これだけは、書き記しておきたいと思いました。
「大友三」が管理している児童遊園の一件です。
生野区内で引越しするなら、この「町内」が第一候補!やと最近、考えるようになりました。
私が育った「大一南」も昔々は、隣近所の「互助」は、戦前のからの流れをひいて「密」でありました。家でのお葬式には、隣三軒で炊き出しをしたり、「親睦会の旅行」もありましたっけ。ただし、私の勝手な観察では、在日朝鮮人・韓国人と日本人の混住する地域であり、なにせ戦後のことですから、「隔たり」がありました。
関東大震災を経験し、「水国事件」にも関与した経験をもつ父親は、自らの過去から学んでともうしますが、「媚びず、驕らず、蔑まず」の人でした。晩年近くなっての彼の学びは、「日本と朝鮮の歴史」、日本の古代史・・・。
だから、和服ののっぽのおっちゃんは、近所の朝鮮籍のおっちゃたちとは、平らに付き合いもし、時には「お世話」をすることがあったと存じます。証拠としては、私小学生の頃、あの力道山の試合を、いちばん前の席で見物したこと・・・。「黒田のおっちゃん」の計らいです。
さて、今は同一地名表示になってしまっている地域ですが、旧町名や「校区」を絡めると、極めて多様な変遷をたどっています。
それは、地権者(地主)と借家家主が輻輳しているという点です。
布施市(東大阪市)に近い地域と西の地域では「地主」さんが異なっているという戦前からの歴史でしょうか。加えて、空襲はなかったものの、疎開した住民が戻ることなく・・・。
しかし、この界隈で、地権者と家主がおそらく明確に把握しておられるのが、「木村工務店」さんです。昭和10年代の住宅不足の中で、地主から土地を借り、長屋建築を建てて、需要に応じられた会社です。
わたしは詳しいことは知りません。
ただ、私が中学になった頃に、「建て替えた方が安い」という大改築をしました。もちろん、こちらの費用です。父の死後も、屋根の吹き替えはじめ、母が改築しました。
しかし、戦前に建築された長屋は、実にしっかりしているようです。
今話題にしている界隈は、「しっかりた建築」の長屋です。
ただし、安い家賃の入居者にたいしては、前の先代は冷たかったみたい・・・。どうかな?
母に請われて今のマンションに引っ越して、もう17年をこえました。息子は就職?そんなあたりで。広いマンションなど不要だったけれど、実家の斜め前!
家賃と管理費で「10万5000円」とことでしたが、間にたって貰った「たいせい」さんのききで、「〇〇さんのねぇちゃんなら」と1万円引き・・・。ただし、「母の看取り」を前提でしたので、ほぼ「居ぬき」。畳もそのまま、床も・・・。割れかかった窓ガラスも、みんな、みんな、そのまま!
これが17年前・・・。「貯金も百万ない」「「定期預金も保険も解約した」と、呆け母ハクトーバが泣きついてきよったのです。
わたくしは、せめてこんな形でも、自分の思いや記録を残すことだけで、心静かになっています。 母ハクトーバには、私の一人息子の世話を、いや弟にもみてもらいまして、「息子」は取り敢えず?「順調な恵まれた暮らし」を営んでいる?
いや、単身赴任とかいろいろあっても、家族親族の支えあいの中で、孫たちは・・・。
あれあれ!なぜ、嬉しかったには書いておりません。児童公園に残した「袋」を生活ゴミとして出さねばと、昼前に行ったら・・・。
すでに、どなたかが、ポリ袋の口を結んで出して下さっていました。