快読日記

日々の読書記録

「評伝 ナンシー関『心に一人のナンシーを』」横田増生

2012年06月23日 | ノンフィクション・社会・事件・評伝
《6/22読了 朝日新聞出版 2012年刊 【評伝 ナンシー関】 よこた・ますお(1965~)》

もう10年経つんですね。
最近で言えば、中島知子の騒動、木嶋佳苗の事件、田原俊彦の復活(なのか?)、高嶋弟の離婚裁判、そしてベッキーの存在そのものなど、「ナンシーだったらどう書いてくれるんだろう」と思いながらの10年でした。

たしかに、そろそろ“青森から上京してきた18歳の予備校生は、どのようにして、消しゴム版画家にして名コラムニストとなったのか”(帯より)を探り、ナンシー関とは何だったのか、をよ~く考えなきゃいけない時期かもしれない。

筆者に、ナンシー関への適度な距離感があって、全体的な印象が真面目なのもよかったし、
家族や幼なじみに始まって、同級生、仕事仲間、馴染みのお店のママなど、よくこれだけの人に話を聞いたなあと感心しました。
そのテレビ批評の的確さについては多くの人が指摘することでもあるけど、
さらにこの評伝は、売り込み時代のナンシーの不器用なかんじや、彼女が自身の女性性や容貌についてどう思っていたか、批判が殺到したあるコラムについて、というところにまで言及していて読み応えもありました。
関わった人のほとんどが存命で、ナンシーの死からまだ10年しか経っていない今、ここまで聞きて分析できれば御の字という気がします。

ナンシー関とはなんだったのか。
(過去形になっちゃうのが寂しいですが)

「私はただ、『私は小倉に「何故?」と問いかける者である』ことを明らかにしておきたいだけなのだ」(ナンシー関「何もそこまで」)

薄っぺらくて安っぽく、自己陶酔的で世間をあなどっている、そんな“小倉智昭的人間”に「ホントにそれでいいの?」と問いかける存在。
「人間失格」のタケイチみたいですね。
タケイチを失った今、テレビは厚顔無恥な人間を野放しにしています。

/「評伝 ナンシー関『心に一人のナンシーを』」横田増生
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