朝鮮総連に統合呼びかけていく~民団の改革を訴える新団長

2006年02月28日 | 支那朝鮮関連
【在日】 民団新団長「朝鮮総連に統合呼びかけていく」 [02/25]
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1140948710/

ひと:河丙〓さん=民団の改革を訴える新団長

 ◇朝鮮総連に統合呼びかけていく--河丙〓(ハビョンオク)さん

 在日韓国人の自治団体である在日本大韓民国民団(民団)の中央本部団長選挙で24日、新団長に選出され、記者会見で開口一番、「民団の歴史が変わった」と宣言した。

 「民団の改革」を旗印にした選挙戦は異例ずくめ。有力者の名誉職の色彩が強かった団長の選挙に、マニフェストを発表して政策論争をもちこんだ。そして政策の一つに北朝鮮系の朝鮮総連(在日本朝鮮人総連合会)などとの統合を打ち出した。「もはやイデオロギー対立をしている時代ではない。同じ韓民族が大同団結しないと、世界から取り残されてしまう」。実際に大阪や京都など地方レベルでは共同行事が行われているが、「中央が逆に足を引っ張ってきた」という。

 戦後まもなく日本にきて、事業家として成功したが、政治活動に積極的だったわけではない。それがいま、改革を訴えるのは「在日としての危機感」からだ。在日韓国人2世、3世の時代になって“民団離れ”が進んでいる。だからこそ、財政的に自立し、透明で開かれた民団に変えなければ、との思いが強い。

 「日本は住みいい」けれど、最期は祖国で、と考えている。それまでに「分断された祖国を次の世代に残したくない。祖国統一の第一歩を日本で実現するためにもうひと働きしたい」と語り始めると熱っぽくなる。まずは団長自ら、朝鮮総連やその他の団体を訪ねていくつもり。「温かい心で臨めば、きっと会ってくれますよ」<文・西和久/写真・野田武>

==============
 ■人物略歴
 韓国・慶尚南道生まれ。戦後来日し法政大を中退。韓国の通信社記者を経て日本でビジネスホテルなどの事業を展開中。医療法人も運営する。70歳。

毎日新聞 2006年2月25日 東京朝刊
http://www.mainichi-msn.co.jp/eye/hito/news/20060225ddm002070036000c.html


関連スレ:
【在日】民団と総連が初の共同組織 「伊賀コリアン協議会」発足[02/19]
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1140336036/

民団総連和解:組織の生き残りをかけ、新たな道に ~ 総連の民団乗っ取り!?
【在日】 総連・民団の歴史的和解は盧武鉉の悪だくみ・・・民団団長「河丙鈺」の正体







「底から這い上がって億万長者」…パチンコ業界ナンバーワン経営者の韓昌祐会長
2005年06月09日11時25分

   日本のパチンコ業界を率いる「マルハン」の東京本社会長室には韓昌祐(ハン・チャンウ、74)会長が勲章を授与された写真が大きくかけられている。

  1999年、日本政府から受けた勲3等「瑞宝章」だ。

  日本政府から勲章を受けた海外在住の韓国人は李煕健(イ・ヒゴン)新韓(シンハン)銀行創立者と韓会長の2人だけだという。

  韓会長は最近もう1つ「勲章」を授与された。 米国フォーブス誌が選定した世界億万長者ランキングで日本国内の24位にランクされたのである。 日本で上位30位以内の韓国系企業家は、孫正義ソフトバンクグループ社長(8位)に続いて2人目だ。 彼の純資産は11億ドル(約1182億円)。 フォーブス誌は「彼はあらゆる差別の中でも昨年、売上額1兆3000億円を記録し、パチンコ業界ナンバーワンを獲得した不屈の経営者だ」とし「「マルハン」の快速疾走は続くだろう」と激賛した。

  7日、東京本社で会った韓会長は「今回は日本国内24位に終わったが、来年はロッテを抜くだろう」とし「2010年には売上げ5兆円を記録し、韓国、日本を合わせて5位以内に入る」と自信をのぞかせた。

  日本屈指の企業家として登板した韓会長の人生は波乱の連続だった。

  15歳の1945年10月21日、夜11時。 会長は故郷の三千浦(サムチョンポ)近海に立った。 日本でレンガを積む仕事をしていた実兄の招きを受けてそのまま密航船に乗り込んだ。 「5~6時間もあれば行けたのに24時間もかかりました。 船が波に揺れて気がもうろうとした状態で、到着した所が下関でした。 米2袋と英語の辞書が私の荷物の全部でした。 旅館に入って横になっていたが、目がぐるぐる回って畳を手でつかもうとしていました」

  それから3年間熱心に勉強した彼は、日本の有名私立大学の法政大学経済学部に進学した。 しかし大学を卒業したとしても、韓会長のような韓国人が職を得ることができる時代ではなかった。

  そこで会長は52年当時、京都から列車で4時間の峰山で、機械20台でパチンコ事業をしていた義兄のところへ身を寄せた。パチンコとの初めての出会いだった。

  義兄の下で仕事を習った会長だったが、67年自ら「ボウリング場」事業に飛び込んだ。 ボウリングブームが吹いたときであった。しかし行きすぎた拡張戦略をし、42歳だった72年当時、60億円の借金を抱えてしまった。 今のお金に換算すれば1200億円にも達する金額だった。

  「毎日自殺しようと決意しては子供たち(7人、当時は6人)と両親の顔が浮かび、戸惑う日々が続きました。 そのようなある日、絶望の中でヘミングウェイの『老人と海』を思い出したんです。 不屈の意志で魚を捕ろうとする老人の姿が浮かび『若い私にできないわけがない』と闘志がわいたんです」

  そうして会長は「本業」のパチンコに戻ってきた。車で寝泊りをしながら全国を回った。良い店舗の位置を1つ1つ確認し、売場を1つ2つ増やしていった。

  「借金元金を1年目は毎月25万円、2年目は毎月50万円、3年目は毎月75万円ずつ返して行きました。ハングリー精神とチャレンジャー精神で粘りました。そんなとき運良く、お客さんが来るようになったんです」

  いろいろな差別が彼を困らせた。 地域社会では韓国人という理由で青年会議所(JC)にも加入できなかった。

  「悲しかったが差別はどの国にでもあることだと自分に言い聞かせました。差別を減らすためには知性と教養を増やし、経済的成功を果たして、そして地域社会に奉仕しなければならないと考え、ほかの人々が8時間仕事をするとき、15時間仕事をしました」

  95年には夢に描いた「東京入城」に成功し、売上げは幾何級数的に増えた。 マルハンは現在、日本全国に180カ所の店舗、機械台数10万台の最大規模のパチンコを誇る。 従業員も7000人に達する。

  「細心の気配りが売上げを左右します。例えばその日お金をたくさん使った顧客にはそっと近づいて『ああ、申し訳ないです』話しかけて少し玉を融通してあげたり、たばこ1箱サービスしたりするんですよ。また売り場にたばこの臭いを除去する施設を設置し、それでも足りず簡易シャワー施設まで設置した。恋人たちのための専用座席も用意しました」

  会長は「パチンコ」が持つ否定的認識を払拭させるのに成功した人物にも評価を与える。

  「パチンコというとやくざのような暴力組織や不正な金を連想するでしょう。数年前まで私の会社に入る職員たちは『父母の反対が厳しい』『彼女が別れようという』など訴えてきていました。私は衝撃を受けました。 それでどの超一流企業より、透明な経営をするという目標を立てました。 今はあらゆる収入と経費などがリアルタイムで電算処理されるようにし、金融当局も感嘆して行くほどです」

  パチンコ業界に明るい大阪商業大学の谷岡一郎学長は「『マルハン』がパチンコ業界を浄化し、パチンコに対する国民認識が改善された」と話す。

  マルハンはまた、収益金の1%を地域社会の奉仕に充てている。

  マルハンには毎年東京大学、早稲田大学など名門大卒業生を含む5000人の入社希望者が殺到する。 入社競争率は10対1を超。

  マルハンは東京証券取引所に上場するために現在金融当局と協議中だ。だが上場の目的がほかの会社と違う。

  「私は上場を通じてお金を儲けたり資金を調達したりしようとはしません。マルハンの上場は透明な会社であることを社会に知らせ、私が日本で60年間してきたことに対する社会の評価を受けようとするものです」

  「パチンコ王」と呼ばれるのに実際、パチンコの実力はどの程度かという質問に、会長は「パチンコ人生50年だが、実際にしてみたのは10回にもならず、それもせいぜい1000円程度だ」とし、大笑いしていた。

  韓会長は「お金をたくさん儲けたのかはわからないが、お金の運用については落第点」とし「私のポケットにある全財産の10億円に、信用で5億円を借り、15億円分株式を買ったのだが、今4億円になってしまった」と打ち明けた。「それで息子らにはくれぐれも株式投資はするなと言っている」と話す。

http://japanese.joins.com/article/371/64371.html?sectcode=&servcode=300






ボートピープル - Wikipedia
朝鮮半島からのボートピープル

戦前から戦後にかけ朝鮮半島からは多くの密航が行われ、密航組織や密航者の摘発が頻繁に行われた。1934年、朝鮮人の移入により治安や失業率が悪化したため、朝鮮人の移入を阻止するために朝鮮、満洲の開発を行うとともに密航の取り締まりを強化するための「朝鮮人移住対策ノ件」を閣議決定した。

1938年末には摘発された密航朝鮮人180人が強制送還されている[2]。1939年1月には300人の密航朝鮮人が強制送還された[3]。2月には密航朝鮮人128人が一網打尽に逮捕されている[4]。3月には250余名の朝鮮人を強制送還している[5]。このように余りに密航が多いため1939年春から日本内地への渡航の取り締まりを緩和するようになったが、6月22日までに日本内地への渡航証明下付出願者は40,485人に上り、漫然渡航者として19,110人が論旨され、2,000人の密航者が摘発されている[6]。また、朝鮮人のなかには渡航証明書を偽造して売りさばき巨利を貪るものもいた[7]。第二次世界大戦中にも密航者は増加し、警察による摘発も行われていた[8]。 こうした背景には当時、内地と朝鮮半島との賃金格差が大きかった事があげられる。

大戦後、北朝鮮の共産化、朝鮮戦争の混乱、済州島四・三事件の弾圧は日本への難民/密航者を大量に生んだ[9]。済州島四・三事件に続く麗水・順天事件の際にも日本への密航者が生み出された[10]。済州島出自の朝鮮人は大阪市生野区を中心に9万人以上になる[11]。

マルハン韓昌祐会長[12]や作家のキム・ギルホなどが密航で日本に入国した事を認めている[13]。孫正義の父は一族をつれて1947年に南朝鮮から密航船で日本へ移住した[14]。

『朝日新聞』1955年8月18日「65万人(警視庁公安三課調べ)の在日朝鮮人のうち密入国者が10万人を超えているといわれ、東京入国管理局管内(1都8県)では、この昨年中のべ1000人が密入出国で捕まった。全国ではこのざっと10倍になり、捕まらないのはそのまた数倍に上るだろうという」また、『朝日新聞』1959年6月16日「密入出国をしたまま登録をしていない朝鮮人がかなりいると見られているが、警視庁は約20万人ともいわれ、実際どのくらいいるかの見方はマチマチだ」また、『朝日新聞』1959年12月15日天声人語「韓国から日本に逃亡してくる者は月平均五、六百人もある。昭和二十一年から昨年末までに密入国でつかまった者が五万二千人、未逮捕一万五千人で、密入国の実数はその数倍とみられる」また、『産経新聞』1950年6月28日には、「終戦後、我国に不法入国した朝鮮人の総延人員は約20万から40万と推定され、在日朝鮮人推定80万人の中の半分をしめているとさえいわれる」という記事が掲載されている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%94%E3%83%BC%E3%83%97%E3%83%AB

「日本に来たがってたの、大勢いたんだ」~大半、自由意志で居住 戦時徴用は245人
歴史のなかの「在日」 「在日」とは何か
講演記録:日本籍朝鮮人をめぐる諸問題 ~ 何故、日本籍朝鮮人は在日社会から排除されるのか 朴一

朝鮮戦争時、韓国人25万人が同胞による虐殺の犠牲に、調査進む
NYT紙、韓国戦争の民間人虐殺でインタビュー記事掲載
韓国政府に3億4000万円賠償命令 朝鮮戦争中の大量処刑
暴かれる韓国最大のタブー「保導連盟事件」


最新の画像もっと見る