雑感録

福岡なるほどフシギ発見~その20~ 足利尊氏、出直し戦は多々良浜から

 
アスファルトとコンクリートの古戦場

多々良浜古戦場
1336年(南北朝時代・室町時代初期)

不屈の後醍醐天皇の倒幕の呼びかけに応えた楠木正成や、幕府方から寝返って鎌倉を攻めた新田義貞、六波羅探題を滅ぼした足利尊氏(倒幕以前は高氏)らによって1333年、鎌倉幕府は滅亡。
後醍醐天皇はいわゆる建武の新政に着手する。
しかし、尊氏は新政権の要職に就かず、1336年に後醍醐天皇に叛旗を翻し京を攻めるが、2度の戦いに破れ、縁もゆかりもない筑前に逃れてくる(赤松円心とやらの進言があったらしい)。
この時、鎌倉幕府滅亡の際に鎮西探題を攻撃したちゃっかり者の一人・少弐貞経(さだつね)は尊氏を迎えるために息子の頼尚に兵を預けて下関に派遣する。
しかし、この隙に、最初に鎮西探題に立ち向かいながら少弐氏の支援を受けられずに敗死した菊池武時の九男で後醍醐天皇方の菊池武敏が阿蘇惟直(これなお)らとともに少弐貞経を急襲、貞経は自害に追い込まれる。
頼尚に迎えられた尊氏は宗像大社を参拝し、戦勝を祈願して甲冑を奉納。
宗像大宮司の援軍を受けることになったとか(古くは天皇家と姻戚関係もあった宗像氏だが、鎌倉時代あたりには武士化していたらしい)。
そしていよいよ再起を懸けて、尊氏が天皇方の菊池軍と対決したのが、多々良浜である。


こんばんは。
今週のミステリーハンターは、かつてはプロレスの劇的実況アナ、今やニュースの顔で市民の味方、眼鏡小さ目の独善的アナウンサー・F舘イチローです。
早速、今日最初のニュースです。
九州に落ち延びていたアノ人が、ついに復活のノロシを上げました。
(イチカワ)
建武3年3月2日のお昼頃、楠木正成、北畠親房、新田義貞らの軍に破れて九州に逃れていた足利尊氏が、筑前国糟屋郡の多々良川の河口で、後醍醐天皇方である肥後の菊池武敏の軍と激突。
激しい戦いの末に足利軍が菊池軍を破りました。
足利尊氏は少弐頼尚や宗像大宮司の軍を味方につけて、多々良川の北側に布陣。
南側に布陣する菊池勢は、阿蘇氏ほか九州の保守派を率い、数の上では足利勢を圧倒していました。
しかし、当日は北からの風が強く吹き荒れ、この風を味方にした足利勢が数的劣勢をものともせずに奮闘。
この戦闘の最中に菊池勢の松浦氏などが足利勢に寝返り、総崩れとなった菊池勢は副将ともいえる阿蘇惟直が戦死。
総大将の菊池武敏は辛うじて逃げ延びましたが、九州での勢力図は1日にして塗り替えられることとなりました。
(F舘)
おお~っと、思わぬところで足許をすくわれた菊池勢!
これぞまさに寝返り寝苦し熱帯夜、どこまでいくのか温暖化という状況ではないでしょうか。
(イチカワ)
コホン。
F舘さん、言ってる意味が分かりません。
それに熱帯夜も何も、これは1336年の3月なんですが。
(F舘)
いやあ、つい昔の癖で、すみません。
それにしてもイッシキさあん。
ある意味、父・武時の仇討ちでもあった菊池武敏ですが、菊池勢は一枚岩ではなかったんですねえ。
(イッシキ/元AREMA編集長)
仇討ちといえば、足利勢の少弐頼尚にとってもこの戦は父・貞経の仇討ちでもあったんですね。
それにしても、九州の人は九州男児という言葉とは裏腹に、ちゃっかり者が多いんでしょうか。
数が多そうだから天皇方についてみたけど、どうも足利方の勢いが良さそうと見ると、さっさとそっちについちゃう…。
(F舘)
この足利尊氏の勝利は、単なる一戦の勝利以上の意味を持ちそうですねえ。
(イッシキ)
尊氏は建武の新政で後醍醐天皇から天皇の座を降ろされた光厳上皇の院宣を根回ししていますから、尊氏の軍も官軍といえば官軍なんですね。
そこで、後醍醐天皇側についていた武士連中がどうでるか。
ほとんどは後醍醐天皇についていた方が良さそうだと思っただけでたいした忠誠心も持ってませんから、武家政権ができるんならそっちの方がいいということで、一気に尊氏側に流れそうな気がしますねえ。
(F舘)
CMの後は現地からお天気です。

チャララララララチャラララ~チャラララ~


(F舘)
さて、多々良浜のウガさん、お願いします。
(ウガ)
今日も全国的に猛暑日となって、水の事故が相次ぎました。
ここは福岡市東区の流通センターの一角、日本通運のある三叉路の角です。
このあたりが、およそ680年前に足利軍と菊池軍が激突した多々良浜の戦いの古戦場です。
このあたりは江戸時代の新田開発で干拓が行なわれ、1971年(昭和46年)には福岡の流通基地として造成が始まり、今では古戦場としての面影はまったくありません。
わずかに近年になって造られたと思われる「多々良浜古戦場の碑」があって、辛うじて古戦場だったことが分かる程度です。
なんだかよくある屋外アートのごとき「多々良浜古戦場の碑」。

ここから2.5kmほど海側に地蔵松原元寇防塁がありますから、当時はそのあたりが海岸線で、このあたりは広大な河原か干潟だったんでしょう。


多々良川にかかる大橋より河口側に向かって。右側の山手に足利軍、左側に菊池軍が布陣したことになる。
この辺りではおよそ230年後の1569年(戦国時代末期)にも立花山城の争奪戦から大友氏と毛利氏が対峙し、半年に渡って小競り合いを続けることになる。結果は大友氏が勝利し、大友氏は筑前支配を強化。毛利氏は方針を転換して九州から手を引き中央に目を向け、足利義昭の信長包囲網に加わることになる。

そして、ここから一つ先の三叉路、「流通センター西口」には「兜塚由来記」の碑があります。
碑文によりますと、この地は古来「花園の森」という優雅な名前で呼ばれていたそうで、多々良浜合戦の犠牲者数千の鎮魂のためにいつの頃からか「兜塚」が建てられ、れんげの花咲く頃に近所の人々が祭祀を行なっていたのだとか。
今では兜塚はなくなり、1本の榎の木のみが「花園の森」の名残をとどめているそうです。
兜塚由来記の石碑と榎の木。下のGoogle MAP航空写真で見ると石碑の後ろは駐車場になっているが、今は建物が建てられている。しかも、東区の見どころ紹介の写真では石碑と榎の木の位置関係が左右逆になっているので、「お菓子のイシカワ」さんが建物を建てた際に、駐車場の内側を向いた石碑をみんなに見えるように歩道側に向け直したのだろう。

この炎天下でも、1本の木がつくる木陰が一服の清涼剤のように気持ちを爽やかに…って、焼けたアスファルトの上を通る熱風と強烈な照り返しを浴びてんのに、爽やかに感じる訳ねえだろう!
だいたい何で私だけ寒い日も暑い日も雪の日も台風の日も外で中継しなきゃなんねえんだよ!
ウガーッ!
(F舘)
大丈夫ですか、ウガさん?
お天気はどうなりますか。
(ウガ)
明日も暑いよー!
あさってもしあさってもず~っと暑いよー!
やってらんねえよ、ウガーッッッッ!(成海 頁二か、お前は!)
(F舘)
為替と株を見てみましょう。
尊氏勝利のニュースで株価が少し下がってますね。
世界も政権交代の兆しを感じてるようです。
それでは今夜はこの辺で(そそくさっ)。

多々良浜古戦場
 大きな地図で見る
福岡市東区多の津1-20

兜塚(由来記の石碑)
 大きな地図で見る
福岡市東区多の津1-1

つづく

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