二、命と言うこと
王安石は、『先王の道』の本質は性命のことと思っている。彼の《虔州学記》中には 「道徳的な者には先王の言う所謂命について理解させた」と書かれている。王安石が性命道とを以って『先王の道』としたのが始まりで、その当時と後世に影深く浸透されている。南宋の晁公武《郡斎読書志》の巻二の《王氏染説》の十巻の蔡卞の項を引用(原作蔡京、現代人の陳植鍔《北宋文化史述論》に拠る改訂版)《王安石伝》の言曰:先王は国の異なる家には殊更に恵みを尽くし、漢から唐に至るまでに、源流を深く侵食させた。宋興きて、文物の盛んな矣、然れども道では性命の理が分から無い。安石は百世の下に奮起して、尭と舜の三世代に迫ったが、昼夜通しても陰陽のところを推測出来ず、入神することも出来無かった。初めて《染説》数万言葉を著し、世に所謂、孟軻の上下どちらかを問うた。そこで天下の人は最初に道の意味を吟味して、性命の端を覗くことになった。
蔡卞は王安石を将に道性命の創始者とするのだが、決して媚売るものでは無かった。王安石の反対派の提唱する性命のことは、士風が変わる為、「士に至らざる者は命のことを話すべからず」と言って王安石に大きい罪状を科す。誉れ高き者はこのように反応し、貶す者も同様で、王安石が確かに一代の士風に影響したことが明らかになり、儒学を更に一つ新しい段階に入らせたのだ。
性命はもともと儒家の表題の一つの核心であるのに、如何して王安石に罪科を被せることが出来るのか?実は道としての意味での命は単なる儒家の慣用語であり、その肝心な点に於いて性命の意義を道に求め、道は性命に帰結すると釈明して、伝統の仁義道の言うところに取って代わって哲学の筋道に則り天道としての性命を事実上重視することは、伝統的に形而上学を重視し無い儒家を変えて倫理を重視することに成り、更に深く考察しようと仏陀と老子とを互いに対比させても、違いを認めることが出来無くなる結末を生むものであった。この転換は形而上学への転向で、その影響と意義は驚くほど巨大なものと成ったのだ。
儒家が形而上学に転向することが伝統の儒学の欠陥を補うのだが、それと共に儒学の階位を昇格させ、また、徹底的に仏教と常時比較して情勢が不利と判断すると、その原因となる要点を変えることも出来るようになったのであった。それまでは仏教は「心を癒し滋養するのが其の本来の役割である」と言い、貧弱な論理しか持って無かった諸家を徹底的に馬鹿にしたのだが、伝統に拘る儒学はこの面では黙って怒りに堪えて、負けを認め心服するしか無かったのだ。仏陀の古い段階にある思惟の本質を隠した儘、情を重んじる礼と道との質の高さを比較するだけでは、言わば竹槍で近代兵器に対抗させられるようなものであり、反論が失敗するのは誰の眼にも明らかであったのだ。 このよう一点で出遅れても、王安石は全く明確に反応し、勇敢にも新機軸を打ち出したので、結果として世間に知られる一世代の儒学家であった欧陽修は今までの儒学を守る立場に偏り、時代に見捨てられることになったのだ。
欧陽修は《答李潯第二書》の中での性命という流行の命題の議論に対して不満に感じたことを記述している: 古の聖人は大物であったが、今の学者は小者が多く、学んでも一つか二つしか理解出来無いくせに、「性説」を聞きかじって、意味も分らず滅多に使わない聖人の言葉を苦し紛れに使って仕舞って、儒学に偏見を持つようになって仕舞ったり、中身の無い空虚な言葉を吐くことに終始し、このようなことでお茶を濁すしか能が無かったのだ。
実は学者以外の面ではせっかちな欧陽修は、性と天道、子所などの滅多に無い言葉を空虚で無用な言葉だと思っていたのだ。彼は、六経は「性」の意味を全く説明して無いので、「皆人事切世者」に載せて、高望みをせず国を治めるには修身易行の法を重視する方が手っ取り早く、唯一の方法であると指摘している。欧陽修は儒学の転換の瀬戸際に直面して、逆に次第に保守的になって、如何してなのか分から無いが、六経の所は無視し、彼はそれを言う勇気も持て無かった。彼は更に先聖の道を強調して、学は難しく、良い学は更に難しいので、学んで滅茶苦茶な見解を持つよりも、行で汗を掻くことの方が余程良いと言った。これでは革新について大いに話したのかどうか分から無いので、聖人のことを学ぶことに代えて個人の教養を身に付けることを暗に含めて言っているのだと理解すべきであろう。
欧陽修が、このよう形で転向することを絶対に反対する姿勢からも深刻な現状は見て取れ、同時に王安石などの先王の政治に見習えと説く新鋭の見解も見逃すことが出来無かったが、双方の主張は以前の儒学とは全く違う見解のものであった。性命については庄(さん)を刺激する為にも大いに仏教においても語られなければ為らないと威勢を上げる中、儒学者の多くが代表として認める王安石は逃げることが出来無い立場に立たされていたので、「然し、これも孟子の影響と関係がある」或いは「仏教の刺激も孟子の地位を高めたからだ」という意見が大勢を占めていたので、王安石は孟子を重視せざるを得無かったのだ。
古文で書かれた王安石の「素喜孟子」は実は虚構では無かった。彼は《孟子》の注釈を行うだけでは無くて、自分の詩文の多くで孟子を誉め称えていたのだ。彼は若い頃も精一杯孟子を見習い、意識して全ての文を孟子に見習っていたので、《淮南染説》を世に出すと、孟子の再来かと当時の人を驚かせたのだが、欧陽修は、「孟韓文は高いが、必要は無い」と孟子の文に余り拘るのは可笑しいと批評した。
王安石は孟子を聖人として敬い、「孔孟が歳月のようだ」と言い、孟子を高く評価して、その上《孟子》は試験の図書目録の一つであったので、孟子は「偉大な恩人」と言える。 面白いことに、当時王安石の属する新党は大部分が孟子を重く観ていたが、李覯、司馬光などの古い党派の者達は全て孟子に反対していた。孟子を庇うかそれとも孟子を倒すかと、殆どの者達が新旧の二党に分かれて、ある時一種独特の空気を漂わせていたのだ。
司馬光は《疑孟》を創って孟子を批判していたのであるが、その中の一つの大きい罪状は孟子が君臣を理解出来無かったという大義であった。 孔子は一世代の聖人、魯定公は、「公が全て庸君である」と悲しんで、呼ぶことがあると、孔子はすぐ走っていって、畏れ多く言葉丁寧に振舞った。孟子は王の思し召しに合っても君主と対等に振舞って臆する所が無かった。
孟子は何故非難を浴びるのかというその主たる理由は、彼が揺るぎ無く独立独歩の性格をしていた為であり、「道尊于勢」、個人の尊厳が位より重いことを主張したのであり、更に君臣が君主に講座を受け持つに至り、臣が道を君主に説くのに、君主が威儀を正して聞き入ることを条件につけたり、桀紂も暴君とはいえ君主に違い無かったことを考えると、君主と雖十分な尊敬を値し無いとして態度に出していたからであろう。このことは孟子が孔子を上回って賛美されていた地方において、後世、愚直で忠誠心など糞食らへの学者が暴君(朱元璋「明の創始皇帝」の世代)に大いに攻撃を増すことの起爆剤となったのだ。
王安石は主に孟子の人格と気骨に感動して彼を尊敬し、孟子が勇気を出して世間一般の風習に恐れず立ち向っていたことを賞賛する。王氏《染説》は「動議の重さがあって、王公も軽んじず; 驕り高ぶらない富貴の志の意は足りて」と語り、「財産や地位に惑わされること無く、権威や武力でも屈服され得無い」という精神を表現して、彼には、重い徳、軽い勢位、重い自分の意志と軽い個人の言葉を明かに示して来た一貫した風格を感じる。これと儒家がずっと提唱して来た各人の人と為りへの誤りは、集団を重く見て個人を軽く見る考えが相交叉して全く相反するとすることであった。王安石は何故か見抜くことが出来る迄孟子を観続け、孟子にある程度の裏切りの精神を身体に感じるまで成って、自己の改革のある種類を否定することに成って仕舞うかも知れ無いと思いつつ、儒家を代表して自ら孔子が確立した儒家の基本の旺盛な一面をも破棄したのだ。孟子のこれらの優秀な思想が、後から来る儒学の発展の過程の中で、一層光彩を放つことを叶えて無いことも惜しいが、却って何度も否定的に反発を受け、儒家達も日毎に彼を守ろうとし無く為って仕舞っていた。王安石は孟子を尊重して、彼の持っていた諸々の優秀な才能を発揚して、儒学に再び活力を生まれさせようとした。王安石は孟子を尊重する、と同じく孟子が主張をやめない所が好きなので、このことは儒家の徳的な教義の中にある根拠を見出すことを声高に言うことと関係がある。若し、徳的な教義の中にある根拠を見出すことが出来無いならば、所謂、徳は単純な説教になって、徳を広げようとする努力が味気無さを味わう破目に為って身に詰まされて仕舞い、伝統の儒学の欠陥はここに集約されたのだ。 この欠陥を克服する為王安石は性命を強調する事に為ったのだ。
王安石には若い頃の著作と看られる変わった題名の一篇《性論》がある。 《性論》の中で、彼は強く性善説を主張し、孔子と子思、孟軻全て一聖人と二賢とする。彼が先ず言ったのは「古に性は善と言われたのは、仲尼のことでは無かったが, 仲尼は聖人の中でも最も大切な人であった。仲尼の下では、子思の方が性善くて、その面では仲尼は子思に人と為りに学ぶ。その次に孟軻の方が善くて、学生は孟軻の人と為りを思い慕う」ということで、一握りの儒家が儒学伝道の系統の性について言われたことを列挙し、彼らの思想が同じ流れを汲んだのだと思っていた。孔子は「性相近いならば、相遠くに習う」と、性が近い者達のことを反発し合うと言った; 子思の所謂「性所謂道を率いる」は、道は本来性に反すると言うのだ; 孟軻が「人無く不善有り」と言ったのは、性は本来善で、そうで無いならば人は要らないと言ったことは、彼の思想が発展の筋道を受け継いだということを如実に著していたのだ。
彼は「生の本質としての性 、仁義礼智信 、聖人と愚かしき者、均しく有るが侭」と考えていたのだが、意味は性とは生まれついての本質は、詰り仁、義、礼、知、信の五常なので、聡明な人であろうと愚かな人であろうと、皆五常がある。上の知と下の愚かな違いは五常全ての有る無しにあるのでは無く、五常の一つも無い、一得だけ有る、一得が微に在るという違いである。 それなら如何して聖人は「唯知に行って愚なことに移さ無い」と言うのか? 「移さ無い」とは性のことで、人の先天的な本性は変えることは出来無い為であるか、さもなければ、「移さ無い」は大なり小なりの問題で、明日になっても何となく改め無いことを言うので、才識は性に拘らず容易に変え難いと言うのか。 例えば下に向かう性は全ての水と同じたが、大河の流れは溝渠の幅の大小を見分けることがある; 木に宿る性は二つと無く、違う種の木々同士が一本の木に成る訳が無い。そこで人は夕暮の明るさもそれぞれ異なるように知があるか愚かであるかで異なるが、然し同情、恥じと憎み、是非、などは元々同じものから派生した筈だが、その元になったものは今や端に追いやられて仕舞ったのだ。
王安石は知と愚を善と悪に区別することは、『事実の判断』を『価値判断』と区分するようなものであるとした。彼は徳が性であると主張したが、知力は才能を齎すが、それらは混同してはなら無いもので、自ずと高下があるが、性には差別は無い。揚雄、韓愈に対し上に知と下に愚という説明すると二人は戸惑ったが、性と才能を混ぜこぜにして批判したのだ。
このことは実は孟子の性善説の合理性を証明するものである。孔子が考えた性は人によってそう違うものでは無く、そして性は本来より善であるなどと言う根拠は無いと言い切った。《中庸》の「天は、命これ性に、性これ道に従うと謂う」、性と言うようなものは先天的で、生まれついての性は、将来徳の薫陶(よい方向に感化する)を経た後、制約(率)を受けなければなら無いが、然し、徳は生まれつき身についているもので無いのだ。将に孔子、子思を無理やり引き合いに出し、孟軻に依って検証させたので、これこそ王安石の「自らの意思で断つ」と言うことだ。知力が善悪を区分するのが合理的だが、知力も結局人の素質で、甚だしきに至っては知能指数の高低は確かに人の天性で、今日の科学は既に、この点を証明しているが、凶悪の有無は今日に於いても今尚論争中なのだ。その為、王安石は素質の筈の知力を性の外に排除して、更に生まれつきである性は未来では徳に属するというように多分弄りまわし逆さまにして仕舞いかねなかったのだ。
大将の器と性は関係無く、「ただ愚かしき者は聖人の下に移さ無い」という孔子の解釈に注文をつけることで性善説者と相争うこと無く済ませようとしたが、元はと言えば五常の中に「知」を含んでいる性は五常と言え、にも拘らず知を無視する事は、自らの言動との矛盾があるので、少なくとも納得出来るとは言い難い。若し知には、高下があり強弱がありとしたとしても、同じ様に考えて仁、義、礼、信にも程度の差を認める訳にはいか無いので、だから「高下の有無し」とは截然と区別すべきで、このことを私達は同様に性悪説についても言うことが出来るので、善人はただ悪の資質が弱いだけで、悪人は悪の資質が強いとするが、人間の性は本来善に有り、慈善家の善性強く、悪人の善性弱いというになり本質的に違いが無いのだ。
それでも、王安石の「性は善に過ぎない」、「性は者の所謂五常である」は儒学の発展史上で依然として性の価値を逃さ無いことを言う。一方では彼は儒家の学ぶ道の為に、先天的に内在する根拠を探し当てて、結果、ある程度朱の性理学に影響を与え、また、上は知で下は愚であるというのみの性ばかりを区分する道のりを一休みして、後の儒学が生来の是非善悪を知る本能についての言葉の「五性(仁義礼智信)を出すこと無しに如何して備える」は明らかに《性論》からで、多くの面で朱は同調していたのだ。
王安石は若い頃只管、孟をもち揚げ、それから以前の説を修正した。彼が著した《原性》一文では,孟、荀、楊、韓全てを批評している。彼は韓愈の「『性は五常を備えて』を誤り」と思っていた。 太極(極まってこれ以上が無いもの)が五常を生むのであって、五常は太極では無く、五常は性に依って生まれるもので、五常は性では無いとした。性には善か悪かを全てとする問題があって、もし人間の性を善とするならば、悪はあるべきもので無くなる; 逆も真となる。彼は思った、「性は情を生むが、性に善悪の言葉があるのは可笑しく、情(情)を持つことに対して如何して善悪の形があって良いのか」、気侭にして情を生むと言うのは、愛情(情)を持つにも善悪があって、性そのものを善だ、悪だと想うことは出来無いのだ。四人の弟子の根本の誤りは、習慣こそが性と言うことであって、それは将来の日の習わしを先天的な性とすることでもあり、例えば善悪、五常は全て将来の日のものであり、また習慣のものでもあるとするのは、それらの違いは大変大きく、一つのものとしてはいけ無いのに、飽く迄不揃いで一様で無い癖は先天的な本性であり、多くを一つにしたりもするので自らの言動が矛盾して仕舞うのである(簡単なことを分かり難く表現している・・・・性は本来個々の人にとって先天的なものであるはずが、習慣によって得ていくものとすれば、矛盾があると言いたいのだろう)。
王安石は「ただ聖人の下に愚かしい者は移さ無い」に対して改めて解釈をした。彼は、「善悪や知愚は一致し無いとし、善も悪に変わることがあり、知が愚かに転換することは無く、悪い者が善いことが出来るように努力することは良いが、愚の者は知者になれる分けが無い」と思っていた。伏羲が《易》を創作したが如く聖人の知に人が及ぶ筈も無いが、ただ同様に聖人の孔子の為に言うことが出来るとすれば、弟子を連れての遊歴が書かれている(孔子作《系辞》を指す)には、子が夏のような‘聖人の門徒の高賢’を一辞も褒めること無かったので、「夏は本当に愚かな人だったのか?」と言う事を問うのだ。
王安石は古い説を改変し、彼の思想が一歩一歩成熟していることを明らかにしたが、彼は決して自説に拘る人では無いということも説明していたのだ。 将に五常は性である(韓愈から)とは、性は善悪とは違うものであると改め、彼の性に対する認識が高まったことを表して、更に抽象的ではあるが、同様に性の本質に更に近づこうとしていたのだ。でも彼は持って生まれた知の価値を強調する余り、知能指数の相違を主張し過ぎれば、生れ乍らに優れた知能に恵まれた聖人を越えることは出来無いということは認識せざるを得無くなって仕舞い、先人を越えて後代の人に役立つことなど出来無くなり、同時に何も為すことが出来無くなるので、素質に恵まれて無い人も努力して学べば、ある程度のことを成し遂げることは出来るように成れると、素質があるのに力を発揮出来ない人を励ましたのだ。
王安石は更に《性説》を著し、論理の展開を続けた。彼は孔子の「中人以上は上と話すことが出来るが、中人以下は上と語るべきで無く、惟、上智と下愚は互いに移れず」を改めて「善悪を以って知愚を説明したものである」と解釈した。詰り、上人の智者は、必ず善人を見習う; 下人の愚かな者は、必ず悪人を見習う; 「時には善に見習い、時には悪に見習い、其意は定まらず」とは、所謂、中人のことを言うのではないのかとした。「善を為して移らず」とは、上の知の人ことを言う; 悪いことを為し改め無いのは、所謂、下人の愚者である。詰り、上人の智者は下人の愚者に為ることは無く、上人の智者と下人の愚者の互いに変わることが無い様に運命付けられたものであると説明したもので、この見解は非常に新鮮であるが、恐らく「自分の意志で断つ」の結果であろうが、孔子の本来の意味(意図)と合致するとは限ら無いのだ。王安石は更に所謂性は必ず持続するもので無ければならないと駄目押ししたが、この意味は、具体的にある時やある事柄を見ることが出来無くとも、性は常態のものであるのは必然ということなのだが、孔子のような言動で人を判定するならば、その判定で私は身動き出来無くなって仕舞う; 孔子は毎日子羽が傍にいたので其の人柄を良く知る立場にあった筈だったのだが、この二人は成人であり彼らの性は既に決まっているにも拘らず、その容貌を見て子羽を覚え知る必要無いと判定して、子羽を失ったのだが、王安石は《春秋左氏伝》記載に拠って之と同様な事例を持ち出し、越椒、叔魚が始めて産まれた時、婦人は其の声と容貌によって其の性を知ったというのだが、雅か、孔子の智が婦人に及ぶことが無いことを証明しようとしたのだろうか ?
《性情》編の中で、王安石は性情に関しての論述を行った。 彼は李翱などの人の「性は善、情は悪と議論する」ということを批評して、このような発言が情と性を切り離すものだと思っていたのだ。彼は、「性は人の情の素、情は人の性に用いるもの、故に自分は情と性は一つであると考える」と言い、情と性を一体とし、分けてはいけ無いと指摘した。性と情は一つのものの内と外の両面で、性は主に内に向かい、情は外に向かうものであり、依って性は情が悪であれば悪であり、性は情が善であれば善であるということになるので、君子は性を求めてはならず、小人は情に頼って縋るのだ。君子も小人も皆性があって情もあるので、君子も喜怒哀楽があって、若し情が無いのに善を為すことが出来るのなら、情など無い木石すら善を為せるということになって仕舞うのだ。ここでは王安石は明らかに禅宗の影響を受けて、六祖恵能は「情無いならば、仏教の意味は無い」と言って、木石のように無機質に唯座禅だけを続けることに頑として反対して、情と性は元来対立するもので無く、性を強調しても情を無視することにはなら無いとし、情が性を傷つけ(損ね)ることも無いとしたのだが、天台宗は「情を無くしても性は有る」と主張し、また諸法でもこれら二つは等しいものでは無いことを力説しており、情のある無しの区別を重視して無かった。
王安石は《性命論》を書いて、「天が人に授ける諸々のものが日々の命であり、人が天から諸々を受けるのが日々の性である」とし、意味は、命とは天が人に授けた必然の規範であり、性は人が天から授かった根源であると説かれるもので、或る人の命は天の人に対する決まりで、性は人が天から授かり受けたものであると説くのだ。彼は、命には善と悪、長生きと若死にがあって、若し、賢い者が気高く、不肖者は賤しく、仁愛の心がある者は長生きし、慈しみが無い者は短命に終る、と言うのが正しい命であり、天は正しく命を下したと言え、理屈に合うが、天命の実際はこれに反して理屈に合わず、不合理なものである。注意する必要があったのは、王安石にとって将に聖人は天命の推進者であり、聖人が在位すると天命を呼び起こすのだが、尭舜の時代に四門が無かったのは不吉とはいえ、木目細かく善悪や長寿と若死にの区別を授けたので、正しい運命と言えたが、文王の時には才能によって昇進降格が決められたので、士は思いがけ無い幸運に恵まれたということは無くなったが、貴賎への命は正しかったのであり、成王の時には刑罰は適切で、人民は非業の死を遂げることが無くなって、長寿と短命の運命は正しく、それ以後の時代は小者を進んで使って、逆に賢者は貧しい継(儘)年を取って、悪も許容され、善が殺戮に遭い、運命は正しいもので無く為ったのだ。こうして観ると天命は決して天から齎されるものでは無く、人に依って齎され、統治者の帝王から齎されるもので、天命とは単に王政、詰り、俗世間の政治の代名詞であり、如何なる神秘的な色をも持つものでは無いのだとした。
彼は、亦、命と分との関係を講じ、「情は性に生まれ、分は運命に依って生じる」と述べた。 所謂、命が位を付けるのは、命が天命だからであり、君子は此れを理解し、位を無視して行っては為らず、下の者は謹んで上に仕える; 分とは本分を言い、下民が之を理解して初めて、本分を守るのであり、敢えて不相応な要求をするもので無いのだ。分は運命づけられていられるから、変えることが出来無いのだ。後世においては先王の政治が五十歳を過ぎた聖王を出さ無かったかは不明で、神秘的な陰陽の運命は『讖緯』・・・・・・ 《讖緯は中国では古代の讖の本と緯の本が相当して語っているのだ。讖は秦漢間の祈祷師、方士のでっち上げる予兆の吉凶の隠語で、緯は漢が盲信して儒家の経義の一種類の本をこじつけることに代わるのだ。讖緯の学は詰り未来の一種の政治に対して予言する。それ故両者は本来別であるが実際上は共存し、混同され一括されて讖緯説といわれる。讖緯説は前漢末、当時流行していた災異説の予言への偏向と共に、哀帝と平帝の間の御世に起こったと謂われる。王莽は当時のこの風潮を利用し、偽作の相つぐ符命によって漢室を奪った。この特命は讖を利用したもので緯書には関係は無いと謂われる。 ところで劉秀は河図赤伏符をみて挙兵に踏みきり、劉漢王朝を再興した。この符は緯書である。以後緯書は後漢の思想界を先導した。建初四年(79)の白虎観会議も経典解釈の典拠として緯書が多く引用された。その後馬融や鄭玄のような正統派の大儒でさえ緯書を信じて後漢末にいたった。 》・・・・・の代に報いることが出来、聖人が命じることが無かったのが、却って怪しい神秘性を醸し出していた。命に依って必ず分があり、天命に依って齎されたことを理解し、朝では唐臣とし、暮れには梁民として己れの身分や立場を定めるのは、所謂不義理とは言わず、却って、命が分を定め受けさすことに適うのだ。賞罰が不当に為されれば、政治は乱れ、却って天命は一つに帰すのだ。
王安石の性と命を覗くと、粗完璧に神秘主義の影響を排除して、天命を人事に代えて、現実主義の精神を持たせた。彼は天命の神秘的な必然性から社会の現実の必然性に帰結して、自分の境遇に安んじれば何の悩みも無いと主張して、怨み悩むことも無く為ると言った。命は操作出来無い必然で、一個人ではどうしようも無いもので、心配しても何の効果も無い!心配事の無益さ、また憂える必要があるか!それ故、人事を尽くすべきで、只管天命に耳を傾け続けるならば、そのことは個人の努力を尽くすことにとって何ら寄与することは無く、人を貧しくし、栄えることを廃棄することになり、全く不満ばかりが募ることになり、これ即ち天命の為で、自分の徳感を養うこととも関係が無いのだ。
王安石の言う命は、必然の性の外、更に理性的意味合いも包含している。 彼は治乱が起きるのは命に有り、由って、進退は理に依って測り、仮初に進むべきでは無い。時勢(個人にとっての命だ)の危険な乱れ、適当で無い功名心、「世を捨て切れ無いことに悶々とする」ということは、禄利を貪っては為らず、或いは天下を憂えて軽はずみに進めては為らず、踏ん切りをつけて向こう見ずに進むと必ず後に憂いを残す。同様に、時には進取に当たり、萎縮してはいけ無くて、さも無ければ、天命に背くことになる。 そうすることで命も一種の理性的な契機とすることが出来るのだ。
王安石は社会に必然的に起きる命は物事を決定する契機となることがあることを強調して、それが人の善悪や災難或いは幸運などの外的要因による功利の境遇を決定するだけでは無く、人が善を為したり悪であったり、賢い地位について不肖な考えを持ったりすることも決定することがあり得るのだとした。 乱世の中で、善を為したいと思うことは無く、お礼もしたいとも思えず、社会の現実が人々を強制出来るのは悪だけであり、妾になることしか出来無い人もいる。同様に、太平の世の中にあっても、善には賞を悪には罰をと法制が厳格公正で有るのは、人間の欲望が悪な為に抑制が出来無いと思うからである。この考え方は非常に深く、社会全体を構成する個人が主観と客観との双方のどちらに作用して社会の規則と社会の現実を決定していくかということであり、後の世代の社会への決定論のようなものである。然し、王安石の命の決定権は民主政治に訴えるというものでは決して無いので、社会の全体に問い掛けることは無く、社会の代表を聖王として、聖王が社会の正義を代表して個人の命を決定したのだが、これは時代の制約がそうさせるので、古人を厳しく責めるべきこととは切り離されるべきことであった。
王安石は将に「道」が性と命為りと帰結するので無く、将に、性と命自身は「人の心」に帰結するとしたのだ。 彼は指摘している: 「『先王の道』は、性と命の理から出て、性と命は理であり、人の心から出る」。 将に、性と命を人の心に帰結して、性学が心学への転化に向っていることを明かにして、王が学んで心、性、理、道の統一を体現していたことをも明かにしていたのだ。
性と命は人の心にあって、仁義礼智と説き、道徳的な性と命は外からでは壊せず、己の心から出るものだ。将に、総て一切を一心に帰し、これは明らかに禅宗からの影響を受けた考えだった。六祖恵能は自身の性は仏陀から影響されたのであると強調し、己の性の真髄を以って万法の源と為し、行を修める肝心な点は、「心に生まれる」とは「様々な法が生まれること」で、「心を消し去ること」とは「様々な法が消えること」である; 「心の浄化」、則「全てを清め」、「心が染まる」とは、則「至る所の塵に染まること」である; 「心で悟る」は、即ち、「衆生が仏陀に成れる」。世間での浄土、元来、隔て妨げるものでは無い; 仏陀と衆生、元来二つにあらず。自ら心を明浄にすれば、出来ないこと無く、「無いもの」は在るべくも無いのだ。それで、禅宗は「心の宗派」と名乗ったのだ。
所謂、命の理は人の心から出(いずる)と言うことは、決して玄妙不可思議なことでは無いと説き、今この時点にも細部に亘って体得し得ることなので、外から求める必要は無いのだ。性は元来人の心にあって、それを素直に表すのが《詩》《書》で、出遭ったのは文字であるが、経書は亡くなることがあっても、それらは決して亡くならない。既に人は心にあるが儘のものを得ているので、強要してはならず、人の心に無かったものと交換して人の心の総てを奪ってはなら無いのだ。学問の道でも人の心を明瞭に感じさすに過ぎないのだ。
王安石は儒学を心学にとして完結させたが、そのことは仏教に禅宗の精髄を吸収させるのと同じで、同じく仏教も諸家の宝物を馬鹿にした為、頼る者を失って仕舞ったので、対等に振舞って地位を得させたいと、慌てて儒学を仏教と同様な思維の高さまで上らせたのだ。性学家達はこの点を余り承認したく無かったのだが、後から来る性学と心学は総て王安石が創始した道に沿って儒学を発展させたのだ。
三、高く全経を学ぶ
王安石は「全経」という重要な概念を提出し、伝統の経学と『先王の道』に対して全く新しい創造的解釈をした。王安石は《曾子固書》の中で真っ先にこの概念を打出した: その書には、子固が忙しく経典を読んで勉強する暇が無いことを心配していることが記述されている。書から得続けても、その者の経は疑わしく、そして書からの教えは、経を矢鱈俗っぽくして仕舞うと子固は言うのだ。とは言え、「経典を読んで勉強しても、如何して中国では経典を聖人の書と別として扱うのであろうか?」という意見は貴重であるのだ。
子固がこの度の「吾が書」を読むことと、子固が経典を読むことは同じことなのに、如何して勉強する暇が余り無いなぞというのか理解に苦しむ。「誰もが生涯、経の全てを見るなぞ有得無いので、経典を読むだけでは知れたものであろう」とでも言いたいのか。諸子百家の本、《難経》、《素問》、《本草》、諸小説等読んで無いところが無い程読み漁り、農夫、女性労働者に至るまでに疑問とすることを聞き及べば、疑い無く経に於ける大切な道理をも知ることが出来るように成る筈ではないか。然も、凡そ後世の学者は、先王の時代とは違って、聖人を尊重することが無くなっている傾向がある。揚雄は「聖人以外の書を好まずと雖も、墨、晏、鄒、申、韓の書を一体如何して読まなかったのか?」と反省し、彼は後から書を積み上げ、所々摘み上げて学んだので、混乱すること無く「異なる学」を学べたではないか。良い所取りと雖も、得るものも有るのだ。子固もまた「異なる学」が混乱を招いたと思っていたのか?私には知る由も無い。今日矢鱈俗っぽいのは仏教が原因では無くて、学者や医者が蔭で利欲を貪ることにあろうが、尚言うと、本当は自分自身も如何してなのか判ら無かったのだ。
王安石は中年に成って儒学から経学に転向を始めて、異なる学に対して益々寛容な態度を示していたので、曾鞏に多くの経典を読んで貰って勉強するように勧め、親しい友人と自分が共に前進することを望んだ。曾鞏は王安石が異なる学の体系を吸収するのを益々不満に思うようになり、彼が経学を儒学に取って代わって、極端に言うと、異なる学に傾向して転向しようと考えていると感じ始めていたので、自分に経典を読んで勉強するようにと勧められると、仏教を進めようとしているのだと誤って理解して仕舞い、その為に続けざまに手紙を出して、仏教の経典が矢鱈安っぽいことを挙げて、王安石の転換を阻止して彼を再び儒学に帰らせ、その道筋守って振興させることを試みた。志向の相違が出て来た為、二人の間の相互の信頼と理解も減って、互いに誤解することが間々起きた。王安石は自分の立場を説明したくて、この本を奨めて、理解と支持を獲得することを望んだのだ。
この本は何時頃書かれたものか分から無いので、理に合わせて推測すると凡そ英宗が治めた平年の間ということになる。王安石と曾鞏は若い頃からずっと行き来が有り、生涯続いた。二人は儒学を復興する方面では志と信念が一致していたのだが、然し、儒学を如何にして復興するのかという点では少なからずの相違があった。曾鞏は王安石よりたった二歳年上だけだったのであるが、異なる学との決裂を堅く守った師の欧陽修の影響を極端に受けていたので、仏老が再び儒学の地位を確立することに反対し続けることを決心し、異なる学に対して責める態度を抱き続けていたのだ。王安石は別の一本の道を歩き、彼は仏と混じり合うことを通じて老と儒学を再建して、創造と発展を以って生き延ばそうとした。二人は、この相違が後期になって益々明らかになって来た為に全力で相手の志を変えようと試みたが、二人が同じ様に頑固であったので、どちらも相手を説得することが出来無かったのだ。
王安石は、先王の時代には一切を包み込む大事なものが間違い無く存在したと言う説を肯定しているが、聖人の極めて公平な「全経」を収めるに至った当時の時代の変革、経典の喪失、道術の分裂の為、今日の人は全経を全く見ることが出来無く成って仕舞ったのだ。ここでの王安石は《庄子・天下》の影響を強烈に受けていたのだが、聖王の三世代の時代には道術(全経)の分裂が生じ、諸子百家は各々その片隅に場所を得たが、儒家はその詩、本、贈り物を得てほくそ笑むのだが、万全の備えを持つ道術を代表することは出来無かったのだ。儒家の献上した六経はとっくに全経を代表することが出来無くて、その為徒に儒家の経典だけを読んで、知は全てに不足して、儒家の経典自身についても本当の理解が出来無かったのだ。ここでの王安石は曾鞏の儒学の本の読み方を婉曲に批判していたのだ。
道術は分散して、百家は一つ残らず衰退し、そんな状況で全経を会得したいと思ったならば、先ず、分散した各家の中で道術の系統の者達のものを一体とすることから始めて、必ずあらゆる書を完読しなければならず、持ち得る才能で「万物の理を分析して、古人の全体を細かく調べた」のだ。王安石は経典を読んで勉強する以外、更に諸子百家の本、《難経》、《素問》、《本草》などの医学書、各種の小説など読まない書が無くて、然も、彼は明言してはい無いが間違い無くあらゆる経をも含んでいたのだろう。当時、王安石は、凡そ探し当てることが出来ると思った総ての本は総て一遍なりとて閲覧し、このような技量は本当に稀有で驚異的で、揚州の幕府の任に就いていた時、本を読んでは何時も徹夜であったということで、韓琦が疑ったのは偽りで無く、きっと間違い無く事実であったのだ。彼は書物の知識を重視するだけでは無くて、更に特に実践経験を重視して、教えを請うのを恥とし無いで、農夫、女性労働者さえ問は無かったことが無かった。王安石はこのように勤勉で、真理に対してこのように切に求めて来た、その旺盛な知識欲は、無限にある森羅万象を知ろうとする意欲に尽きて、このような研究する精神は本当に見習うに値する。彼のように最善を尽くして総て学ぶことに全力を傾けることを通じて(通って)、彼は大切な理を漸く知ることが出来たので、先王の真髄をも得られると思っていたのだ。
王安石は、時代は絶えず変化するので、今日と先王の時代の差が時の経つのに連れて完全に大きくな隔たりを造ら無いようにと、新知を理解しようと努力し、其の上、才能が発揮して行く先には王の意の儘に有り、聖人の道を尽くすと力説したのだ。若し物事に拘って融通が効か無いならば、状況の変化を考えず頑なに古い仕来りに拘って、古人の跡を学んで、先王の文を守って、融通を効かすことに理解出来ずに、終には先王に背馳して仕舞うのだ。
王安石は、亦彼らが共に崇敬した揚雄を例にして、異なる学に対する正しい態度について再度説明している。揚雄は聖人の本でなければ読むことは無かったのだが、墨子、晏子、鄒陽、庄子、申不害、韓非子などの諸家の本を総て読よんだと述べた。彼は先に儒家を研究する為に揺るぎ無い立場を確立した後、漸く異なる学の本を読むようになって、儒家の観点に収まる範囲で選択したものを許される範囲でのみ異なる学を取り入れたので、異なる学に因って混乱させることは無かった。立場が確りしていたので、動揺することはありえ得ず、従って冷静に客観的に異なる学に対応することが出来て、合理的に吸収して、不合理な所を捨てたのであり、このように出来たことが、儒家が害を被ることを無くし、更に儒道を一層光り輝かせることが出来たのだ。
王安石は異なる質の文化の問題にどのように正しく対応するか結論を出した。彼は、異なる質の文化に対して必ず二分法を使うことにして、先ず、合理的な成分を含んだ要点となるものを是認して、理屈に合うものは否定し無かった; その次に行ったのは、異なる質の文化に対して恐れる必要は無く、国都の城門の外では敵に抵抗することが出来無いのと同じ様に、盲滅法に責めても目的を達成することすら出来無いので、或いは予想に反する結果を齎すかもしれないので、その本質を明確にし、亦真剣に学習と理解をすることが必至で、このように努力して漸く有効に「その一面を不合理に制限すること」を批判することが出来るとし、その急所を捉えて、その濫用を抑え込まねばならないとした; 更にもう一度、存分に異なる質の文化の合理的な成分を必ず吸収しなければならないが、理の是非を是非にして、異なる学も妄りに非難することは控えることが必要となると説き、吸収しようとするものが異なる学会も自分達が異化されることを恐れる必要は無いように、異なる学に正しく対応すれば良いだけの筈なのだが、徒に異なる学に接し勝手に乱れ、更に恐れる結果、慌てて仕舞い盲滅法排斥しようともがけばもがくほど、却って足並みも乱れ、最後に失敗を招くと思っていたのだ。
王安石は親しい友人の盲信に対して深く感じ、自分が心を痛めていることに疑問が生じ、極端な時は曾鞏の「非知我也」を責めて、この批判も可也厳しいものがあった。更に、彼は「曾鞏の仏教に対する批判」を断固として拒絶して、世相がだんだん悪くなったことで儒学が首位の座から降ろされ追い遣られ不振であることを明確に指摘して、その主な原因は儒学者達自身に在り、儒学者自ら自身を堕落させることを知り乍利欲を士大夫の門徒達に要求するまで堕落した儒道は救い様が無く、聖人から学んだことも理解し無い儘、徒相互に煽て上げ喜び合うだけだった。儒家は自らを反省しようとの構えを全く見せず、内部に病が在ることも気付かず、気付いても全く自浄して直そうとし無いで、異なる学に対して大変不公平となって仕舞ったのだが、何の根拠も無く徒に異なる学を排撃して、自ら発展を獲得する機会をも永遠に逃し、またそれを獲得する機会も得ることが不可能とまでに為って仕舞っていたのだ。
王安石の経学と漢唐の経学は本質の違いを持っていていたのを見抜くことが出来て、一つは伝統を固守して章節と句読を付け無いで、筋道に専念する; 二つ目は全経を事実上再建し、回復しようと、全ての学説を吸収し新しい経学を創り建てようとする為、決して儒家の一家の言うことを重んじ無いものであった。 新しい経学は全ての学説に平等に対応して、取捨選択は理に適い、周孔を重んじず、釈迦と老子は手厚く遇し、高爵の貴族達を尊重し無いで、女性や労働者を軽くあしらわず。新しい経学は事実上既に伝統の儒学、更には経学の境界線を突破して、一種の儒学を主体として良いものは何でも採り入れた新学説に成った。
「四、諸家を兼ねる」に続く
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます