光と影のつづれ織り

写真で綴る雑記帳

琵琶湖 朝妻湊と筑摩神社、鍋冠祭り

2011年05月12日 | 歴史、民俗

入江橋から朝妻湊に向かって、湖岸道路を北に進みます。
曇り空でしたが、雲の切れ間から青空がのぞいていて、その下の湖面もブルーを映していました。


約900mほど歩くと、朝妻湊跡に。 中央のリゾートホテルのところが筑摩神社、朝妻湊から筑摩神社あたりまでを朝妻・筑摩といいます。


公園のようになっています。 突堤は天野川(息長川、朝妻川とも)の河口堤です。


”朝妻”の響きがいいですね。 由来を示す説明板がありました。


説明に出てくる英一蝶の朝妻舟の絵です。
一蝶は、将軍徳川綱吉の時代、風流人として吉原でも遊び、人気の絵師でしたが、47歳のときに島流しの刑にあっています。
 朝妻舟は朝妻と大津や坂本を結ぶ渡船を言いますが、一方、遊女が客と遊ぶ舟の意味もあり、一蝶の絵にある白拍子は,平家の都落ちにより、女房たちが浮かれ女として身をやつしたものが、朝妻にもその名残をとどめ、客をもとめて入江に船をながした情景を描いている。  湖畔でもの悲しそうに客を待つ姿が印象的です。


さて説明板にもあった鍋冠祭、今度は筑摩神社に戻って、説明看板を撮りました。





写真を撮ったのが5月7日で、祭りの終わった後でしたが、境内にはまだ余韻が残っているようでした。

境内には、尚江千軒遺跡の看板がありました。 昔、朝妻筑摩にあった尚江という村が、地震で水没した


水没関係の記事を次に引用します。
■中日新聞 2007年10月16日
大地震で地滑りし水没 米原沖湖底の「尚江千軒遺跡」 

県立大(彦根市)の林博通教授(歴史学)らは、米原市朝妻筑摩沖の琵琶湖の底にある「尚江千軒(なおえせんげん)遺跡」が、大地震による地滑りで水没したものであると分かったと発表した。京都大、大阪市立大と合同で行った地盤工学調査で判明した。琵琶湖周辺での大地震に備えた現代の防災対策にもつながるとして注目されている。

同遺跡は幅約二キロ、沖合約九百メートルにわたり位置する。これまでの潜水調査で、人為的に打ち込んだとみられるくいや石群、七世紀ごろの須恵器の破片などを発見。陸地だった場所が水没した可能性が高く、林教授は地元の歴史書や口伝に残る「水没村」との関連について研究を進めてきた。

また湖岸の筑摩神社境内では、京都大の釜井俊孝教授(応用地質学)が人工地震の伝わり方を測定。地下三-六メートルに広がる軟弱な地盤が、湖に向かって斜めに落ち込んでいることが分かり、地滑り説の根拠になった。

こう配の緩い場所で大規模な地滑りの痕跡がみられることから、原因は震度6強以上の地震である可能性が高いという。

林教授は「今後は未調査の遺構を発掘し、水没した年代や原因をさらに深く調べたい」としたうえで「今後、地震で同様の地滑りが発生する可能性があることも分かった。新たな防災対策の検討が必要では」と指摘した。

同遺跡は、県内に約九十ある湖底遺跡の一つ。一九二〇年代に書かれた歴史書「近江国坂田郡志」には「尚江」という湖岸の集落が一三二五(正中二)年の大地震で湖に沈んだ伝承が記されているが、集落跡そのものは確認されていない。 引用終わり。

朝妻筑摩は、内湖があった頃を考えると、砂洲のような細長い地形、また琵琶湖に流れ込む河川からの土砂の堆積がかなりあることを考えると、大地震があると、液状化現象が発生し、傾斜によって地滑りが発生することは想像できます。 今、筑摩神社の横には10階建てのリゾートホテルがありますが、さすがにこのビルはしっかりした基礎を打っていると思います。 


さて、筑摩神社境内の御手水です。


龍吐水も年代ものに感じました。


最後に、神社入口の鳥居と琵琶湖方面の写真です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする