村上春樹『1Q84 BOOK3』読了。
BOOK 1、BOOK 2では青豆と天吾の章が交互に配置され、交差に向かってそれぞれの筋書きが展開されるメタ小説の形を取っていたが、BOOK 3ではそこに牛河の章が追加される。牛河は青豆と天吾の足取りを追っていく役割を担っているので、結果、彼の章はこの小説自体の批評となり、物凄く分かりやすい形での解説となる。
牛河の章以外でも時折著者が顔を出して説明的な文章を加えることがあり、全体的な印象はおよそこれまでの村上春樹の作品とは思えないほど読み易く、分かりやすく、共感しやすい一見エンターテインメント小説のようだ。
ただ、読んでいてずっと驚いていたことがある。「1Q84」あるいは「猫の町」は天吾の作り上げた物語だ。青豆と天吾(と牛河)はそれぞれにこの物語に迷い込み、それぞれに危険を乗り越えてそこから脱出しようとする。つまり、物語は世界=システムとなり、彼らはそのシステムから逃れようとするのだ。自身が描いたはずの物語なのに。
物語はやがてシステムとしての脅威を発揮し始める。父親は国家のメタファーとしてのNHK受信料回収人として強権的に金銭を毟り取ろうとする。そこには父性の原理がシステムとして残されていて、子はそこから必死ではい出ようとする。
つまり、個が描き出す物語がいつの間にかシステムに浸食され、それが世界として個を縛り付ける。
世界=システムの脅威から逃れる(あるいは立ち向かう)ために、これまで村上春樹が一貫して物語の力を信じてきたことを思うと、その物語そのものが世界=システムとして個を襲う脅威として描かれ、個がそこから必死で逃れようとする作品として『1Q84』を描いたのだとしたら、やっぱりそれは驚くべきことであり、新たなる地平へと進化しようとする小説家の姿勢なのではないか。
自身が信じる物語が、世界=システムとして、結果的に個に対する脅威となってしまう可能性。それを認めた上で、村上春樹はそれでもなお、物語を紡ぎ出そうとしているように見える。
そして、個が力を発揮するために一番必要なのは、純粋なる愛でしかない。
「再生についてのいちばんの問題はね」
「人は自分のためには再生できないということなの。他の誰かのためにしかできない」
ドストエフスキー的総合小説の域に達してはいないのかも知れない。あるいは、エンターテインメント的要素を確信犯的に加味し、より広く『1Q84』を世界に広めようと目論んでいるのかも知れない。
ただ村上春樹が新しい試みに挑んでいることは確かだし、BOOK 4にせよ、違う物語にせよ、彼の次回作では現実に対する文学的解決の糸口が、より鮮明で精緻な形で示されるだろうと思う。