野老の里

奥武蔵をメインに日帰りの山歩きを中心としたブログです

震災の教訓めいたものがあるとすれば

2020年03月12日 | tokoroの日常
東日本大震災から9年が経った。マスコミは記憶の風化を危惧するみたいな論調だけど、その割には美談仕立ての構成になっているのが本当に気に食わない。もっと教訓めいたことをやるなり、復興の影の部分を追及するのが報道の役割だろう。一部の人たちからどんなに批判を浴びようとも社会に役立つことをやらなきゃ存在意義は無いんだよ。

ボクは埼玉県民ながら福島で被災した人間で、正直滅茶苦茶辛かった。ただ福島の人たちには辛さを忘れさせてくれるくらい助けていただいた。行列に並んだ見ず知らずの人から随分とアドバイスをいただいたことは数知れず。近所の人たちからは物資面でも相当助けていただいた。家族が助け合うのは当然ではあるけれども、本当に苦しいときに他人同士が助け合えるかどうかがその国の民度の高さを表すと思っている。原発事故で浜通りから福島市に避難してきた人たちに物資の提供を求められたとき、祖母は強く反対したけど、ボクは提供することを押し切った。何故なら周囲の人たちに助けてもらってばかりいるのに、自分たちよりも苦しい状況にいる避難者を助けないのはあり得ないことだからだ。

「情けは人の為ならず」という言葉がある。僧侶の資格を持っていた母校の校長先生がこの言葉を好んで使っていたこともあって、妙に仏教めいた言葉だと常々思っていた。しかし自己責任という言葉が氾濫する現在では利他的な行動はやがて自分に返ってくるという思想はかなり重要だ。福島の人たちがボクらを助けてくれたのは何も「情けは人の為ならず」などと思ってやったことではないだろう。ただ現実に外に出て他人の助けを受けると自分もそうしなければならないという気持ちにはなった。少なくともボクは影響を受けたのは間違いない。

昨今巷を騒がす新型コロナウイルスは、トイレットペーパー騒動を始め日本人の浅ましさを見せつけてくれた。でもボクはまだ日本人には震災の時に福島の人たちが見せてくれた互助の精神を持っているものだと信じている。自己責任論ばかりが目立つ社会ではあるが、それは安全な所にしかいたことがない人間が多いからだ。本当に助けが必要なときに自己責任論を振りかざしていたら日本社会はゴッサムシティに成り下がるだろう。ボクはもう社会の役にも立たない自己責任論や偽善狩りは追放すべきだと思っている。
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