若い世代の半島人(=帰化朝鮮人および在朝鮮人)は、捏造されてきた歴史を真実と信じてしまっているものが多い。もし、史実の真を知ったなら奴等の日本に対する態度は変わろうか?
確かに、明治維新の立役者であった者たちには、半島を日本の影響下に置こうと考えるものも多かった。そもそも、そのように彼等が志向したのも、毛唐列強の侵略が極東亜細亜まで及んで来たからだ。ここで、東亜細亜が団結しなければ、極東亜細亜は毛唐列強の餌食になると維新の元獅子たちは考えたのであった。そう言う単純な発想から、当時鎖国をしていた朝鮮を、わが日本が交易を結ぼうとの邪な考えから国交を迫ったと書いた隅谷三喜男のような半島人の書は、全く信用出来るものではない。当時日本が朝鮮との交易を強く望む理由など如何診ても見当たらないのだ。寧ろ、元獅子達が望んだのは、毛唐に対抗する為の東亜細亜の国との軍事同盟を結ぶことに在ったのだ。
ところが、彼等元獅子達の思惑は、朝鮮王族に拒否されてしまったのだ。そこで、仕方無く西郷隆盛は「征韓論」を打ち出さざるを得なくなったのだ。此処で態々朝鮮王族に傍点を付したのは、清朝の属国であった当時の朝鮮を「王朝」等とは、呼べないからである。テレビで流す韓国ドラマでは朝鮮王朝などと勝手に呼称し、「朝廷」云々の言葉も使うが、季王族は覇王であり、覇王は王朝足り得ないのだ。イギリス等欧州の國は歴史上、ナポレオンは皇帝を名乗ったが、有史以来現在に至るまで、欧州には皇族も朝廷も無かったのである。
このように、当時の日本は半島に侵略して半島を我が物にしようなどと考えたものではなく、毛唐列強、特に露スケの南下を食い止めんとして、朝鮮を開国せんとしていたのだ。当時の朝鮮は、毛唐列強からは「隠者」の國と呼ばれていて、毛唐列強も極東への勢力拡大を狙って、朝鮮に開国を強要していたのだ。もし、半島の開国を毛唐列強からの圧力でなされたら、日本を含む極東亜細亜は毛唐列強に踏み躙られることは明らかなことだった。そこで日本は海軍を使って一計を謀り、まんまと成功させて半島の開国に成功させたのだ。
日本がまんまと半島の開国に成功した後、露スケの南下を恐れていた米英も早速、半島と通商条約を結ぶことになった。
ところが此処で問題となったのは、清韓宗属の関係であった。半島は清国の藩邦として歴史を刻んで来たのであり、当時、清国で力を振るっていた李鴻章は半島の宗主権を奪われまいとし、日本は清国のこの大政治家と確執を深めて行った。李鴻章の日本に対する対応は既に軍事の近代化が為されていた日本との前面衝突を避けながらも真に巧みなものであった。
兎に角、この頃の朝鮮半島は日中・英米・独逸・露・仏会い乱れ、全く囂しい態であったのだ。各国暗躍する中で、朝鮮国内に大きな事件が起きたのだ。東学党の乱である。ところが、この乱が起きても鎮圧軍は何と千人にも満たない程度のものであった。そこで李鴻章が鎮圧軍を送ろうとしたことで、一気に日中関係は険悪化し、日清戦争への火種は燻り始めたのだ。
さて、日本は李鴻章に優位を取らんと、一時は日本に牙剥いた大院君(朝鮮王の父)を担ぎ出し、クーデターを起こさせて、親日派政府を打ち立てて、半島に駐留していた清軍の追い出しに取り掛かった。
さて交々日清戦争は日本の一方的とも言える勝利に終わった。ところで、この戦争に対する日本の国内の世論は如何なる見方をしていたか?
先にも述べたように、半島を占有することでの日本の経済的利益は当面大きく見込めるものではなく、現に財閥も触手を動かす気配を見せなかったのである。日本の世論の大勢は、この戦争に極めて肯定的な反応をし、清国の属藩としての半島を独立させた聖戦だったと賛美したのだ。
しかし、この戦争を暗策した首謀の陸奥の考えは、別にあった。彼はこの戦争を清国との関係を優位にする政策の一貫としか考えなかったと言う発言をしていたのだある。この見方には山県有朋も川上操六も同調するものであったされている。為政者の冷徹な策略と一般国民の思いとは、何時如何なるときも、また、どんな政府の下でも大きな乖離があることを証明するものである。
此処で、誤解を恐れて書き込むが、為政者達の冷徹さを、冷厳と書き換えたい。彼等の思いを平たく言えば、国内的には国威の発揚を、対外的には清国に、日本侮りがたしの思いを叩き込んでおくだけに止め、本音は日本の犠牲を大きく拡大してまでとの考えは無かったのだ。為政者が冷厳冷徹にことに処したのは、自国の利益と国民への計らいを絶えず念頭に置くものと言えたのだ。
も一つ二つ大事なことを忘れていた。
その一つ、国民には諦観とお上の威光に負ける癖から抜け切れない。そのことには、お上の威光で日本が是だけの國に再生できたと信じ込んでいることにも一因がある。それから、政治屋や官僚の能力の無さだ。国際化の今日を生き抜くための打開策を、余りに安易なところで止めているのだ。
さて、話を明治に戻すと、大隈重信の能力にはお粗末過ぎる限界があった。大局を見通す能力など無かったのだ。結局、毛唐が日本を蹂躙し易くしただけなのだ。〇〇人鳩山もこの手の者である。大熊が来島恒喜に爆弾で片足を吹っ飛ばされたのも頷ける。小物が日本の舵取りをしようとすればこうなるのだ。
大隈の直ぐ後に出た陸奥宗光は緻密な計算で毛唐列強に対峙した。当時の日本が決して良好の関係に無かった英の思惑を読み切って、毛唐列強との行き詰った外交の活路を開く交渉を英一本に絞ることで、打開策と見出さんとしたのだ。彼の予見は的中した。
先ずは政治屋には、日本を担う覚悟と責任感と、現状を緻密かつ的確に分析できる能力と、はたまた末来を築く処方を適切に行っていく実行力が必要であり、これ等どの一つが欠けようとも、学業が優れているだけでは如何にもならぬのだ!
さて、英を味方に付けたことで、日清戦争も日本に有利に展開し、この戦勝で大いなる国威発揚がなったのである。伊藤と李鴻章は旧知の間柄と雖も、日本の講和条項は厳しいもので、李鴻章を窮地に追い込むほどのものだった。
ところが、日本の無理難題が織り込まれた講和締結へと進む中、日本の壮士が李鴻章を銃弾で負傷させる事件が起きた。この件で日本側は負い目を負わされることは必然で、散々叩いていた李鴻章を、逆に応援する世論が忽ち中国内で沸き起こったのだ。外国との交渉ごとを有利に運ぶには、相手国が国民諸共全体主義で固まっていない以上、相手国の世論にも慎重でなければ上手く行かないものなのだ。されども。此処は何とか切り抜けて、日本はこの交渉で中国に過重とも言える負担を負わすことに成功したのだ。
しかし、此処に立ちはだかったのは言わずと知れた毛唐列強だったのである。英米は中立的立場をとり、毛唐列強の中でも露スケが日本への遼東半島の割譲に強く抗議をして来たのである。
此処で怯めば犠牲を払わされた国内の世論からこっぴどく批難を浴びせられるのは必然だが、相手が露スケではとても力の及ぶものではないと、陸奥は冷静に判断していたのだ。流石の陸奥も進退窮まった。想像を絶する困難を才覚と覚悟で乗り切ってきた陸奥も、此処に窮り心労を重ね、ついに病床に伏せることになり、間もなく息を引き取ったのだ。享年五十三歳であった。
日本は既に大院君と手を結ぶ手を打っていたので、朝鮮軍とは直接戦うことなく、半島を日本の影響下に置くことが出来たのだ。
続く
確かに、明治維新の立役者であった者たちには、半島を日本の影響下に置こうと考えるものも多かった。そもそも、そのように彼等が志向したのも、毛唐列強の侵略が極東亜細亜まで及んで来たからだ。ここで、東亜細亜が団結しなければ、極東亜細亜は毛唐列強の餌食になると維新の元獅子たちは考えたのであった。そう言う単純な発想から、当時鎖国をしていた朝鮮を、わが日本が交易を結ぼうとの邪な考えから国交を迫ったと書いた隅谷三喜男のような半島人の書は、全く信用出来るものではない。当時日本が朝鮮との交易を強く望む理由など如何診ても見当たらないのだ。寧ろ、元獅子達が望んだのは、毛唐に対抗する為の東亜細亜の国との軍事同盟を結ぶことに在ったのだ。
ところが、彼等元獅子達の思惑は、朝鮮王族に拒否されてしまったのだ。そこで、仕方無く西郷隆盛は「征韓論」を打ち出さざるを得なくなったのだ。此処で態々朝鮮王族に傍点を付したのは、清朝の属国であった当時の朝鮮を「王朝」等とは、呼べないからである。テレビで流す韓国ドラマでは朝鮮王朝などと勝手に呼称し、「朝廷」云々の言葉も使うが、季王族は覇王であり、覇王は王朝足り得ないのだ。イギリス等欧州の國は歴史上、ナポレオンは皇帝を名乗ったが、有史以来現在に至るまで、欧州には皇族も朝廷も無かったのである。
このように、当時の日本は半島に侵略して半島を我が物にしようなどと考えたものではなく、毛唐列強、特に露スケの南下を食い止めんとして、朝鮮を開国せんとしていたのだ。当時の朝鮮は、毛唐列強からは「隠者」の國と呼ばれていて、毛唐列強も極東への勢力拡大を狙って、朝鮮に開国を強要していたのだ。もし、半島の開国を毛唐列強からの圧力でなされたら、日本を含む極東亜細亜は毛唐列強に踏み躙られることは明らかなことだった。そこで日本は海軍を使って一計を謀り、まんまと成功させて半島の開国に成功させたのだ。
日本がまんまと半島の開国に成功した後、露スケの南下を恐れていた米英も早速、半島と通商条約を結ぶことになった。
ところが此処で問題となったのは、清韓宗属の関係であった。半島は清国の藩邦として歴史を刻んで来たのであり、当時、清国で力を振るっていた李鴻章は半島の宗主権を奪われまいとし、日本は清国のこの大政治家と確執を深めて行った。李鴻章の日本に対する対応は既に軍事の近代化が為されていた日本との前面衝突を避けながらも真に巧みなものであった。
兎に角、この頃の朝鮮半島は日中・英米・独逸・露・仏会い乱れ、全く囂しい態であったのだ。各国暗躍する中で、朝鮮国内に大きな事件が起きたのだ。東学党の乱である。ところが、この乱が起きても鎮圧軍は何と千人にも満たない程度のものであった。そこで李鴻章が鎮圧軍を送ろうとしたことで、一気に日中関係は険悪化し、日清戦争への火種は燻り始めたのだ。
さて、日本は李鴻章に優位を取らんと、一時は日本に牙剥いた大院君(朝鮮王の父)を担ぎ出し、クーデターを起こさせて、親日派政府を打ち立てて、半島に駐留していた清軍の追い出しに取り掛かった。
さて交々日清戦争は日本の一方的とも言える勝利に終わった。ところで、この戦争に対する日本の国内の世論は如何なる見方をしていたか?
先にも述べたように、半島を占有することでの日本の経済的利益は当面大きく見込めるものではなく、現に財閥も触手を動かす気配を見せなかったのである。日本の世論の大勢は、この戦争に極めて肯定的な反応をし、清国の属藩としての半島を独立させた聖戦だったと賛美したのだ。
しかし、この戦争を暗策した首謀の陸奥の考えは、別にあった。彼はこの戦争を清国との関係を優位にする政策の一貫としか考えなかったと言う発言をしていたのだある。この見方には山県有朋も川上操六も同調するものであったされている。為政者の冷徹な策略と一般国民の思いとは、何時如何なるときも、また、どんな政府の下でも大きな乖離があることを証明するものである。
此処で、誤解を恐れて書き込むが、為政者達の冷徹さを、冷厳と書き換えたい。彼等の思いを平たく言えば、国内的には国威の発揚を、対外的には清国に、日本侮りがたしの思いを叩き込んでおくだけに止め、本音は日本の犠牲を大きく拡大してまでとの考えは無かったのだ。為政者が冷厳冷徹にことに処したのは、自国の利益と国民への計らいを絶えず念頭に置くものと言えたのだ。
も一つ二つ大事なことを忘れていた。
その一つ、国民には諦観とお上の威光に負ける癖から抜け切れない。そのことには、お上の威光で日本が是だけの國に再生できたと信じ込んでいることにも一因がある。それから、政治屋や官僚の能力の無さだ。国際化の今日を生き抜くための打開策を、余りに安易なところで止めているのだ。
さて、話を明治に戻すと、大隈重信の能力にはお粗末過ぎる限界があった。大局を見通す能力など無かったのだ。結局、毛唐が日本を蹂躙し易くしただけなのだ。〇〇人鳩山もこの手の者である。大熊が来島恒喜に爆弾で片足を吹っ飛ばされたのも頷ける。小物が日本の舵取りをしようとすればこうなるのだ。
大隈の直ぐ後に出た陸奥宗光は緻密な計算で毛唐列強に対峙した。当時の日本が決して良好の関係に無かった英の思惑を読み切って、毛唐列強との行き詰った外交の活路を開く交渉を英一本に絞ることで、打開策と見出さんとしたのだ。彼の予見は的中した。
先ずは政治屋には、日本を担う覚悟と責任感と、現状を緻密かつ的確に分析できる能力と、はたまた末来を築く処方を適切に行っていく実行力が必要であり、これ等どの一つが欠けようとも、学業が優れているだけでは如何にもならぬのだ!
さて、英を味方に付けたことで、日清戦争も日本に有利に展開し、この戦勝で大いなる国威発揚がなったのである。伊藤と李鴻章は旧知の間柄と雖も、日本の講和条項は厳しいもので、李鴻章を窮地に追い込むほどのものだった。
ところが、日本の無理難題が織り込まれた講和締結へと進む中、日本の壮士が李鴻章を銃弾で負傷させる事件が起きた。この件で日本側は負い目を負わされることは必然で、散々叩いていた李鴻章を、逆に応援する世論が忽ち中国内で沸き起こったのだ。外国との交渉ごとを有利に運ぶには、相手国が国民諸共全体主義で固まっていない以上、相手国の世論にも慎重でなければ上手く行かないものなのだ。されども。此処は何とか切り抜けて、日本はこの交渉で中国に過重とも言える負担を負わすことに成功したのだ。
しかし、此処に立ちはだかったのは言わずと知れた毛唐列強だったのである。英米は中立的立場をとり、毛唐列強の中でも露スケが日本への遼東半島の割譲に強く抗議をして来たのである。
此処で怯めば犠牲を払わされた国内の世論からこっぴどく批難を浴びせられるのは必然だが、相手が露スケではとても力の及ぶものではないと、陸奥は冷静に判断していたのだ。流石の陸奥も進退窮まった。想像を絶する困難を才覚と覚悟で乗り切ってきた陸奥も、此処に窮り心労を重ね、ついに病床に伏せることになり、間もなく息を引き取ったのだ。享年五十三歳であった。
日本は既に大院君と手を結ぶ手を打っていたので、朝鮮軍とは直接戦うことなく、半島を日本の影響下に置くことが出来たのだ。
続く
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