前回、外国からのツーリストの人たちに安全な旅をするために必要な情報を、英語その他の言語で提供する努力がなされている。そして、そのことがアイスランドの社会を根底から変えるような動きと結びついている、というようなことを書きました。
今回はその点に関してもう少し書いてみたいと思います。
今から十年ほど前のアイスランドは、バブル景気を楽しむ「金融立国」志向の小国でした。2008年秋にそのバブル景気は文字通りの「あぶく銭」のように消え、国家破綻規模の経済危機となりました。
その危機を乗り越えるための起死回生の切り札が観光でした。アイスランドクローナが脆弱したことを逆手にとって、外国からの観光客を「安い」ツアーに呼び込んだわけです。
どこまでが企んだもので、どこまでが自然発生的なものだったのかは定かではありませんが、結果、アイスランド経済は生き返り、観光業は現在のアイスランドを支える経済分野となっています。
今、私がダウンタウンのお店へ入ると100%英語で対応してきます。アジアからの観光客と思うのでしょう。それは別に構いません。お店の人にとっては確率的に言っても、英語で話しかけたほうが確かでしょうから。
ただ少し問題だと思うのはそれが「当たり前だ」というようにアイスランド人が考え始めている「ように見える」ことです。
二十数年前、私がアイスランドで働き始めた頃は、「アイスランドではアイスランド語をしゃべりなさい」と言われるのが常でした。「話せないから英語で話してるんだろ」とかなり頭にきたことが何度もあります。
「アイスランドはアイスランド語があるから存在しているのだ」という「アイスランド語=国民の魂」意識は相当なものがあり、移民からしてみれば行き過ぎたプレッシャーを感じざるを得ませんでした。
例えば当時のRUV(国営放送)にはHrein tungu stefna「明瞭な言語ポリシー」というものがあり、ラジオ、テレビを問わず「きれいで正しいアイスランドが話されなくてはならない」とされていました。(このポリシーは今でもあるはずですが、それほど杓子定規には用いられなくなっています)
当然、移民などはテレビやラジオに登場する機会が非常に限られます。ということは、移民が自分の側からの意見を直接表明する機会が削られていることになります。
で、2000年に牧師として「特定の言語能力で人の価値まで判断するようになれば、それは偶像崇拝と同じだ」ということを、同僚の助けを借りて「きちんとしたアイスランド語で」新聞に投稿しました。
これはかなり反響を呼び、それ以来「移民とアイスランド語」を巡って、相当な議論を繰り返すことになりました。
私を嫌う人の中には(大勢いますが)、私はアイスランド語の価値を認めておらず「英語をアイスランドの公用語にするように煽っている」などと非難する人もました(います、今でも)。
ですが、実際は私は移民がアイスランド語を勉強するのは当然だと思っていましたし、今でもそう思っています。英語を公用語にしろ、などと言ったことは一度もありませんし、考えたこともありません。
繰り返して言ってきたことは、もう勉強できないような高齢の人や、学んでいる途中の人も多いわけで、過度な要求やアイスランド語の能力だけで人の価値を測るな、ということでした。
その延長で、新聞の一部に、英語でその日のニュースのサマリーのようなコーナーを設ければ、移民の人たちへの助けになるだろう、と提案したこともありました。まったく相手にされませんでしたが。
「現代アイスランドでは、母国語が一番の地位を持つべし」「Computer says NO...」
Myndin er ur Snjallskoli.is
ところがです。現在はまさに、その英語によるニュースのサマリーが、モルグンブラウジズ紙のネット版でも、RUVのネットでも、Visirのネットでも設けられているのです。これらは移民のため、というよりはツーリスト向けです。
これらの変化はポジティブな発展だと思いますし、私はこれらの変化そのものに含むところは何もありません。ただ、私が???を付けたいのは、これらの変化の理由なのです。
もしそれらの変化の背後に、マルチカルチュラルな思想と考え、移民への配慮、グローバリゼイションの中でのアイスランド社会のあり方についての指針等があるのなら、それは素晴らしいことだと思います。
しかし、実際は違うのです。これはあくまで私の個人的な評価ですが、変化の背後にあるのは、ただ観光業です。外国人ツーリストが多く入って来るから、これらの変化が現れてきたのです。
もっと単純に言うと、それによって儲かるからです。
私(わたし)的には、この有様は十年前のバブルで浮かれ上がっていた時のアイスランド人の様と、まさしく同じに見えてしまいます。ともかく「目の前の利益」に支配されてしまうのです。
今までの賃貸アパートや他の不動産が、すべてホテル化していることはその事実を別の角度から指し示しています。そのことによる住宅不足が深刻な社会問題になっていることは、国民のひとりひとりが十分に認識しています(まあ、子供は除いて)。でも、そんなのカンケイねえ‼ 儲けたい‼ のです。
この間まで家宝のように扱っていた「アイスランド語=国民の魂」はどこへ行ってしまったのでしょうか?皮肉な話しですが、今は私の方がアイスランド語の将来を案じ始めています。
アイスランド語だけではないですね、案じざるを得ないのは。アイスランド語の能力で人を推し量っていたのが、今度は財布の大きさで推しはかり始めたのなら、それって、大きなため息もんです。ふ〜...
応援します、若い力。Meet Iceland
藤間/Tomaへのコンタクトは:nishimachihitori @gmail.com
Home Page: www.toma.is
今回はその点に関してもう少し書いてみたいと思います。
今から十年ほど前のアイスランドは、バブル景気を楽しむ「金融立国」志向の小国でした。2008年秋にそのバブル景気は文字通りの「あぶく銭」のように消え、国家破綻規模の経済危機となりました。
その危機を乗り越えるための起死回生の切り札が観光でした。アイスランドクローナが脆弱したことを逆手にとって、外国からの観光客を「安い」ツアーに呼び込んだわけです。
どこまでが企んだもので、どこまでが自然発生的なものだったのかは定かではありませんが、結果、アイスランド経済は生き返り、観光業は現在のアイスランドを支える経済分野となっています。
今、私がダウンタウンのお店へ入ると100%英語で対応してきます。アジアからの観光客と思うのでしょう。それは別に構いません。お店の人にとっては確率的に言っても、英語で話しかけたほうが確かでしょうから。
ただ少し問題だと思うのはそれが「当たり前だ」というようにアイスランド人が考え始めている「ように見える」ことです。
二十数年前、私がアイスランドで働き始めた頃は、「アイスランドではアイスランド語をしゃべりなさい」と言われるのが常でした。「話せないから英語で話してるんだろ」とかなり頭にきたことが何度もあります。
「アイスランドはアイスランド語があるから存在しているのだ」という「アイスランド語=国民の魂」意識は相当なものがあり、移民からしてみれば行き過ぎたプレッシャーを感じざるを得ませんでした。
例えば当時のRUV(国営放送)にはHrein tungu stefna「明瞭な言語ポリシー」というものがあり、ラジオ、テレビを問わず「きれいで正しいアイスランドが話されなくてはならない」とされていました。(このポリシーは今でもあるはずですが、それほど杓子定規には用いられなくなっています)
当然、移民などはテレビやラジオに登場する機会が非常に限られます。ということは、移民が自分の側からの意見を直接表明する機会が削られていることになります。
で、2000年に牧師として「特定の言語能力で人の価値まで判断するようになれば、それは偶像崇拝と同じだ」ということを、同僚の助けを借りて「きちんとしたアイスランド語で」新聞に投稿しました。
これはかなり反響を呼び、それ以来「移民とアイスランド語」を巡って、相当な議論を繰り返すことになりました。
私を嫌う人の中には(大勢いますが)、私はアイスランド語の価値を認めておらず「英語をアイスランドの公用語にするように煽っている」などと非難する人もました(います、今でも)。
ですが、実際は私は移民がアイスランド語を勉強するのは当然だと思っていましたし、今でもそう思っています。英語を公用語にしろ、などと言ったことは一度もありませんし、考えたこともありません。
繰り返して言ってきたことは、もう勉強できないような高齢の人や、学んでいる途中の人も多いわけで、過度な要求やアイスランド語の能力だけで人の価値を測るな、ということでした。
その延長で、新聞の一部に、英語でその日のニュースのサマリーのようなコーナーを設ければ、移民の人たちへの助けになるだろう、と提案したこともありました。まったく相手にされませんでしたが。
「現代アイスランドでは、母国語が一番の地位を持つべし」「Computer says NO...」
Myndin er ur Snjallskoli.is
ところがです。現在はまさに、その英語によるニュースのサマリーが、モルグンブラウジズ紙のネット版でも、RUVのネットでも、Visirのネットでも設けられているのです。これらは移民のため、というよりはツーリスト向けです。
これらの変化はポジティブな発展だと思いますし、私はこれらの変化そのものに含むところは何もありません。ただ、私が???を付けたいのは、これらの変化の理由なのです。
もしそれらの変化の背後に、マルチカルチュラルな思想と考え、移民への配慮、グローバリゼイションの中でのアイスランド社会のあり方についての指針等があるのなら、それは素晴らしいことだと思います。
しかし、実際は違うのです。これはあくまで私の個人的な評価ですが、変化の背後にあるのは、ただ観光業です。外国人ツーリストが多く入って来るから、これらの変化が現れてきたのです。
もっと単純に言うと、それによって儲かるからです。
私(わたし)的には、この有様は十年前のバブルで浮かれ上がっていた時のアイスランド人の様と、まさしく同じに見えてしまいます。ともかく「目の前の利益」に支配されてしまうのです。
今までの賃貸アパートや他の不動産が、すべてホテル化していることはその事実を別の角度から指し示しています。そのことによる住宅不足が深刻な社会問題になっていることは、国民のひとりひとりが十分に認識しています(まあ、子供は除いて)。でも、そんなのカンケイねえ‼ 儲けたい‼ のです。
この間まで家宝のように扱っていた「アイスランド語=国民の魂」はどこへ行ってしまったのでしょうか?皮肉な話しですが、今は私の方がアイスランド語の将来を案じ始めています。
アイスランド語だけではないですね、案じざるを得ないのは。アイスランド語の能力で人を推し量っていたのが、今度は財布の大きさで推しはかり始めたのなら、それって、大きなため息もんです。ふ〜...
応援します、若い力。Meet Iceland
藤間/Tomaへのコンタクトは:nishimachihitori @gmail.com
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「民泊」については日本のテレビでの扱いを見た記憶があります。ホテル等の商業宿が足りないのをカバーするのと、日本の人たちとオリンピック観光の人たちの触れ合いを促進するのが目的、とか謳われていたような。
で、実際にその民泊的なことをすでにされている方たちが、どのようなトラブルがあり得るかを話していたと記憶しています。
新しい試みにトラブルがつきまとうのは、ある意味当然だと思いますし、結果として良いものが現れてくることを願います。
でも、オリンピック、もうすぐなんですね。