カウンセラーのコラム

山梨県甲府市でカウンセリングルームを開業している心理カウンセラーの雑文です。

“洞察”ということ

2010年11月25日 | 日記 ・ 雑文
財団法人 日本カウンセリング・センターが主催している講座に「カウンセリング概論」という科目がある。内容は「『ロジャーズ全集第2巻』を読んでカウンセリングの原点を学ぶ」というものだが、多くの方々がご存知の通り、私はこの講座を担当する世話人として毎週月曜日の夜にセンターに足を運んでいる。

知らない方々のために説明しておくと、『ロジャーズ全集第2巻~カウンセリング~』(岩崎学術出版社 初版1966年)と題された書物は「カール・ロジャーズの出世作」と呼ばれている作品で(原題は『Counseling and Psychotherapy』1942年。この書物の前半部分を訳出したのが『ロジャーズ全集第2巻』である。後半部分は『ロジャーズ全集第9巻』に訳出されている)、この一書によりロジャーズは一躍有名人となって一世を風靡し、その後アメリカの心理学界とカウンセリング界の頂点に上り詰めるほどの人物になっていった……と伝え聞いている。
まあ、要するにこの書物には「文字通り“カウンセリングの原点”が記述されている」と言ってよいだろう。また、カウンセリングの歴史に興味・関心がある人にとっては「歴史的な作品である」という意味付け・価値付けの仕方もできるだろう。
あるいは東洋思想の観点から言えば、『論語』の「人能く道を弘む。道、人を弘むるに非ざるなり」の具体が示されている作品である、とも言えよう。原著は戦時中(1942年)に出版されていることから、時代背景に古さを感じるのは否めないが(もっとも『論語』や『老子』と比べたらずいぶん新しいと思うが(笑))、もしも読者が“カウンセリングのやり方”ではなく、著者である“ロジャーズという人物”に関心を抱くことができるなら、この作品は「私たちの人生をよりいっそう豊かなものにしてくれる可能性を秘めている」と私は思う。

さて、上記講座で数年間にわたって読み進めてきた結果、私たちのグループは現在「第7章 洞察の達成」のところに到達した。あらかじめ「この講座では第7章まで読むことにする」と取り決めていたので、このことはあと少し、ほんの数十ページで読了することを意味している。
少し気が早いかもしれないが、大きな達成感と喜びを私はすでに味わっている。これまでの長い長いプロセスを振り返ると「ここまでたどり着くことができた」というだけで感無量だ。と同時に、長期間にわたって苦楽を共にしてきた仲間たち(受講生のことを私はそう呼びたい)に対して、「よくもまあ、これほどの長い道のりを未熟な私と一緒に歩んでくれたなあ!」という特別な感情が生起している。この感情はきっと、チームスポーツで優勝した際にチームメイトに対して抱くのと同質のものだろう。

前置きが長くなった。本題に入るが、「第7章 洞察の達成」を読み進めていくにつれ、私はあらためて“洞察ということ”への関心をよりいっそう強く抱くようになった。
関心の中身はいろいろだ。最大の関心事は「どのような条件が揃えば洞察が生じるのか?」というところにあるが、これは「カウンセリングとは何か?」という問題を提起するのと同じだろうから、ここでは保留する。というよりも、私たちカウンセリング学習者にとってこの問題は、「限りなく探求し続けなくてはならない永遠の課題である」というのが私の認識だ。
というわけで、問題点(テーマ)をもう少し絞りたい。同書においてロジャーズは、例えば次のように記述している。

           * * * * * * * * * * *

「と、突然に、場面が変化する。彼女が問題の一部として眺めはじめるのは、自分自身の態度であり、とうてい適応することはできないと認知している自分自身の適応なのである。ひとたびこのことを、その問題全体の欠くことのできない一部分として意識しはじめると、この現実の状況に対する彼女自身の行動は、変化に耐えるようになるのである」
「彼女は、自分自身の愛情の欠乏、罰せずにいられない自分自身の欲求、それらがジムを問題にするうえにひとつの役割を演じていたのだという事実、を眺めうるところまで到達したのである。(中略)それを完全に言葉で述べる勇気を彼女に与えるのは、次週までの間に、この新しい知覚を行為に移すことから生じてくる満足なのである」
「また、純粋な洞察の重要性が強調される。コラは、はっきりした洞察を達成できないうちは、処遇でのいっさいの試みが無効であった。この洞察を得て、彼女は、もっと成人の役割を引き受けることができ、攻撃的な行動は、彼女の葛藤の代償としてあまり必要ではなくなったのである」(ロジャーズ全集第2巻 P.218、P.221、P.222、P.228より引用)

           * * * * * * * * * * *

以上から、ロジャーズは「ひとたび洞察が達成されると、次に態度・行動の変化が現われてくる」と述べているように読める。が、このことは事実だろうか?
正直なところ「人間って、そんなに単純なものかなあ?」という疑問は弱冠残るが、“洞察の重要性を強調する”という論旨との関連から言えば、私自身のカウンセリング経験からも「事実である」と言いたい。(ただし「洞察が達成されたがゆえにむしろ身動きが取れなくなる」というケースもしばしばあることを付言しておく。このあたりの事情は『ロジャーズ全集第9巻』に掲載されている“ハーバート・ブライアンの事例”を読めば明確になるだろう)。

もうひとつの問題は、いったいロジャーズは、どのような類の知覚を“洞察”と呼んでいるのか? という点だ。上記文中に“純粋な洞察”という用語が登場することからすると、どうやら“純粋ではない洞察”もあるように思えるが……。
これは難問だが、カウンセリングにおいて意味と価値のある重要な洞察とは「自分というものに対するより深い、より新しい理解が含まれている知覚である」と私は考えている。典型的な例を挙げれば、「今までそう思っていなかったけど、私って本当は○○○(な人間)なんですねえ」というような発言だ。
もしも読者が、ロジャーズが投じた基本的仮説、すなわち「効果的なカウンセリングは、クライエントをして、自分の新しい方向をめざして積極的に歩み出すことができる程度にまで、自分というものについての理解を達成できるようにする、明確に構成された許容的な関係によって成立するものである」(ロジャーズ全集第2巻 P.20)を仮説として支持できるならば、私の考えもまた支持されるだろうと思う。
したがってカウンセリング場面での私は、こういう類の洞察がクライエントの口から出てきた際には、それこそ最大限の肯定的関心を抱かずにはいられない。ある個人面談でのエピソードを述べると、途中までは椅子の背もたれに深く腰掛けながら「ウムウム」と話を聞いていた私だったが、ある場面で重大な洞察を含んだ発言が出てきた瞬間、思わず身を乗り出してしまってクライエントの目を丸くさせたことがある(苦笑)。驚かせたのはマズかったと思うが、私という人は、洞察が含まれた陳述を聞くと強い関心から前傾姿勢になってしまうらしい。

これと反対の経験もある。クライエントが「今まで私は○○○というふうに考えていましたが、それは間違っていると気づきました。今後は×××というふうに考えを改めて、前向きにやっていこうと思います」という類の発言をする場合だ。
こういうのはたぶん、多くの場合「カウンセラーさんに自分が進歩していることを認めてもらいたい。カウンセラーさんに気に入られたい」というような気持ちが根底にあって出てくるのだろう(あるいは「あなたでは私の役に立ちませんね。残念ですがこれでお別れです」という決別の意味からなされる場合も有り得るだろう)が、大抵の場合は気に入るどころか「特別な肯定的関心や感情は何も生じない」のが正直なところだ。
こういう発言をいくら聞いても、内心では「ああ、そうやってまたひとつ“別の観念と価値”によって、自分というものを縛り付けていきたいのか……」というとても残念な気持ちに包まれてしまうのである。だからといって相手の考えを否定したり、説得によって考えを変えさせようという気にはなれないが……。
もちろん、もしもチャンスがあれば、このことについて話し合う用意はいつでもある。つまり「人間が成長するというのは、いったいどういうことなのか?」というテーマについて、「私には私の考えがある」という意味だ。しかし、もしもタイミングを誤ってカウンセラーが自分の考えを一方的に述べたりしたら、クライエントは傷つくか、もしくはひどく動揺するに違いない。「クライエントにとっては、カウンセラーという存在は権威である」という事実を、カウンセラーは忘れてはならないと思う。

洞察に関する問題点はまだある。先に私は「私って本当は○○○(な人間)なんです」という類の発言が重要な洞察である、と述べた。だが、こういう類の発言が“自分を防衛するため”に使用される場合もたくさんあるので、カウンセラーは注意深くならないといけない。もしもこれが“防衛するため”になされているとしたら、そのプロセスは“前進している”というよりも、むしろ“退行している”可能性が高いからである。(もっとも“退行すること”それ自体を単純に否定するわけにはゆかないが)。
仮にカウンセラーがまともな感受性の持ち主だったとしたら、大抵の場合はクライエントの発言が「洞察か?防衛か?」ということぐらい簡単に聞き分けられるだろう。しかし、だからといって「カウンセラーが聞き違えることなど絶対ない!」とは言えまい。したがって、これは自戒の念を込めて言っておきたいのだが、「カウンセラーは感受性の訓練を怠ってはならない」と思う。

上述の問題を具体例で示すなら、『ロジャーズ全集第9巻』に掲載されている“ハーバート・ブライアンの事例”がいいだろう。このケースのカウンセラーはロジャーズだったことがすでに判明しているが、同書を編集し訳注を付した友田不二男によれば、第6回目面接中のある箇所について「極めて重大な洞察が含まれた考えをクライエントが述べているにもかかわらず、カウンセラーはそれを理解できないばかりか、むしろ“退行している”と受け取っていて、その考えに否定的な応答をしている」となる。
この友田説が「正しいのか?否か?」、あるいは正しいとしても「どの程度正しいのか?」という点については、はっきりした解答はできない。というよりも、それは私を含めた読み手自身によって探求されていかなければならない問題だろうと思う。
が、ここで仮に「友田説が正しい」とすると、「カウンセリングの神様と呼ばれたロジャーズですら、このケースではいわゆる“聞き違い”をやっていた」ということになる。もしもカウンセラーがクライエントを“ありのまま”に聞けないなら、それは効果的なカウンセリングにならない……と私は確信しているが、それがどれほど容易ではないか、このような例を挙げれば想像できるのではなかろうか。
あらためて言うまでもないだろうが、カウンセラーにとって、クライエントの陳述が「どのように聞こえてくるか?」は、いわばカウンセラーが負っている重大な宿命的課題である。その陳述が“洞察を含んでいる”ものなら、さらに重大となるのは言うまでもない。
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6週間

2010年11月19日 | 日記 ・ 雑文
10月3日に左肩鎖骨骨折してから6週間以上が経過した。近所の整形外科医から「骨が完全に元通りになるまでには半年ぐらいかかる」と言われていたが、現在痛みはまったくない。左肩も左腕も100%元の機能を回復した状態にまでなっている。数日前からは「怪我したことなどまったく忘れて生活している」くらいだ。
“6週間”という時間を“長い”と思うか“短い”と思うかは、意見が分かれるところだろうが、現在の私の実感からすると「人体が持っている骨を再生・修復していく能力には、ものすごい力があるなあ!」と言わざるを得ない。生命体が持っているこういう機能を一般に“自然治癒力”とか“自己治癒力”とか、場合によってはある種の神秘性を含めて“生命力”などと呼んでいるが、“それ”を自分の身体でもって実感しているところだ。

上述したのは“身体的な怪我をしたケース”における事実であるが、“心が怪我をしたケース”においても同じように言えるだろうか? という疑問が浮かんだ。(“心が怪我する”という言い方は滅多にしないだろうが、ここでは“心が本来の機能を失う”という意味で使っている)。
この問いに対する私の答えは「Yes」である。というより以上に、もしも「人間は本来、誰もがみな、成長し発展し適応へと向かう資質を持っている」という考え方を支持できないのなら、その人はカウンセラーや心理療法家を遂行していくこと自体が困難だろう。あるいは医師・看護師・教師・保育士というような対人援助職でも、その仕事を遂行していくことは困難だろう……と私は考えている。

だが、実際には「自分には成長し発展し適応へと向かう資質が無い。自分は完全にダメ人間である」と思っている、もしくは信じている人がいかに多いか、ということも承知している。私もうつ病だったとき「自分は最低の人間である!」と確信していたのだから(苦笑)。
どうしてそうなってしまうのか? という点については、きっと様々な条件が複雑に絡み合ってそうなるのだろう……としか言いようがない。また、この点については未解明な部分もたくさん残されており、学問的にも心理学と精神医学の両面から「研究がなされている過程である」と言えよう。
まあ、カウンセリングの立場からこの問題について言及するとすれば、“自己概念と有機体との関係”のあたりに重大な要素のひとつがあるのではないか? という程度のことなら言えるかもしれないが……。

というわけで、「どうしてそうなってしまうのか?」という難しい問題は保留し、ここでは「概念というものが心に与える影響」について、さらに言及してみようと思う。
冒頭のほうで「怪我が治るのにかかった“6週間”という時間を“長い”と思うか“短い”と思うかは、意見が分かれるところだろう」と述べた。私の感覚から言えば「ものすごく短いとも思わないし、ものすごく長いとも思わない。まあ、こんなものだろうな」となるが、もし仮に“ものすごく短い”と思う人がいたら、その人は自身の回復能力に大きな驚きを感じているに違いない。反対に、もし仮に“ものすごく長い”と思う人がいたら、その人は自身の回復能力にとても幻滅しているに違いないだろう。
もっとも、最初の時点で「自分の怪我の深刻さをどの程度に見積もるか?」という問題もあるので単純ではないが、私の場合は「比較的適正に見積もっていた」となるだろうか? 少なくとも私が立てた見通しは「甘くもなければ、辛くもなかった」と言えそうだ。

「問題の深刻さをどの程度に見積もるか?」ということ、また「自身の回復能力がどの程度あると考えるか?」ということは、いずれも“観念”もしくは“概念”である。平たく言えば、その人の“考え方”に過ぎない。ということは、結論として「どのような“考え方”をするかによって、人は幸福にもなれるし不幸にもなれる」となるわけだ。
もちろん、このような言い方は極論に違いない。また、実際の人間がそんなに単純にはいかないということも十分承知している。“固定化された観念・概念から解放される”ということが、多くの人々にとって“いかに容易ではないか”ということは、長年のカウンセリング経験を通してかなり明確になってきているし、ついでに付言すると、人間が“観念・概念から解放される”という経験を得ることのできる唯一の道は、“体験から学ぶ”という態度・姿勢・在り方を自得していく他にないのではないか? という確信を得られそうなところにまで、この私もようやくたどり着いた。
だが、世の中には、自分という人間(=他者とは異なる唯一の存在であるこの私)が本来的に持っている能力への見積り方が“高すぎる”人と“低すぎる”人とが存在するのは、紛れもない事実である。こういう人の場合、現実とのギャップがあまりにも大きいので“生きにくさ”や“生きづらさ”を感じるに違いない。自己概念が高すぎる人は、実際の自分に“がっかりする”か“嫌悪する”しかないだろう。反対に自己概念が低すぎる人は、実際の自分が何を成し遂げたとしてもそれを“自分の能力による”とは思えないだろう。
どちらにしても、概念が変化しない限りは永遠に“自分という人間を認めることができない”わけで、その意味ではどちらの場合もギャップの程度に応じて、現実は“生きにくい”もしくは“不幸である”となるわけだ。

本稿で私は「概念(自己概念含む)と心理状態の関連」について、問題を提起してきた。が、このことは「すべての問題を“心の問題”に還元しようとする」という考え方でもって進めているわけではない。つまり、現代と現代人には“心の問題”と“社会的問題”の両面が存在する、ということを観じないわけにはゆかないのである。
例えば、現代社会の基盤となっているカルチャーのひとつに「便利・快適・効率・費用対効果(コストパフォーマンス)が高い、ということが最高度に価値付けられている」という事実がある。ゆえにあるタイプの個性的な人間が、これらの価値基準から「能力が低い・価値が低い」と単純に見なされてしまう、という事実がある。
無論、どんな仕事にも“期限がある”という事実は無視できない。したがって「期限が近づいてきたら大急ぎで仕事をやり遂げなくてはならない」のは、基本的・原則的には当然のことだと考えて良いだろう。
問題の本質はそれ以前の大前提ところ、すなわち「経済の原理は上述の価値基準を基盤とするのが当然である」としても、「人間の原理まで経済の原理とまったく同じで良いのだろうか?」というところにある、というのが私の見方だ。もう少し平易な表現で問題を提起するならば、「現代社会は“経済性”が優位に立つあまり、“人間性”がほとんどまったく考慮されない社会である」となる。別言すれば「現代社会の在り方は“経済中心”であり、決して“人間中心”ではない」という意味になる。

現在社会と現代人に忍び寄る深刻な危機を、ミヒャエル・エンデは『モモ』の中で描いた“時間泥棒”によって象徴した。私たち人間の“心の世界”に時間泥棒の影をうすうす感じているのは、なにも私一人ではあるまい。なぜなら、『モモ』という作品は世界中のたくさんの人々によって今もなお支持され続けているのだから。
もしもある人が身体もしくは心に怪我を負ったときに、治癒するまでにかかる必要な時間に対して「長すぎる」とか「そんなに待てない」とか「もっと早く治りたい」と思ったとしたら、その人はひょっとすると、すでに時間泥棒に時間を盗まれているのかもしれない。別の言い方をすれば、「“経済の原理を人間に当てはめる”という過ちを、生身の人間である自分に対して犯している」かもしれないのである。
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