雑賀衆・雑賀三緘について

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先祖 雑賀衆・雑賀三緘(サンカン)について(八回):将軍摂州御發向之事附一向門跡一揆之事

2011-12-18 19:56:39 | 調査・報告
今回の検証で「後太平記」に「雑賀三緘(カン)」が記載されている。

「後太平記」:将軍摂州御発向之事附一向門跡一揆之事: 地部巻第40
「中古日本治乱記」:野田福島合戦付宇佐山軍(事):巻第53
「信長公記」:野田福島御陣の事:巻3)

◎野田福島砦の攻略「織田信長のすべて」岡本良一編 新人物往来社刊によれば
「姉川の合戦後、信長が岐阜に帰城すると、これを見計らっていた三好三人衆は七月二十一日に、摂津中島に進出し、
野田福島に砦を築いてこれに拠り、浅井長政・浅倉義景・本願寺顕如と内応しつつ再び反信長の兵を挙げた。事態
を重視した信長は八月廿日に至って出陣し、一両日横山、廿二長光寺に宿泊したのち、二十三日に、上京の本願寺
に到着した。そして二十五日、淀川を越えて河内枚方に出撃し、翌廿六日、摂津天王寺に本陣を設け野田福島両砦
に迫った。
やがて九月三日、将軍義昭は摂津中島に着陣し、将軍親征の建前が成立すると、信長は斎藤新五・稲葉一鉄・中川
重政らを桜岸、川口の砦に平手監物・佐々成政等を配したうえで石山本願寺近辺の江堀をうめ、敵の前方に土手を
築いて櫓を上げ、鉄砲を以って野田・福島砦と本願寺に攻撃を加えた。浅井・朝倉勢が廿日宇佐山を攻略して織田
信治・森可成らの城将を殺害し、更に廿一日には山城山科醍醐方面に放火して京都に向かって快進撃をしている
との情報を得るに至って廿三日、野田・福島砦を落とせないまま、義昭ともども帰京するにいたる」とあり。

其れでは上記の事案3件を見てみよう。

「後太平記」:「六条本国寺にて討申され泄されたる三好一族、今年蘇軍を發し、摂津ノ国野田福島に城を構へ蜂起と
聞えしかば、織田上総介ノ信長馳せ向ひ、数日合戦に及ぶと雖も敵嘗てひるまず、剰さへ一向門跡
謀叛を企て、国々の門徒を進め、夥しく一揆蜂起し、信長前後に敵を請け、難儀に及ぶ由注進急なれば、
急ぎ御旗を向けらるべき議定決し九月三日、京師を打立ち給ふ、供奉の人々には、上野中務大輔、
同佐渡ノ守、大館治部ノ大輔、京極近江ノ守、三淵大和ノ守、野瀬丹波ノ守、飯川山城ノ守、和田伊賀ノ守、
・・・・・・・・省略・・・・・其勢都(スベ)て七千餘騎、摂津の中島陣取り餘給ひ、兇徒退治の軍慮急り也、
斯る処に紀伊ノ国の住民雑賀孫市郎、雑賀三緘入道、岡崎三郎大夫、渡辺藤左衛門ノ尉、的場源七、土橋
平次、根室法師、岩室清裕、各一万餘騎にて馳せ参る、此者共初めは門跡一揆に手合しぬと聞えしか
共、今は早速に味方に参るこそ幸ひなれ、信長五万餘騎に牒じ合せ、野田福島の城八層に圍み攻動し、
已に民屋商家を屠集め、一重の堀を埋めて、一刻に攻め落すべしと下知急也、然りと雖も門跡一揆
大勢に成って、其後を討たんと憤りしかば、急ぎ桜が岸川口森口に属け城を築いて、諸国より馳せ集まる
門徒を防ぎ、糧の通路を差塞がんと、其用意夥し、これに因て海路は出船入船を留め、陸地は往来の旅人
通路忽ちに断にけり、一揆気に咽び九月十四日、六千餘騎にて森口に討出て、佐々内蔵助相守る処の付城
焼落さんと働き、或は時々刈田して糧を求む、佐々も度々合戦に及び、即時勝利を得、僧俗二百餘人討取り、
皆獄門にぞ掛けにける」

「中古日本治乱記」:「信長ハ江州ノ合戦ニ討勝テ暫ク休息シ玉ヒケル処ニ同年ノ八月三好山城守康長入道笑岩同日向守定康等
摂州ニ蜂起シテ野田福島ノ要害ニ楯籠リ又嶋福ノ城ニハ安宅甚太郎一倍ヲコメ置国中掠テ犯スノミナラス京都ノ
将軍足利義昭ヲ窺フヨシ岐阜ニ告来リシカハ信長安カラヌ事ナリトテ大事ヲ引率シテ摂州ニ馳ヒ両城ヲ囲セメケル城兵
モ稠ク防テ城落サリシ
同九月ニハ将軍義昭モ京都ヲ御進發有テ摂州中島ニイタリ玉ヘハ信長ハ天満森ニ陣ス斯ル処ニ根来寺雑賀ノ輩
信長ニ馳加リテ同ク野田福島ヲ責タリケル爰ニ大坂ノ本願寺門跡光佐顕如三好等語ヒ野田福島ノ後詰トシテ門徒
ノ僧ハ申スニ及ハス壇越ノ( )越ノ輩数一千人ヲ相伴森口辺ニ出張ス信長被事ヲ聞テ佐々内蔵助成正福冨平左衛
門尉正之等数一千人兵ヲ差ソヘテ森口ニ越メ門跡ノ兵ト合戦ス信長ノ先陣野村越中守清友深入シテ討レシカハ
敵兵勝ニ乗テアラソヒ攻ル信長方・・・・・・・・・・・・・省略・・・・・・・・・・
宇佐山ノ城主森三左衛門尉可成待迎テ合戦スル事数刻ナリシカ共多勢ニ無勢叶ハスシテ可成ステニ討死シケリ信長ノ
舎弟織田九郎信治並ニ・・・・・・・・・・・・・・・省略・・・・・・・・・・・・・・・
其後浅井朝倉ノ両勢宇佐山ノ城ヲ攻大津ヲ焼ハラヒ醍醐山科ノ辺ニモ火ヲ挙タリケルカ既ニ京都ニセメ入ヘシト相議スヨシ
・・・・・・・・・省略・・・・・・・・・・・・
同二十三日信長将軍義昭共ニ( )洛シ玉ヒケルカ斯ル折ヲ得テ三好軍ノ輩若慕事モヤアラントテ和田伊賀守義純柴田
修理亮勝家後陣ニ打テ敵打出ハ一合戦セント・・・・省略・・・・・・・・・・・・帰洛シケリ

「信長公記」:「八月廿日、南方表御出勢、其の日は横山に、御陣を懸けさせられ、次の日、御逗留、二十二日、長光寺御泊り。
・・・・・省略・・・・・・、二十六日、御敵楯籠もる野田福島へ成るる。・・・・・・・・・・・省略・・・・・・・・・
御敵、南方諸牢人大将分の事、細川六郎殿、三好日向守、三好山城守、安宅、十河、篠原、岩成、松山、香西、
三好為三、龍興、長井隼人、此の如き衆八千ばかり野田福島に楯籠りこれある由に候。・・・・省略・・・・
九月三日、摂津国中島、細川典厩城まで、公方様御動座。大坂十町ばかり西に、ろうの岸と云う所、御取出に
仰せ付けらる。斎藤新五、稲葉伊予、中川八郎右衛門両三人入れおかる。並びに、大坂の川向いに川口と申す
在所候を、是れ又、拵ヘ平手監物、平手陣左衛門、長谷川与次、水野監物、佐々蔵介、塚本小大膳、丹羽源六・・・
九月九日、信長公、天満ケ森へ御大将陣を寄させられ、次の日、諸手より、うめ草をよせ御敵城近辺にこれある
江堀を填めさせられ、九月十二日、野田福島の十町ばかり北へ、えび江と申す在所候。
・・・・・・省略・・・・・・・・・・・・・・・・・
九月十三日夜中に手を出し、ろうの岸・川口両所の御取出(砦)へ大坂より鉄砲を打ち入れ、一揆蜂起候と雖も、
異なる子細なく候。翌十四日に大坂より天満ケ森へ人数出だして、即ち懸り合い、川を越し、かすが井堤通り
中筋を前田又左衛門かかり合い右手は弓にて申野又兵衛、左は野村越中・湯浅甚介・毛利河内・・・省略・・・・
其の時、金松申す様に、某は手伝ひにて候間。河内に頸を取り候へと申し、僉儀にて、あたら頸一つ取らずして
罷り退かる。茲に野村越中討死なり。

等々であるが詳細は画面上の制約もあり省略をした箇所があることは御了承願いたい。

これとは別に「後太平記評判」というのがあり、「後太平記」を論評していて、「後太平記」を補完している。それは下記の通り。

「後太平記評判」:将軍摂州御發向ノ事(巻之52目録)
「其ノ比、三好日向ノ守同備中ノ守笑岩斎其外残党三千余奇ニテ摂津ノ国野田ノ城ニ籠、同所福嶋ノ城ニハ細川六郎同右馬ノ
頭安宅甚太郎前ノ美濃ノ守右兵衛ノ大夫龍興長井隼人ノ佐ヲ始メトシ其勢六千余奇ニテ楯籠。・・・・・・・・省略・・・・・・・・・・
九月三日京都ヲ雷發シケル細川右馬ノ頭ガ中嶋ノ城ヲ開去テ福島ノ城ニ楯籠コソ幸ナレトテ軈テ入城御座シ信長今ハ飛龍乗雲ノ気ヲ
得テ平手監物・同舎弟左衛門ノ尉・水野監物・佐々木内蔵ノ助・長谷川與次郎・丹羽源六・高宮右京ノ亮ヲ先蒐トシ、天満ノ
森ニ陣ヲ寄野田福嶋ニ両城ハ堀一重ノ城ナレハ数千ノ民家ヲ屠リ捨昼夜堀ヲ埋テ攻寄タリ。
斯ル処ニ紀伊ノ国ノ住人雑賀孫一・的場源七郎・根来大将巖室清裕勢一万余奇ニテ馳着御方ニ加リケリ。・・・・・・・
同十三日楼岸川口二箇所ニ陣城築テ扣タル処ニ門跡一揆数千余奇城中ヨリ突出散々ニ討負攻動ス事・・・・・・・・・・・
以下省略

この事案三件は三者三様の立場が表されている。「信長公記」はこのあとの「滋賀御陣の事」をも下記足せばよりはっきりと
したかも知れない。「滋賀の御陣の事」には、将軍義昭・信長の帰京、宇佐山の事などが記載されており、今回の事案以外の
ことが記載されている。

◎検証

記載人物で三好方を「後太平記」はサラット書かれているが、一部補完を上記の「後太平記評判」がしている。「中古日本治乱記」
は三好三人衆を、「信長公記」は三好三人衆のほかに加わった武将を詳細に記載しているが、他のと同一人物である。
義昭の京師出立日はそれぞれ同一日(九月三日)である。特に「後太平記」は将軍義昭を支える側近武将たちを詳細に記載し、
加えて援軍の雑賀衆勢の個々の名前も記載されている。この中に亡き祖母の家譜に記載ある「雑賀三緘(カン)」の名前も「雑賀
三緘入道」として記載されているのである。
ここに記載されている中に、天正五年の「小雑賀口の合戦」で「誓紙」に記載されている人物もいるので架空の人物ではない。

「中古日本治乱記」の記載内容、記載人物などは同じだが、記載内容が微妙に「後太平記」とは異なり、秀吉の右筆らしく自陣
の武将の戦状況などを記載している。
「信長公記」は敵陣三好方の参戦武将を詳細に確実に敵情報を把握しており、しっかり情報収集がなされている。面白いのは
上記の通り「後太平記評判」には「後太平記」「中古日本治乱記」にはない、織田方の武将が記載されていることである。
「後太平記評判」の発行年月日が分からないが、「信長公記」を見て追記したのかは分からないが、それぞれお互いに影響し
あっている感じがとれる。

戦術面で、信長方の陣地の配置を詳細に「信長公記」が記載しているのは流石に信長の側近である。

この時点では、雑賀衆は将軍足利義昭・織田信長側についていたが、その後袂を分ち合うことになる。義昭は信長包囲網を
構築し、義昭・石山本願寺対織田信長との壮絶な対立が以降十年間に亘る幕開けである。

・・・・・続く・・・・・・・・・・


































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先祖 雑賀衆・雑賀三緘(サンカン)について(七回) :六条合戦之事

2011-12-11 19:39:29 | 調査・報告
前回「後太平記」「中古日本治乱記」「信長公記」に同一事案で記載されている項目を挙げたが、その事案の調査・検証に
進みたい。
これは当初に述べた通り亡き祖母の家譜に記載ある雑賀衆・雑賀三緘について調査・検証するものである。同時に
この世界では「後太平記」「中古日本治乱記」等は仮作・仮託等々言われ信憑性が低く史料としての価値はないようである。
一方信長の家来である太田牛一が書いた「信長公記」は一級の史料ということである。そのために、「後太平記」「中古日本
治乱記」の戦国時代に限定して信憑性をも検証するものである。

中学高校で歴史を習った後今日まで全然学習していない私が、諸先輩がたに対抗して調査・検証するという大袈裟なも
ではない。唯、子供の頃から祖母等がいっていたことの真実を家譜に記載ある「雑賀三緘」について、自分なりに習慣に囚
われることなく出来る範囲で調査検証してみようと考えたことである。

調査・検証方法は、仮作・仮託といわれる部分をフィルターに掛け削除し諸先輩がたが書かれた本を検証ようとして使用させ
ていただきスクリーニングして、「信長公記」等と比較検証する方法をとった。これがど素人が出来うるベストな調査検証方法と
考えたからにほかならない。諸先輩がたからすればとんでもない調査検証方法といわれることは重々承知のことである。

調査史料・資料は国会図書館をはじめ地元の図書館等に出向き入手。
比較検討事案は事案毎に1シート(A3)に並列で記載(三冊に記載もあれば、二冊に記載のもある)したが、今回は画面の都合
上一部の記載に留めざるをえなかったこと、又、横一列に併記出来ないことをご了承願います。

◎調査本:「後太平記」:「通俗日本全史」早稲田大学出版部、「中古日本治乱記」:国会図書館所蔵
「信長公記」:桑田忠親校注 新人物往来社刊 他

◎調査・検証:

(1)事案:
「後太平記」:六条合戦之事(本圀寺の変) 地部巻第38
・・・・・・・・・三好山城ノ守入道笑岩斎、同下野ノ守入道釣閑、同日向ノ守、岩成主税ノ助を初めとして、一族
餘鐙黨五千餘騎、其外畿内の為卒を招き寄せ、前の美濃の守護斎藤右兵衛大夫龍興、同叔父長井隼人佐
、薬師寺九郎左衛門尉を先掛の大将とし、永禄二十年正月朔日、泉州堺の浦に勢揃して評議しけるは義昭
去る十月征夷大将軍の宣下を下され・・・・・以下省略・・・・・・・・・・・

「中古日本治乱記:六条本国寺合戦付三好一族敗北事(巻51)
・・・・・永禄十二年新玉ヲ祝ヘキ正月朔日ニ成シカハ将軍守護ノ諸侍・・・・・・・・・・・・・三好山城ノ入道咲岩斎同下野
入道釣閉斎同日向守(定)康岩成主税等ヲ初トシテ四国勢五千餘騎其他畿内ニ與力卒ヲ招集前美濃守護職
斎藤右兵衛門大夫龍興同叔父長井隼人佐薬師寺九郎左衛門尉等ヲ先手ノ大将トシテ正月元旦泉州堺ノ浦ニ勢揃
ヘシテ評シケルハ義昭去十月征夷大将軍ニ宣下セラレ天下ノ武将ニ・・・・・・・以下省略・・・・

「信長公記」:六条合戦の事(巻2)
永禄十二年己巳
正月四日、三好三人衆並に斎藤右兵衛大輔龍興、長井隼人等南方の諸牢人を相催し、先懸の大将、薬師寺
九郎左衛門、公方様六条に御座候を取詰め、門前を焼払ひ、既に児寺中へ乗り入るべきの行なり、其処、
六条に楯籠る後人数、細川典厩、織田左近野村越中、赤座七郎・・・・・・・・・・以下省略・・・・・

等々上記のように1シート(A3用紙)に横一列に記載(今回は画面上記表記)し期日、記載人物、出来事等々を調査・検証
を行っていった。
検証の例として、
期日に於いて、「後太平記」では永禄二十年と記載あるが、その後原本を入手して確認したところ永禄十二年と
記載があり、早稲田大学出版部にて出版の時印刷工が活字の順序を間違えたと思われる。
そのために「後太平記」に記載ある期日は正しいと判断される。
又、記載人物の多い少ないはあるかも知れないが合っていると見てよいのではないか。

このような仕方で前述した同一事案を調査・検証を行っていった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・続く・・・・・・・・・・・・・・・・









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先祖 雑賀衆・雑賀三緘(サンカン)について(六回):真木島合戦之事

2011-12-04 20:16:32 | 調査・報告
今回は前回報告いたしました通りの「後太平記」「中古日本治乱記」「信長公記」に記載されていて、
同一事案のものは下記の通り。尚「後太平記」と「中古日本治乱記」との今回との関連無き類似事案関係は画面上割愛 させて頂いた。

※調査本 : 「信長公記」:桑田忠親 校正を使用 、中古日本治乱記:国会図書館所蔵 、「後太平記:「通俗日本全史」


「後太平記」:六条合戦之事(地部巻第38)
「中古日本治乱記」:六条本国寺合戦付三好一族敗北之事(巻第51)
「信長公記」:六条合戦之事(巻之2)
・・・・・・・・・・・・・・・・
「後太平記」:真木島(槙島城)合戦之事(地部巻第41)
「中古日本治乱記」:真木島軍付信長攻摂州諸城事(巻第55)
「信長公記」:公方様真木島に至り御出之事(巻之6)、真木島にて御降参、公方様御牢人の事(巻6)
・・・・・・・・・・・・・・・・
「後太平記」:将軍西国落之事(地部第41)
「中古日本治乱記」:将軍西国落事(巻第55)
・・・・・・・・・・・・・・・・
「後太平記」:諸城警禦之事(地部第41)
「中古日本治乱記」:将軍所々蜂起之事(巻第55)
・・・・・・・・・・・・・・・・
「後太平記」:難破船軍之事附城中糧被籠事(地部巻41)
「中古日本治乱記」:摂州難破船軍付籠糧於城内(事)(巻第56)
「信長公記」:西国より大船を催し木津浦の船軍歴々討死の事(巻9)
・・・・・・・・・・・・・・・・
「後太平記」:将軍摂州御發向之事附一向門跡一揆之事(地部巻第40)
「中古日本治乱記」:野田福島合戦付考江州宇佐山軍(事)(巻第53)
「信長公記」:野田福島御陣之事(巻之3)
・・・・・・・・・・・・・・・・
「中古日本治乱記」:浄土宗霊譽與日蓮日光宗論(事)(巻第62)
「信長公記」:法花浄土宗論之事(巻之12)
・・・・・・・・・・・・・・・・
「中古日本治乱記」:勢州長嶋一揆(事)(巻54)、信長長嶋一揆退治付珂州兵乱記事(巻第55)
「信長公記」:珂州長嶋一編に仰付けらるるの事(巻之7)
・・・・・・・・・・・・・・・・
「後太平記」:摂州大阪一向門跡合戦野事(治部巻第42)
「中古日本治乱記」:責大坂本願寺門跡事(巻第56)
「信長公記」:原田備中、御(三)津寺へ取出討死の事(巻9)、御後巻再三合戦の事(巻9)
・・・・・・・・・・・・・・・・
「中古日本治乱記」:紀州雑賀一揆退治之事(巻第58)
「信長公記」:雑賀御陣之事(巻之10)、御名物召し置かるるの事(巻10)
・・・・・・・・・・・・・・・・
「中古日本治乱記」:信長與本願寺門跡和睦付大坂城破壊(事)(巻第62)
「信長公記」:大阪退散御請け誓紙の事(巻13)、本門跡大坂退出之事(巻之13)、大坂退散の事(巻13)

等々であるが、順序が前後しましたことお詫び申し上げます。
次回からは上記の個々について報告いたします。

・・・・・・・・・続く・・・・・・・・・・・・・







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