【韓国】液卵、殺菌・細菌検査なく年5億個がパン・菓子の原料に

2009年10月18日 | 支那朝鮮関連
液卵、殺菌・細菌検査なく年5億個がパン・菓子の原料に

細菌に汚染された卵がパンや菓子の原料に使用されても国内の法規定上では問題にならない。現行法では殺菌していない‘液卵’を食品の原料として使用しても問題にならず、こうした非殺菌液卵に対する検査基準さえもないからだ。

液卵とは、割った卵の卵白と卵黄をいう。中央日報が畜産物加工処理法とその施行令および施行規則、国立獣医科学検疫院長が告示する「畜産物加工基準および成分規格」のうち、卵加工品に関する内容を確認した結果だ。

これによると、現行の規定では非殺菌液卵の使用が可能だ。「固有の色と香味を持ち、異味・異臭があってはならない」という許容基準さえ満たせばいい。細菌汚染に関する規定は全くない。

農林水産食品部(農食品部)と傘下の獣医科学検疫院も本紙の質問に対し、「非殺菌液卵を細菌検査なくパンや菓子の原料として使用できる」と確認した。農食品部側は「仮に細菌に汚染された非殺菌液卵が見つかったとしても、現行法では液卵生産・流通会社を制裁・処罰することはできない」と説明した。

ソウル大のキム・ジェホン教授(獣医学)は「卵は母鶏を通して代表的な食中毒菌のサルモネラ菌などに汚染される可能性がある。非殺菌液卵は細菌検査をした後、食材として使用するのが当然だ」と指摘した。

最近、非殺菌液卵から食中毒を起こす黄色ブドウ球菌が検出されたという報道もあった。にもかかわらず、国内では法の盲点のため、全国チェーンを展開する一部の有名製パン会社でさえも非殺菌液卵を細菌検査なく使用しているのが実情だ。

匿名を求めた大型製パン会社の関係者は「非殺菌液卵はにおいをかいだり、目で見る程度の検査をした後、パン・プリンなどの材料に使ったりする」と伝えた。

◇法的に問題なく低価格

「殺菌液卵はもっと高い。問題がないから価格の安い非殺菌製品を求めるのであり、殺菌したものを求めるところはない」。

今月中旬に訪れた京畿道(キョンギド)のある卵加工メーカー。「パン工場は殺菌液卵を求めないのか」と尋ねると、社長はこのように答えた。

この社長は「殺菌施設には2億ウォン(約1500万円)以上の費用がかかり、殺菌液卵が非殺菌製品より10‐15%高い」と説明した。価格が安いうえ法的な問題もないため、当然パン会社は非殺菌液卵を好む。

業界によると、国内で1年間に消費されるタマゴ100億個のうち約10億個がパンなど各種食品の原材料として使われる。その半分の5億個以上が殺菌と細菌検査をしていないと推定される。

長いあいだ非殺菌液卵を使用し続けてきた食品会社側は「たとえサルモネラ菌などに少し汚染されたとしても、パンや菓子を高熱で焼く過程で細菌は死んでしまい、毒素は破壊される」と主張する。

このためパンのように‘焼く’食品原料には非殺菌液卵を使用し、マヨネーズなど加熱しない加工食品には殺菌液卵を使うということだ。「非殺菌液卵のために食中毒事故が発生したことはない」というのが食品企業の主張だ。

これに関しキム・ジェホン教授は「摂氏70度以上ならサルモネラ菌は死ぬが、パンを焼く前に液卵を扱う人を通して細菌が移る可能性がある」と指摘した。

◇殻卵には厳格な基準

こうした‘交差汚染’の可能性のため先進国では非殺菌液卵の使用を厳格に制限している。米国はすべての液卵の殺菌を強制している。日本の場合、非殺菌液卵を認めているが、細菌が一定以上検出されれば使用できないという基準を設けて検査をしている。

国内でも家庭で使用する殻のある卵に対しては「サルモネラ菌があってはならない」など徹底した衛生基準を適用している。また代表的な畜産加工品である牛乳・粉ミルクの場合、先進国よりも厳格に管理していると言われる。

米国と欧州連合(EU)では大腸菌が1グラム当たり10個以下なら1等級原乳と認められるが、韓国ではゼロでなければならない。セレウス菌は食中毒を起こすという理由で、粉ミルク1グラム当たり100個以上検出されてはいけない。食品の基準が厳格なスイス(1グラム当たり1000個以下)より10倍高い基準だ。米国ではセレウス菌関連規定がまったくない。

これに比べてパン・菓子などの中間材料となる液卵に対しては関連規定が少ない。農食品部と獣医科学検疫院は細菌検出基準もない非殺菌液卵関連法・制度の問題を最近認識し、改善に乗り出す動きだ。匿名を求めた政府関係者は「非殺菌液卵に対する細菌基準を来年中に設ける計画」と語った。
2009.10.21 09:41:14
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=121798&servcode=400§code=400

/【世界おもしろ法律事典】「食べ残し」使い回し禁止法/【韓国】腐った唐辛子でキムチ漬け込み用の薬味製造、倉庫からはウジ虫
「韓国人は手を洗わない」
【韓国】ソウルのアイスクリームや氷菓子の24.3% 細菌汚染 食中毒の恐れ
【韓国】ソウル地下鉄駅周辺で販売しているのり巻きの40%、『細菌わんさかわんさー』
【韓国】韓国で販売されている海苔巻きの29.7%、食中毒の危険あり(聯合ニュース)08/06/28
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1151472203/
【韓国】刺し身店10軒に1軒から大腸菌群を検出~ソウル(国民日報)08/07/09
http://news24.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1215592138/
【韓国食品】駅周辺の露天食品から大腸菌検出 ソウル市「調べるまでは当日朝作られるため問題無いと思っていた」[09/07/15]
http://takeshima.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1247622170/
【韓国】68校7万人が食中毒事故…給食中断 バイ菌だらけの学校給食(中央日報)06/06/23
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=77094&servcode=400§code=400
【韓国】飲食店‘おしぼり’は大腸菌まみれ…許容基準値の880倍も まるで便所の雑巾(中央日報)07/04/18
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=74860&servcode=400§code=400










<19世紀末の朝鮮の食肉>

日中のいちばん暑い盛りにわたしたちは発展中で活気のある町元山の、汚れて狭い路地とでこぼこした商店の屋根がひしめき合う街道に着いた。((中略))路地の悪臭はすさまじく、土ぼこりはまったくひどいもので、哀れな犬は大量にいる。また大量の血のしたたる肉片がひなたで黒ずんでいくのにいは完全に胸が悪くなった。方法のちがいが肉をこうさせてしまうので、ソウルでもほかの町でも外国人は日本人の肉屋で買わざるをえない。朝鮮人は牛の喉を切り、開いた切り口に栓をしてしまう。そうしておいてから手斧〈ちょうな〉を取り、牛の尻を死ぬまでなぐる。これには一時間ほどかかり、牛は意識を失うまで恐怖と苦痛にさいなまれる。このやり方だと放血はほんの少量で、牛肉には血液がそのまま残り、その結果重量が減らないので売り手には得というわけである。(p.223)

(松都〈ソンド〉にて。朝鮮第二の都市で開城〈ケソン〉ともいう)広い通りが一本あって、その広さは両側にならんだわらぶき小屋で狭められてはいるものの、この通りでは街は分かたれている。ここには定期市に似たざわめきと活気と小商いの光景があった。((中略))わらぶき小屋では低い台や地面に敷いたむしろの上に、ありとあらゆる朝鮮の必需品と贅沢品がならんでいる。そのなかにはイギリス製の雑貨もあれば、血を大量に含んだ牛の干し肉もある。朝鮮でした肉を見れば、だれだって菜食主義者にならざるをえない。ヤギの方法は小さな川で引っ張りまわるというもので、この方法だと癖のあるにおいが消えるといわれている。犬は首になわをかけて振りまわし、そのあとで血を抜く。朝鮮人の手にかかった仔牛の運命については前に述べた(引用者注:第2弾のp.223参照)。暑い日ざしの下ではせわしなくて汚く、哀れで不愉快な光景だった。(p.381-382)

イザベラ・バード著「朝鮮紀行?英国婦人の見た李朝末期」より
http://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri2/log/eid737.html







━━━━━━━━━━━
外食産業の祖・北橋茂男
━━━━━━━━━━━


        渡部 亮次郎

石川県羽咋郡志雄町浪敷5?10に「やわらぎの郷」と言って1000本もの桜
(ソメイヨシノ)が咲き誇る、能登有数の桜の名所がある。

聴けばここから出て大阪で「オムライス」を生み出し外食産業の元祖と
いわれる・故北橋茂男(きたはし しげお)氏が建立したものである。
毎年、春の開花時には大勢の人でにぎわう。

聖徳太子を祀る「太子殿」には田中一村画伯の天井画があり、京都三十
三間堂をかたどった「やわらぎ堂」には人間国宝・小島与一氏とその門
下による「和の姿」を表現した博多人形33体が展示されている。その他
に山門、鐘楼などがある。?
?
北橋は、こどものうちに東京に出て洋食の修業を積んだ後。神戸屋パン
の前身の神崎屋で働いた。大阪で「洋食の屋台」を考案。市内を流した
あと店をやっと持った。洋食屋とパン屋を併設していたから「パンヤの
食堂」という屋号だった。

大正11(1922)年の創業。なにわ筋汐見橋停留所前に1号店を出店した。
現在の大阪市浪速区である。

「とんかつ」も「カレー」もなんでも10銭!ホテルの朝食の10分の1で洋
食が味わえる、今のファミリーレストランのようなものだった。

当時は、素うどんや銭湯が10銭だった。ホテルの朝食は1円。スエヒロ
のステーキは、80銭だった。

後に昭和48年8月、東京から大阪のNHKに転勤した夜、ミナミの小料理屋
「唐金」に案内されたところ、女将が元「北極星」に勤務していたと自
己紹介した。

北極星って何?といぶかる私に女将は「オムライスを考案したお人です」
と説明した。知らなかった。

創業当時、雨具屋の小高さんという常連の客がいたが、この人、胃の具
合の悪く、いつもオムレツと白いご飯を食べていた。

1925(大正14)年のある日、当時20代半ばだったアイデアマンの茂男は、
「来る日もくる日も同じものでは可愛想だ」と、マッシュルームと玉ね
ぎを炒めて、トマトケチャップライスにしたものを、薄焼き卵でくるん
だ特製料理を小高さんに出した。

「おいしいやん!なんやこれ?」と大変気に入られ、「オムレツとライ
スをあわせてオムライスでんな」と、とっさに答えたのが、日本にしか
無い洋食「オムライス」の誕生だった。

「唐金」の女将は小学校を終えて、親戚の紹介で「北極星」に就職。大
東亜戦争の始まる1年前の昭和15年のことだった。「お蔭様で勤労動員に
動員される事もなしに過ごせました」とのことだった。

その後昭和11(1936)年、難波にビルを建設、永井の命名で洋食「北極星」
を開店、成功を収めた。彼の「生活の道しるべせよ北極の天に輝く明星
の如く」という言葉から取られた。以後、「北極星」は、洋食屋の草分
けとして大正から昭和、平成の3代に亘り、繁盛している。

ところが,ある日、焼肉の「ホルモン焼き」を調べていたら、大阪で豚や
牛の内臓を「ホルモン」として売り出し、あまつさえ商標登録までした
のは北橋茂男と知ってびっくりしたのだ。元「唐金」の女将に電話して
確かめた次第。

別の機会に書いたが、明治期の神戸の牛屠畜従事者の回顧によれば、屠
畜場に残された内臓肉は彼らの重要な副収入源であった。

1906(明治39)年の「神戸新聞」には屠畜場周辺地域で、粗末な大鍋で
切り刻んだ臓物を煮込んだものが1皿1銭という格安で出されており、店
の前を通っただけで異臭がした。だが、夕方からは千客万来であった。

やがて内臓肉は専門業者を通して流通するようになり、都市部では屠畜
場周辺以外にも低価格の肉料理として広がりはじめるが、決して一般的
ではなかった。

1920年代には一時的にだが「精力が増進する料理」という意味の「ホル
モン料理」の店が出来、卵、納豆、山芋などと並んで動物の内臓を出す
店が出来た。

1930年代になると、一般向けにも広まった。大阪難波の店「北極星」を
営む北橋茂男は1936年(昭和11年)頃に牛の内臓をフランス風の洋食
「ホルモン料理」として提供し、1937(昭和12)年には「北ホルモン」
の名で商標登録を出願している。

アイディアマン北橋の面目躍如といったところである。

このときの料理はホルモン(放るもん=捨てるもの)の煮込み。敗戦後他
の業者たちがホルモン「焼き」で大儲けを始めた時、北橋は商標登録の
ことを持ち出すようなことは「野暮」といって黙認した。

それがホルモン焼き普及のわけになった。だからこそ郷里に1000本のソ
メイヨシノを残すような偉業を果たしたのだ。

今になって外食産業の祖と崇められる北橋重男。人物を紹介する記事は
各種の百科事典は勿論、「ウィキペディア」にもない。電話を掛け捲っ
て突き止めたのは、生年月日=明治33年7月23日、肝臓癌で逝去したのは
昭和41年2月14日。享年65(満64)だった。2009・07・05

頂門の一針 1597号  09・07・06(月)
http://www.melma.com/backnumber_108241_4533783/



━━━━━━━━━━━
ホルモン料理は明治から
━━━━━━━━━━━

       渡部 亮次郎

日本で朝鮮料理の普及は中華よりもやや遅く、李人稙が1905(明治38)
年に上野に韓山楼という店を開いているが、客のほとんどは朝鮮人であ
り、李が間もなく朝鮮に帰国してからは消滅した。

日本併合後には日本に来る朝鮮人が増加し、1938(昭和13)年の東京市
には朝鮮料理店が37軒出来ていた。そこで出されたのは戦後の焼肉を中
心とするものではなく、伝統的朝鮮料理だった。

「焼肉」が「韓国料理」だと最近の韓国人は力むが、嘘だ。韓国で焼肉
を食っていたのは併合時代の日本人だけで、日本人は朝鮮人に焼肉(牛
肉)も砂糖は絶対食べさせなかった。このことは私が昭和48(1973)年6
月、日本担当相の招きで韓国を訪問した際、同相から聞かされた。

滞在中、実はそろそろ韓国料理に飽きが来た頃を見計ったように「明日
は大和焼きにしましょう」という。大和焼きなんて日本では聞いたこと
がなかったからいずれ日本的な料理だろうと期待した。

ところが、当日行って見ると「焼肉」ではないか。驚く私に大臣が説明
したのが「日本併合当時、我々には牛肉も砂糖も食わさなかった日本人。
牛肉に砂糖醤油をまぶして食べていた」という。

「だから焼肉は朝鮮料理ではなく大和焼き。恨みのこもった料理ですよ。
解放(独立)直後、大韓民国の1人当りの砂糖消費量は世界一になったもの
です」。

確かに敗戦後、大阪の闇市で残留韓国人の始めたのが焼き肉やホルモン
(放るもん)焼きだったから、焼肉は韓国料理説が定着した感じがある
が、真相の一端は以上の通り。

さて、ホルモン料理の歴史は明治時代に遡る。

明治期の神戸の牛屠畜従事者の回顧によれば、屠畜場に残された内臓肉
は彼らの重要な副収入源であった。

1906(明治39)年の「神戸新聞」には屠畜場周辺地域で、粗末な大鍋で
切り刻んだ臓物を煮込んだものが1皿1銭という格安で出されており、店
の前を通っただけで異臭がした。だが、夕方からは千客万来であった。

やがて内臓肉は専門業者を通して流通するようになり、都市部では屠畜
場周辺以外にも低価格の肉料理として広がりはじめるが、決して一般的
ではなかった。

1920年代には一時的にだが「精力が増進する料理」という意味の「ホル
モン料理」の店が出来、卵、納豆、山芋などと並んで動物の内臓を出す
店が出来た。

1930年代になると、一般向けにも広まった。例えば大阪難波の店「北極
星」を営む北橋茂男は1936年(昭和11年)頃に牛の内臓をフランス風の
洋食「ホルモン料理」として提供し、1937(昭和12)年には「北ホルモ
ン」の名で商標登録を出願している。

当時を知る人によると北橋は石川県出身。その縁で大政治家永井柳太郎
と親しかった。大阪に出て大衆食堂「パン屋の食堂」で当て,難波にビル
を建設、永井の命名で洋食「北極星」を開店、成功を収めた。

「ホルモン」についてはまた、女性向け雑誌『料理の友』には1936(昭
和11)年から年1度のペースで内臓料理が「ホルモン料理」として特集さ
れた。1940(昭和15)年2月号では牛や鶏の内臓のバター焼きなどの調理
法が掲載されている。

また、1936(昭和11)年には日本赤十字社主催で「ホルモン・ビタミン
展覧会」として講演や料理実演が行われている[。また、1920年代には東
京で豚の内臓を串に刺してタレで焼いた「やきとり」が売られ始め、
1940年頃には労働大衆の食として人気を博した。
出典:『ウィキペディア』2009・07・04

頂門の一針 1599号  09・07・08(水)
http://www.melma.com/backnumber_108241_4536330/


講演:「焼き肉は朝鮮半島から」 崔・東亜大教授、日韓の食文化テーマに
放るもんはホルモン


    ↓

<砂糖+醤油+日帝>

    ↓


All Aspects of Korean Cuisine Come to Light

In his new book <Food War, Culture War>, Choo Yong-ha, an ethnography professor at Kyonghee University, reveals lesser known facts that most Koreans would prefer not to know. The red chili peppered kimchi and pulgogi, which are considered as quintessential Korean cuisine, were, in fact, something unheard of among the majority of 19th century Koreans. Furthermore, the enticing sweet taste of puglogi is a Japanese invention from early this century.

http://web.singnet.com.sg/~astarz/page8.html


【韓国の料理の全ての面が明るみになる】
チュ・ヨンハ(キョンヒ大学の民族誌学教授)は、彼の新しい本「食べ物戦争、
文化戦争」で、大部分の韓国人が知りたくないほとんど知られていない事実を
暴露します。実際、典型的な韓国の料理とみなされる唐辛子キムチとプルコギ
は、19世紀の韓国人の大多数が聞いたことのないものでした。
さらに、プルコギの魅惑的な甘い味は、今世紀初期からの日本の発明です。
http://teri.2ch.net/korea/kako/971/971698711.html

最新の画像もっと見る