記事の更新がとても久しぶりとなります。
何だか、まだ考えが纏まらないのですが、「7つの習慣」の効果性について書きたくなりました。
文章が雑になってしまいそうでスミマセン。何記事か続けてUPするかもしれません。これらは一般論ではなく、個人的な思いです。
実を言うと、今は昔のように毎日「7つの習慣」を読んでいる訳ではありません。
私が「7つの習慣」を日課のように読んでいたのは、2013年の初頭から2016年の初夏くらいまでです。
時間が少ないときは、一日一頁でも良いので読むことに決めていました。普通は一日に6~7ページ読み進めていました。
そうすることで、約3年間で6回ほど「7つの習慣」を通読することになりました。
これは決して義務感からや自分に課したノルマとしてやっていた訳では無いのです。
ここが重要なのですが、好きでやっていたのです。
毎朝、早い時間に起きて顔を洗ってから「7つの習慣」を開いて続きを読む。ゆっくりと意味をかみしめながら読む。
そして数ページ読んで霧の良い所で読むのをやめる。そして「7つの習慣」が語りかけてくれた内容を自分なりに吟味する。
時間にして10~20分くらいでしょうか?
この儀式をすることで毎日いいスタートが切れるように感じたし、実際に一日の良い出だしとなってくれたのです。
きっとこの感覚は、信仰の熱い人がその宗教の経典を欠かさずに読むことで心に安堵感が訪れる感覚と似ているのかもしれません。
私にとって「7つの習慣」を読む行為は、どこか宗教者の祈りに似た行為だったみたいです。
「7つの習慣」の中でも、プロテスタンティズムの革命を起こしたマルチン・ルターの話しがちょっと出てきます。(どのページだったか今探せないのですが)
ルターは忙しい日には、祈る時間をいつもより1時間増やしたようです。
クリスチャンだって忙しくてやることが沢山あるなら、祈る時間を短く切り上げるのが、一般的感覚かと思うのですが、ルターは神様の力によって、物事の結果が決まると考えていたんでしょうね。
「7つの習慣」は信仰とは一切関係のない本ですが、”原則”という概念を大切にしています。
「ものごとの結果を支配するのは原則だ」と考えるのです。
人間はいくらでも自分の価値観に従って行動できるけれど、その結果がどうなるかは個々人の選択ではなく原則が支配するという考え方です。
つまり「原則に則った行動であれば結果も付いてくる」、「もし物事が上手くいってないのであれば、それはどこか原則に反していませんか?」という立場をとっているのです。
私はときおり「現代(20世紀の半ばくらいから)は原則が人々の心に原則が根付きにくい時代なのかな?」と思います。
なぜかというと多様な価値観を認める時代でもあるからです。
これは一概に悪いことではありません。
それどころか、昔風の価値観(例えばですが、男はこうあるべきだ!とか女はこうあるべきだ!とか仕事とはこういうものだ!とか、人間は結婚して家庭をもって初めて一人前だ!とか)を押し付けられると適わないなと思います。(でもまだそれなりに、そういう言動や態度を取る人はいますが。。。)
でも本当は多様な価値観を認めることと原則を意識することは両立できる概念ですし、そうあって欲しいと思います。
けれど現代は「色々な価値観があっていいし、何を大事にするかは誰かに迷惑をかけなければそれぞれで良い」とする人は増えてきている(因みに私もそうです)のですが、一方で原則の重要性は薄れてきているというか?そもそも日常生活で「原則」という言葉に意識的になっている人も少ないと思います。
例えば一般論で「何事も、物事には原理原則ってものがあるよね?」と言うと、多くの人が「それはそうだよね」と答えるかもしれません。
けれどここで終わってしまっている気がしてならないのです。一般論としての(何となくの概念としての)原則の存在は認めても、"個人の生活に原則が介在している"と普段から意識している人は少ないのです。
そして逆に、いろんな価値観があって良いとする現代の風潮の中で、自分の都合の良い解釈で生きている人も多いと感じるのです。(ここで問題となるのは、"誰かに迷惑かけてなけりゃそれでいいじゃないか!"という定型文という言える切り返しですが、中には自分が自覚していないだけで、人に迷惑をかけている人もいると思います。自分の価値観の正当化が完成されてしまっているので、そのことに気づいていないこともあるように感じます)
何が言いたいかというと、多くの人は
「価値観が行動を決める」⇒「行動が結果を決める」
と考えているのです。
それに対して「7つの習慣」は、「人は行動を選択できるが、その結果を(長期的に見て)支配するのは原則である」としています。
より良い人生にするためには、それに適う行動をしなければなりませんが、行動する理由は、より良い人生だと言える結果を求めるからです。
けれど、その結果を決定しているのが「(価値観から出た)行動ではなくて、原則であるならば、原則を深く理解して根付かせなければより良い人生にならない」という結論になります。
つまり、ものの見方が根底から変わってくる訳ですが、「7つの習慣」では世界を見るものの見方を「パラダイム」といいいます。
この「原則」と「パラダイム」こそが「7つの習慣」の思想的基盤になっています。
何だか、まだ考えが纏まらないのですが、「7つの習慣」の効果性について書きたくなりました。
文章が雑になってしまいそうでスミマセン。何記事か続けてUPするかもしれません。これらは一般論ではなく、個人的な思いです。
実を言うと、今は昔のように毎日「7つの習慣」を読んでいる訳ではありません。
私が「7つの習慣」を日課のように読んでいたのは、2013年の初頭から2016年の初夏くらいまでです。
時間が少ないときは、一日一頁でも良いので読むことに決めていました。普通は一日に6~7ページ読み進めていました。
そうすることで、約3年間で6回ほど「7つの習慣」を通読することになりました。
これは決して義務感からや自分に課したノルマとしてやっていた訳では無いのです。
ここが重要なのですが、好きでやっていたのです。
毎朝、早い時間に起きて顔を洗ってから「7つの習慣」を開いて続きを読む。ゆっくりと意味をかみしめながら読む。
そして数ページ読んで霧の良い所で読むのをやめる。そして「7つの習慣」が語りかけてくれた内容を自分なりに吟味する。
時間にして10~20分くらいでしょうか?
この儀式をすることで毎日いいスタートが切れるように感じたし、実際に一日の良い出だしとなってくれたのです。
きっとこの感覚は、信仰の熱い人がその宗教の経典を欠かさずに読むことで心に安堵感が訪れる感覚と似ているのかもしれません。
私にとって「7つの習慣」を読む行為は、どこか宗教者の祈りに似た行為だったみたいです。
「7つの習慣」の中でも、プロテスタンティズムの革命を起こしたマルチン・ルターの話しがちょっと出てきます。(どのページだったか今探せないのですが)
ルターは忙しい日には、祈る時間をいつもより1時間増やしたようです。
クリスチャンだって忙しくてやることが沢山あるなら、祈る時間を短く切り上げるのが、一般的感覚かと思うのですが、ルターは神様の力によって、物事の結果が決まると考えていたんでしょうね。
「7つの習慣」は信仰とは一切関係のない本ですが、”原則”という概念を大切にしています。
「ものごとの結果を支配するのは原則だ」と考えるのです。
人間はいくらでも自分の価値観に従って行動できるけれど、その結果がどうなるかは個々人の選択ではなく原則が支配するという考え方です。
つまり「原則に則った行動であれば結果も付いてくる」、「もし物事が上手くいってないのであれば、それはどこか原則に反していませんか?」という立場をとっているのです。
私はときおり「現代(20世紀の半ばくらいから)は原則が人々の心に原則が根付きにくい時代なのかな?」と思います。
なぜかというと多様な価値観を認める時代でもあるからです。
これは一概に悪いことではありません。
それどころか、昔風の価値観(例えばですが、男はこうあるべきだ!とか女はこうあるべきだ!とか仕事とはこういうものだ!とか、人間は結婚して家庭をもって初めて一人前だ!とか)を押し付けられると適わないなと思います。(でもまだそれなりに、そういう言動や態度を取る人はいますが。。。)
でも本当は多様な価値観を認めることと原則を意識することは両立できる概念ですし、そうあって欲しいと思います。
けれど現代は「色々な価値観があっていいし、何を大事にするかは誰かに迷惑をかけなければそれぞれで良い」とする人は増えてきている(因みに私もそうです)のですが、一方で原則の重要性は薄れてきているというか?そもそも日常生活で「原則」という言葉に意識的になっている人も少ないと思います。
例えば一般論で「何事も、物事には原理原則ってものがあるよね?」と言うと、多くの人が「それはそうだよね」と答えるかもしれません。
けれどここで終わってしまっている気がしてならないのです。一般論としての(何となくの概念としての)原則の存在は認めても、"個人の生活に原則が介在している"と普段から意識している人は少ないのです。
そして逆に、いろんな価値観があって良いとする現代の風潮の中で、自分の都合の良い解釈で生きている人も多いと感じるのです。(ここで問題となるのは、"誰かに迷惑かけてなけりゃそれでいいじゃないか!"という定型文という言える切り返しですが、中には自分が自覚していないだけで、人に迷惑をかけている人もいると思います。自分の価値観の正当化が完成されてしまっているので、そのことに気づいていないこともあるように感じます)
何が言いたいかというと、多くの人は
「価値観が行動を決める」⇒「行動が結果を決める」
と考えているのです。
それに対して「7つの習慣」は、「人は行動を選択できるが、その結果を(長期的に見て)支配するのは原則である」としています。
より良い人生にするためには、それに適う行動をしなければなりませんが、行動する理由は、より良い人生だと言える結果を求めるからです。
けれど、その結果を決定しているのが「(価値観から出た)行動ではなくて、原則であるならば、原則を深く理解して根付かせなければより良い人生にならない」という結論になります。
つまり、ものの見方が根底から変わってくる訳ですが、「7つの習慣」では世界を見るものの見方を「パラダイム」といいいます。
この「原則」と「パラダイム」こそが「7つの習慣」の思想的基盤になっています。