カウンセラーのコラム

山梨県甲府市でカウンセリングルームを開業している心理カウンセラーの雑文です。

ボウリング

2008年10月21日 | 日記 ・ 雑文
一昨日の日曜はレジャーデーだったので、家族3人でボウリング場に行った。息子(4歳)が2ヵ月くらい前からボウリングにハマっており、最近は1週間に一度くらいのペースで“ボウリング場通い(?)”が続いている。家での練習にも余念がなく、おもちゃのピンを立ててはボールを転がして倒すという行為を繰り返しているのが最近の息子だ。
妻と息子は荻窪にあるそのボウリング場の会員になり、すっかり馴染み客になってしまった。で、そこの支配人(だと思う。プロボウラーらしい)に、「この歳から始めれば、将来は間違いなくプロになれますよ!」というお墨付きまでいただいてしまったくらいだ(苦笑)。

そんなわけで、私も仕事がないときは息子のボウリングに付き合っているのだが、そのせいで自分の腕が急速に上達しているのがわかった。一昨日は1ゲーム目に「194点」という信じられないほどのスコアを出してしまった。4投目から8投目まで「5連続ストライク」という偉業を達成してしまったのだ。
2ゲーム目は「134点」、3ゲーム目は「137点」だったが、それにしても「腕が上がっている」ことを確信した。というのも、かつての私はどんなに調子が良くてもせいぜい「120点が限界の人」だったからだ。ひどいときには「100点を切ること」だって稀でなく、「120点が出れば大喜びしていた人」だったのだから。

最近つかんだボウリングのコツを記しておきたいのだが、「フォロースルー(投球後の腕の振り)を意識すると、狙った方向に真っ直ぐ球が行く」ということがわかった。あとは「手首を緩めない」のも大切だが、これはまあ基本だろう。
かつては「120点レベルだった人」が、偉そうにこんなことを書けるようになったのは、息子殿のおかげに他ならない。我が息子に感謝・感激である。
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陣内智則

2008年10月09日 | 日記 ・ 雑文
久しぶりに息子(4歳)のことを書いてみよう。我が家の息子は2歳の頃からパソコンに夢中である。食卓に置かれているノートパソコンをまるで“我が物”のように扱って遊んでいる光景は、我が家では決して珍しくない。
パソコン操作に関しては親よりも詳しい面があるくらいで、例えば「Shiftキーを押しながらリンクをクリックすると、別ウインドウで表示される」という機能は、2年ほど前に息子から教わったくらいだ(苦笑)。
一時期はパソコンに付属していたゲーム(ポーカーやビリヤード)にご執心だった彼だが、最近はもっぱらYouTubeの動画にハマっている。

昨晩は夕食後、テレビにかじりついて「巨人×阪神戦」を私は観戦していた(じつは阪神ファンです)。妻はまだ帰宅していなかった。息子はというと、いつものように食卓のパソコンで一人で遊んでいた。
しばらくすると後ろのほうから、ゲラゲラと大笑いする息子の声が聞こえてきた。何を見ているのかと思って覗いてみたら、YouTubeの「陣内智則のコント」だった。陣内は私も好きな芸人の一人で、一時期は「エンタの神様」などもよく観ていたほうだが、それにしても「……(苦笑)」である。
息子がYouTubeで好んで見ている動画は、機関車トーマス→新幹線&電車→ピタゴラ装置→ドミノ倒し→ボウリング&ビリヤード、という変遷をたどってきたが、ここに来てどうやら「お笑いに目覚めてしまった」らしい。

8時頃に妻が帰宅したので、半ば冗談で「息子が将来、“陣内の弟子になりたい!”なんて言い出したらどうする?」という会話を交わした。仮にそのような事態が生じたら、親としては大反対するしかないだろうと思った。
私自身はカウンセラーという収入が不安定な仕事(会社員と比べたら)に従事しているが、「芸人として食っていく」なんて、それとは比べ物にならないくらいにはるかに困難だろう。ゆえに“芸人の道”は選択してほしくないのが親の本音だ。
良し悪しは別にして、「こういうのを“親心”と呼ぶのだろうな」と思ったのだった。
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『十牛図』から連想したこと

2008年10月03日 | 日記 ・ 雑文
mixiのコミュニティ「カウンセリング広場」内の東洋の知恵トピックに、人間の成長のプロセスを描いている禅のテキスト、『十牛図』を最近UPした。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=20359015&comment_count=41&comm_id=2337193

この図をぼんやりと眺めながら、「人はどうして“真の自己”(牛の絵で象徴されている)に対して、手を差し伸べる気にならないのだろうか?」ということが、大きな問題点として浮かび上がってきた。
なぜ、どうして、“ありのままの自分”を否定し、“なりたい自分”や“あるべき自分”を欲するのだろうか? という問題である。

かくいう私も会社員時代にうつ病を患ったとき、無力・無気力でただ毎日が「起きて、食べて、クソして、寝るだけ」に費やされていたとき、「こんな状態が続くのであれば、毎日がつらくて苦しいだけだ。生きている意味がない。死んでしまえばこの苦しみからも解放されるだろう」と自殺願望を抱いたので、この問題は決して他人事ではない。
この極限状態から脱することができたのは、“自己構造もしくは価値体系の崩壊”によってであった。心理学的な立場から見れば、“飛躍した”とも表現できるだろうが、私自身の経験の世界においては、まさに“崩壊した”としか呼べないような凄まじい経験だった。しかもこの出来事は、カウンセリングなどまったく関係なしに、本当に一人で自宅にいたときに起きたのである。

現在の私に確かに言えるのは、「自己概念というものは、それくらい本人にとっては大切なものである。その大切さは“生きること”以上の場合もある」ということだ。「自己を放棄して生き続けるくらいなら、私は死を選択する!」という人間は決して稀ではない。かつての私がそうだったように、年間何万人にも上る自殺者たちが、そのことを証明してくれているように私には思えるのである。
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