魂魄の狐神

天道の真髄は如何に?

【魂魄の宰相 第五巻 「三、宋帝は仏陀に高くなる」~「五、仏門の俊才」】

2017-04-09 14:50:27 | 魂魄の宰相の連載

  ※ 以下、校正はして居無いので、誤字脱字、事実関係に誤りを見付けたらご一報下さい。

 

三、宋帝は仏陀に高くなる

 周世宗の仏教は破滅したが、周の後に宗を建てた宋太祖はその道に反して仏教を受け容れていった。然し、宋太祖も世宗の下に在った時は世宗の一大臣で、多少とも世宗の影響を受けていたので、最初から完全に仏教を信じて受け容れていた訳では無く、ある程度その布教を抑制したが、最終的には仏陀の地位を高くすることにしたのだ。太祖の仏教への態度に対する変化について、北宋蔡絛《鉄囲山叢談》五巻に一つの逸話を記載した: 芸祖は命令を受けることに始まって、長く陰謀を廻らす: 「釈尊の何処が神霊か、天下が患い苦しんでいるので、今私はこれを信じることを抑えるものか、或いは、信じるように教えるものか」。 日が暮れるや忍びで出かけて、ゆっくりと大相国寺に入る。雅に薄暗い中で、小院の戸口の傍らに、鬚を生やした男が泥酔して嘔吐し乍辿り足で歩くのが我に見えて、聞くに堪え無い罵詈雑言を吐いていた。芸祖は怒りを覚えていたが、丁度その男の傍らを通り過ぎようとした時、突然、無意識にその鬚男の胸倉を掴んで、言った: 「罵詈雑言を言うで無い。然も夜でもあり、人が恐れて汝を害するかも知れないので、速やかに家に帰れ!」。 芸祖はその男の心を動かしたので、その鬚男は額に二の腕を翳し、礼を言い、我が家へと帰ったのだ。芸祖は家に帰るやいなや、早速、忠瑾の小者を内緒で呼ぶ: 「汝はある所へ行って、鬚男が道端に吐いた汚物を片付けて来い」と命じた。小者は道端の汚物を目前にし、悪臭を嗅ぎ乍掃き摂ったというものであったのだが、この逸話で釈尊が不用では無いことを教えたのだ。

 この物語は飽く迄単なる逸話であるが、太祖が仏教に対して態度を変えたのは、不思議な和尚が忠告した為だとは到底考えることは出来無いが、太祖が仏教を重視したのは、実は強固な統治に必要な為で、更には彼自身の仏教に対する以前からの理解と信条からもあったのだ。仏教は中国に伝来して千年、既に大きい力を形成していたにも拘らず、逝去した先祖の沙汰を通じて、力はある程度弱められていたので、最早朝廷に対する脅威では無かったけれども、それが既に社会生活の各方面に沁み込んでいて、複雑に入り組む勢力に成っていたので、仏教を粛清することは封建政権の統治において余りに不利で、完全に取り除くことなぞ到底出来ず、却って、社会安定の重要な力として守るようにしたのだ。太祖は世宗の仏教に対する抑制が大衆の支持を得ることが出来無かったことを知っていたので、仏教を助成する政策を採ったのは当然のことであった。太祖は武将の出身だが、仏教に対して深い興味があった。《仏祖統紀》巻四十三記載: 首都洛陽に帰って、《金剛経》を手にとって、常に読んで暗唱した。宰相の趙普が箴言をする為に会って、上に言う: 「甲冑の人は知識を余り必要とせず、併し、絶えず兵書を読むべし」。

 彼の人と為りを知るべくは無いが、太祖は経を写経するだけに留まらず、何時も手下に置いて暗唱していたのだが、今述べたことからすれば、押し並べて荒々しく傲慢であると見なされる武将の気性とは違って彼には心静かな面があったことが推測されよう。彼は軍中の他の者達に悟られないようにこっそりと経を読んでいたので、既に久しく暗唱していたことが分かっている。太祖がこっそりと経典を読んで勉強せざるを得なかったのは、若しかすると軍中にあっては殺気が漲り、其の為贖罪を求め経典を読んで勉強することで功徳を積もうとしたのかも知れないのだが、何れにしても、このことは彼が遠の昔から仏教に対して一定の思い入れがあったことを表明している。

 太祖が天下を平定した後に、仏教への政策を始めて実施し、その布教を助けた。更に、彼は全力で国内外の仏教の交流を促進したのだ。範成大《呉船録》の上巻で、乾徳の二年(964)、沙門の王業などの三百人に簡略の詔を発し、西は天竺に入って、仏舎利と貝葉経を求める。乾徳の三年(965)、沙門の道円が西の印度に遊歴した後帰国したことを耳にして、直ちに便殿にて引見し、西方の風俗と人情を尋ね、そして苦労を厭わず法を求め西行した道円の壮挙を表彰して、紫方衣と法器の貨幣を賜った。二年目、秦涼に道を開通した後に、再び沙門の行勤などの百五十七人を西方の印度に行くように派遣され、金三万を賜った。太祖は二度も法を求める為の大規模な僧団を西方に派遣して、国内外の文化交流を強力に促進したことなどは、彼が仏教を手厚く奨励していた顕れであった。

 太祖は仏教の経典の編集をし、刊行することを非常に重視して、開宝の四年(971)、彼は宋代第一部大蔵経を刻印する詔を下したのだが、即ち《開宝蔵》を太平興国八年(983)に完成し、これが写本され、以来、官吏と人民は仏教経典として大いに写本を作り書蔵し、仏教の経典の保存と伝播に対して非常に大きい業績となったのだ。

 太祖は広建の寺院に感謝の意を顕わし、仏像を鋳造した。李重進(後周太祖(郭威)の甥であったので太祖としては何かと眼の上の瘤であった)を平定した後、すぐ揚州に寺を造営し、額に建隆を賜って、そして寺田四頃を召し、僧道暉に主宰させた。乾徳の二年(964)は杭州の昭慶寺を修築して、その偉容は雄壮偉大で、贅の限りを尽した。開宝年間、更に同州の竜興寺の舎利塔を修築して、費用の百万を賜った。開宝四年、更に又、建正府の竜興寺を崇め心に引かれ、菩薩の大銅像を造るための工夫の徴用は三千、巨万を消費した。

 太祖は更に仏教を侮辱した士大夫を断固として処罰することにしたので、乾徳の四年(966)、河南府の科挙の最終合格者の李靄は、題名が《滅邪集》という数千語の書を著して、仏教を誹り、更に経は薄い絹織物の掛け布団を縫うことのようなものだと記した為、僧侶がそのことを訴え、河南の地方長官は見過ごすことが出来ずに、その事を上奏してなされた懲罰は杖打ちの刑、更に、その上に沙門島に流刑にする厳重な罰を受けたのだ。仏教を批判することが仏教に亀裂を生じさせるという理由で、小さな罪でも厳しい処罰を課するとしたことは、太祖が仏教に対して特別な感情を持っていたということであり、其の為に士大夫を葬ることも厭わなかったのだ。

 その後の諸帝は仏教を信仰するが、然し、士大夫は仏陀について論評しても処罰される事は一度も無かったようで、このことは政治に余裕が出たことの現れと看做され、政治にゆとりが出たのは、宋の文化が繁栄して来たという証明で、武将出身の太祖も後世に現れていれば、余り極端な行動を採らなかったであろう。

 太祖は、唯、仏教徒としての熱意から只管信仰するだけでは無く、彼の仏教に対する対応は、更に政治家としての明確な意図をも持っていたのであった。彼は出家に対しても厳格であることを求め、一方では節制を持ち、一方では厳格な規則で抑制することをも求め、僧侶の不法な行為に対しては重い処置を下し、国家の利益を害さ無いように寺院と僧侶の収入についても制限を加えていたのであり、そうすることで合理的な財政の範囲で護仏を続けられたことは、仏教自身に対しても有利であったのだ。

 太宗の「釈教を崇め尊ぶ」行いは、飛び抜けたものだった。彼は「仏塔氏の教えが政治に役立つ」と判断し、そこで「公金有り余り、国倉大いに蓄える」というような当時の国家が財を積んでいる条件下では、治道を助ける仏教が発展に授かり、「仏事を行き渡らせようと、印度風の寺を造る」ことが出来たので、王への賛辞が起きたのだった。彼は多額の国費を寺の修繕や建造する面に費やし、軍を進め戦争している時も忘れず仮の御所を仏陀の寺にしたのだった。又、十一の仏塔を建造して仏舎利塔を見事に配置し、それらは八年掛かりで高さ三百六十尺、財の億万を費やし、雄壮で美しくて精巧で、あらん限りの力と贅を尽くしたので、遠近に仰ぎ見て極彩色の美に輝いたのだった。

 太祖を受け継いだ太宗は国内外の仏教徒と交流し、仏典の翻訳の伝承を重視して、太平興国五年(980)に天竺の僧侶天息災、施護、並びに太祖に帰順した法天などに中国語の通訳を通じ接見した時、宦官の鄭守鈞に太平興国寺に釈経院を建てることを命じ、七年六月に院が完成すると、大衆自ら天息災らに、梵学僧の常謹、袗らと添削の為に法進同を以って釈経を献上するように奨め、更には、先進光禄卿湯悦、兵部員外郎張泪ら文学大臣などに潤文を担当するように勅命し、宦官の劉素をその責任者として任命したのだ。釈経院の建立を通じて釈経の事業や経典の修正が促進され、印度の仏典を翻訳する事業に多大な貢献を為した。

 太宗本人も仏教に対してある一定の研究と体験を為していた。趙普は「尭舜の修身の行に由来する治世の手法、聖人の知恵の高遠、動いて真理に目覚める」を称賛し、歯が浮くような煽て上げと観られる処も可也あるが、太宗御自ら仏教を研鑚する姿勢を示したのだ。太宗御製《新釈三蔵聖教序》は、唐太宗李世民の《大唐三蔵聖教序》と比較して、尚一層仏教に対する崇信に突出していて、序章で 「大也や、仏陀が私に教えること」、仏教に対する帰依を表現しており、その中は特に「西から達磨が来たりて、従順に先導者に従う様に巧みに教えを広め、東土に法を伝えた」と禅宗を特殊な地位に突出させたのだ。太宗の経書は仏教の専門分野の著作であったが、其子の真宗は大中祥符八年(1015)にそれを「思いを深く遠くに馳せて部分的に解釈すると、真宗の妙味が覗き見え、止むことが無い楽奏を聞く様で、……霊山の密印を得る」と賛美し、将に太宗の御製を詔として下した《妙党集》五巻は大蔵経に編入された。太宗は広範囲に僧と尼を出家させ、その数即数年度で十数万人、僧団を迅速に膨張させたのだ。

 太宗の仏教崇信には、彼に仏教の「政治を助ける力」への考慮があった為であったが、彼は、仏教の膨張が行き過ぎて天下が「再び困る」と感じ始めたので、ある程度の制限を行う詔を下した。この面では太祖の在り様と一致する。

 真宗の仏門に対する同様な崇信に依って、その在位時には、僧尼の人数は宋代の最高峰に達する。まだ景徳元年(1004)詔令道原所撰《傳灯録》が、蔵書に入って流通し、一層、禅宗の地位と影響を拡大した。

 仁宗は仏教を信仰するだけでは無くて、禅宗を盛り上げる意図があった。天聖九年(1031)、仁宗は韶州の守臣に宝林山の南華寺に着任するように命じて、六祖の奥義を会得し、都に持ち帰り、大内裏の清浄堂中に安置し、そして詔兵部の次官の晏殊は《六祖衣鉢記》を書くことになったのだ。宋代京城には律宗と、華厳宗と慈悲宗の寺院だけしか無かったので、仁宗は特に現在の開封市近辺に禅寺を創設することの詔を下して、雲門宗の高僧に額「十方浄財」を賜って、王安石の友達が主宰として採り込まれた。皇祐年間、仏日に契嵩は再度都に入って、それで《輔教編》などの書を書いて詔で蔵書として認められた。依って、雲門宗の地位は大いに高まる。仁宗は彼を大覚懐銹として取分け崇拝し、「大覚」と号を賜えただけで無く、更に五十三巻もの御製を与え、数多の僧侶の教えが誉めそやされる中で、仁宗本人は禅門宗の趣に理解を示したのだ。

 英宗が在位した日々は短くて、また病気がちであったので政治を満足に行うことが出来無かったが、然し、仏教に対しては謹んで保護する傾向が在り、引続き崇め尊んだ。神宗も禅宗に最も大きく興味を持ち、甚だしきに至っては、彼は公然と革律寺の禅院で詔を下し、元豊の三年(1080)、廬山の東林律院の禅席で常総禅師の取り計らいに依って詔を改め、元豊五年(1082)、更に京城で最大の規模の相国寺を新に修築し、詔で相国寺の六十四院を二禅八律に改め、慧林と智海の巨刹を東西に配置し、浄慈宗本禅師を慧林の住職とし、更に東林常総禅師を智海の住職とし、更にその上、相国寺の中での彼らの地位を突出させた。神宗は屡王安石と仏法について討論して、各宗派の特色を研究し合ったのだが、元々神宗は王安石の仏教について研究に大変興味を持っていたので、王安石の定年退職の後でも、更に、経の注釈を書いて献上するように詔を下していた。

 哲宗の以下の帝王は王安石と親しく関係が無かったので省略するが、然し徽宗の以外に在っては、大部分の皇帝が仏教を信仰したのだ。仏教が宋代諸帝の吸収力として大きくて成り立ったのは、仏教が既に軽視出来無い一大勢力と成っていた為で、一方では又、彼らが仏教の、特に禅宗の内在する魅力に抗うことが出来無かった為であった。

 

四、文士は禅に帰る

 禅宗の独特な魅力は早い時期から相当数の文人を引きつけて、唐代王維、李華、梁粛、柳宗元、劉禹錫、白居易など詩人と文学者が禅宗に心を引かれ、その後宋代に入って、禅宗の影響は更に大きく成り、文人の士大夫は禅の持ち味について競って相話し合うように為った。

 宋で初めて参禅して念仏を唱えていた者の中で最も有名なのは宰相の王旦(958―1017)と学士の楊億だ。

 王旦、字の子明、大名府華県人。太宗淳化二年(991)、杭州昭慶寺の僧侶の書《華厳経・浄行品》を省みて常に胸を痛め、団結して清浄な善業に修正するようにすることを、王旦の首に認める。王旦は、多年に亘って広くて厚く、朝廷で有徳があったので、頗る真宗の信用を受ける。王旦は一生仏陀を信じて、著名な僧の法衣を収集する程であった。《湖山野録》に拠ると: 天禧元年九月旦逝く。前日に翰林楊億に頼んで曰: 「吾は労を負うのに深く嫌気がさして、来世に望むのは僧で、宴は林間に座って心を見詰め、幸いにも死んだ後に措いても私の為に大いなる徳を採り謀ることを止めて戴き、鬚を剃り落とし、僧尼の着る僧伽梨を着せて貰い、火葬にし、金宝を棺内に置くこと無かれ」 億は如何するか勝手に提案して曰: 「公は三公(高官)に在り、公の礼服を集めて贈って、加えて僧侶の身体に如何してせざる冪や?」 然し、僧尼の着る僧伽梨を柩の中に置いて、宝玉を隠さ無かった。 王旦は宰相として、三公に位置していたのだが、富貴を恥じて、「安らかに林間に座して心を見詰め」とは、座禅をすると心を覗き看取ることが出来ることを悦びと解し、最期には鬚と髪の毛を剃って、僧の衣服を着たいと思い、そのことで「仏党の一員として認めて貰う」の敬虔さを頻りに求めることとしたが、大いなる徳があったとしていろいろと取り計らうことは止めさせたかったのだが、彼に連座して仏陀を崇める著名な楊億は総て適切なことでは無いと感じた。聞くところによると彼の息子と娘は彼の最後の要求を実現しようとしたが、楊億は当然彼らを説得して、僧侶の着る三衣を棺の中に置くことにして、之に「党旗」をも加えたが、死者の存念を余りにも無視したと思わせないようにしたのだ。 王旦のこの世間をあっと言わせる行為に対して、当時の文人や士大夫の気風に従って、同じく禅で名声を聞く楊億が王旦の意向を強いて無視したのだ。

 楊億、字大年、建州蒲城の人、幼少から聡明で、神童の称があった。後、同州広慧院の元銹に集ったが、少し間を置いて考えると疑いをもったのだ。楊億は一世代の文宗で、西昆体の創始者でありその代表的作家だったのだ。楊億は禅学に最大の貢献をし、法眼宗の僧人道原所が書いた《伝灯録》の修正を行う主宰者でもあった。道原の原著の紙面は大き過ぎ、内容も乱雑であったので、楊億は文意を良く弁えていたので文字の添削を行って、条理を明らかし、辞を縦横に汲取り、更に読んで分かり易くし、同時に余分な字句を削除することで文学と歴史の方面の誤りを是正して、それによって更に著作自体の信用が高まったのだが、更に書体を明かにして記録することを決め、禅師の歴代の鋭い切っ先を持つ文に従って、主に公案を授ける参考とし、細々と煩わしい経歴や、僧が伝承されたこの種類の内容の記録が自ずとあるのは認めるが、出鱈目な神仙と妖怪などの部分を削除して、灯録の中に著すべきで無いと考えたのだ。楊億の修正を経て、《伝灯録》は大いに輝きを増して、自ら宣伝し無くとも、影響は大変大きくて、甚だしきに至っては仏教を好きで無い文人や士大夫の家にも一冊は隠れ持たれ、何度も読みたくなって手放すことが出来無い程であった。楊億を通じて灯録の書体を確定した後に、臨済宗の信徒の李遵勗が編纂して《天聖広灯録》を著し、雲門宗の僧侶惟白の編纂した《建中靖国継灯録》を書き、臨済宗僧侶悟明所撰《朕灯会要》を著した時にも、雲門宗僧侶正受所撰《嘉泰普灯録》を編纂して著したのだが、総てこの書体に依って編纂したものだったのだ。

 楊億本人の仏典は、禅に精通していることが確認され、禅を修学している故に造詣が大変深い。彼は広慧元銹の秘伝を得て、宗門にとって大変貴重な逸材であった。慈明楚円は唐の明智嵩に目通りを行ったことがあるが、智嵩も首山省の念的の弟子であり、楊億と師の元銹とは相弟子となっており、意外にも楚円に楊億に参集するよう命じて、「楊大年は乾の内にあり見識高く、入信は妥当であり、子に会わないでは要られぬ」という程であったのだ。楚円と楊億は嘗て争った後、楊億は書斎に篭り、楚円は昼夜を問わずに質疑して、結局、互いに「作家」(禅門の用語で専門家という意味)であることを承認したので、早く会えばよかったと互いに思うようになっていた。楊億は在家の信徒の身で、意外にも宗門に引かれて同じ道を歩む人と成って、作家に奉じられ、明かに学を修めていたようだ。楊億の臨終の一日前、一僧侶の唱える聖徳の語「伽陀」を書で親しみ、その書を友人の李遵勗に送るよう人に命じた。「伽陀」で言う: 水に浸して生きることも、水に浸して減らすことも、二法は元々同じことだ。兎にも角にも本当に我が家に帰りたく、趙州東院の西へと。

 「伽陀」とは簡単な言葉であるが意は深くて、人生は水に長時間浸されて浮かんでいるようなもので、浮き沈みがあるものであって、様子は異なってもその実、水は同じ水であり、このことが故に、生滅二法は本来別のもので無いのである。生死は二つのもので無く、帰るも帰らぬも死んで仕舞えば同じことで、これが雅に真実と言えるのだが、趙州とて特別なものは何も無くとも、虚しくも死ねる故郷として、ただ帰るのみである。

 李尊勗は作家であった。李尊勗は、字を公武、字句を好み、中科挙の最終合格者で、大中祥符年間に皇帝の姉妹の万寿を尊び、左竜武軍の都尉として万寿の夫と成り、第永寧を賜る。公主の夫となった李尊勗は慎ましく謙虚に従って、将の第中帯に飾られていた鸞鳳と龍の飾り物を外して、公女の服に密かに飾るような御人であったのだ。そんなところを皇帝は好きだった。彼は楊億を先生兼友人にして、交際は非常に厚かった。李尊勗著《天聖広灯録》三十巻があって、仁宗皇帝の為に創った《天聖広灯録》は、藏経に加えられる程のものだった。

 李尊勗には、嘗て弟子として首山省の念仏の師を継いだ蘊聡が進退窮まっていた頃に見えたことがあった。ある日蘊聡に出家のことを聞き質すと、蘊聡が崔群の故事にに敬服し、倣って山道に径を引くことしたと言ったのだが、矢張り、出家をすると謂うことは一人前の男の大事で、将軍や宰相の技能とは違うまでも非凡の技量も要するので、彼の出家を念頭から阻もうとして、馬祖の一咤と百丈懐海が「三日間耳を塞いで公案(禅宗の出す問題)」との逸話をも引用し、それによってある程度悟らせようと、「伽陀」(僧侶の唱える聖徳の語)を創って語った: 道を学ぶのは鉄のような男でなければなら無くて、掌で決意のほどを観る。真直ぐならばこの上無く、全く損得は考えずに悟りの境地に興味を持てるのだ。

 この首での「伽陀」の語りは、道を学ぶならば必ずや鉄石のような心にしなければならないと云い、極僅かな躊躇や動揺もあってはならず、初心に返って鷹揚に構え、格式や香華に拘らず、ことの是非も論ぜず心真直ぐにして悟りの境地に近づこうと努力して、漸く修養が出来たと言え、ある程度の成功に近づくのだと言う意味であった。

 李尊勗は臨終に向かって慈明楚円を招来し、次のように楚円に捧げた: 世界が依るべくも無く、山河は障碍にならず。大海原には俗事は見当たらないようだが、尚一層の世事が漂っているものだ。 もし生死を求められるならば、頭巾を取り、腰帯を解き下げて衣類を脱いで開き直れば良いのだ。

 この「伽陀」の語りの意味は、仏は自ら原則を持っている訳では無く、一切が皆虚しいのだが、だからといって山河や大地には、障害も無く差し障りも無いが、何も起こってないということでは無く、海に埃塵が見え無いのは、埃塵を飲み込み続けているからなのだ。少しも死を恐れず、清廉潔白で通してこそ、本当の一人前の男として物事を任せられるのだ。若し生死を訊ねられるような嵌めになったとしても、身包み脱いで開き直ることに勝るものは無いのだ。

  このように臨終に接しての「伽陀」の語りから李尊勗の禅学に対する理解を見抜くことが出来る。李尊勗は元々富貴の上に皇女の夫として、更に尊栄の扱いを備えており、禅宗を崇め、士風も整えていた。

 宋代になると文士の朝臣は喜禅の者が多くなり、その数は驚くほどで、例えば蘇東坡の兄弟、黄山谷、張商英などが知られており、王安石と同朝なども列挙され、今日余り知られては無いが趙箪、富弼、楊傑の等の人々も挙げられる。

 趙箪、字は閲道、号は余り有名でなく、字から察せられて衢州人である。仁宗在任の中期まで、権勢のある高官を避けて殿中侍御史を勤め、号は鉄顔御史であった。生涯資産を治めること無く、色を好まず、只貧しき者を哀れみ施しを与えた。初め、天衣義懐の子孫の天鉢寺に参じ、後に蒋山法泉にも参じたが、全く悟るものが無かったので、その後青州を知り、日永宴座に座っていると、突然の雷鳴に驚き、突然悟って、「伽陀」を創り曰: 隠す身も無い公堂に無言で座り、心中水の如く微動もすることが無かった。 雷鳴が轟くと、腹の底から目覚めた。 頭を上げると、全身歓喜に溢れ一点の曇も無く心晴れやかに為った。 並以下の人には知る術も無い、不思議な神通力をもった効用ではあった。

 この「伽陀」の首が法泉の里に伝わって、法泉が笑って言った:「趙は閲道の賞賛のざわめきを耳にしたのだ」。 趙箪は、雷鳴を聞いて道を悟り、瑞雲が桃花に似て見えるように、結局どの様に悟りを得られたと問われても、「事の次第は自分だけが感じられたことだ」と云うしか無かった。それは只、己の在るが儘を守るのみだと目覚めて、自分の性が増えもせず減りもせず欠けても無く余す所も無く、其れを探す必要は無く、然も性は始めから明らかで、総て万法に従って、微々躊躇するもので無いのだ。

 富弼、字は彦国、河南人、位は宰相まで至り、三公まで進んで、その時の元老で重臣だった。趙箪を激励するため参禅して、華厳修顒を崇拝し師として、「伽陀」を以ってこれを賛辞して曰: 万木千花は繁殖を願い、龍は眠った儘で暗緑色の海に未だ現れず。 丹色雲の彩りは霧となって吉兆を呈し、南山は元来の侭の青一色に染まる。

 この首の「伽陀」は決して深い意味は無く、只、本音は僧侶と成る為に修顒を褒め称えただけのもので、丸で時機を得て無い英雄のように、富貴に味方する表現をしていても、禅の本筋を決して知ら無かった訳では無いのだ。

 楊傑、字は次公、無為人、号は自ら無為子と称す。老大家の不契に参じ、その後天衣義懐に謁見した時、義懐は在家の龍居士に参じるように命じ、泰山に祠を献上した後、鶏が朝一番を告げて鳴くと、大きな皿が湧き出すように海上から日が昇るや否や、突然悟ると、龍居士の「伽陀」を言直して曰: 男性は大いに婚姻しなければならず、女性は大いに嫁がなければならず、とは甚だ当たり前のことを奨励しただけで、全く話が新味が無い。

 在家の龍居士の本来の意味に於ける「伽陀」は: 男性で婚姻をして無い者がいて、女性で嫁いでない者がいた。皆が坊主頭では、共に語り合う暮らしも無い。 在家の龍居士の「伽陀」の本意は彼の娘の霊照と一緒に修行した生活を述べているので、「男と女は坊主頭であるから、男は婚姻させようとはせず、女も嫁ぐことが無く、互いに語らうことも無い」と言うことであった。意味を更に明白にすると、在家の龍居士は、父と娘の二人が互いに助け合って生きて行くことを誓ったので、世間一般の生き方が出来ず、婚姻させることも嫁ぐことも出来無いので、一緒に暮して共に援け合うという意味をも見失って仕舞ったのだと言うことだ。楊傑は、人倫は日常の中で自然に体得して生まれるもので、嫁がせて婚姻させることが、何故、其意に反し俗っぽいと言って、そこまで世離れる必要があるか?

 楊傑と黄山谷、張商英は三大老と名乗って、其作の禅師の語録の序文は大変優れていて比べるもの無く、人と成りは称賛に値し、その見解も抜群のものがあった。

 禅に傾倒していた者達は、文士の朝臣で無い一般の者達までもが、孔孟を復興することを以って自分の務めとした道学家達と同様に行動した。北宋道学の鼻祖の周敦頤も、このように行動したので、重んじられたのだろう。

 周敦頤は元相に仏印を与える為に道について説こうと、問答した: 「天命之性というは、天の定めた道に従うことこそ本性だと言うことだ。禅の門徒の輩は何か言いたいことをありそうだが、発言する勇気を起すことが無いのか?」。 元が言った: 「疑義あるならば、別参させれば良い」。 敦頤が言った: 「参が少ないならば、結局、何を以て道と為すとするのか?」。 元は言った:「見渡す限り青山を見るに任せることになろう」。 敦頤は心酔し、俄に返ると窓の外の行商が騒然と歓喜に満ち溢れるのをぼんやり眺めて、こう言った: 「自分の考え方は凡庸だ」ということに「伽陀」を呈して曰: 昔は元々謎で無かったことも今では理解出来ず、心はその場その場の状況に合わせ胸の奥に隠す。草深い窓外を、政務を忘れて終日飽きること無く見ることになった。 元も「伽陀」に依って曰: 大道に度量が無いならば、如何して飛び廻り隠れて動き廻るのを止めさせる事が出来ようか? 座禅こそ行であるということに異存は無いが、嫌気をさした思いが顔色に現れて仕舞う。

 茂叔は遠く衆知の故事の真似をして元を社主に推薦し青松社を結成することを約束してくれたので、後で元が周敦頤に詩を送ったのだが、その中には「青松は禅社とする」との節があった。

 二人の問答から感じるのは、周茂叔は、最初は儒家の立場の上で禅宗を批判したが、元は決して直接反撃をすることは無かったのだが、只若し論争に参加して無いことで道に興味が無いと疑られれば、「理解が足り無い」からで、「理解して無いならば禅の何たるかを語る資格は無い」と訴えたのだが、茂叔はその意味が分らず、結局何を以って道とするのかと問い、矢張り相受容れられない所があり、ある程度意見が別れたが、元は「見渡す限り青い山、如何してそうでは無い?」と彼に意見を合致させるように頼んだのだった。 茂淑は検討してみようと少し反省して、日永窓の前の小売商の喧騒を眺めていると、元が言った「見渡す限り青い山」の意味が分り始め、花は自然に咲き、草は自然に萌え立つと言う意味だと知り、それは自分の意志は他の者に左右されてはいけ無いという意味で、「見渡す限り青い山」にも全て意図があって言った言葉で、更に趙州のお茶がどのようなものかと聞いたという意味が含まれていたのだ。ここに至って茂叔は、打解けて心が通い始め、迷いが吹っ切れ、だから知識青年の青い青竹、法の身の侭、文才が盛んな菊の花、唯般若だけ、境があるのを納得して、多くのことも厭わなく為ったのだ。元はそれが確かな収穫だと思い、道はどのようなものであっても、枠を嵌めてはならず、迷うこと無く其道を示したのだと悟り、生き物が、高く飛んだり、下に潜ったりしても、飛んだり、潜ったりするのは普通のことであり、若しも顔色が声を顕わしたものとして惑わそうとしても、心を見ることは可能であるが、顔色で声を判断することは不可能で、そういった類のことは論理の矛盾を示すことなのだと理解したのだ。

 周茂叔は二程兄弟の師で、二程も亦仏教に傾倒し、出入りしてから既に数十年が経過していた。一日中泥人形のように座禅し、その技量の深さは彰かで、そのことが人を春風に誘うが如くし、人との和に接することに繋がり、会えばその人柄を醸し出し、生まれついて慈悲深くて優しくて、心細やかに人に接したのだと、程顯は故人を誉め称えた。程頤の性格は剛直で、宛ら儒に心酔しているように見えるが、仏書を読まないばかりか、老子、庄子、列子の書さえ見無いで、座禅にのめり、書を著しては多く仏陀の言葉や或いは靈源禅師の道について見聞きしたことを引用したのだ。二程は仏陀に傾倒したと雖、尚一方では、儒学も逸すること無く、弟子達は多くが禅徒になった。 茂叔の一派は総てこのようで、陰陽に精通していて数術を操る邵雍にしても同じであった。

 邵雍、字は尭夫、初めは範陽に在って、後に河南に転居する。靕才から河図洛本を授かり、数理学に似る八卦を学び、物理性命に精通していて、洛陽に居た時は、富弼、司馬光、呂公著等と洛中に隠居し、共に遊んだ。邵雍の《学仏吟》には次のことが話されている: 飽食や衣服に贅を尽すことは諦めることは出来ず、日が長い季節に如何心配しても仕方無い。

 日が短く為ると聖を宣して名を求め、老年は士を慄き釈迦に親しむ。

 矢鱈に縁を切りたいと思うことが益々重く、病気を取り除くのを求め頼むこと亦多し。

 長江一帯に常に溶け込み、幸運にも無風で波も無い。

 

 邵雍は士大夫達の心理状態から一寸はみ出して、若者が儒学を学ぶのも名を欲し利を得ようとする為で、老人が釈尊に親しむのは単に死ぬのが怖いだけの為のだと説いた。儒でも仏でも学び始める動機は単純で無く、実際に会得出来るようになるのは全く難しく、何かを得ようとすればするほど追い求めるのは至難のことで、只心は波風を立てずに水の流れを止める如くして、漸く目的を達成することが出来るのだ。この詩から邵雍の仏法に対する理解度を見抜くことが出来る。彼が洛中で仏教が禅を説く講話の為に名賢を集い、頗る盛大だったと言ったのだ。闢仏の司馬光を褒めた《戯呈尭夫》一詩がある: 近ごろの朝野の客、禅を談じる坐が無い。私は人に何か願うが、会う人は只ぼんやりしていた。

 君の詩が素晴らしいことを羨ましがって、仏教の衆徒で誰が先に口に出すのか。前身之只恐れ、主役は全て白楽天だ。

 

 当時意外にも「禅談に座ることが無い」の現象があって、仏教を嫌う有名な司馬光が極めて孤立していて、如何してよいか只呆然として分ら無くなって仕舞ったのだ。道士邵雍も仏教が本当に最も優れているらしいと言ったが、実際、衆人の中には仏教の禅を理解している者が決して無かったのだが、彼の詩が最もよいと言って、明らかに媚び諂い、白居易の詩と比較しても、白氏は後塵を臥し、「戯説」ということにしかなら無かったのだとしたのだ。

 朝野の別無く全て禅を説いて、文人と道学家は競って禅を談じ、仏教を嫌う有名な酵儒でさえも大部分が竜頭蛇尾を決め込んで、最終的には公然と或いは密かに仏教の懐に入るのだ。その中で最も有名なのは欧陽修と司馬光だった。

 欧陽修は若い頃仏派の指導者を避けていたが、後廬山で円通居訥と会い、道についての論を訊き、夜まで止むこと無く心服して疲れることを忘れて、居訥は凡も聖も平等に位置し、栄辱は本来空で、死生も同じであると教え、漫然と生きることが無いよう説いたので、明かに洗い清められ、率直に言えば、ある程度の誇張があったのだが、その後仁宗がその教えを伝え聞き、京中に常時禅院を十方に置いて、程師孟が居訥を推薦しても、居訥は目の病気を理由に固く断って、挙懐銹を代わりに推挙したのだ。

 欧陽修の晩年の棲家があった潁州で、華厳の修颙に出くわし、修颙が将達に華厳の帝網などで正義の概念を見事に解説していたのを知り、道士は初めは仏書を読んで無かったので之に訊き学び、この時までその玄妙さが分ら無かったことに慄然として、そこで《華厳経》八巻を読んで、穏かな死を迎えることが出来たのだった。欧陽修の晩年の号は六十一居士で、その名の詩集は《居士集》であり、釈氏に帰そうとする心の一部が明かに覗ける。

 誰もが禅に引かれはじめた時も、司馬光は当初より仏教を嫌い、彼と範景仁だけは納得出来ずにいたが、然し両人は終に仏教の周りへの影響と魅力を防ぎ止めることが出来ずに、司馬光は特に手紙の中で、範景仁は五十歩百歩だと誹って、司馬光は言う: 「天下で吾のみ禅に無いとは! 唯その書からも捨て難いものがあるということを吾儒学者に聴いて貰いたい。このことは全く本心であるのだが、実際文書で顕すことではない」。 司馬光の真意は儒学と禅の本質のところでは両者は変わるところが無いが、文章で顕わすと違ったものに感じられ、そう考えると禅を学べば儒学も学べると言うのだ。範景仁の言い分を受け入れ無いで、司馬光は書をもってからかった: 「聞き分け無い子が目覚めるのは全く長く掛かり、景仁は性懲りも無く今も尚迷っているのだ」と畳みかけたのだ: 「金属無用の鋤を使って岸まで如何して刈取らなければ為ら無いのか。浮き雲は浮遊を続け、明月は天の真只中に広がるのに」。 司馬光のこの詩を眺めると、禅への思いがあって、禅を習うことに効用が有り、彼は《解禅ルハ六首》を創作し、儒に依って禅を解釈しようとした。譬え司馬光の排仏を悪評するとしても仏陀の頑なな範景仁とは違い本当に仏陀を信じ無いと言う事ではないらしく、信じ無いからといって何やかやと言う必要も無いが、彼は曰: 「汝は必ずや私に合掌して跪き、信じなさい?」 というところを観ると彼の内心では本心は仏教を信じていて、只其れを悟られないようにしているだけであったと言える。

 士大夫の競起は禅宗と儒学とが合併することから来る影響の効果の大きさを説明して、仏陀に並んで天下に総べからく禅を奨めたのだが、このことで禅宗が既に深く人の心に染込んで、大きな称賛を受けていたことを表わしていたのだ。

 

五、仏門の俊才

 仏教に依って心の中を明かにし、自分の本性を見出そうと引き付けられるだけで無く、禅の理をも精通している大家も参加し、更には各分野の人材をも取り込むことで、仏教は、人材の集中する場に成ったのだ。

 宋の初めの僧が仏典に精通しているだけで無く、寧ろ其れ以外の当時有名な全ての学問にも長じていることを褒められたことが記録されていた。彼らは数百巻書を著して、然も古博物にも通じており、知ら無いものは無かったのだ。王禹、徐鉉などは全て学問で有名で、皆が彼等に教えを乞うていたのだ。文学者の柳開は彼らの博学に対して非常に感心して、詩「仏門今日見張華」の文を送ったものがある。その他は例えば知円、契嵩などは皆大変な学問の名僧であったのだ。

 僧侶で詩文の者は全く数え切れ無い程おり、厳鄂の《宋詩記事・釈子》で記録されている詩の僧は二百六十一名で、其処に収まって居無い者は少数であった。宋初には有名な詩の僧の九人がいて、その中では恵崇が最も際立っていた。恵崇は「河分崗は勢力が断たれ、春に焼痕が入る」の最も良く知られ多くの者達が詠んだ句を残しており、大いに評判を高め、その他の僧の詩は見比べると直に見劣りがして、寂然とすることに為ったのだ。そこで敬服し無い諸人が、恵崇を古人のものを盗作したと誹謗し、福建の僧文兆は詩を創り嘲って: 河分崗は司空の曙に勢力を断たれ、春には焼痕劉長卿が入る。

 兄弟子が古句を盗んだのでは無く、古人の詩句が兄弟子に罪を着せたのだ。

 文兆は司空曙と劉長卿の詩句を横取りしたと恵崇を嘲笑したが、実は全く根拠の無いことで、文人はお互いに卑下し合っていて、俗世間の文士ばかりで無く、仏門にある人に対しても同じ様な現象があり、其れは何と実際は世間一般の通り相場だったのだ。恵崇は日長寇准と題を与えて詩を創り、寇准は一寸やそっと作れるものではないと思ったが、恵崇は、結局創り上げたのだった。その詩曰: 水面に日が射し、鳥の巣がはっきりと浮き出た。 水がめを満たすのは雨しか無く、時間をかけてあっちこっち歩き回わる煩わしさから開放されたのだ。

 沙には鳥が陽日に羽を曝し、風が島に涼を齎す。

 池の上の主の鳳が、彼方の蓬莱を思い起こしているのだろうか

 

 「池上鷺」という題名のこの詩は難解で、「明」の字の韻を抑えなければならない。「生息することをはっきり確認した」と、白鷺が身を寄せているのに気が付き、巣に暗い霧に羽が見え隠れしていたので現れて欲しく、赤と緑の対比が余りにも鮮明に目に浮かぶ。 「緑の夥しい叢の中に赤い一点が」の文は優れていて、白鷺、隠れたり、現れたりして、急に明るくて急に暗くて、ぼんやりし、という表現には含蓄があって、確かに佳句と謂えよう。

  僧侶の中には多くの画家がいる。恵崇は単に有名な詩の僧というだけに留まらず、更に画家としての天分も持っていたのだ。彼は鵞鳥や雁や鷺などの鳥類と静寂な水辺に平らに浮かぶ遠い小さな中州の情景を好んで描き、大変高い芸術の才があった。僧としても偉大であるばかりか画家としても有名で、彼に山水を描かせば、その趣は深く、当時も有名で、彼の多くの絵は美術館に収蔵されている。その他にも沢山の有名な絵画の僧がいて、記録されている者だけでも各種の画に見られ四十数人に昇り、其盛は大変なものだった。

 王安石が恵崇について、巨匠の芸術の成果と言えるものは大方鑑賞しおり、彼には《純甫出僧恵崇画要予作詩》という一首の詩があって、恵崇について賛嘆を惜しまなかった: 画史はどの位の数に達するのか議論紛々としたが、恵崇は後期に現れたと謂う事に吾は納得する。

 日照りの雲も六月には林や草むらを漲らし、私を中洲に移す。

 黄芦が雪を打ち破って低く土を覆って、鳧が雁と連れ立って静に立つ。

 往時からずっと今日まで沙は平で水深浅い西江浦を眼に出来る。

 日暮れの暗さに隠れ、赤ん坊の寝息のような櫓音の舟が魚を網で捕る。

 頗疑道人は力があり、外国の山と川を切り取る。

 方諸承水は幻薬を調合して、洒落た絹衣を寒暖に合わす。

 金坂道は大きい山に所々で邪魔され、邪魔者が多くの真実を只虚しくするだけである。

 濠橋高白はこれまた善い画で、嘗ては桃花が静かに初めて開くように見えた。

 酒酣弄筆は春風を起こし、花弁が雨の雫に依って漂うことを恐れる。

 流鶯探枝は婉曲な語り口で、蜜蜂は花蕊を拾って翼の株に従う。

 一時二子は全く卓絶した技芸であり、裘馬は痩せこけていて他郷に長逗留する。

 華堂直は夥しい黄金を惜しんで、苦難の道の現代人は古人に及ばない。

 

 王安石の書画の品評は、自身の作品が古い時代を重視して現代をも軽視することが無い芸術的業績の観点とは大いに異なり、世俗的なものも認めることもあった。恵崇は遅く出たと雖、彼が最も称揚した画家である。六月の酷暑の季節に、恵崇のある絵を眺め画境に入ると、冷たい水辺の平地の遠い小さな中州に出くわし、葦の花は低く垂れこめて、鳬と雁が静に佇んでいて、その情景に知らず知らずに憧れて仕舞い、砂地は平らで水が浅いことや、漁船が晩の西江の浜で詠うことを人に思い起こさせ、雅か恵崇道士が持ち前の神通力に依って、江浦が風光明媚とする絵にする為に切り取って仕舞ったのか? そうで無いならば、恵崇は方諸(古代それによって露を受けた銅皿或いは蚌の殻)で月を清露を取って垂らして薬を調合し変化させたかもしれ無く、零れ落ちる画布の上を溶けて修正し、寒暖を交換させ、人が望む涼しさをその絵から自然に感じる様にしたのかも知れ無い。

 王安石は巧みな文学的素養を以って、絵を意の儘に詩に変えて詳しく、恵崇の絵が丸で目の前にあるように説明し、恵崇の絵は全く非凡であることをも表明して、絶妙の作品として照会することが出来たのだ。然し、彼は金陵巨然と濠梁の二人の画家の批評もして賛美を送った。巨然は、文章は多く無いが卓具遠思、堪称絶筆などがあり金坂道の玉堂北壁の上で山水を描いたのであるが、現地で臨み観ると数多く重なる連山が塞いでいるが、絵には其れらは描かれて無く、安っぽい粉墨で描かれており、直に粉墨で塗潰し実際の山多き地勢は無くされている。濠梁崔白もまた達人で、彼の描いた桃花初裂は特に素晴らしいが、鶯が好く鳴ける枝を探し、蜜蜂が翼を躍動させ花芯を啜り、春風が吹き来ることを惟恐れるなどの様や、画上の桃の花弁が開いたところに雫が漂い満ち、紅花が雨のように落ちる様子も描かれている。

 僧侶の中で恵崇のように詩も絵も出来、多芸多才の者は多く、昆山慧驟寺の僧良玉は僧としては未一であったが、然し文学と歴史に関して、更には画や琴そして棋と、幅広い才を持つこのような人材は確かに貴重で、詩人の梅聖愈が朝廷に推薦し、朝廷は紫の衣服を授けて、顕彰を示したのも理であった。

 僧侶の中に更に一芸に秀でた者も沢山いた。僧懐丙の如くは、当代一位の有名な建物と橋梁の専門家であったと《宋史》は伝えている。懐丙、真定の人であり、真定には一基の十三階の木制の仏塔があったが、其れは長い年月を経ていたので、要と為る大きい柱が損傷していたので、仏塔は西北に傾き始めていたが、懐丙は人に吊り上げさせ、斧や鑿の音一つさせずに自ら独りで確りと新しい柱に交換して仕舞い、仏塔を完全に元の通りにするようなずば抜けた驚異的な技巧を持っていたのだ。その時趙州に鉄を中に溶かし込んだ非常に堅固な石橋があったが、思いも由らず、狡賢い村人が強引に鉄を中から抜き取って盗んで持ち去ったので、多くの人の力をもってしても直すことが出来無いほど橋が傾いていたのだが、懐丙が大勢の労力を使うこと無く巧みに直して仕舞ったことは、全くもって素晴らしい技術であったのだ。彼は亦二隻の船で河に落ちた鉄牛を掬い取ったのだが、その遣り方は先に二隻にいっぱい土壌を入れて、その二隻で牛を挟んで大木で牛をかぎ針で編むように縛り、それから二隻の土を排除し、牛を浮かばせたということで、これは巧みに浮力の原理を使ったのだ。懐丙の業績や貢献に対し朝廷は紫の顕彰を授けたのだった。

 相国寺の僧法仙は兵器を造る一流の専門家だった。《続資治通鑑長編》四十七巻において、法仙が重さの三十三斤の鉄輪で刀を創る為の製鉄として提供させ、一級品の武器を作ることが出来たのだ。彼は家居洛州という仇名を自ら喧伝し、百に昇る全ての親族を外敵に備える為掻き集め、自らも軍武に身を投じることを望んで、国のために尽力し、真宗の大いなる忠実で勇敢な壮丁となり、特に「殿直」に一職を授ける。

 僧侶の中には医術に通じる者も富に多かった。《能改斎漫録》十一巻に依ると、蜀の僧の海淵は、嘗ては首都に居たが、当時は相国寺に住まっており、当時の中書令張士が重病に臥し危篤になって、侍医は手を尽くし治療しようとしたが誰も直せなかったのだが、海淵が針治療をすると、張士は思いがけず病気を回復し、そのことは自然に京城で名を高めた。彼は医術にずば抜けていただけで無く、更に慈悲心が強く、報酬に拘らずに危険な状態の人を助け、身は余財を蓄えること無く、人の為に尽したのだった。更に《春渚紀聞》に依ると、古から道者は外科の手術に精通していて、「胸を開いて腕を正す」、彼は多くの病気の僧を完全に治して、深く蘇軾は称賛した。

 何人かは政治的才能を有す僧侶もいて、智縁はその中で傑出している代表だ。 知縁、随州人、善い医者で、卜をすることが出来て、嘉祐末、相国寺に居住していたが、首都に呼ばれた。知縁と王安石の縁は頗る深くて、王安石の煕寧三年(1070)の一篇の《与妙應大師説》の短文がある: 大家の知縁の妙に応じて、父の脈を診て、子の禍福を知るが、翰林の王承旨はその診療が古式に則って無いことを訝った。 縁は言う: 「昔秦の医学で晋侯の脈を診察したが、知られた良臣は必ず死んだ。良臣の死は、晋侯の脈で診察されたのだ。父を診察して子のことを知る、何とも怪しいことではある?」 と煕寧庚戌の十二月十九日、某書に著した。

 聞くところによると知縁は嘗て王安石の脈を診察して、其の子王零が次年必ず中科挙の最終合格者と為ると言い切ったが、やがて本当に為り、王安石は大いに驚き、この書を創作したのだと言うことである。この伝説は信頼出来るものでは無く、王零の治平四年科挙の最終合格者に登って許安世に掲示されたが、その前の一年間には王安石は江寧の閑居に住まい、知縁は嘉祐末には京城に仮住まいして居て、その間専ら仁宗、英宗を診察はしたが、雅か走って王安石の所に行き脈を見ることは有るまい? この逸話は恐らくこの短文によって蔓延したものであろう。

 知縁は医術がずば抜けていた為「妙応大師」という名を賜ったが、決して此れに甘んじることは無かった。煕寧年間中、王韶図は煕河に甦り、土蕃一族は仏教を信奉したので、僧侶を重視して、蕃族の僧は呉叱臘の主な部族の帳甚衆と結んで、知縁を訊ねた。神衆は知縁に引見して、白金を賜ったが、知縁は遠慮せず、其れに乗じて西に行くことを伝え、「経略大師」を吹聴する。知縁は胆略があって、弁才に富み、直接蕃中に入って、呉叱臘と結んで宋に帰ることを説得して、その上竜珂をも諭し、禹臧が部を支持するよう書を送って納金させるという大きな功労を成したが、若し、その後王韶と対立が発生して無く(一説に拠ると王韶が彼の功労に嫉妬し、功を奪い取ることを恐れたのだ)邪魔されて無かったならば、彼は更に大きな功績を打立てることが出来たのだ。後に知縁は左街僧録を授けられて、僧侶の中で地位が最高の者と成った。

 知縁がこのように功を立てて業績を残したように、忠誠心を以って国恩に報いる僧侶が宋には多く居たが、特筆すべきは宋が砕けて国家の滅亡に瀕する際、士大夫が多く恐れて敵と対峙することが無かったのに、多くの僧侶は勇敢に立ち向かって、積極的に外敵との闘争の中に割って入って抵抗して反撃を加え、満々たる気骨と国を愛する気持ちで民族的英雄になったのだ。

 士風と日下、儒門の翳が薄い時、各種の人材は次から次へと仏道に投じて、仏教を群英が一か所に集まる拠点にならせた。王安石はこの情況について非常に鮮明で、これも彼が一歩ずつ仏教の重要な根拠に近づいていた為で、彼は次第に儒家を盛り返す目標を放棄して、雄大でこの上無い仏法(の力)の義海に向かうことに為ったのだ。


 「魂魄の宰相 第六巻」に続く

 


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