Altered Notes

Something New.

つぶやき集 [2]

2018-06-11 18:22:51 | つぶやき
<PTAという害悪>
社会における少子化進行の要因はいくつも存在するが、PTAもまたその遠因の一つになるものと思われる。
ご存知のように学校におけるPTAは多くの場合で形骸化しており、真に子どもたちの為というよりはPTAという組織を維持する為だけに存在している事がほとんどだ。子供たちの親は共働きで時間が無いにも関わらず、この形骸化したPTAに実質的に強制加入させられ、形式だけのPTA活動に参加させられる。このおかげで生活や仕事に著しい悪影響が出てもPTAは全く忖度してくれない。
既にPTA活動の地獄を経験しているメンバーは新たな加入者に同じ地獄を経験させるべく引きずり込む。そして自分が体験したただ辛いだけの無意味な活動を引き継がせるのだ。
こうした無益で無意味な組織の維持だけを目的にPTAは存在し続ける。その酷さ、その辛さは一般的な夫婦が「こんな大変な思いをしなければならないのなら」と、子供をもうける意思を失わせるに充分なほどマイナスの熱量を持つ。
とんでもないことである。



<握手会は誰得?>
アイドルの握手会は某巨大アイドルグループが始めてから一般に広まった。ただ、これはそれを運営する方もお金を出して参加する方もなかなかに大変なイベントである。
参加する側はアイドルと数秒間の握手と会話をする為に朝早くから出動し、会場に到着後は数時間の待ち行列を耐えなければならない。やっとお目当てのアイドルに会えて握手と挨拶をしても数秒間で”剥がし”という係の人間から強制的に移動させられる。アイドルの前から強制的に剥がされるから”剥がし”である。
これは少なくないお金を払って来てくれたファンに対しては随分と失礼な対応だが、ファンはアイドルから嫌われたくないのでそこに文句は言わないのである。
アイドル自身も非常に大変である。朝から晩まで一日中、次から次へと押し寄せるファンと数秒間ずつの握手と会話をしなければならないのである。これはかなりの重労働である。実際にこれが原因で体調を崩すアイドルは少なくない。しかもこれが基本的に毎週あるのだ。週末になると握手会という地獄のイベントをこなさなければならず、アイドルの負担も相当に大きい。
一方、運営する方も楽ではない。
まずセキュリティー面である。以前、握手会を襲撃する事件が数件発生しているが、それだけではなく、小さなトラブル・いざこざを含めれば相当に多くの問題が起きているのだが、それらに全て対処しなくてはならい。前述の”剥がし”もきちんと実施する必要がある。
巨大グループなら会場の設営だけでもかなりの労力を必要とし、安全を確保するための人員もそれなりに確保し配置しなければならない。
参加する客も運営も辛くてしんどいだけのイベントだが、結局最も得をしているのは巨大グループのトップであるボス、すなわち仕掛け人であるボスではないのか。ボスは何もせずとも懐に大きな利益が転がり込んでくるのだ。濡れ手に粟の不労所得である。このボスの側から見れば握手会というのは効率的に利益を得られる仕組みであり、流石は商売人たる発想であると感心させられる。



<岡田斗司夫氏の欠点>
岡田斗司夫氏と言えばオタキングの称号で呼ばれるようにオタク的知識と雑学知識においては他を寄せ付けないほど優秀なデータベース的頭脳の持ち主であり、自らを言論人というカテゴリーに位置づけている。確かに言論においては説得力に満ちており、論理的で判り易い説明とくだけたトークに魅了されるファンは少なくない。
しかしこの完全無欠とも思える岡田氏にも欠点は存在している。
ニコ生やYouTubeで見られる(聞ける)彼のゼミ内容を聴講してみると、細かいデータのミスが多い。多くは人の名前を間違えるケースである。人物名の間違いは本当に多い。名前の一部を間違えたり、全く別の人物と混同していたり、形は様々だが何しろ固有名詞を間違って喋るパターンは多い。話の本筋を判りやすく語る事に集中するあまり、個々のデータにまで神経が行き届かなくなっているように見える。
名前間違いだけではなく出身地の間違いもある。セルジオ・メンデスという有名なブラジルのベテランミュージシャンを「メキシコ系」と間違って紹介していた。いい加減である。
また、データの取り違えだけでなく、エピソードの事実そのものを誤認したケースもある。以前関西のTV番組で岡田氏はエリック・クラプトンの息子と北朝鮮の金正日の次男との関係を得意気に語ったのだが、クラプトンの息子がわずか4歳で亡くなっている事から根本的に事実関係そのものを勘違いしていたようである。
こうした諸々の大きなミスが無ければ岡田氏の言論人としての評価はもっと高くなると思われるが、残念である。



芸人起用 テレビ屋の無能を示すもの

2018-06-03 07:30:37 | 放送
バラエティ番組と呼ばれるものがあるが、それは果たしてバラエティ豊かなものであろうか。
どこのチャンネルのどの番組を視聴しても同じような芸人が出てきて同じような事を同じように展開していく、或いは面白おかしいトークをする。だいたい代わり映えしない内容である。予定調和の最たるものだ。

中でも最たるマンネリは「芸人の起用」に尽きるであろう。これはテレビ屋の番組制作能力の致命的な低下を示す最大の証拠だ。テレビ屋はもはや自分たちで面白いものを生み出す能力が欠落していて、しかもそれを隠そうともせずに開き直るような厚顔無恥な連中なのである。

テレビ屋は番組のフォーマットだけ決めて、後は芸人に進行をまかせて収録(録画)して、最後にディレクターが番組として成立させるように面白そうな部分をつまんで切り貼り(編集)して一丁上がり、である。要するにテレビ屋は「面白い」ものを自分たちで「創造」することができず、芸人たちに全てまかせてしまうのである。(*1)

テレビ番組が没落していった、そして今も没落中である最大の原因がここにある。余りに過度の芸人依存と、そしてそれだけであることが大きな要因だ。

なぜそうなったのか。

他の拙稿でも記しているが、やはりテレビ屋の「志の欠如」がそもそもの要因であろう。
なぜ志が欠けてしまったのか。
テレビ屋自身が持つ強大な権力に溺れてしまったからだ。テレビ屋が保持している「電波」というのは実に大きな権力そのものである。権力を持つものはやがて腐敗して没落してゆく。権力を持つ期間が長ければ長いほどその腐敗は酷い状態を呈する事になる。平易に言うなら、「あ、そうか、俺たちが苦労しなくても金は入ってくるんだ」てことに気づいてしまったのがテレビ屋のエグゼクティブ達ということだ。

「テレビ屋の芸人依存」と書いたが、それでは「芸人は絶対的に面白いのか」と言うとそんなことはないのだ。
結論から言うなら、テレビ屋が芸人に依存するのは「安く使えてそこそこ面白いものが作れる」からにほかならない。(*2)
「そこそこ面白い」というのはテレビ屋がそう思っているだけで、こちらから見れば「全くつまらない。退屈」でしかないのだが。(*3)

糞面白くない芸人でもテレビ屋が使いたがるのはとにかく「ギャラが安い」からだ。現在の芸人ブームのおかげで若年層の視聴者などは糞つまらない芸人でも結構ウケてくれる(*4)のでテレビ屋にとっては都合の良い状況がそこにある、と言える。

ならば確実に面白い傑作と呼べる番組を作るために大御所の芸人を起用する場合でも実は全く面白くはないのだ。何が面白いと思って番組を作っているのか全く理解出来ないし伝わってこないのである。
以前、脳科学者の茂木健一郎氏が芸人に対して苦言を呈することがあったが、それは完全にその通りなのである。現在の芸人の「芸」自体が完全に内向きでレベルが低い上にレベルが低い視聴者が居るのでなんとなく(ビジネスとして)成立してしまっているから、例えば世界的なスケールで普遍妥当性を持つ芸人が出てこないのだし、それを助長しているのがテレビ屋の「志の欠如」なのである。

これがテレビ番組がどこのチャンネルのどの番組を見ても「デジャヴ(既視感)」(笑)に満ちていて退屈であるそもそもの原因なのである。
本当に「テレビは終わっている」。


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<2020年5月17日:追記>
NHK民放を問わずテレビ局の芸人依存の度合いは益々高くなってきている。巷間言われているのは大手事務所の株式をてテレビ局が所有している等の動きであるが、そんなことよりテレビ局がいよいよ番組制作能力を完全に失う寸前まで来ている程自堕落になってしまっている実情が問題であろう。現在の地上波テレビ番組はどっちを見ても芸人がほぼ必ず出てくる。芸人に興味がない視聴者にとっては地獄のような有様になりつつある。ただでさえ人間的に屑である芸人たちがそこかしこに侵食しているとなると、本当に「地上波は終了した」と断言して良いのではないだろうか。うんざり、である。


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(*1)
近年はバラエティ番組だけでなく報道番組・情報番組までも芸人にまかせる傾向が強くなってきている。正にテレビ屋の無能が極まってきている証拠である。どこのチャンネル、どこの番組を見ても芸人が必ず絡んでいるといって過言ではない。いくら大手芸能事務所と放送局がズブズブの関係にあると言ってもやりすぎ感で食傷気味になる。こうなると本当にまともな人はテレビから離れていくのはいかにも当然だろう。それは放送局自身がそうなるように仕向けた結果である。うんざりだ。


(*2)
安く使えるのは新人芸人や全然面白くない駄目芸人の場合であり、有名芸人ならそこそこの出費(予算)は覚悟しなければならないのは当然である。


(*3)
さらに言うなら、別の拙稿でも書いたが芸人には一般人を差別し見下す妙な特権意識のようなものが強烈に存在し、それがまた実に鼻持ちならない嫌らしさを醸し出している。


(*4)
若年層の視聴者はつまらない芸人でも自分たちなりに面白さを見出してしまうのだろう。だから「そこそこウケる」状況が現出するのだし、テレビ屋も「面白いものが作れている」と錯覚してしまうのである。
若年層が彼らなりの面白さを見出すと書いたが、それは正に若年層なりの未成熟な感性でそう思っているだけで「絶対的な本物」ではない。その証拠にギャラの安い芸人たちのパフォーマンスは幼稚で単純で、それこそ幼稚園のお遊戯会なら似合いそうなレベルのものがほとんどである。