雑賀衆・雑賀三緘について

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先祖 雑賀衆・雑賀三緘(サンカン)について(四回) 雑賀家譜

2011-11-20 20:21:41 | 調査
本題に入る前に、亡き祖母の雑賀家の家譜に記載ある「雑賀三緘(サンカン)」についいての内容を皆様にお伝えいたします。
下記がそうです。

「 一 元祖 本国 紀伊 雑賀小蜜茶三緘
生国 紀伊
遠祖ハ武内宿祢二十代之末孫蔵人丞
紀忠賀ト申者、紀伊国雑賀之店(庄)ニ住居仕候
故、初而雑賀ト苗字ト仕候、年号不承知、右
遠祖紀伊忠賀ヨリ元祖雑賀三緘迄十五
代之間、雑賀郷之領知仕、代々於所々
軍功有之由、然ル処雑賀三緘、天正之比
摂州伊丹城ニ而、荒木摂津守村重ノ
味方ニ而、織田信長公ノ勢多数討取、軍功
有、又村重落去後、荒木摂津守ニ加
勢仕、花隈城ニ雑賀勢三百人ヲ召連
籠城仕、寄手池田勢ヲ討取ル、其後
雑賀孫市ニ被頼、大坂本願寺顕如
上人ノ味方仕、高名・武功多有之、其後天正十二年
権現様秀吉公小牧御陣之節
権現様之御味方仕、雑賀・太田等ヲ召連、
泉州岸和田中村孫平次ヲ追落シ、堺迄
出、豊臣家之留守攻討候由、且雑賀
三緘、根来寺ヘ登山之節ハ杉之坊ニ
相詰候付、世人根来之小蜜茶ト申候由、
根来落去、已後ハ桑山果報院ニ陪雑賀之
庄田尻村代々居住仕候、尤同所安置仕候大日
如来之仏像ハ三緘建立仕候由、申伝ヘ候、寺号
覚王寺ト申候、其外什物・記録等焼失・紛失仕候 」
とあり(原本は縦書です)。
これが、私が「雑賀三緘」を調査するきっかけです。現在でも「田尻」はあり、そこに「覚王寺」もあり
大日如来像も祀られています(確認済:三田郷土誌)

「後太平記」に雑賀三緘が記載されている箇所は前記したが、「中古日本治乱記」に記載ある箇所は下記です。
・「中古日本治乱記」 :「将軍方所々蜂起之事」 巻第五十五
「将軍義昭卿既ニ備後国ニ下向有テ・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・省略・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
雑賀三緘入道鱸孫市的場源七郎ハ一揆一万人ヲ卒シ
和泉千石ニ城門跡・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」 である。

しかし、この「後太平記」・「中古日本治乱記」は信憑性がないようで、又、亡き祖母の雑賀家譜の記載内容も
藩に仕官するために書かれたので真偽のほどは?とのことなので、暇にまかせ私自身が調査することに
なった次第です。
次回はこの「後太平記」「中古日本治乱記」に信憑性が高く歴史的価値があるといわれている太田牛一著「信長公記」
での同一記載事案を拾い出し比較検証(無謀かな?)をした内容について報告して参ります。

・・・・・・・・・・・・続く・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・















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