気になる写真!

このブログはその時々の好奇心で、気になった被写体を切り取り、・・・チョットだけ考えてみようと

ブルーインパレス 都心上空に飛来

2020-05-31 | 写真

医療従事者などに感謝と敬意を示す。

航空自衛隊のアクロバット飛行隊、ブルーインパルスが上空を飛ぶんだって・・・

本日は仕事休みで、ベランダで元気のない鉢を植え替え中・・・nnnn、

東急ハンズで、アルミ材などを購入するので出かける予定だった。

飛行ルートが当日発表、・・・当日とは今日だった。

都立駒込病院から・・・上野公園・・・墨田川・・・都立墨東病院・・・北上し、荒川でUターン

墨田川沿いに下り・・・多摩川の先でUターン・・・渋谷・新宿

・・・駒込病院に戻り、再度同じルートで飛来するようだった。

スカイツリーバックに・・・行ってみよう。

多くのニュースで、他にも動画などUPされているようなので、

遅ればせながら、

こんな画像を撮ってましたので

・・・撮影地は?

日時は2020-5-29 12:40~12:50位です。

コロナ感染、注意して感染せずに取り合えず・・・夏を乗り切りましょう。

ブルーインパルスの皆様、さすが整然と飛行されておりました。

 

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レオナルドがミラノに住んでいたころ

2020-05-24 | 旅行記

ロンバルディア地方の朝霧

イタリア、ロンバルディア地方は人口1000万人とイタリア全土の1/6を占め最も多く、最も豊かな地方と言われます。

北にアルプス、その西端から・・・ポー河が山麓・平野を東に流れ、ヴェネツィアのアドリア海に・・・豊かな流域です。


残念なことに最近有名になってしまいました、細菌で、

・・・2月20日 ミラノ北東の某医療機関に中年男性が・・・、医師も予期せぬCOVID-19(Coronavirus Disease 2019)コロナウイルスと診断された。

地球の裏の出来事だったはず、気が付けば院内感染・・・近隣の都市に広がり・・・3月9日イタリア全土に移動制限。

日本と違い仕事、病院、日常生活で外出する際は、行先と理由を明示した自己宣誓書を携帯する事が厳守。

この書式、イタリア日本大使館の記入例を見る限り、本格的な様式です。自己責任の下、以下宣誓する。

身分証明番号、移動の住所〇〇から▽▽まで、審査担当警察官署名まで必要です。

・・・違反にはMax.206ユーロの罰金、・・・出かける意欲が失せるでしょう。

やっと、5月18日外出原則禁止措置が段階的に解除となりました。但し、マスク携行、・・・州外の移動には自己宣誓書が必要なようです。

・・・海外では不思議の国、日本が話題になっているようです。

日本の総理が未知のウイルス来襲に戦争状態と発言したが、全世帯にマスク2枚配布で失笑を買い、いまだに大半未配布。

自主規制の甘い外出禁止だったが、・・・これも段階的に解除される。

日本は良い国なのです。

世襲議員総理ですから、戦争状態とは言ってみたが、専門家のアレモ・コレモ難しいとの声に・・・総意をまとめて最善のお願いを発表するのみだった。

平時では何もしない総理でも問題ないが、危機時にはリーダーの資質・力量が問われます。

日本国民は口先だけのリーダに愛想をつかし、不幸中の幸い、自己管理をした賢明な人々に支えられた結果でしょうね。

米、ロ、中、英に比べれば、お坊ちゃまで裏も無さそう、策士としては下手すぎる、・・・安心はできます。

しかし、市民目線が無い、現場を知らない。被害者は発熱で自宅待機を強制された人々、感染した患者、医療関係者とその家族でしょうか。

ミラノ スフォルツェスコ城、ドゥオーモから北西に7~800m、歩いて5分くらいの所にこの城があります。

このお城にも、かつてお坊ちゃまがおられましたが、実力は発揮できませんでした。

ミラノは地政学的にヨーロッパの重要な位置にあり、ミラノ王国時代は強国に囲まれ、必死な外交を繰り広げたようです。

フランス、スペイン、神聖ローマ帝国、ヴェネツィア、教皇領、ナポリ、大国が権謀術数繰り広げ・・・複雑怪奇。

・・・フランチェスカ・ロメイ氏の1996/2/1発行 講談社 絵解き美術館 レオナルド・ダ・ヴィンチを中心に、塩野七生さん「神の代理人」などを参考に考えてみた。

1395年、ロンバルディアなど広大な領地を統合した貴族のヴィスコンティ公が、神聖ローマ皇帝からミラノ公の称号を授かった。

(この時期の神聖ローマ帝国は、武力も権力もなくオーストリア周辺の連合国に対する認証程度でしょうか。)

後年、息子達がヴェネツィアと何度も対立し領土を割譲させられ、1441年には敵の傭兵隊長フランチェスコ・スフォルツァが時のミラノ公の一人娘と結婚します。

1450年、ミラノ公亡くなり、後継不在でトラブルがあったが、フランチェスコ・スフォルツァがミラノ公を名乗り、後に承認される。

城塞の左右に円塔があり、この薬局の様なデザインは、ヴィスコンティ家の紋章で、今日ACミランなどいろんな団体でアレンジして利用されています。

「人を飲み込む蛇」大蛇がサラセン人(イスラム教徒)を退治する、あるいは先祖が森にすむ人食い大蛇を退治した説、など諸説あるようです。

1466年、公国を継承した長男ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァは、音楽家などを支援するが圧政が続き・・・、

1477年、敵対する貴族3人に教会内で暗殺されます。(神の目前での行為は成功率が高く、結構多いようです)

1477年、7歳で父を亡くしたお坊ちゃま、ジャン・ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァが、ミラノ公を継承するが、母と叔父のルドヴィーコが摂政します。

(ジャン・G・M・スフォルツア(在位1476-1494)  ウィキペディアより) 

王女いや王子です、 髪の毛の描写が・・・、レオナルド・ダ・ヴィンチの作とありますが真意の程は?

1476年、フィレンツェのヴェロッキオの工房は、ヴェネツィア共和国から傭兵隊長バルトロメオの騎馬像の製作依頼を受けます。

当時レオナルドはこの工房を離れて独立していましたが、4mの巨大な騎馬像の制作と聞き助手を買って出ています。

この時期、馬の解剖に熱中し数多くの素描を残しています。

(騎馬像 イラストはセルジオ、アンドレア・リッチャルディ画)

左下は1/2の模型をまず作成、枠木の穴から細木を通し採寸しています、設置場所が屋外の台上となるので、自然光の効果を見るため実物大にトレースした像が造られている。

1478年4月26日、花の大聖堂でミサの最中、パッツイ家の出身ピサ大司教とパッツイ銀行ローマ支店長が、ライバルのメディチ家兄弟を襲った。

ピサ大司教の就任をメディチ家に妨害されて暗殺を・・・刺客は剣の扱いに不慣れで、弟を殺害したが兄ロレンツォは逃げた。

反メディチの教皇は激怒、ナポリ王国と同盟し宣戦布告したが、メディチ家当主ロレンツオは、ナポリ王国に乗り込み・・・ナポリ王と和平を結ぶことができた。

・・・陰謀のパッツイ家当主を始め多くが捕らえられ、処刑、メディチ家の天下となった。

12月にも他国に逃げた者が捕らえられ公開処刑、絞首刑の様子をレオナルドがスケッチしています。

1481年、レオナルドは、サン・ドナート・ア・スコペート修道院から、祭壇画「東方三博士の礼拝」を依頼され、2年半で完成の契約だったが、・・・

(東方三博士の礼拝 ウフィッツィ美術館)

1482年、メディチ家のロレンツォは、ミラノ公国から初代スフォルツァ公(傭兵隊長)の壮大な記念騎馬像を造れる芸術家を派遣する約束をしていた。

(ロレンツォは騎馬像の芸術家となると、ボッティチェッリは画家、レオナルドは音楽奏者以外に騎馬像の経験者だった)

レオナルドは自己紹介で、絵画や彫刻と並んで、力学や水力学、軍事工学の才能を列挙し、絵画や彫刻は誰にも劣らないと述べた。(これは良く知られています)

ミラノ君主ルドヴィコは、自分と対等にふるまう不敵な芸術家に興味を覚え、慢心した狂人か、真の天才か確かめたく彼を呼びにやった。

間もなく30歳のレオナルド・ダ・ヴィンチは、ミラノ公、ルドヴィーコ・スフォルツァに召し抱えられ、ミラノに居住した。

・・・「東方三博士の礼拝」は途中のまま、・・・依頼主の修道院は、・・・15年待ったが・・・あきらめフィリッピーノ・リッピに注文した。

ミラノのルドヴィーコ・スフォルツァは実質的な君主で、城塞の再建・拡張にフィラレーテ、ブラマンテと当時偉大な建築家が集まっていた。

古い都市を近代的な都市に、水路網、道路、病院、大聖堂ドーム、レオナルドも参加し、他に軍事機械などの合間に依頼の作品も仕上げています。

(岩窟の聖母 ルーブル美術館) 

無原罪の御宿り同心会がミラノのサン・フランチェスコ・グランデ聖堂内の礼拝堂祭壇画をレオナルドに依頼した。

完成した祭壇画は、何ヵ所かの修正要求があったようで、この作品はフランス王ルイ12世の手元に渡り、今日ルーブル美術館の所蔵。

10年後に主要部分をレオナルドが描き、一部変更の部分は弟子が描いた作品は、現在ロンドン・ナショナルギャラリーの所蔵。

(白貂を抱く貴婦人  クラクス国立美術館) 

白貂(シロテン)を抱く貴婦人と呼ばれる作品は、ルドヴィーコの愛妾チェチリア・ガレラーニの肖像と言われます。

当時の作品には、通常作品名は付けられていません。結婚のお祝いや、依頼主の肖像画、宗教画など契約者などに納められます。

後年、所有者の手を離れ、財産管理者や絵画ブローカが作品No. 作品名を付けて管理しますので、作品名は時々変わります。

レオナルドの絵の才能は評判になり、ルドヴィーコは絵画は天才と熱烈な信者になります。

人体への好奇心から密かに行っていた人体解剖を、ルドヴィーコは病院内での人体解剖を奨励し、素描から分類研究と関心が移っていきます。

(解剖 イラストはセルジオ、アンドレア・リッチャルディ画)

筋肉、神経組織、血管組織、骨格など多くの素描が残されていますが、後年(1512年頃)再度ミラノで解剖しています。

さて騎馬像の制作は遅れていて、ルドヴィーコはフィレンツェ大使に不満をもらしたとあります。

レオナルドは完全主義者であり、馬だけで6m、全体で9mも超える巨大な騎馬像を相手に何度も構想を変えています。

ついに原寸大の騎馬像の原型を作り上げ、城内の大きな中庭で公開しました。

原型と巨大なブロンズ像を動かすための巨大な機械を考案し、鋳型の覆いも考案、数学者の友人ルカの助けでブロンズ量も計算しました。

1489年、ルドヴィーコはロレンツォに、この像の制作のために鋳造職人二人をミラノに送るよう依頼します。

ルドヴィーコ公は、1483年からミラノ公のお坊ちゃまジャン・G・M・スフォルツァの摂政として権力を握ったが、彼ももう19歳。

一説には、お坊ちゃまが政治に関心を示さないように、宮廷の祭事や音楽に力を入れたとか。

フランスとヴェネツィア共和国の台頭に・・・各国は脅威を感じ、ここから政略結婚、同盟、裏切り・・・混沌としてきます。

ミラノ公、ジャン・G・M・スフォルツァとナポリ王国の長女イザベラ・ダラゴーナ(従妹にあたる)が結婚。

(イザベラ・ダラゴーナ ラファエロ画 by ウィキペディア)

レオナルドはこの結婚の式典のために、天国と軌道を回る7つの惑星を表わした舞台装置を作り上げた。

(ラファエロが1490年頃、ミラノ公妃の肖像画を描いている可能性はあるでしょうね。)

一方、スペイン(カスティーリア王国、アラゴン王国)では長女イサベルが、1490年に隣国ポルトガルの王子と結婚、対フランス同盟です。

1491年1月 ルドヴィーコ(38歳)フェッラーラ公のベアトリーチェ・デステ(15歳)が結婚。

( 「真珠を付けた婦人」ベアトリーチェ・デステ BY ウィキペディア)

長い間レオナルドの作品と伝えられていたが、現在では、ボローニャ派の画家の作品と見なされている。

聡明そうな落ち着いた感じですが、ベアトリーチェ・デステ10代の肖像です。

結婚は二重結婚で、ミラノ公がフェッラーラ公の王女と、フェッラーラ公の王子にはミラノ公の王女(妹アンナ)が嫁ぎました。

この当時ヴェネツィア共和国は、浅瀬から陸に上がってイタリア北部を勢力拡大していました。

アドリア海を拠点とした地中海貿易で、・・・潤っていました。資金は豊富、優秀な傭兵隊長の下、強大な軍事力でした。

1493年8月、北のオーストリア、神聖ローマ帝国でフリードリヒ3世が死去、息子のローマ王マクシミリアンが継承。

慣習とされたので、ローマ皇帝の戴冠にローマ訪問に、・・・ヴェネツィア共和国が阻止したので、ローマ教皇の戴冠を受けず帝位に就任。

軍隊を動かすには軍資金が必要になる・・・神聖ローマ皇帝マクシミリアンは、ミラノ公のもう一人の妹と再婚する。

1493年11月末、ミラノで代理結婚式 マクシミリアン34歳、ビアンカ・マリア・スフォルツァ(21歳)ともに再婚、・・・ウィーンで翌1494年3月結婚。

ミラノ公国は、フランスとヴェネツィアに対抗する準備を着々と進めていた。

・・・紛争は1494年1月25日ナポリ王死去、相続紛争が始まりだった。

そして、フランスのシャルル8世(24歳)ナポリ王位継承を主張して・・・。教皇が認めないとイタリアに攻め込むとやって来た。

・・・ミラノ公のお坊ちゃまは、ナポリ王国の王女と結婚しているのだった。

何故か、叔父のルドヴィーコが、シャルル君、君はナポリに行くべきだ、ミラノの公国内は通行を保証してやると・・・煽ったという説があるようです。

そして、シャルル8世は、1495年ナポリ王国を占領、・・・フランスに逃げ帰り・・・1498年事故死してしまった。

何故か1494年10月22日、25歳で・・・ジャン・ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ公 亡くなりました。

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新緑の季節に、イライラ自宅待機

2020-05-09 | 日記

2020年、ゴールデンウィーク期間中、外出したのは・・・3回くらいか

スーパーに買い物が2度ほど、スタッドレスタイヤを夏タイヤに交換作業で1度

・・・イライラするのは、政府が緊急性があり各家庭にマスク2枚お届けしますと、人気取りの無駄使い購入

ところが不良品が出て、返品・・・いまだ配達済は4%程とか、

利権がらみの随意契約、緊急性はどうしたの?

随意契約の条件、短納期で納入可能な企業だったはず、納期遅延でペナルティ、今だ未納品では、キャンセルでしょう、

中国産のマスクは色んなルートで沢山出回っており、勤務先でも1500枚購入済

高機能・高品質の国産マスクがシャープ製品始め各社の品がWebで購入できます。

・・・被害者は、日本郵便でしょうか、悪徳セールスのかんぽ生命と共に有名になりましたが、

今回200億円以上の・・・随意契約で手にした特需、マスクの全国配達料、中止になっては困ると・・・郵政族?

戦後の大半の政治家は、政治屋の跡継ぎで、就職先に政治屋を目指しているから、口先だけ、あー言えば、こー言う・・・

国民は関わりたくないと、他国と違い、宗教と政治の話はしなくなり、不健全で特異な文化国家と進んでいく。

つまらない話題はこれくらいにして、太陽の下、植物とかかわるのは、最高のストレス発散です。

これは胡蝶蘭、今年の冬はヒーターと加湿器で多少過保護にした結果、

1鉢で、4月12日ころ蕾が膨らむ

4月13日 開化の兆し

4月17日ころ 胡蝶蘭は3度目の開化ですが、今回のが葉数も多く一番大きい、

後に蕾が3つ並び、順調に生育、予想以上の大きさで咲いてくれました

4月22日 二つ目が咲きました。

裏側はスパティフィラム

4月26日 3枚目が咲きました 形を整えることにしましょう。

これは、4月30日ころのブルーベリー、たくさんの花が咲きます。

ブルーべりは大鉢が8つ有るので、手の指で受粉するが大変

菊と四つ葉のクローバです

5月4日 4枚開花しました。形は太陽方向に徐々にそろっていくでしょう。

ブルーベリは3種類栽培しているが、ラビットアイ系のホームベルが開花が一番早く、

受粉の結果、徐々に果実の形状なってきました

そして、本日5月9日現在は、結構大きくなりました

胡蝶蘭、店頭の花もこんな感じと思うが・・・こちらは葉数は12枚

もう1鉢は、葉数が16枚なのに・・・まだ咲きません。芽が出るような感じ

まだ開化しない胡蝶蘭は、下葉の8枚までは問題なかったが、9・10・11枚目の生育が悪く葉が小さい

現在16枚と葉数は多いが、・・・低温、乾燥など管理の失敗だったようです。

こちらは山椒の若木、手前は月桂樹の木、

ラベンダーなど

葉物のプランター、ラディッシュ、サニーレタス、オクラ、葉大根、青しそなど 3鉢ほど

葉大根が育ってきましたが、奥の列、古い種は発芽率が低く、明日よく観察しなければ・・・

他に、もう1本の大きい山椒の木、葉が光っているので良く見ると透明の雫のような粘性の蜜

細菌か、害虫か・・・取り合えず歯ブラシで落とし、落ちない葉は取り除き、風通しの良い所へ置き

ダニエールかオルトラン?などと素人の頭で考え、対処してやる責任があるようです、努力しよう。

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イタリア半島が荒らされた・・・何度も

2020-05-03 | 旅行記

ローマとは、・・・あれもこれも気になって、

16~17世紀の芸術家が、今日の芸術の都を創ったのは間違いないでしょう。

頬に風を感じながら、あそこはあの当時どんな状態だったかな・・・と思案するのは楽しい・・・そして歴史を学ぶ。

・・・ローマは、今度のコロナも含め、何度も何度も悲惨な状況に襲われ、そこから不屈に立ち直っています。

細菌の襲来も何度もありました、・・・これって、忘れた頃に突然襲来するのは、生物界のバランスが崩れ、生存競争?

その他多数、人間界の衝突は、・・・欲望の争い? 人口過多のひずみでしょうか?

・・・小国が周辺国と同盟を強固にするには、担保の有る無しが重要と、・・・政略結婚を実行するのは古今東西、当たり前のようです。

中世のヨーロッパで、二つの国が突然歴史の表舞台に登場してきました。

歴史上非常に重要なのですが、支配者の王侯貴族の在位年数が短く、常に王位継承の争い、政略結婚・・・多すぎて理解が難しい。

地中海西端のイベリア半島、・・・イベントは、1492年1月2日

「グラナダ無血開城」  この画像は有名です Francisco Pradilla画

左黒毛の馬上の人物・・・グラナダ王国最後の王 ポアブディル王(優柔不断?肉親と争ったあげく・・・)

対する右側、白馬の女性・・・イサベル女王・カステリア王(スペイン国のヒロイン)

隣の栗毛色の馬上・・・イサベル女王の夫、フェルナンド王・アラゴン国王(策士でしょうか)

ほぼ同じような実写?  構図は同じようです。

そして、グラナダ王国の大きな鍵を

戦勝国に手渡す儀式の様子です。(アルハンブラ宮殿の鍵でしょうか)

上記の2つの画像は、スペインで大人気の「イサベル 波乱のスペイン女王」連続TVドラマ

(かつてBS日テレで放送)の一場面でした。このTVドラマは見られました?

・・・イスラム勢力に奪われたイベリア半島をキリスト教徒が奪還する闘争(レコンキスタ)が、771年から続いていました。

独特のイスラム文化を熟成させたグラナダ王国、そして最後まで抵抗したアルハンブラ宮殿

・・・このグラナダの地は、地中海にも面し、山からの水も豊富です・・・住み易そうに思われます。

ここは世界遺産、ヘネラリーヘ離宮から望む・・・現在のアルハンブラ宮殿です。

・・・その向こうに、今日のグラナダ市内が見えます。

この宮殿から西に約10㎞(市街地が見える方向)にサンタ・フェの町が現在でもあります。

・・・1491年初めスペイン両王軍は、港町マラガ(ピカソの生誕地)の町を攻略し、

そこから内陸に山麓を100㎞、この地のアルハンブラ宮殿を包囲していたが・・・長期戦となり、

宮殿から約10㎞離れた荒れ地(サンタ・フェ)に石組の簡易城壁で囲んだ駐屯地を設けます。

包囲中の駐屯地に40歳くらいのコロンブスが、同年齢位のイサベル女王に謁見して陳情しています。

以前、1486年にも黄金郷ジパングを探したいと西回り航海の援助を要請するが、進展していなかった。

包囲すること約1年、・・・1492年1月2日、グラナダ王国は降伏となりました。


・・・探検航海のスポンサー探しの話は、

ポルトガル王国が支援したアフリカ沿岸探検から火が付きました。

ポルトガルではエンリケ王子(航海王)時代の探検を引き継ぎ、ポルトガル王ジョアン2世がアフリカ西海岸の探検を続行。

1482年になると航海が困難だったアフリカ西端部を攻略し、黄金海岸(現材のガーナ)に到達、この地に要塞を建設した。

現地では金、象牙以外に人間を奴隷として略奪・・・離島に奴隷収容所も設置し、新たな商売の奴隷貿易を開始。

1488年に探検隊はさらに南下中、嵐に遭遇し沖に流され・・・どうにか湾内に避難、・・・先に進むと海岸線は北東に続いている。

・・・アフリカ最南端を迂回できていた。

ジョアン2世は最南端通過に喜び、これでアフリカ東海岸に沿って北上するインド航路の実現が目前となった。

・・・少し前の1483年、ジェノバ港町出身のコロンブスは、ジョアン2世に航海の援助を要請していたが断られていた。

1525年頃描かれた クリストファー・コロンブス の模写(ライフ人間世界史6より)

ライフ人間世界史 6巻によれば

コロンブスは、マルコ=ポーロの「東方見聞録」に触発され、黄金郷があると信じているので探検に出たい。

20歳代半ばに、フェレンツェの医者から地球は球体、インドに行くなら西回りを勧められていた。

地球の全周はこの位の距離、これまで多くの探検で知りえた距離がこの位、残りの未踏の距離を計算すれば?

15世紀後期の世界地図(ライフ人間世界史6より)(喜望峰の少し先まで描かれていますが、探検の内容は機密のようです)

医者の推定5000海里に対し、コロンブスは約3070海里(5680㎞)とインドまでの距離を少なく見積もった。

(しかし、後年知り得た距離は、何と約18,826㎞。)

・・・サンタ・フェでは資金の工面で、教皇からの援助金転用案やユダヤ人から助成する話も飛び出し、紆余曲折の末、

イサベル女王は、グラナダが陥落し財政に余裕ができたとの進言を受け、去って行ったコロンブスを呼び戻し、航海の援助を約束した。

コロンブスとは1492年4月17日、この地「サンタ・フェ」で航海の経費と発見後の取り分などの記載された契約が締結された。

船員の募集と船の準備に約10週間かかったとあります。

1492年8月3日

(ライフ人間世界史6より)

ポルトガルの河口から旗艦船サンタ・マリア号を中心に3隻の船で出航、

・・・アフリカ西岸から西の大洋に船を走らせ・・・目標の距離には到達した、

船乗り引き返せの合唱、そんな中、午前2時、島を発見・・・朝を待って10月12日未知の陸地に(島)に上陸、

インディアンの金の鼻飾りを見て、コロンブスはインド到着の証拠だと考え、

私はジパングの島を発見できるかどうかやってみるつもりだ。”と日記に記したそうです。

15日後にキューバ島を発見、ジパングと思ったが・・・絹をまとった賢人も、純金の宮殿も見当たらない。

イサベル女王、フェルナンド王の信任状や贈り物は、・・・渡す相手が・・・見つからない。

上陸して3か月、サンタマリア号が浅瀬で座礁し、船の木材で島に砦を造り39人が駐屯することになる。

結局、・・・コロンブスは、見つからないのは・・・ジパングよりも遠くまで来てしまった。

ここは、シナ(現中国)だろうと考えることにした。

帰らなければ、・・・スペイン王に報告のため、コロンブスは東北東のルートで帰路につく。

(ライフ人間世界史6より)

途中嵐に遭遇し、・・・やっとのことで損傷した2隻が、3月4日にリスボンに到着する。

リスボン到着時に、(香料、金が豊富、住民はおとなしく簡単にキリスト教に改宗させられるなどと)

既に書き終えていた手紙をスペイン両王に送って、ポルトガルに留まった。

・・・ポルトガル王の接待を受け・・・1か月が過ぎた頃、今後の運命を決する報告に向かった。

スペイン両王の待つバルセロナの宮廷・・・歓迎を受けた

この画像も「スペインのTVドラマ」イサベラより

帰国報告は弁舌巧みだった・・・土産は現地の動物、住民、金銀パールの工芸品・装飾品、さらに布教の見通し

発見した大陸の先住民は、アフリカの人々と違う部族だった・・・黄金郷ジパングの発見は近しと思えた。

・・・黄金郷が発見できたら、キリスト教の布教・現地人を支配下にし、領有権を主張し、承認が必要となった。

領有権などを誰が承認するのか・・・これまで、ポルトガル王国だけがアフリカ沿岸の探検を続けていた

ローマ教皇が1481年、教書でアフリカ西岸のカナリヤ諸島以南の新領土はポルトガルに与えた。

スペイン王国も教皇に、大洋一帯の征服(布教の権利)と貿易の独占権を願い出た。

教皇はスペイン出身のボルジア卿が新教皇アレクサンデル6世として、1492年8月11日に就任していた。

1493年、教皇は1481年の決定を改め、西経38度以東はポルトガルに、38度以西はスペインと認めた。

(ライフ人間世界史6より)

スペインは、コロンブスに次ぎの航海を認め、1500人もの入植者や教会関係者なども送り出し、探検を続けた。

一方、ポルトガルは、教皇の承認した新規の境界線は認められないとスペインに抗議、

ポルトガルは境界線の重要性を認識しているので必死です。

両王国は隣国でライバルであったが、1490年カトリック両王の長女(約20歳)がポルトガル王子に嫁いでいる。

1494年6月、結局、スペインが譲歩し、西経46度37分まで境界線は移動することで決着した。

南アメリカ大陸の一部(ブラジル)がポルトガルの権利となった。これが後に大きな利益となる。

この地図は1502年作成とされています。(ライフ人間世界史6)

左上、キューバの先にフロリダ半島らしき描写が・・・フロリダ半島は1513年発見とされています。

ローマ教皇庁が承認しようがしまいが、我・・・関係無い、あるいは無視する連中がいても当然です。

後の海運国イギリスも当時は国力が小さく、ネーデルランドから後にオランダが独立するが重要性には気づいていなかった。

・・・毛織物生産で先進国となったフィレンツェの様な商業都市ネーデルランドでは、1477年1月ブルゴーニュ公が戦死。

その一人娘と結婚の約束をしていたのが、ハプスブルグ家のマクシミリアン公・・・一人娘からの援助要請で、急ぎ駆けつけ結婚

やがて、豊かなネーデルランドを足掛かりに国力が増大するが、1482年3月、妻の女王が事故死。

夫のマクシミリアン公は王位継承の資格がなく、嫡男フィリップが王となり、その摂政となる。

フランス王の扇動で公国内で反乱がおこり、12月に2歳の娘マルグリット(王女)を強引にフランス皇太子と婚約されられる。

ところが、天罰かフランス王ルイ1世、翌年1483年8月30日亡くなる。

嫁いだ先の皇太子はシャルル8世王として、13歳で即位(実際は、義兄ブルボン公夫妻の摂政下となる)

突然のこの絵は、1484年に13歳で描いた自画像 アルフレヒト・デューラーで北方ルネッサンスの画家

(マクシミリアン公は彼を援助している)

1486年2月、マクシミリアン公は神聖ローマ帝国の後継者(ローマ王)となり、戦費調達にネーデルランドに増税した。

・・・多くの市民・貴族の反対で内戦となり3か月も幽閉され・・・救出の帝国軍により5月に開放される。

1491年12月、フランス王シャルル8世(21歳)ブリュターニュに侵攻、ブリュターニュ公国王女(14歳)に結婚迫り、結婚した。

この王女とは前年1490年、マクシミリアン公が再婚相手として婚約していたのを・・・娘の夫に強引に横取りされた。

フランス王の二重結婚に、ローマ教皇は1492年2月結婚の追認とマクシミリアン公の王女の離婚を特赦した。

1492年10月、マクシミリアン公、何とかネーデルランドの内戦を終結させた。

1492年12月、マクシミリアン公、フランスに併合されていたブルゴーニュ伯(諸侯の領地)の奪還に侵攻した。

1493年3月、勝利し奪還に成功、フランスから1482年2歳で嫁がされ・・・離婚後も返さなかった娘も取り返した。

1493年8月、マクシミリアン公、父の死去で神聖ローマ皇帝に選出された。同年ミラノ公国スフォルツァ公女と再婚。

1500年当時の神聖ローマ帝国

ライフ人間世界史7より

デューラー作 1506年 ヴェネツィアにて描かれた祭壇画、教皇(ユリウス2世)、神聖ローマ皇帝マクシミリアン byウィキペディア

1512年 アルフレヒト・デューラーは、神聖ローマ皇帝マクシミリアンの宮廷画家となる。

・・・当時ヨーロッパの人々は、ローマへ、ローマへと・・・巡礼者。このような格好の人々が多かったようです。

巡礼者 ライフ人間世界史5より

下図の説明も、ライフ人間世界史5より

ローマは石畳では無かった、朽ちかけた建物の間の砂利道を・・・巡礼者は宗教的な案内書を持ち

「市の7つの大教会を記した地図」を見ながら順路通り進むと、教会が恩寵(オンチョウ)を授けてくれた。

例えば、ある教会に入れば、48,000年間は、自分の犯した罪の罰が猶予された。

地図の城外の左上に、サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂(San Giovanni in Laterano)

次に城壁内に入り、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂(Basilica di Santa Maria Maggiore)

その上、中央はサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂(San Giovanni in Laterano)などなど

そして、中央下・・・昔のサン・ピエトロ聖堂が道順の最後の場所にあたっていた。

・・・一ヵ所で48,000年、十分すぎると思うが・・・死後いつかは来ると信じて、最後の審判までの年数が欲しいのでしょうか?

ローマ市内は治安が乱れ、貴族のオルシーニ家、コロンナ家も、スペイン系の無法者も多いようです。

殺人・強盗は日常茶飯事、バチカンの城壁に罪人の死体が吊るされない日は無かったと言われる。

宗教界は、縁故主義で司教、枢機卿は登用され、高位聖職者のモラルは堕ち、金、女、派手な生活で財政は悪化。

1492年8月11日、就任したアレクサンデル6世は愛人の息子:チェーザレ・ボルジア(16歳)をバレンシアの大司教に就かせた。

16歳ですよ・・・周囲の抵抗を押し切って、・・・キリスト教会の教皇は、最高権力者です。

他にもボルジア家から枢機卿を5人就かせ、他に知人、友人と・・・派閥を広げなければ。

教皇は多分頭脳明晰、乱れた宗教界の改革は、・・・周囲の連中と同調しながらも・・・教皇庁を意のままにしなければ・・・。

そして、教皇には他にも子供がいて、堂々と政略結婚と武力で教皇領の再支配に動き出します。

1494年頃、新枢機卿12人を任命し、何と息子のチェーザレ(18歳)は大司教を足場に、このたび枢機卿に就いた。

さて、同じころ、フランス王国では、摂政から独り立ちした シャルル8世(24歳)が国力に酔っていたのか・・・

1494年1月25日、ナポリ王が死去し、自らのナポリ王位継承を主張、教皇はこれを認めず、ナポリは皇太子が継承した。

現在のナポリの都市は、若干治安に問題のある場所があったり、難民が多数押し寄せて大変なようですが、中世は大国です。

イタリア半島の南部大半を領土としていました。

教皇に拒否され、シャルル8世率いるフランス軍、傭兵含め約25000人、8月23日グルノーブル出発、

・・・アルプスを越え、イタリアへ

・・・ミラノ公国の摂政イル・モーロは、利害が一致しフランス軍に自国内の通行を許可、

ここミラノで、レオナルドは、「岩窟の聖母」を完成させ、

(仏、ルーブル美術館)

スフォルツァ家の初代ミラノ公のブロンズ製騎馬像の製作中だったが、準備した17トンのブロンズが

この後、戦争の危機で大砲の材料に流用されてしまう。

フランス軍はさらに南下し11月フィレンツエへ、・・・サヴォナローラが批判していたロレンツォ・メディチが2年前に突然亡くなっていた。

家督を継いだ長男ピエロがフランス軍との交渉に失敗、市民の隆起でメディチ兄弟フィレンツェから逃走、・・・臨時政府が通過を認めた。

フランスの大軍は通過する際、諸侯にナポリへの進軍を認めなければ交戦と宣言し、争いの無いままローマに向かう。

ローマも教皇も大軍相手の交戦をあきらめ、フランス軍12月31日ローマに入り、教皇が要求をのみ、1495年1月28日にナポリに向かう。

新ナポリ王は逃走し、1495年2月22日、シャルル8世はナポリに入城、ナポリ王を宣言し支配を始めた。

4月12日、教皇の呼びかけで、トルコからの防衛名目の神聖同盟(ヴェネツィア、ミラノ、スペイン、神聖ローマ帝国)を結成。

フィレンツェは不参加(サボナローラの支配下)

5月20日 情勢の変化を察知し、ナポリからシャルル8世逃げる・・・海路を断念、陸路を激しい抵抗を受け、双方多大の被害を出しながら逃げ帰った。

・・・シャルル8世がフランスに逃げ帰った頃、隣国2か国で、フランスを敵国として2重の政略結婚が決定した。

1496年10月20日、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の王子ブルゴーニュ公フィリップ(18歳)に・・・スペイン・カトリック両王の次女フアナ(18歳)が嫁ぐ。

1497年4月3日、カトリック両王の王子フアン(19歳)にマクシミリアン1世の長女マルグリット(17歳)が嫁ぐ。

・・・運命とは、

1498年シャルル8世、事故死する(城内で誤って石に頭を打ち付け、28歳で亡くなる)

ルイ12世、1499年ミラノ公国は自分が継承したと侵攻して、またもイタリアが戦場になり、多くの有名人が逃げ出すことになります。

イヤー・・・この間だけで頭が混乱、・・・王家の継承を追いかけ・・・教皇と枢機卿は金の生る木で、勝者の歴史に深く関与しているようです。

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