁や土塀のある格子づくりの重厚な民家が残っています。

その先の小学校に向かう通りを過ぎると、三差路に差し掛かります。右手前のお宅の庭の一角に石の道標が残っていました。

「右 京 大坂 はりま 左 いづし」と刻まれています。江戸時代に参勤交代で通った出石藩への道を示しています。ここは、出石藩へ向かう街道の分岐点でした。三差路を右に向かうと、山陰本線を米地(めいじ)踏切で渡り、米地橋で円山川を渡ることになります。その先で、県道104号の交差点を超えて進むと、豊岡市出石町に行くことができます。

米地橋の手前の右側にあった「やぶこいの街公園」がありました。ひらがなで書かれていますが、「養父鯉の街公園」という意味のようです。公園内の看板にあった養父市場の観光マップです。左上が養父駅方面で、右下に向かう街道に沿って集落が広がっています。三差路に戻ります。

10mぐらいで、「全但バス 養父グンゼバス停」がありました。明治26(1893)年、養蚕が盛んであったこの地に、平山節郎氏が養父製糸場を創業しました。その後、事業を拡大して合資会社養盛館になりました。

バス停から右側に向かう通りを、円山川の堤防に向かって歩きます。明治29(1896)年、京都府綾部市で創業したグンゼ(郡是製糸株式会社)は但馬各地の製糸場を合併して、「日本のグンゼ」に発展していました。大正7(1918)年、養父製糸場は「グンゼ養父工場」として新たに出発することになりました。(「まちの文化財(148)グンゼ八鹿工場」養父市教育委員会編)

円山川の堤防の下に、更地になった広い空き地がありました。ここに、グンゼ養父工場があったと思われます。

その先、10mぐらい歩くと、左側に「西念寺」の石柱がありました。元治元(1864)年に起きた蛤御門の変の後、7月から翌年の4月まで、長州藩の桂小五郎(後の木戸孝允)が新撰組の目を逃れるため、ここ西念寺に移り、寺男に身をやつして潜伏していたと伝えられています。

西念寺の参道を歩いて進みます。左側にある鐘楼の手前に「木戸孝允公潜伏遺跡」の碑が建っていました。「元治元年蛤門の変 出石藩入り潜伏 時々墓吏・・(以下略)」と書かれています。

街道に戻り、先に進みます。左側の看板に「鯉料理 旅館 柏屋」と書かれていました。鯉の養殖が盛んであった養父市場では、「参勤交代の大名が宿泊する宿場町として栄える中で、鯉の洗いや鯉こくなどを郷土料理として振る舞い、むっちりと締まった身が美味と喜ばれてきた」と、いただいたマップには書かれていました。

鯉の養殖をしておられるお宅がありましたので、養殖池を覗かせていただきました。黒い鯉が泳いでいました。「養父市場の鯉の養殖は江戸時代頃に始まったといわれる。町筋につくられた水路に円山川から豊かな水を引いて、養蚕に最適の環境を整え、鯉の大好物である「さなぎ」を豊かにつくることができたため、最初は食用の黒い鯉が養殖されていた」そうです。また、「現在、全国に普及している黒の混じった黒ダイヤ系の品種は、すべてこの地でつくられたもの」ということです(旧街道にあった「説明」より)。

旧街道には通りの両側に、清水が流れる水路がつくられています。民家の前では、水路から清水を庭に引き込むことができるようになっています。そこから入った清水は塀の中の池に溜められて、鯉が飼育されていました。、

そんな池が今も残っていて、錦鯉を飼育しているお宅もありました。

その先の左側に、「錦鯉」の養殖をしておられるお宅がありました。旧街道にあった「説明」には、「錦鯉は昭和12(1937)年、13(1938)年頃に、新潟県から移入した。戦時中衰えたが、戦後に復活して盛んになった」と書かれていました。

この写真は、マップに「旧陣屋屋敷」と書かれていた写真を撮影したものです。江戸時代、豊岡藩や村岡藩、因幡国の諸藩が参勤交代の途中で宿泊した本陣跡で、「かつての造り酒屋」とも紹介されていました。また、『旧陣屋屋敷』には、殿様が宿泊された上座といわれる一段高い座敷造りや、床の間の壁が回転して逃れ部屋へと抜ける細工が残されている」とも書かれています。

錦鯉の養殖をしておられたお宅をふり返って撮影しました。江戸時代に参勤交代の大名が宿泊した本陣であった「旧陣屋屋敷」は、このお宅だと思いました。写真にはなかった正面の門や塀が新たに設けられているなど改修が進んでいたので確定はできませんが、母屋の虫籠窓の形や配置が、写真とよく似た造りになっていたからです。

これは、上の写真のお宅のお隣にあったお宅でした。正面の左側の構造や植木が、「陣屋屋敷」の「マップ」の写真とよく似た造りになっています。しかし、建物の2階部分の構造や窓の形は、「旧陣屋屋敷」の建物とは異なっていました。はやり、先ほどのお宅が「旧陣屋屋敷」だったようです。

その隣のお宅です。「マップ」の「重厚な表情を持つ家並み」の紹介に使われたお宅です。「マップ」の写真と同じ形状でした。かつての雰囲気を最もよく残しているお宅でした。

少し引き返して、錦鯉の養殖をおられたお宅まで戻り、旧街道の向かいの三差路にある建物を撮影しました。近くに「全但バス コミセンやぶ前」のバス停がありました。「コミセン」は「コミュニティセンター」を略したもののようです。「コミセンやぶ」の建物は、明治22(1889)年に発足した養父市場村の役場が置かれていたところに建てられています。なお、養父市場村は、昭和15(1940)年に養父郡養父町になりました。

バス停のそばに、周囲を鉄骨で囲われた四角柱の石碑がありました。石碑の3面に「従是北出石領」と書かれています。江戸時代、出石藩が建てた領境を示す領境石です。もともとは、「御分杭(ごぶんくい)」といわれ「杭」であったのが、延享4(1747)年から石柱になったと、出石藩の文書に書かれているそうです。出石藩の領地である養父市場と、生野代官所が支配する幕府領の堀畑村(養父駅もここにあります)との境界に出石藩によって建てたものです。1辺25cm、高さ170cmで、彫られた文字は21cm四角だそうです。下から1mのところで折れているため、安全のために鉄骨で支えているとのことでした。

旧街道をさらに進みます。左側にあった「但馬牛 黒毛和牛 平山牛舗」。「マップ」に、「松阪牛・神戸牛などのブランド牛の素牛である但馬牛(ぎゅう)などを取り扱うお肉やさん。但馬牛のお肉の取扱高は但馬地域でも有数との人気ぶり! 確かな目で厳選されたお肉をおみやげにどうぞ」と書かれている人気店でした。 駐車場の一角には、先に書いた「錦鯉」に関する説明板がありました。

旧街道にあった下水道のマンホールの蓋です。ここにも鯉が使われています。

旧街道をさらに進みます。緩やかにカーブした通りの先に「全但バス 大藪口バス停」がありました。右折して、円山川に架かる大藪橋をめざします。第七町浦踏切でJR山陰本線を超えて進むと、大藪橋があります。

大藪橋からふり返って見た、旧街道のあたりの光景です。養父駅は、明治41(1908)年、養父駅・八鹿駅間が延伸開業したときに開業しました。当初は「大藪橋の南に設置される計画だったが、用地が確保できなかったので、現在の地に設置されることになった」(「まちの文化財(46) 養父駅開業100周年」養父市教育委員会)といわれています。当初の計画にあった「大藪橋の南」はどのあたりか確認したかったのです。お一人で散歩をされている方がいらっしゃいましたので、お尋ねしました。「場所はわかりませんが、南は、円山川の上流側ですよ」といわれました。写真の左側の辺りに計画されていたようです。

旧街道に戻りました。建て替えられた民家もありましたが、旧街道沿いにはうだつのある民家がまだ残っています。格子や化粧壁のある、平入りのお宅が点在していました。

その先で、旧街道はJR山陰線と並行して進むようになりました。この日めざした養父神社が近づいてきました。養父市場のある但馬地方では、長命で、繁殖力も強い但馬牛(たじまうし)の飼育が、古くから行われていました。農耕や輸送に使う役牛としてだけではなく、食用牛としても人気が高く、養父市場や湯村市場の牛市で取引され、近畿地方の各地へ売られていました。養父市場で開かれた牛市は、中世には、養父神社の祭礼日に、境内で開かれていたそうです。

養父市場の集落が途切れたところに「養父神社」の石碑がありました。崇神天皇30年に鎮座したと伝えられ、「延喜式神名帳」に「明神大社」と記載されている式内社として知られています。「養父の明神さん」と呼ばれ、「農業の神」として多くの信仰を集める神社です。

鳥居をくぐって社殿へ向かいます。中世、養父神社の祭礼日だけに行われていた牛市は、後に町中での取引に発展し、さらに和泉や紀伊地方へも行商に赴いていたといわれています。 現在は、通って来た大藪地区で、牛のせり市が開かれているそうです。

社殿は、応永30(1428)年の建立といわれています。円山川を見下ろす山の中腹に鎮座していました。           

JR山陰本線の養父駅のレトロな駅舎を訪ねてやって来た養父市場でしたが、但馬牛の牛市や、参勤交代の宿場町、郷土料理の鯉料理など、見どころの多い町でした。歴史ある町並みをのんびり散策することができました。 いい一日になりました。





JR山陰本線のレトロ駅、養父駅

2019年03月25日 | 日記

JR山陰本線の養父駅です。JR山陰本線は、京都駅と山口県下関市の幡生駅間を、日本海側を経由して結んでいます。昭和8(1933)年に、最後まで残っていた須佐駅と宇田郷駅間が延伸開業して、正明市駅(しょうみょういち駅・現在の長門市駅)と仙崎駅間の支線を含めて全線が「山陰本線」となりました。山陰本線には、その長い歴史を伝える開業当時からのレトロな駅舎が残っています。今回は、そんな駅の一つ、JR養父(やぶ)駅を訪ねて来ました。

JR姫路駅からJR播但線の列車で、山陰本線の和田山駅に着きました。そこで、福知山駅からやって来た豊岡駅行きの列車に乗り継ぎました。113系の2両編成、ワンマン運転の列車でした。

和田山駅から5分ぐらいで、次の駅である養父駅の1面2線のホームに着きました。下車しましたが、行き違いのため、列車は停車したままでした。養父駅は、兵庫県養父市堀畑にあります。和田山駅から5.2km、次の八鹿(ようか)駅まで7.0kmのところにありました。

到着してから4分ぐらいで、行き違い列車である、新大阪駅行きの”特急こうのとり14号”が通過して行きました。「養父」という駅名から、どうしても連想してしまうのは、「藪(やぶ)医者」ということばです。江戸時代の俳人、松尾芭蕉の門弟の森川許六(きょろく)が編纂した「風俗文選」の中には、次のような一節があるそうです。
「ある名医が養父に住み、土地の人々の治療を行っていたが、死にそうな病人を治すほどの名医だった。その評判を聞いて多くの医師の卵が養父の名医の弟子となったという。こうして、『養父の名医の弟子』といえば、病人もその家族も信頼し、薬の効果も大きかったという。『養父医者』は名医の代名詞となり、『自分は養父の名医の弟子』」と自称する医師が続出し、いつしか「藪医者」ということばが広がり、ヘタな医者を意味するようになった。」
「養父医者」ということばは、本来は、「養父の名医」を表すことばでしたが、それを悪用する人が出てきたため、「下手な医者」「藪医者」を意味するようになっていったようです。(「藪医者の語源は、養父の名医」養父市健康福祉部保健医療課)

ホームにあった木造の上屋が見えました。壁に掲示しているように、大阪方面行きが1番ホーム、豊岡駅方面行きが2番ホームを使用しています。特急列車の通過も多い駅ですが、1線スルーにはなっていないようです。

上屋の中に設けられていた待合室です。四面ともにガラス張りのつくりになっています。

写真は、待合室の内部です。つくりつけのベンチがあるだけのシンプルなつくりでした。ゴミ一つない清潔な待合室でした。

養父駅が開業したのは、明治41(1908)年7月1日、官設鉄道が和田山駅・八鹿駅間を延伸開業させたときでした。当時、福知山駅と和田山駅間はまだ開業していなかったので、和田山駅から姫路駅(現在の播但線)経由で大阪とつながっていたそうです。そのため、開業の翌年、線路名称が制定された時には播但線の駅になっていました(ちなみに、和田山駅・姫路駅間は、明治39(1906)年に開業しています)。 福知山駅・和田山駅間が開業したのは、明治44(1901)年。養父駅が播但線から山陰本線の駅になったのは、明治45(1912)年3月1日のことでした。養父駅は、開業から111年目を迎えています。待合室のある上屋の和田山駅側の柱に「建物財産標」がありました。「旅客上屋1号 昭和24年3月」と記されていました。上屋が設置されてからでも、すでに70年が経過しています。

長いホームを和田山駅方面の端に向かって歩きます。和田山方面に向かう列車が走る線路の左側に側線がありました。

豊岡駅方面に向かって引き返します。ふり返ると、先ほどの側線の車止めがありました。かつては、このスペースに2本の側線があったそうです。側線の外側のスペースの先には自転車の駐輪場がつくられていました。ここは、貨物の積み降ろしをしていたところで、駐輪場のあるところは、貨物の倉庫が建っていたところだったそうです。

養父駅は駅舎からホームの移動には、跨線橋を利用するようになっています。ここは跨線橋への出入口です。

跨線橋の出入口からさらに豊岡駅方面に進むと、ホームの端になります。そこから、駅舎と駅舎前の跨線橋を撮影しました。柵の上の跨線橋にプレートがありました。「養父駅こ線橋 設計 福知山鉄道管理局 着工 昭和55年11月20日 しゅん功 昭和56年3月19日」と、プレートに刻まれていました。昭和56(1981)年の竣工以前は、構内踏切で線路を横断していたようです。

跨線橋を渡って駅舎前に降りました。駅舎には、開業時からのつくりつけの長い木製のベンチが残っています。中央の改札口から、緑にペイントされた駅舎内に入ります。

駅舎に入った右側に、木製の棚や窓口の木の枠が懐かしい出札窓口がありました。木枠の中にあるガラスを上下させて、出札業務が行われていました。駅舎内の風景も、開業時のままの姿を残しています。傍らに「JR西日本乗車券発売所 営業時間 6:30~14:30」という掲示がありました。養父駅は昭和59(1984)年から、窓口業務だけを委託する「簡易委託駅」になり、養父市が受託しているそうです。この日は、高齢の男性が業務に就いておられました。

窓口の棚を支える金属製の装飾です。2つの窓口のうち片側だけに残っていました。これも、開業時からのものだそうです。

待合いのスペースです。木製の2脚のベンチが設置されていました。駅舎内の写真を撮っていたら、業務に就いておられた駅スタッフの方が、声をかけてくださいました。JRにお勤めだったといわれるスタッフの方から、養父駅に関するお話をお聞きすることができました。

駅舎から線路方向の光景です。今は進入禁止で柵が設置されていましたが、ホームに向かう構内踏切がありました。かつて、昭和天皇がこの駅においでになったとき、ここを歩いて駅舎に入られたそうです。

駅舎から跨線橋の付近に出ました。ホームの豊岡方面の端です。駅名標示や構内踏切に降りていくスロープも見えました。「もともとのホームは石垣の部分。乗客の安全のために嵩上げされた」とのことでした。

跨線橋の出口から見た豊岡方面です。右側の白い建物はトイレです。トイレの前のコンクリートのたたきのところで、「ポイントの切り替えを手動で行っていた」そうです。

トイレの向こうの駅舎前の庇も「開業当初からあった」とのことでした。

駅舎から駅前広場に出ました。明治41(1908)年に開業したときにつくられた駅舎です。寄棟造りの瓦葺きの駅舎です。雪国の駅らしく、屋根に雪止めがつくられていました。2機の自動販売機の間が出入口です。駅舎の外には庇がつくられており、自動販売機やベンチが設置されていました。

白い自動販売機の脇の出入口の柱に、「建物財産標」がありました。「建物財産標 本屋1号(駅本屋)明治41年3月」と記されていました。養父駅のある養父市は、平成16(2004)年、養父郡内の4町(八鹿町・養父町・大屋町・関宮町)が合併して成立しました。養父駅のあるあたりは、合併前の養父郡養父町で、町の中心は、養父駅から豊岡駅方面に向かって2kmぐらい離れた養父市場付近にありました。計画では、養父市場に駅を設置することになっていましたが、用地の確保が難しく、現在地に設置されたそうです。鉄道が通ると蒸気機関車の煙で洗濯物が汚れる、騒音でうるさいなど、安穏な生活に支障が出ることを恐れたのではないかといわれています。堀畑地区では、地元にあった御所森神社を移設して駅を建設したといわれています。駅名の中に「養父市場」が残っています。 

窓には、たくさんのガラスが使用されています。開業当時、ガラスは大変な貴重品だったそうです。駅舎の前には庭園が整備されていました。手入れも行き届いていてきれいでした。山陰本線は、円山川に沿って敷設されています。そのため、洪水対策として水田から3m高く土を盛り上げて線路を敷設していったそうです。そのための土砂は、堀畑地区の2ヶ所からトロッコで運ばれたと伝えられています。

駅舎の外側にあった毛筆の駅名標です。長い歴史を感じます。

駅舎の瓦にあった文様です。どんないわれがあるのでしょうか。

駅舎に向かって左側(和田山側)にあった自転車駐輪場と駐車場です。養父駅はかつて貨物の取扱いが盛んでした。旧養父町の中心、養父市場では、但馬牛の牛市が開かれていました。「その牛市で買われた子牛が一度に貨車50台に積み込まれていた」ということです。また、「日曹鉱業株式会社は、加保鉱山の鉱石を運搬する専用貨物ホームを、昭和15(1940)年に建設した」そうです。鉱石の輸送では、山中鉱山、明延(あけのべ)鉱山、十二所鉱山なども養父駅から積み出していたそうです。また、地元産の木炭の出荷基地にもなっていたといわれています(養父市教育委員会「まちの文化財(46)養父駅開業100周年」)。隆盛を誇った貨物輸送も、モータリゼーションの発達により、昭和45(1970)年、廃止となりました。

駅前広場の先に、旧街道の面影が残る通りがありました。線路の敷設のとき、3mの盛り土をしたため「表側から見ると2階建てですが、裏側から見ると3階建てになっていますよ」と、駅のスタッフの方はおっしゃっていました。

家並みの裏側のようすです。右の石垣の上に旧街道や駅前広場があります。石垣の手前に1階部分がつくられていて3階建ての建物になっています。

駅から養父市場方面に向かって下り坂の旧街道を10分ほど歩いたあたりの山陰線です。3mの盛り土をしたことがよくわかります。

開業当時の面影が残るJR山陰線養父駅を訪ねてきました。
駅スタッフの方のお話しと養父市教育委員会が制作された「まちの文化財(46)養父駅開業100周年」が大変参考になりました。