財団法人 日本カウンセリング・センターが主催している講座に「カウンセリング概論」という科目がある。内容は「『ロジャーズ全集第2巻』を読んでカウンセリングの原点を学ぶ」というものだが、多くの方々がご存知の通り、私はこの講座を担当する世話人として毎週月曜日の夜にセンターに足を運んでいる。
知らない方々のために説明しておくと、『ロジャーズ全集第2巻~カウンセリング~』(岩崎学術出版社 初版1966年)と題された書物は「カール・ロジャーズの出世作」と呼ばれている作品で(原題は『Counseling and Psychotherapy』1942年。この書物の前半部分を訳出したのが『ロジャーズ全集第2巻』である。後半部分は『ロジャーズ全集第9巻』に訳出されている)、この一書によりロジャーズは一躍有名人となって一世を風靡し、その後アメリカの心理学界とカウンセリング界の頂点に上り詰めるほどの人物になっていった……と伝え聞いている。
まあ、要するにこの書物には「文字通り“カウンセリングの原点”が記述されている」と言ってよいだろう。また、カウンセリングの歴史に興味・関心がある人にとっては「歴史的な作品である」という意味付け・価値付けの仕方もできるだろう。
あるいは東洋思想の観点から言えば、『論語』の「人能く道を弘む。道、人を弘むるに非ざるなり」の具体が示されている作品である、とも言えよう。原著は戦時中(1942年)に出版されていることから、時代背景に古さを感じるのは否めないが(もっとも『論語』や『老子』と比べたらずいぶん新しいと思うが(笑))、もしも読者が“カウンセリングのやり方”ではなく、著者である“ロジャーズという人物”に関心を抱くことができるなら、この作品は「私たちの人生をよりいっそう豊かなものにしてくれる可能性を秘めている」と私は思う。
さて、上記講座で数年間にわたって読み進めてきた結果、私たちのグループは現在「第7章 洞察の達成」のところに到達した。あらかじめ「この講座では第7章まで読むことにする」と取り決めていたので、このことはあと少し、ほんの数十ページで読了することを意味している。
少し気が早いかもしれないが、大きな達成感と喜びを私はすでに味わっている。これまでの長い長いプロセスを振り返ると「ここまでたどり着くことができた」というだけで感無量だ。と同時に、長期間にわたって苦楽を共にしてきた仲間たち(受講生のことを私はそう呼びたい)に対して、「よくもまあ、これほどの長い道のりを未熟な私と一緒に歩んでくれたなあ!」という特別な感情が生起している。この感情はきっと、チームスポーツで優勝した際にチームメイトに対して抱くのと同質のものだろう。
前置きが長くなった。本題に入るが、「第7章 洞察の達成」を読み進めていくにつれ、私はあらためて“洞察ということ”への関心をよりいっそう強く抱くようになった。
関心の中身はいろいろだ。最大の関心事は「どのような条件が揃えば洞察が生じるのか?」というところにあるが、これは「カウンセリングとは何か?」という問題を提起するのと同じだろうから、ここでは保留する。というよりも、私たちカウンセリング学習者にとってこの問題は、「限りなく探求し続けなくてはならない永遠の課題である」というのが私の認識だ。
というわけで、問題点(テーマ)をもう少し絞りたい。同書においてロジャーズは、例えば次のように記述している。
* * * * * * * * * * *
「と、突然に、場面が変化する。彼女が問題の一部として眺めはじめるのは、自分自身の態度であり、とうてい適応することはできないと認知している自分自身の適応なのである。ひとたびこのことを、その問題全体の欠くことのできない一部分として意識しはじめると、この現実の状況に対する彼女自身の行動は、変化に耐えるようになるのである」
「彼女は、自分自身の愛情の欠乏、罰せずにいられない自分自身の欲求、それらがジムを問題にするうえにひとつの役割を演じていたのだという事実、を眺めうるところまで到達したのである。(中略)それを完全に言葉で述べる勇気を彼女に与えるのは、次週までの間に、この新しい知覚を行為に移すことから生じてくる満足なのである」
「また、純粋な洞察の重要性が強調される。コラは、はっきりした洞察を達成できないうちは、処遇でのいっさいの試みが無効であった。この洞察を得て、彼女は、もっと成人の役割を引き受けることができ、攻撃的な行動は、彼女の葛藤の代償としてあまり必要ではなくなったのである」(ロジャーズ全集第2巻 P.218、P.221、P.222、P.228より引用)
* * * * * * * * * * *
以上から、ロジャーズは「ひとたび洞察が達成されると、次に態度・行動の変化が現われてくる」と述べているように読める。が、このことは事実だろうか?
正直なところ「人間って、そんなに単純なものかなあ?」という疑問は弱冠残るが、“洞察の重要性を強調する”という論旨との関連から言えば、私自身のカウンセリング経験からも「事実である」と言いたい。(ただし「洞察が達成されたがゆえにむしろ身動きが取れなくなる」というケースもしばしばあることを付言しておく。このあたりの事情は『ロジャーズ全集第9巻』に掲載されている“ハーバート・ブライアンの事例”を読めば明確になるだろう)。
もうひとつの問題は、いったいロジャーズは、どのような類の知覚を“洞察”と呼んでいるのか? という点だ。上記文中に“純粋な洞察”という用語が登場することからすると、どうやら“純粋ではない洞察”もあるように思えるが……。
これは難問だが、カウンセリングにおいて意味と価値のある重要な洞察とは「自分というものに対するより深い、より新しい理解が含まれている知覚である」と私は考えている。典型的な例を挙げれば、「今までそう思っていなかったけど、私って本当は○○○(な人間)なんですねえ」というような発言だ。
もしも読者が、ロジャーズが投じた基本的仮説、すなわち「効果的なカウンセリングは、クライエントをして、自分の新しい方向をめざして積極的に歩み出すことができる程度にまで、自分というものについての理解を達成できるようにする、明確に構成された許容的な関係によって成立するものである」(ロジャーズ全集第2巻 P.20)を仮説として支持できるならば、私の考えもまた支持されるだろうと思う。
したがってカウンセリング場面での私は、こういう類の洞察がクライエントの口から出てきた際には、それこそ最大限の肯定的関心を抱かずにはいられない。ある個人面談でのエピソードを述べると、途中までは椅子の背もたれに深く腰掛けながら「ウムウム」と話を聞いていた私だったが、ある場面で重大な洞察を含んだ発言が出てきた瞬間、思わず身を乗り出してしまってクライエントの目を丸くさせたことがある(苦笑)。驚かせたのはマズかったと思うが、私という人は、洞察が含まれた陳述を聞くと強い関心から前傾姿勢になってしまうらしい。
これと反対の経験もある。クライエントが「今まで私は○○○というふうに考えていましたが、それは間違っていると気づきました。今後は×××というふうに考えを改めて、前向きにやっていこうと思います」という類の発言をする場合だ。
こういうのはたぶん、多くの場合「カウンセラーさんに自分が進歩していることを認めてもらいたい。カウンセラーさんに気に入られたい」というような気持ちが根底にあって出てくるのだろう(あるいは「あなたでは私の役に立ちませんね。残念ですがこれでお別れです」という決別の意味からなされる場合も有り得るだろう)が、大抵の場合は気に入るどころか「特別な肯定的関心や感情は何も生じない」のが正直なところだ。
こういう発言をいくら聞いても、内心では「ああ、そうやってまたひとつ“別の観念と価値”によって、自分というものを縛り付けていきたいのか……」というとても残念な気持ちに包まれてしまうのである。だからといって相手の考えを否定したり、説得によって考えを変えさせようという気にはなれないが……。
もちろん、もしもチャンスがあれば、このことについて話し合う用意はいつでもある。つまり「人間が成長するというのは、いったいどういうことなのか?」というテーマについて、「私には私の考えがある」という意味だ。しかし、もしもタイミングを誤ってカウンセラーが自分の考えを一方的に述べたりしたら、クライエントは傷つくか、もしくはひどく動揺するに違いない。「クライエントにとっては、カウンセラーという存在は権威である」という事実を、カウンセラーは忘れてはならないと思う。
洞察に関する問題点はまだある。先に私は「私って本当は○○○(な人間)なんです」という類の発言が重要な洞察である、と述べた。だが、こういう類の発言が“自分を防衛するため”に使用される場合もたくさんあるので、カウンセラーは注意深くならないといけない。もしもこれが“防衛するため”になされているとしたら、そのプロセスは“前進している”というよりも、むしろ“退行している”可能性が高いからである。(もっとも“退行すること”それ自体を単純に否定するわけにはゆかないが)。
仮にカウンセラーがまともな感受性の持ち主だったとしたら、大抵の場合はクライエントの発言が「洞察か?防衛か?」ということぐらい簡単に聞き分けられるだろう。しかし、だからといって「カウンセラーが聞き違えることなど絶対ない!」とは言えまい。したがって、これは自戒の念を込めて言っておきたいのだが、「カウンセラーは感受性の訓練を怠ってはならない」と思う。
上述の問題を具体例で示すなら、『ロジャーズ全集第9巻』に掲載されている“ハーバート・ブライアンの事例”がいいだろう。このケースのカウンセラーはロジャーズだったことがすでに判明しているが、同書を編集し訳注を付した友田不二男によれば、第6回目面接中のある箇所について「極めて重大な洞察が含まれた考えをクライエントが述べているにもかかわらず、カウンセラーはそれを理解できないばかりか、むしろ“退行している”と受け取っていて、その考えに否定的な応答をしている」となる。
この友田説が「正しいのか?否か?」、あるいは正しいとしても「どの程度正しいのか?」という点については、はっきりした解答はできない。というよりも、それは私を含めた読み手自身によって探求されていかなければならない問題だろうと思う。
が、ここで仮に「友田説が正しい」とすると、「カウンセリングの神様と呼ばれたロジャーズですら、このケースではいわゆる“聞き違い”をやっていた」ということになる。もしもカウンセラーがクライエントを“ありのまま”に聞けないなら、それは効果的なカウンセリングにならない……と私は確信しているが、それがどれほど容易ではないか、このような例を挙げれば想像できるのではなかろうか。
あらためて言うまでもないだろうが、カウンセラーにとって、クライエントの陳述が「どのように聞こえてくるか?」は、いわばカウンセラーが負っている重大な宿命的課題である。その陳述が“洞察を含んでいる”ものなら、さらに重大となるのは言うまでもない。
知らない方々のために説明しておくと、『ロジャーズ全集第2巻~カウンセリング~』(岩崎学術出版社 初版1966年)と題された書物は「カール・ロジャーズの出世作」と呼ばれている作品で(原題は『Counseling and Psychotherapy』1942年。この書物の前半部分を訳出したのが『ロジャーズ全集第2巻』である。後半部分は『ロジャーズ全集第9巻』に訳出されている)、この一書によりロジャーズは一躍有名人となって一世を風靡し、その後アメリカの心理学界とカウンセリング界の頂点に上り詰めるほどの人物になっていった……と伝え聞いている。
まあ、要するにこの書物には「文字通り“カウンセリングの原点”が記述されている」と言ってよいだろう。また、カウンセリングの歴史に興味・関心がある人にとっては「歴史的な作品である」という意味付け・価値付けの仕方もできるだろう。
あるいは東洋思想の観点から言えば、『論語』の「人能く道を弘む。道、人を弘むるに非ざるなり」の具体が示されている作品である、とも言えよう。原著は戦時中(1942年)に出版されていることから、時代背景に古さを感じるのは否めないが(もっとも『論語』や『老子』と比べたらずいぶん新しいと思うが(笑))、もしも読者が“カウンセリングのやり方”ではなく、著者である“ロジャーズという人物”に関心を抱くことができるなら、この作品は「私たちの人生をよりいっそう豊かなものにしてくれる可能性を秘めている」と私は思う。
さて、上記講座で数年間にわたって読み進めてきた結果、私たちのグループは現在「第7章 洞察の達成」のところに到達した。あらかじめ「この講座では第7章まで読むことにする」と取り決めていたので、このことはあと少し、ほんの数十ページで読了することを意味している。
少し気が早いかもしれないが、大きな達成感と喜びを私はすでに味わっている。これまでの長い長いプロセスを振り返ると「ここまでたどり着くことができた」というだけで感無量だ。と同時に、長期間にわたって苦楽を共にしてきた仲間たち(受講生のことを私はそう呼びたい)に対して、「よくもまあ、これほどの長い道のりを未熟な私と一緒に歩んでくれたなあ!」という特別な感情が生起している。この感情はきっと、チームスポーツで優勝した際にチームメイトに対して抱くのと同質のものだろう。
前置きが長くなった。本題に入るが、「第7章 洞察の達成」を読み進めていくにつれ、私はあらためて“洞察ということ”への関心をよりいっそう強く抱くようになった。
関心の中身はいろいろだ。最大の関心事は「どのような条件が揃えば洞察が生じるのか?」というところにあるが、これは「カウンセリングとは何か?」という問題を提起するのと同じだろうから、ここでは保留する。というよりも、私たちカウンセリング学習者にとってこの問題は、「限りなく探求し続けなくてはならない永遠の課題である」というのが私の認識だ。
というわけで、問題点(テーマ)をもう少し絞りたい。同書においてロジャーズは、例えば次のように記述している。
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「と、突然に、場面が変化する。彼女が問題の一部として眺めはじめるのは、自分自身の態度であり、とうてい適応することはできないと認知している自分自身の適応なのである。ひとたびこのことを、その問題全体の欠くことのできない一部分として意識しはじめると、この現実の状況に対する彼女自身の行動は、変化に耐えるようになるのである」
「彼女は、自分自身の愛情の欠乏、罰せずにいられない自分自身の欲求、それらがジムを問題にするうえにひとつの役割を演じていたのだという事実、を眺めうるところまで到達したのである。(中略)それを完全に言葉で述べる勇気を彼女に与えるのは、次週までの間に、この新しい知覚を行為に移すことから生じてくる満足なのである」
「また、純粋な洞察の重要性が強調される。コラは、はっきりした洞察を達成できないうちは、処遇でのいっさいの試みが無効であった。この洞察を得て、彼女は、もっと成人の役割を引き受けることができ、攻撃的な行動は、彼女の葛藤の代償としてあまり必要ではなくなったのである」(ロジャーズ全集第2巻 P.218、P.221、P.222、P.228より引用)
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以上から、ロジャーズは「ひとたび洞察が達成されると、次に態度・行動の変化が現われてくる」と述べているように読める。が、このことは事実だろうか?
正直なところ「人間って、そんなに単純なものかなあ?」という疑問は弱冠残るが、“洞察の重要性を強調する”という論旨との関連から言えば、私自身のカウンセリング経験からも「事実である」と言いたい。(ただし「洞察が達成されたがゆえにむしろ身動きが取れなくなる」というケースもしばしばあることを付言しておく。このあたりの事情は『ロジャーズ全集第9巻』に掲載されている“ハーバート・ブライアンの事例”を読めば明確になるだろう)。
もうひとつの問題は、いったいロジャーズは、どのような類の知覚を“洞察”と呼んでいるのか? という点だ。上記文中に“純粋な洞察”という用語が登場することからすると、どうやら“純粋ではない洞察”もあるように思えるが……。
これは難問だが、カウンセリングにおいて意味と価値のある重要な洞察とは「自分というものに対するより深い、より新しい理解が含まれている知覚である」と私は考えている。典型的な例を挙げれば、「今までそう思っていなかったけど、私って本当は○○○(な人間)なんですねえ」というような発言だ。
もしも読者が、ロジャーズが投じた基本的仮説、すなわち「効果的なカウンセリングは、クライエントをして、自分の新しい方向をめざして積極的に歩み出すことができる程度にまで、自分というものについての理解を達成できるようにする、明確に構成された許容的な関係によって成立するものである」(ロジャーズ全集第2巻 P.20)を仮説として支持できるならば、私の考えもまた支持されるだろうと思う。
したがってカウンセリング場面での私は、こういう類の洞察がクライエントの口から出てきた際には、それこそ最大限の肯定的関心を抱かずにはいられない。ある個人面談でのエピソードを述べると、途中までは椅子の背もたれに深く腰掛けながら「ウムウム」と話を聞いていた私だったが、ある場面で重大な洞察を含んだ発言が出てきた瞬間、思わず身を乗り出してしまってクライエントの目を丸くさせたことがある(苦笑)。驚かせたのはマズかったと思うが、私という人は、洞察が含まれた陳述を聞くと強い関心から前傾姿勢になってしまうらしい。
これと反対の経験もある。クライエントが「今まで私は○○○というふうに考えていましたが、それは間違っていると気づきました。今後は×××というふうに考えを改めて、前向きにやっていこうと思います」という類の発言をする場合だ。
こういうのはたぶん、多くの場合「カウンセラーさんに自分が進歩していることを認めてもらいたい。カウンセラーさんに気に入られたい」というような気持ちが根底にあって出てくるのだろう(あるいは「あなたでは私の役に立ちませんね。残念ですがこれでお別れです」という決別の意味からなされる場合も有り得るだろう)が、大抵の場合は気に入るどころか「特別な肯定的関心や感情は何も生じない」のが正直なところだ。
こういう発言をいくら聞いても、内心では「ああ、そうやってまたひとつ“別の観念と価値”によって、自分というものを縛り付けていきたいのか……」というとても残念な気持ちに包まれてしまうのである。だからといって相手の考えを否定したり、説得によって考えを変えさせようという気にはなれないが……。
もちろん、もしもチャンスがあれば、このことについて話し合う用意はいつでもある。つまり「人間が成長するというのは、いったいどういうことなのか?」というテーマについて、「私には私の考えがある」という意味だ。しかし、もしもタイミングを誤ってカウンセラーが自分の考えを一方的に述べたりしたら、クライエントは傷つくか、もしくはひどく動揺するに違いない。「クライエントにとっては、カウンセラーという存在は権威である」という事実を、カウンセラーは忘れてはならないと思う。
洞察に関する問題点はまだある。先に私は「私って本当は○○○(な人間)なんです」という類の発言が重要な洞察である、と述べた。だが、こういう類の発言が“自分を防衛するため”に使用される場合もたくさんあるので、カウンセラーは注意深くならないといけない。もしもこれが“防衛するため”になされているとしたら、そのプロセスは“前進している”というよりも、むしろ“退行している”可能性が高いからである。(もっとも“退行すること”それ自体を単純に否定するわけにはゆかないが)。
仮にカウンセラーがまともな感受性の持ち主だったとしたら、大抵の場合はクライエントの発言が「洞察か?防衛か?」ということぐらい簡単に聞き分けられるだろう。しかし、だからといって「カウンセラーが聞き違えることなど絶対ない!」とは言えまい。したがって、これは自戒の念を込めて言っておきたいのだが、「カウンセラーは感受性の訓練を怠ってはならない」と思う。
上述の問題を具体例で示すなら、『ロジャーズ全集第9巻』に掲載されている“ハーバート・ブライアンの事例”がいいだろう。このケースのカウンセラーはロジャーズだったことがすでに判明しているが、同書を編集し訳注を付した友田不二男によれば、第6回目面接中のある箇所について「極めて重大な洞察が含まれた考えをクライエントが述べているにもかかわらず、カウンセラーはそれを理解できないばかりか、むしろ“退行している”と受け取っていて、その考えに否定的な応答をしている」となる。
この友田説が「正しいのか?否か?」、あるいは正しいとしても「どの程度正しいのか?」という点については、はっきりした解答はできない。というよりも、それは私を含めた読み手自身によって探求されていかなければならない問題だろうと思う。
が、ここで仮に「友田説が正しい」とすると、「カウンセリングの神様と呼ばれたロジャーズですら、このケースではいわゆる“聞き違い”をやっていた」ということになる。もしもカウンセラーがクライエントを“ありのまま”に聞けないなら、それは効果的なカウンセリングにならない……と私は確信しているが、それがどれほど容易ではないか、このような例を挙げれば想像できるのではなかろうか。
あらためて言うまでもないだろうが、カウンセラーにとって、クライエントの陳述が「どのように聞こえてくるか?」は、いわばカウンセラーが負っている重大な宿命的課題である。その陳述が“洞察を含んでいる”ものなら、さらに重大となるのは言うまでもない。