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『パッション』、映画館で観ました。
弟子の一人ユダの裏切りで捕らえられたイエスは、ローマ総督ピラトの元に
連れて 行かれる。群衆から非難と誤解を受けているイエスは死刑となり、
十字架とともに ゴルゴタの丘を目指す‥‥。
まず最初に心臓の悪い人、残酷描写が苦手の人は何も言わずスルーした方が
良さそうだ。 評判通りというか、想像以上に“エグいシーン”満載で、
さすがのボクも参った、参った。映画館だから最後まで観たけれど、
もしもビデオで観たのなら、最後まで直視できなかったかもしれぬ。
痛い、辛い、泣き叫ぶ‥‥、思わず観る者は拳を握り、奥歯を噛みしめ、
全身を硬直させる。ただ、ボクには何故にこれほど“痛み”にこだわり
固執するのか、、 最後まで監督の意図するものが解らなかった。
イエスの受けた激痛を通して“人が人を裁くことの愚かさ”と、互いが互いを
“憎み合うことの醜さ”を描こうとした‥‥。うん、きっとそうに違いない。
しかし、この映画ではその“痛み”だけに観客の焦点がいき過ぎて、
肝心要のテーマがぼやけてしまったような気がする。例えば、古い映画の
例を挙げて恐縮ですが、本作と同じようにジャンヌ・ダルクが死刑に処される
“最後の一日”を描いた『裁かるるジャンヌ』では一切のリンチシーンと、
暴力シーンを描かずとも、観客にジャンヌの“痛み”が伝わり、彼女の
“哀しみ”全てが見えてきた。勿論、メル・ギブソンは力のない監督じゃないと思う。
その証拠に、イエスが幻想の中で見る“悪魔の描写”はゾッとするものがある。
だからこそ、彼には表面的な体についた“傷の痛み”だけじゃなく、
目には見えない映像の中にイエスが体感した“心の痛み”を描いて欲しかった。
“激しい映画”は怖くない、時には“抑制され静かな映画”の方が怖いことも
あるのです。