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雑感録

福岡なるほどフシギ発見~おまけ31~ 日本書紀にも書かれた那珂川の用水路

 
弟が携わったらしいBSプレミアム「発見!体感!川紀行~福岡・那珂川」で紹介されていた古代の用水路「裂田溝(さくたのうなで)」に行ってみた。
裂田溝も神功皇后絡みの伝説が残っていて、例によって「日本書紀」にも記述がある。

日本書記・巻第九・気長足姫尊(神功皇后)の項
既而皇后、則識神教有驗、更祭祀神祗、躬欲西征。爰定神田而佃之、時引儺河水、欲潤神田而掘溝。及于迹驚岡、大磐塞之、不得穿溝。皇后、召武内宿禰、捧劒鏡令禱祈神祗而求通溝、則當時、雷電霹靂、蹴裂其磐、令通水、故時人號其溝曰裂田溝也。
(現代語訳)
神功皇后は、既に神の教験があることを示し、更に神祇を祈り祭って、皇后みずから、西の方(三韓)を討とうと欲した。そこで、神田の造成を行なった。その時、儺の河(那珂川)の水を引き、神田を潤そうと思い、溝(うなで)を掘った。迹驚岡(とどろきのおか=現在の安徳台)に至るが、大磐(岩)が塞がって、溝を穿つことができなかった。皇后は、武内宿禰を呼び、剣鏡を捧げて神祇に祈らせて、溝を通すことを祈願した。そうすると即刻、雷、稲妻が鳴り響き、その磐を踏み裂いて、水が通るようになった。それ故、人々はこの溝を裂田溝と呼ぶようになった。
※農業土木事業協会特別寄稿「裂田溝」(九大名誉教授・黒田正治)より

簡単に言うと、神功皇后が三韓出兵に際して安徳台(那珂川町北部中央にある台地)に神田を造り、那珂川の水を引こうと用水路を掘らせたけど、途中に硬い大岩があって、進めなくなった。例によって武内宿禰に「何とかせい」と言って、宿禰がお祈りすると、雷が落ちて大岩が裂けてしまった。そんな訳で、人々はこの溝を裂田溝と呼ぶようになったとさ。

全長5~6kmに及ぶ裂田溝が作られたのは、古墳時代前期の4世紀中頃と考えられるとか。
(日本最古の用水路としては、板付遺跡の灌漑設備があるはずなので、日本最古という訳じゃない)
実際、安徳台には弥生時代から奴国の拠点集落があり、安徳台の遺跡からは、直径14m以上の建築物を含め、130軒を超える住居跡が見つかっている。
また、名前の通り、安徳天皇ゆかりの地でもあり、安徳天皇が壇ノ浦の合戦の前に仮御所を置いた場所とも伝えられている。

溝の入口・一の遺跡(井戸)から裂田溝に入ったところ。

山田地区の民家の前を流れる溝。この日はライトアップイベントで、小さな灯篭が並べられていた。民家からは洗い場が突き出ている。
たぶん、雷によって砕かれたと伝られる大岩。「雷」というのは当時のハイテク道具である鉄器のことを指してるんじゃないかという話も。この辺りにも田んぼが広がるが、溝が目指すのはさらにこの奥の安徳台。

大岩付近を実際に調査したら、花崗岩の硬い岩盤が現れた。現れた岩盤は、そのまま上からコンクリートで塗り固めてある。溝はこのあたりで裂田神社を迂回するように曲がっている。
大岩の近くにある裂田神社。説明板には「裂田の溝を記念して神功皇后を祀ってある」とある。今は屋根瓦だけがオレンジ色だが、以前は柱などが朱に塗られていたらしい。
拝殿奥にはめこまれたような神殿。扉には菊の御門が刻まれている。御祭神は神功皇后のはずだけど、イベント準備をしていたおじさんに見せてもらうと、神殿には右に聖母(神功皇后)像、左には土地柄か安徳天皇の御神像の写真が飾ってあった。
裂田神社付近から続く遊歩道。この辺まで来ると、右の民家や道路との高低差がかなりある。それでも水は奥に向かってしっかり我れている。ちなみに安徳台は左の竹やぶの上。


それにしても、日本書紀にも書かれた用水路が約1600年以上の時を経て、いまでも現役で使われてるなんて、すごいぞ!那珂川町。
また、逆を言えば、奴国のことが日本書紀に書かれている。やはり奴国はヤマト王権のルーツに関わっているんだろうね。

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