雑賀衆・雑賀三緘について

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雑賀衆・雑賀三緘(サンカン)について(十四回):雑賀御陣之事(紀州雑賀一揆退治之事)、三緘(サンカン)確認!!

2012-03-20 20:14:40 | 調査・報告
Saikashuu(Saigashuu)・Saika(Saiga) Sankan

◎家譜記載雑賀三緘(カン)確認!!!

亡き祖母の雑賀の家譜に記載ある事項で、特に興味を引いた戦国時代の人物「雑賀三緘(サンカン)」の調査・検証・確認作業
をしてきたが大詰めに近づいてきた。今回実施のキッカケは家系図(祖父・祖母・母親)の3家のものを作成することであった。
祖父・母親の謄本は容易く手に入ったが、祖母の謄本は関東大震災にて役所が火災に遇い謄本が入手出来ないことから、
色々手をつくして和歌山県立公文書館のホームページより「紀州家中系譜並に親類書書上げ」があることが分かり、入手した
ことから始まった。
公文書館、博物館関係者等からの話では、雑賀衆で紀州藩に仕えた者はいないとのことからして、又、家譜の記載内容の
信憑性があるのか、ないのかとの問題もあるとのことからして、自分自身で検証・確認するしかないと考え調査する決心
をした。
又、信用していただけるか分からないが自分自身不思議な体験をした。今から四十年以上前の学生時代に寝ていて、
「全身金縛りにあい、起きようと悶え、ふと上半身が起こせたので起きて、足元を見ると鎧兜の姿で床几に坐った武者の
姿」を見たのである。
別段、私は驚くこともなくその武者を見、又、武者も私を見ていたことである。当然であろう武者が私を起こしたので
あるからして、他人からすると寝ぼけていたのでは、或は夢を見ていたのではと思うかもしれませんが、お互いに面と
向かい合って見て、気にもせず一旦寝て、今のは何だふと思って再度上半身を起こして足元を見た時には、武者の姿は
無かった(消えていた)のである。
このことがずーと頭にあり、何故私を全身金縛りにして、気づかせ、姿を見せたのかが気がかりであった。それは、戦で
亡くなった者達を弔ってほしいのか、自分を探せといっているのか。いまだに不思議であるが、その時は何だか分からず
いたが、三緘(カン)を調査してみると、それのようにも思え、武者に話しかけたら返事が返って来るのか、色々と聞きたい
ことが沢山あり確認したいことが出来たため、もう一度現れないかと期待しているが、残念乍現れてはくれない。
祖父の実家は武士ではなく、又母親の実家も武士ではないので、祖母の家系でしか武者はいないのである。

今回祖母の家譜を突詰めて検証・確認してきたのは、私の心の底にそれが残っていたからでもあるが、今回の事案の調査
・報告で一様確認出来たのではないか。専門家から見るとその内容(下記)に疑問を抱くかもしてないが、素人が出来る
範囲でやり遂げることは、これが限度ではないか。
確認出来たのは今まで調査してきた「後太平記」「中古日本治乱記」「信長公記」からではなく、小瀬甫庵の「信長記」と
林 道春(羅山)編輯の「将軍記」からである。

又、家譜の信憑性も確認出来たと思う。和歌山県立公文書館発行の「紀州家中系譜並に親類書書上げ(上)の解説によれ
ば、「一般的に系譜といえば、自身の家の事跡を書き上げた文書であるため、その家の者が事跡については一番よく
知っているはずのものである。しかし、梅田家や中村家の系譜でみたように、差出人よりも藩の方が、より正確に、
より詳しく記述しているのであ。もちろん藩士、一個人あるいは家が、何代にわたってその家の系譜を請け継ぐより
も、行政組織である藩が記録として残していれば、当然、藩の方が正確に、詳しい情報をもつことができたできたと
思われる。であるならば、系譜をわざわざ藩に差しださせる理由がどこにあったのだろうか。
・・・省略・・・・
藩が精査した家の個々の事跡が反映されていない系譜を再度藩が受け取る。ということは正確な情報をより正確に
して保存することに主眼が置かれていたと考えることが出来ないであろうか。」とある。
雑賀家の家譜も三代に亘り、付箋・貼紙等の修正はされておらず、無いということは、正確に報告されていたと考えら
れる。

今回報告する事案は、「後太平記」には記載はないが、「「中古日本治乱記」「信長公記」に記載がある。従来は検証を最後に
したが、今回は冒頭にもってきた。

事案:
・「中古日本治乱記」:紀州雑賀一揆退治之事(巻第58)
・「信長公記」:雑賀御陣の事(巻10)・御名物召し置かるるの事(巻10)

確認史料:
・「信長記」:小瀬 甫庵 紀伊国退治(巻第10)
・「将軍記」:林 道春(羅山)編輯 (織田信長記)

◎検証:

今回の事案に関しては、織田信長側からみた「信長公記」、羽柴秀吉側からみた「中古日本治乱記」には記載されているが、
足利義昭もしくは毛利氏側からみた「後太平記」には記載がないが、「中古日本治乱記」の信憑性を見る上では必要である。

天正五年の正月より信長の安土城帰陣(帰城)からの書き出しから両者共はじまり、同年二月二日の紀州雑賀の内三緘
(ミカラミ)の者、並びに根来寺之坊等が、織田信長側に加担する旨の申し出や、同月の二月二十六日の雑賀衆の前進拠点
である貝塚城攻撃での楯籠っていた雑賀衆の遁走。
この遁走の箇所は「中古日本治乱記」には記載がないが、「雑賀合戦(第一次):戦国合戦大辞典(四)」:新人物往来社刊
によれば、「本願寺の法主顕如が、この行動を賞賛しているところみると、予定されていた作戦の一部であったらしい」と
あり、信憑はあり、前述した「後太平記」の(諸城警禦之事)、「中古日本治乱記」の(将軍方所々蜂起之事)で登場している
雑賀衆も楯籠っていたからこそ遁走したのであってお互いに関連しあっている。

そして同年三月に、雑賀衆の主だった七人が織田信長に対して誓紙をいたし、石山本願寺の攻撃に信長の命に従って
協力する旨を申し出ている。これに対して、桑田忠親氏の「流浪将軍足利義昭」によれば、「信長の雑賀攻めを知った
足利義昭は、三月朔日、吉川元春と小早川隆景に御内書を送り、毛利軍が大坂に出陣すべきであることを主張した。
しかし、元春も隆景も義昭の御内書を無視したらしい」とあり。

「中古日本治乱記」は雑賀衆の誓紙以降は織田方の佐久間信盛、羽柴秀吉等の軍勢が石山本願寺門徒、雑賀衆の残党
警固のため天王寺に引き続き留まっていることが記載され、秀吉側からみた内容になっている。

次に、家譜にある雑賀三緘(サンカン)を指摘した史料である小瀬甫庵の「信長記」と太田牛一の「信長公記」との検証を
述べる。
今回の調査をするまでは「信長公記」があることは書店で見て知っていたが、別段気にもしていなかった。しかし、今回
調査して行く中で別途同一の「信長記」があることを知り確認作業をして行く中で、世の通説として小瀬甫庵の「信長記」
は、太田牛一の「信長記」本を元に書かれた為に「信憑性」が低いといわれるとのことで、私は最初から比較検証すること
もしないで今回の検証作業を終了しようとした時、虫「三緘?(サンカン)」がしらせたのか何気なく調査する気になった。
調査することにより、今回探し求めていた雑賀三緘(サンカン)の確証を遂に得ることが出来たのである。調査しなければ、
重大なことを見逃す処であった。

「雑賀庄」は十ケ郷・雑賀庄・中郷・宮郷・南郷の5ケ郷からなり、「五緘(カラミ)・搦・組」ともいうとのことである。その中で、
中郷・宮郷・南郷を三緘(ミカラミ)ということになっている。
この「緘」の捉え方により大きな違いが生じるのである。つまり「カラミ」ととると「庄」「とか「惣」とか地域とか村とかなど
の意味になり、「カン」となるとそれ以外のこととなる。つまり「三緘」を「ミカラミ」ととるか「サンカン」ととるかによ
って、大きく異なるのである。
 
池田家文庫本では、「ミからミノ者」或は「ミからミ衆」と表記されているが、林 道春編輯の「将軍記」(織田信長)では、
「サンカン」と表記され「ミからミノ者」或は「ミからミ衆」の「惣」「搦」「組」ではなく、特定の人物をさしている。
そのことは、小瀬甫庵の「信長記」では、はっきりと「三緘(カン)ト云フ者」と断言しているのである。素人の私の私見
ではあるが、甫庵は牛一の「信長記」を見て「ミからミノ者」とは知識がなく、その為に周囲に確認し、検証し、人物を特定
しているからこそ「・・・と云う者」と記述したのであって、そうでなければこのような記述にはならない。

又、信長記(池田家文庫本)の「二月二日、紀伊雑賀の内三からミの者、并根来寺杉之坊御身方し色を・・・・」とあるが、
雑賀庄の内三庄(郷)(中郷・宮郷・南郷)が信長側につき、戦況に大きく左右した。
この身方をする旨請願しに来た人物が、不特定多数の者(ミからミの者)或は根来寺の(之坊)では、信長及び信長方の
武将には信用おける有力な人物でなければ、いくら請願に来たとは言え不特定人物では納得出来るものではない。
根来寺の之坊は後の佐野城定番になった「津田太郎左衛門(監物算正)」ではないか。そうすると請願にきた人物は
「三緘(ミカラミ)」の長・首領ではないが、ある程度の地位があり、知れ渡った人物である。之坊は「津田太郎左衛門」であれ
ばお互いに承知したなかであり、信長方が信用したことが肯ける。太田牛一には、特定の人物には興味なく、単に請願に
来たことが大事であったのだ。

つまり、雑賀三緘のことを未確認の太田牛一は「ミカラミノ者」、知らなかった三緘(カン)を確認した小瀬甫庵は「三緘
(カン)ト云フ者」、承知している「将軍記」の編輯の林 道春は「三緘(カン)」と断定した記述になっている。
このことは、「後太平記」の多々良一龍及び「中古日本治乱記」の山中長俊も同様に承知していたから断定した記述にな
っているのであると、考えるべきではないか。
これは、私が断言出来るのは、祖母の家譜に記載があるからこそ断言出来ることである。今まで諸先輩方は、牛一の記載に
忠実に現代訳にし、特定の人物を断定する手段が無かったから「ミからミの者」=「中郷・宮郷・南郷の者」、「ミからミ衆」=
「中郷・宮郷・南郷の衆」として解釈してきたのではないか。
本来ならば太田牛一は、「雑賀三緘」のことを「中古日本治乱記」・「後太平記」・「将軍記」の「雑賀三緘(カン)」、或は、「ミカラミ
の三緘(カン)として記述しなければならないところを「ミカラミの者(衆)」と記述したと考えられる。

以上のことからして「後太平記」「中古日本治乱記」に記述ある「雑賀三緘入道」はまさしくこの人物をさしていると断言
出来、「後太平記」「中古日本治乱記」の記述期間を戦国時代と限定して検証すれば信憑性があると言えるのではないか。

◎検証史料:

○紀州・雑賀、根来の一向一揆討伐:「織田信長のすべて」 飯田 良一 編 新人物往来社刊

「二月、紀伊の畠山貞政が雑賀及び根来の衆徒と謀って挙兵した。しかし、雑賀の内三緘衆と根来の杉の坊が信長に味方
する旨を伝えて来たので、信長は、この機に本願寺の補給基地雑賀を討伐すべく八日、安土から上洛した。
嫡子信忠らを先陣させ、信長は十三日、京都を発して淀川を越えて八幡に陣取った。
東国の人数は真木島、宇治橋を渡って参戦して来た。十五日、若江を経て十六日和泉の香庄に進んだ。十七日、先陣が
一揆側の要撃のため楯籠っていた貝塚を攻撃しようとしたが、一揆の多くは夜陰に乗じて退散した。
・・・省略・・・・・・・
三月朔日、滝川一益・明智・丹羽・長岡・筒井らは雑賀の首領鈴木孫一重秀の居城を包囲して、銃丸を防ぐ竹束や攻撃用
の井楼で日夜攻撃した。
二日、信長は山手と浜手の中間取郷の若宮八幡宮に陣を移し、諸士を根来口に派遣し、小雑賀川・紀ノ川から山手に
陣取らせて、一揆を包囲した。この為十五日孤立した。鈴木重秀らの指揮者七人は連署の誓紙を呈出し、石山本願寺
の攻撃には信長の命に従って協力する旨を申し出て全面的に降伏したので、信長は彼らを赦免した。」

○千石堀城(貝塚城):「大坂府全志より」

「貝塚市にある根来寺前線砦群の一つで、畠中城・積善寺城などと近木川沿いにある根来衆の出城の一つである。
天正年間本願寺門徒の摂州石山城に據りて織田信長と争ふや、紀州の雑賀孫一郎・同入道三緘・土橋平次・的場
源七郎・渡邊藤左衛門・岡崎三郎太夫および岩室清裕等は、一万餘騎を引ゐて當国に入り、當城および畠中・貝塚
の要塞に據りて應援し、以って信長を悩ませしかば、信長は天正五年二月雑賀征伐の途に就きて諸城に迫りければ、
同月十六日に悉く潰走した。」

◎検証事案:

・中古日本治乱記:「紀州雑賀一揆退治之事」

「天正五年正月二日信長ハ岐阜ノ城ヲ出テ江州安土ニ皈リ玉フ
・・・省略・・・・
同廿五日ニハ信忠安土ノ城ニ趣キ位階昇進ノ事ヲ吹寵ス 然ル処ニ紀州雑賀ニ一揆蜂起シテ国中動乱スルノヨシ
早馬来テ信長ヘ告タリスカハ時刻ヲ不移退治セント

同二月信長軍兵ヲ相催シ先上洛シケリ相伴人々ニハ嫡子秋田城之介信忠次男北畠中将信雄三男神戸三七信孝
織田上野介信包此人々ヲ紀州ニ遣シ一揆等ヲ攻撃セケリ 堀久太郎秀政相従テ馳向フ信長ハ猶軍兵催促シ追来輩ヲ悉引率
シテ信長モ河州若江ニテ出張シタマヒケリ 其軍兵ノ大ナツ事雲霞ノ如クシテ野モ山モ軍勢ノ陣所ナラヌ所ハナシ

此時貝塚ヲ守リタル紀伊ノ国ノ凶徒トモ敵ノ多勢ニ恐擢シテ貝塚ヲ打ステテ行方不知落失ケリ根来ノ僧徒等共信長ノ陣所ニ来テ
於味方忠戦仕ルヘシト申ケリ
其後諸将ヲ分テ一揆等カ楯籠リシカ城々ヲコソ責ラケレ凶賊等モ此ヲ前途ト防キケル一揆ノ輩ハ兼テ敵寄テセムル程
・・・・・省略・・・・・・・・・・

一揆ノ輩城々ヲ被落ケリ一揆ノ渠魁鈴木孫一土橋平次罡崎三郎太夫等降参シケリ 信長紀州ノ政事ヲ沙汰シテ軍ヲ斑シテ
入洛シ玉ヒケル雑賀ノ残黨未滅者有テ一揆ヲ企ルヨシ聞シカハ信長ノ下知トシテ佐久間右衛門佐信盛ヲツカハシ一揆等ヲ被責撃ケリ
・・・・・・省略・・・・・・・・・・」

・信長公記:「雑賀御陣の事」

「正月二日、三州吉良の御鷹より安土御帰陣。
・・・省略・・・・
二月二日、紀州雑賀の内三緘の者、並に根来寺杉之坊、御見方の色を立て申すべき御請け申すにつきて、
即ち、十三日に御動座なさるべきの趣、御国々へ仰せ出ださる。
・・・省略・・・・・・・・・

十五日、信長公、八幡より若江まで御着陣。十六日、和泉の内、香庄に御陣取り。国中の一揆、貝塚と云う所、
海手を拘へ船を引き付け、楯籠る。翌日、先陣の衆、貝塚へ取り懸け、攻め干さるべきのところ、夜に入り、
船に取り乗り、罷り退き後の者・・・・省略・・・・・

廿二日、志立へ御陣を寄せられ、浜手・山方両手を分けて、御人数差し遣はさる。山方へは根来杉之坊・三緘衆
を案内者として佐久間右衛門、羽柴筑前、荒木摂津守・・・・省略・・・・・
・・・・省略・・・・・・」

・信長公記:「御名物召し置かるるの事(巻10)

「雑賀表、多人数、永々御在陣。亡国迷惑を致し、土橋平次・鈴木孫一・岡崎三郎大夫・松田源三大夫・宮本兵大夫
島本左衛門大夫・栗本二郎大夫已已上七人連署を以て誓紙を致し、大坂の儀、御存分に馳走仕るべきの旨、
請け申すにつき、御赦免なさる。
・・・・省略・・・・・

佐久間右衛門・惟任日向守・惟住五郎左衛門・羽柴筑前守・荒木摂津守、残し置かせられ、杉之坊、津田太郎
左衛門、定番に置かる。」

◎確認史料:雑賀三緘(カン)確認 ※ 国立公文書館所蔵

・安土日記(信長公記)十 太田 牛一 岡山大学池田家

「二月二日紀州雑賀ノ内ミカラミノ者并根来寺ノ坊御身方ノ色・・・省略・・・・

二十二日志立ヘ御陣ヲ被寄濱方山方両手ヲ分けテ御人数()()山方ヘハ根来寺ノ坊
ミカラミ衆為案内者佐久間右衛門羽柴筑前・・・省略・・・・」

・信長記:「紀伊国退治」 小瀬 甫庵 元和寛永間

「二月二日ニ雑賀三緘(カン)ト云者并根来寺ノノ坊御味方ニ・・・・省略・・・
サラハ三緘ヲ案内者トヒテ・・・・省略・・・・

同廿二日ニ志立ヘ被寄御陣ヲ海手山手ヘ勢ヲ分テ推入セラルルニ。先案内者ナレハ坊并
雑賀三緘(カン)ヲ先トシ佐久間右衛門尉信盛羽柴筑前秀吉・・・省略・・・・・」

※ ミカラミノ者(衆)⇒ 三緘(カン)ト云う者に変更、即ち、不特定者から特定者に断定している。

・将軍記(織田 信長):編輯 林 道春(羅山) 寛文四年刊

「二月二日紀州雑賀乃三緘(カン)根来寺坊信長公・・・省略・・・・

同廿二日信長志立()陣をうつされ三緘(カン)坊を先として佐久間羽柴・・・省略・・・」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

◎雑賀三緘(カン)記載追跡一覧(後太平記・中古日本治乱記)

・中古日本治乱記:将軍方所々蜂起之事(巻第55)

「将軍義昭卿既ニ備後国ニ御下向有テ毛利右馬頭輝元吉川駿河守元春・・・・省略・・・・

淡路岩屋城ヘ丹地太郎兵衛尉神野加賀守小林少輔三百余騎ニテ討納

紀州雑賀三緘入道鱸孫市的場源七郎ハ一揆一満人卒シ和泉仙石塚城・・・省略・・・・・

・・・・・・・・・・・・・
・後太平記:諸城警禦之事(地部巻第41)

「将軍已に備後ノ国に下向あって、毛利、小早川を頼ませ給ひ・・・省略・・・・

淡路岩屋の城へは丹地太郎兵衛尉神野加賀ノ守、小林民部ノ少輔三百余騎にて討入

紀州雑賀三緘入道、鱸孫市的場源七郎は一揆一満萬餘人を卒し、和泉仙石塚に・・・省略・・・・

・後太平記:将軍摂州御發向之事附一向門跡一揆之事(地部巻第40)

「六条本国寺にて討申され泄されたる三好一族、今年蘇軍を發し・・・省略・・・・・

神野加賀ニ守、丹地太郎兵衛ノ尉、其勢都て七千餘騎、摂津の中島陣取り給ひ・・・省略・・・・

斯る處に紀伊ノ国住人雑賀孫市郎、雑賀三緘入道、岡崎三郎太夫、渡邊藤左衛門ノ尉・・・省略・・・・

・後太平記:摂州大坂一向門跡合戦野事(地部巻第42)

「織田信長の武威益天下を呑む、・・・・省略・・・・

雑賀孫市郎、同三緘入道、的場源七郎、渡辺藤左衛門ノ尉、岡崎三郎太夫、根来法師岩室清裕、各一手に

成り紀伊の勢一萬餘騎、和泉ノ国に討ち出で、中野、貝塚、仙石堀・・・省略・・・・


上記が亡き祖母の家譜に記載ある「雑賀三緘(カン)(入道)」が記載されているものであり、他に「織田真記」

「増補信長記」など多々あるが省略する。


・・・・・・・・・・・・続く・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・




























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