昨日に続いて、今日の映像は『自由へのトンネル』の前半とそのまとめを・・・。1999年“SWR”で製作されたドキュメンタリー作品で、ヒストリーChで、「ベルリンの壁崩壊の特集」の際、録画。このトンネルは「トンネル57」。映画『トンネル』の元になった実話かな。
2001年製作『トンネル』も手元にあり、今みかけましたが、しかし、ドキュメンタリーの方が、いろいろヤバい話も明かされていて、おもろいですわ。 17:08
以下、昨日からみている <ドキュメンタリー『自由へのトンネル』のあらすじ-一部>
[N]:東西に分断されました。その翌年の春、西ベルリンに住む学生らは東ベルリンに向けてトンネルを掘りはじめます。
東ベルリンから逃げてきたウリプファイファー ハッソ・ヘルシェルに、イタリアから、西ベルリンの美術学校に留学していた ドメニコ・セスタ(ミモ)、ルイジ・スピナ(ジジ)は会います。
註イタリア人の二人は、ベルリンの壁、まだ有刺鉄線レベルが敷かれた後も、東ベルリンに入ることができました。仲間のペーターを東から西へ逃れさせたいと「トンネル」計画を建て、ハッソとウリに相談・・・。ジジとミモは、お金持ちなんかな?最初は、集めた資金で掘り進めるけれど、途中、「トンネルを題材とした映画製作り話を聞き、そのスタッフに話を持ちかけ、協力を得ようとするエピソードがありました。CIAも承知・・・。
N:「なお、この映像は、トンネルを掘る資金提供と引き換えに、アメリカNBCが撮った映像を用いて、構成したものです。」
タイトル 『自由へのトンネル』 帰れタレントへ
#1ハンブルクの病院 1999年 入院中のジジ(ルイス・スピナ)をペーター・シュミット・フォーゲルを訪ねる。38年ぶりの再会である。
ベルリンの壁が構築される前の状況について語る二人。
8年13日 ラジオニュースで知った
# テレビ映像とジジの語り
#ドメニコ・セスタ(ミモ)の証言とニュース映像 (高まる緊張)
#友人ペーターについて語るドメニコ
#フィルム映像 (飛び交う手りゅう弾)
始めは通り抜けるのは簡単だった。建物から飛び降りれば、そこは西ベルリン。ところが時間の経過とともに、緊張と対立、東ベルリンによる「壁」が増強され、封鎖状態が緩和される見通しはなくなった。
#1962年2月7日の報道で。駅構内に地下鉄を掘ろうとしたことが発覚。このニュースを聞いた二人のイタリア人は、3月、自分たちもトンネルを掘ることを考えた。
#ハッソとウリに出会う
#ハッソ・ヘルシェル 1999年 トラクターを運転するハッソと彼の回顧談
#ニュース映像 1953年6月の東ベルリンの蜂起 非常事態宣言
#拉致、逮捕、4年半 収監されたハッソヘルシェル
#1958年 27年のときに釈放、妹アニタの友人であるウリ・プファイファーとの出会い
#ニュース映像 ブランデルク門の有刺鉄線を挟んで・・・
#ウリプファイファー 友人から下水道を通れば、西ベルリンにいけると知り、参加。脱出成功。しかし、恋人は連れていけなかった。その後。東ベルリンは、下水道を見張るようになり、逮捕、収監した。
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画像を少しだけいれました。
河合純枝著『地下のベルリン』(1998年8月初版,文藝春秋)に触発されて、取り出したVHSテープでした。
私がみたドキュメンタリー『自由へのトンネル』は、1963年に放映されたオリジナル映像に加えて、関係者たちが38年前の出来事について回顧したり、再会するというシーンで構成されています。ドミニコ・セスタ(ミモ)は、おそらくイタリアに住んでいるのでしょう。証言の映像だけです。
最後の方に、ハッソの家をウリと誰かが訪れる3人の再会シーンがありましたが、誰だったか?むっ!メモなし。また観るのはもうしんどいっ。
なお、1999年年に放映されたドキュメンタリーは、2004年に同じ『自由へのトンネル』というタイトルで、イタリア=ハンガリー=イギリスTVMで、再現シーンなどを入れて制作されたとのこと。情報だけです。
映画『トンネル』は2001年に制作され、主人公は水泳選手のハリー・メメヒャーで、モデルはハッソヘッシェル。これはDVDも発売されている・・・.
追記 8月19日5:59
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