碧空の下で

人生の第四コーナーをまわって

『愛国者の憂鬱』を読んだ

2014-02-27 21:58:27 | 日記風雑感
近くの本屋で見つけた今年の2月10日発行の出来立ての新書です。すでに図書館にあるとは思わなかった。この時節にタイムリーな本です。坂本龍一と鈴木邦男の対談です。左翼右翼の対決というようなことは全くなく。もはや左翼右翼が死語になったと確信できるくらい、時代は変容している。両者の共通点は反原発、脱原発という点で共通している。その思想的な根拠を対談を通じて、述べ合っているのですが、興味深いのは、坂本龍一が音楽というヨーロッパ言語を語る自分に疑問を持ったことや、鈴木邦男が一人一人の自立が強い国を持つことになるという、旧来の国家主義を否定するのが面白いと感じた。また、三島由紀夫と高橋克己を世に出した編集者が坂本龍一の父であったとは知らなかった。鈴木邦男は三島と高橋に強い影響を受けたことを告白し、まったく面識がなかった二人が原発反対のデモで知り合った縁を奇遇というより必然ととらえるのは、理解できる。鈴木邦男にとっての天皇とは信仰である。キリスト教や仏教と同等の心の在り方の対象が天皇であったと思う。たかだか120年ぐらいの間の近代における天皇制の変容が天皇を変質させたと彼は思っている。彼の理想とする天皇はまさに象徴であり、政治的な枠組みから外れた宗教的な存在であってほしいと思っている。したがって天皇主権はもちろん、元首としての天皇も否定する。一方坂本龍一は天皇制そのものを否定する。これは宗教だから、自分は付き合う必要はないというような考えだろうと思います。ということは右翼と左翼の差は宗教性を巡る差異ぐらいしかないという感じに思われます。ぶちゃけ、それすらも、現実主義対理想主義というような観点からみれば、右翼も左翼も同じ土俵にいる。理想主義という土俵なのですが。したがって共通の敵である?現実主義に対してどう対応するかというそれぞれの思想的基盤をもっと語ってほしかった気もします。吉本隆明ならこういうかもしれません。「アジア的」なるものの基にあるのは<自然>であり「ヨーロッパ的」なるものの基は<自由>だといったヘーゲルを引用して、日本の近代が変容していった過程において、つまりは、脱亜入欧によってもたらされた思想的矛盾がいまだに、からみあって続いていると。そして我々はこれをどの視点から見るのか問われるのです。敵が攻めてくるときは戦わねばならないという視点は、為政者のあるいは統治者の視点です。それでは実際に戦う兵士の視点ではどうなのか、それを支えなければならない民衆の視点はどうなのか、威勢のいい言葉を発する人の視点はどこにあるのかよくみきわめねばなりません。と言うような気がしております。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 昔の名前で出ています | トップ | スメグマ的ファシズム »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

日記風雑感」カテゴリの最新記事