ポールオースター「カフカのためのページ」を読んでみた。

2016-11-23 12:30:25 | 日記
※以下の文章は、すべてポールオースター著・柴田元幸訳「カフカのためのページ Pages for kafka」(ポール―オースター著・柴田元幸、畔柳和代編訳『空腹の技法』」)による。以下の文章を読んで、カフカやオースターに興味を持っていただければ幸いである。



 オースターの「カフカのためのページ」はわずか数ページという短い文章でありながら、その濃密な内容は、カフカに内在するむせ返るような「終わりのなさ」を鋭く分析している。

 この文章はカフカの根本的な姿勢に関する逆説的な記述から始まる。

 彼は約束の地へとむかってさまよう。すなわち――ひとつの場所から別の場所へと動き、立ち止まることをたえず夢見る。そして、立ち止まりたいという欲望に憑かれているがゆえ、その欲望が彼にとって何よりも大切であるがゆえ、彼は立ち止らない。彼はさまよう。すなわち――いつかはどこかへたどり着くという望みをこれっぽっちも持たずに。

 この箇所が「カフカにおけるページ」におけるオースターのカフカ論を見事に要約している。カフカはさまよう。自らの安らぎの場所を求めて。しかし「どこかへたどり着くことはできない」という絶望を携えて。
 この逆説にもう少し立ち入ればオースターがカフカに対して抱いている印象を、そしてある種の人間に対する文学的な分析をより味わうことが出来るだろう。

 「カフカのためのページ」においてカフカは、救いのない歩みを続ける流浪者として捉えられている。カフカは自身の姿を確認することが出来ず、身体の不明瞭な「流れ」に自身を委ねている。その姿はオースターの言葉を借りれば「彼を導くことを拒むものの道筋を辿りうるかのようである」。
 カフカの歩みは盲目的に「彼が今まで歩んできた道」というものの存在を捏造するが、その道に「主体性」や「自由」といった、かつてスピノザが厳しく批判した(スピノザはオースターが愛好していた哲学者であった)ものがないことはカフカが「不明瞭な流れに自身を委ねている」というオースターの意見と、以下の分析から推察出来るだろう。つまりこの道・歩みにおいて、カフカは今まで自身が置き去りにしたもの(かつての「出発点」)に縛り付けられ続け、またこう囁かれ続けられる。
「俺の下に居ればよかったのに。そうすればお前は自分を見出すことが出来たかもしれなかったのに。だがそんな可能性はもうない。お前は去った。お前は去った。これは厳然たる事実である。これは厳然たる事実である…」と。

 このような破滅的な状況で、カフカはどのように生きているのか。オースターは以下の様に捉えている。

 …一瞬一瞬、歩み続けながらも彼は思う、罠のように眼前に横たわる広がりから目を離し、自分の下に現れては消える足の動きに目を向けねば、と、道それ自体に、その埃に、道に散らばった石ころに、石ころをふみつけてゆくみずからの足音に心を向けねばと、そして彼はこの思いに従う、あたかもそれが償いの苦行であるかのように、そして彼は、目の前の広がりとの結婚を辞さなかったであろう彼は、自分に反して、自分に逆らって、近くにあるすべての腹心の友となる…。

 カフカは身を置き得る場所から目を離し、自らの足の動きに、道の仔細に視線を落とす。ここでカフカがある意味では懐疑的コギトを、強大な実存を手にしたと早合点してはいけない。オースターによればカフカは「行き続けながらも、行くという行為に疑義を呈している」からである。また、「すべての腹心の友」といっても、そこでカフカが歩みに、道に、そこにある全てのものと「調和」した、と理解してもいけない。そこでいわれているのは哲学的な「友愛」、これまでの議論の文脈に乗せれば「カフカ」という空虚を埋めようとする複数の敵対的存在とカフカが取り結ぶ関係性である。

 その徹底されたストイシズムは一体何の為に、カフカをある種の強迫観念に駆り立てるのか。その問いに対するオースターの答えは、はじめ呈示した逆説の意味を「より」明らかにする。「カフカのためのページ」からオースターの言葉を引けば、その目的とは「みずからを転覆させるため」、「みずからの力を減退させるため」、そしてそれらが収斂する欲望、「欲しないものを欲するため」である。
極限の懐疑と闘いの中でカフカが目指していたものは、厳密な意味での自己解体、新しい流れ、「約束の地」なのである。そしてその地は「欲していない」ものであるが故に、「どこかへたどり着く」という希望を持ってはならないのである。
 オースター曰く、

 彼はさまよう。道ではない道を、自分の大地でない大地を、みずからの体の中に在りながら一人の流浪人として。何が与えられるにせよ、彼はそれを拒むだろう。目の前に何が広げられるにせよ、それに背を向けるだろう。彼は拒むだろう、みずからに禁じたものによく飢えるために。なぜなら約束の地に入ることは、それに近づく望みを放棄してしまうことだからだ。

 オースターが読みとったカフカ像とは、徹底された懐疑的ストイシズム、彼の中に流れていた「(精神病理的)フェストゥム的」な時間のうちを生きる「強靭な」流浪人であったのだろう。「カフカのためのページ」は以下の美しい文章で締めくくられているが、その「終わり」の中ではあらゆるものを「拒否する」カフカのユニークな姿、カフカの不明瞭の運動の「持続」が描かれている。
 
 …影と影の間に光が生きる。ほかのどの光でもない、まさにこの光、彼の内部で明るさを増してゆく光がどこまでも明るさを増していく中、彼は歩き続ける。 


 ここで1曲。例のアレ。

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