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雑感録

福岡なるほどフシギ発見~その21~ 元・明へ、朝鮮へ、琉球へ。博多商人、逞しきかな

 
ういろう伝来の地は、
実は大伽藍を誇った貿易拠点


妙楽寺
1316年創建(鎌倉時代後期)

こんばんは。
今週のミステリーハンターは、私、青ヤギです(ついに動物まで出てきたか!)。
白ヤギさんや黒ヤギさんは「メェ~」と鳴きますが、私、名古屋出身のため「ミャ~」と鳴きます。
里は「白、黒、抹茶、小豆、コーヒー、柚子、桜」などと歌っていたあそこです。
まあ、若い方はこの歌も聞いたことにゃ~でしょうが。

元寇後の元と対立していた時期でも、日元間の貿易は続いていた。
聖福寺あたりは元からの使節や禅僧の滞在拠点となっていたりもする。
寺社の造営費を稼ぐという名目で鎌倉幕府の公認で船が出され、寺社造営料唐船と呼ばれていたが、実際に貿易を担っていたのは博多商人である。
また、この頃は禅僧の中国留学ブームで、貿易船に便乗する日本人僧も多かったらしい。

1323年に寧波(ニンポー)から博多に向かう途中に遭難した京都・東福寺の寺社造営料唐船が、1976年(昭和51年)に韓国南西部の新安沖の海底から引き揚げられた。
海底の泥の中に埋まっていたため保存状態がよく、新安沈船と呼ばれる世紀の大発見となったもので、この船には大量の陶磁器や銅銭が積まれていて、木簡には商人の私的輸入品と思われる記録や承天寺(聖一国師が京都で東福寺を開山したため、東福寺の末寺ということになっている)の塔頭「釣寂庵」や「筥崎宮」の文字もあったのだとか。
新安沈船の引き揚げ遺物については、レプリカではあるが、福岡市博物館で見ることができる(よくまあこんなものまで複製したもんだと感心するもの多数。本物は韓国の国立博物館にあるらしい)。

日本は南北朝の時代に入り、中国では1368年にが興る。
明では頻発する倭冦の被害に業を煮やし、日本に倭冦討伐を要求。
(この頃の倭冦は元寇の私的復讐という意味合いもあったとか)
当初、明とやりとりしていたのは後醍醐天皇の息子で肥後→大宰府を拠点にしていた南朝の懐良親王(かねながしんのう)だったが、足利義満の代に南北朝が統一され、窓口は室町幕府に移る。
義満は明への朝貢という形を嫌って明との貿易を拒んでいたが、肥富(こいづみorこいとみ)とかいう博多商人の進言で1401年から遣明使を始め、その肥富は第1回の遣明使に副使として参加したらしい。
1404年からは勘合符を用いたいわゆる勘合貿易になっていく。
(この頃からもう一つの貿易拠点としてが台頭してくる)

さて、妙楽寺。
今でこそ聖福寺の近くの細長い敷地にあって、「ういろう伝来」くらいしか取り柄がにゃ~ような地味な存在感ですが、創建当時は沖の浜(息浜。現在の奈良屋町、綱場町あたりか)にあって、元寇防塁のそばにあったために「石城山」という山号がつけられたのだとか。
特に室町時代に入ってからは、九州探題や息浜を支配した大友氏の意向もあって、遣明使の滞在所となったり僧侶が対外使節になったりで、「妙楽寺貿易」という言葉ができたほど隆盛を極めていたそうです。

九州大学デジタルアーカイブに掲載されている『博多往古図』には、「沖ノ濱」に妙楽寺が記されています。

沖の浜にあった頃には境内に呑碧楼(どんぺきろう)という楼閣があって、あまりの絶景に中国の僧が詩文を残したほどだったそうだが、今では本堂の扁額にその名を残すのみ。
2010年のライトアップウォークの様子。


中でも宗金(そうきん)という妙楽寺のお坊さんは、還俗して商人になった人。
1419年(室町時代前期または中期)に倭冦に苦しめられた李氏朝鮮(朝鮮半島最期の王朝)が対馬を襲った応永の外寇という事件が起きますが、対馬の宗氏の働きで朝鮮軍は撤退。
幕府は真相究明のため妙楽寺住職の無涯亮倪(むがいりょうげ)を正使とする使節を朝鮮に派遣。
使節の帰国の際に朝鮮側から回礼使(お礼とか挨拶とかする人でしょう)が日本に送られ、これと幕府との間をとりもったのが、時の九州探題・渋川満頼(みつより)との繋がりもあった宗金だったそうです。
朝鮮に恩を売った宗金はこれをきっかけに商人となり、朝鮮から正式に貿易を認められて朝鮮との交流を続け、後には大友氏との関係を深め、幕府の使者を務めたりもしています。
さらには遣明使にも加わり、相当な財を成したということです。

ちなみに道安とかいう坊さん商人は、15世紀の後半、琉球と朝鮮を股にかけて貿易を行なっていて、博多商人はまさに四方(よも)の海(東は瀬戸内海ということで…)を駆け巡って活躍していたんですね。

チャラチャチャ~
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ういろうの件ですが、元の滅亡によって1368年に亡命して妙楽寺の塔頭に住んでいた陳延祐(ちんえんゆう)という医者だか薬師だかがいて、日本に帰化する際に、中国での官職名「礼部員外郎」(れいぶいんういろう/薬剤師か?)からとって陳外郎と名乗ったとのこと。
この外郎さんが明で仕入れた薬を3代将軍足利義満に献上したところ、将軍家やら天皇家やらでえりゃ~評判になったとか。
んで、この薬が広まるにつれ、薬そのものも「ういろう」と呼ばれるようになったのですが、これがまたえらくにぎゃ~薬だったらしく、口直しに米粉と黒砂糖で作った菓子を添えていたら、その菓子まで「ういろう」ということになってしまったらしいです
訂正
ご住職とお話する機会がありましたが、「口直し」説はどこかの新聞か何かに書かれてしまったことが流布してしまったけど、実際には、来客時のもてなしで出していた自家製のお菓子だろうとのこと。「苦い薬なんていくらでもありますからね」とおっしゃ~てました。

妙楽寺にある「ういろう伝来之碑」。陳外郎さんと薬の話は小田原や名古屋にも伝わってますが、それが博多から来たもんだったとは知らななんだカルナナンダ。

妙楽寺は16世紀後半(安土桃山時代後期)に焼失し、現在の場所に再興したのは江戸時代、黒田長政が福岡に来てからのこと(その間は糸島の方に疎開していたらしい)。
裏手の墓地には博多の豪商・神屋宗湛の墓があり、開山堂の奥には江戸時代に鎖国の禁を破って貿易をして長崎で処刑された伊藤小左衛門一族の墓があります。
よくよく博多商人と縁のあるお寺でなんでしょうにゃ~。

やたらと巨大な墓石が並ぶ本堂裏の墓地。

これもデカイぞ、神屋宗湛の墓。彫りやすいようにか、墓石はたぶん砂岩で、かなり風化が進んでいる。こちらは開山堂の奥、右が処刑された二代目伊藤小左衛門の墓。宗湛などと比べれば小さいが、「罪人としては大きいですよね」とご住職。左は初代小左衛門。福岡藩の藩医ながら幕末に勤王派として活躍した鷹取養巴の墓。ちなみに「養巴」という名も世襲制。


妙楽寺
 大きな地図で見る
福岡市博多区御供所町13-6

つづく

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