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【安倍晋三の出自を暴く~満州人脈起源の『日韓癒着』の日本保守陣営①】第二十二談

2015-11-24 15:39:20 | 安倍晋三の出自を暴く
 「満州人脈とは満州国で形成された右派勢力をいう。敗戦後の日本は、此奴等と戦後の戦後韓国の軍事独裁政権の中で大きな影響力を及ぼした日韓併合統治に此奴等に協力した多くの親日派朝鮮人と共に造られて来た。満州人脈の奴等は日本民族の味方の振りをし乍、実は日本民族を欺き、密かに日本の政治を占有し、牛耳って来た。満州人脈の日本人と朝鮮人は日韓基本条約の締結以来関係を深め、所謂、『日韓癒着』と呼ばれる日本保守陣営との蜜月関係を築いて、一見反目しあう形を示し乍もその協力関係は今も両国の世襲議員等ちょん議員の間で続いている。」

 不思議なことに敗戦後のGHQは満州人脈の此奴等に占領国日本の政治を委ねたが、其の心は勝共の防波堤として日韓に磐石な関係を結ばせるには、満州人脈の日韓両人脈を復活させることが火急の課題だったからである。


*戦後活躍した満州人脈の人物達(wikiより)

岸信介(1936年(昭和11年)10月に満州国国務院実業部総務司長、1937年(昭和12年)7月に産業部次長、1939年(昭和14年)3月には総務庁次長に就任)

佐藤栄作(当時鉄道省から上海の華中鉄道設立のために出向)

池田勇人

椎名悦三郎(満州国産業部鉱工司長)

吉田茂(1907年(明治40年)2月から1909年(明治42年)まで駐奉天日本領事館に領事官補として赴任、1925年(大正14年)10月から昭和3年(1928年)まで駐中華民国奉天・大日本帝国総領事)

大平正芳(1939年(昭和14年)6月20日から1940年(昭和15年)10月まで興亜院蒙疆連絡部経済課主任(1939年10月から経済課長)として着任)

愛知揆一(興亜院華北連絡部書記官)

長沼弘毅(興亜院華中連絡部書記官)

鮎川義介(満州重工業開発株式会社総裁)

麻生太賀吉

福家俊一(上海の国策新聞「大陸新報」社長)

影佐禎昭(陸軍中将。特務機関員。谷垣禎一の祖父)

古海忠之(満州国総務庁次長)戦後ニューオータニ会長等満州人脈によって?

岩畔豪雄 終戦、再び日米交渉へ

里見 甫 里見は「電通が今のような広告会社になったきっかけを作った一人である」とした佐野眞一の一文がある。電通通信史刊行会の「電通通信史」 (1976; 以下『電通史』と略す) によると現在の広告代理店の電通は光永星郎を創業者とする「日本電報通信社」という通信社に始まっている。光永は日清戦争で従軍記者だった経験をもつが、戦場から記事を書いても新聞が記事を掲載しなかったり、掲載しても時間が遅いなどに不満をもち自ら通信社を興し日本中の新聞に迅速にニュースを送るという大望を抱いた (詳細は通信社の歴史を参照) 。

笹川良一 国粋大衆党総裁、衆議院議員、財団法人日本船舶振興会(現公益財団法人日本財団)会長、全日本カレー工業協同組合特別顧問、福岡工業大学理事長を務めた。

児玉誉士夫 岸信介と文鮮明とを結び合わせる。上海に児玉機関を創設。三男はTBSサービス社長の児玉守弘~日本最大級の右翼の倅が自民の燐寸ポンプ機関似非左翼?


 続 く。






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