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雑感録

福岡なるほどフシギ発見~出張編~ 長州の二つの町に行ってきた(その1)萩の巻

 
仕事の関係もあって、来年の大河ドラマ『花燃ゆ』の主人公として今話題の杉 文(え?話題になってない?)のことを調べに行ってきた。
文は吉田松陰の妹で、松下村塾の久坂玄瑞に嫁いで久坂文となり、玄瑞の没後、姉の寿が嫁いでいた松陰の盟友・楫取素彦の後妻になったという、複雑な経歴をもつ女性。
あまり美人ではなかったらしい(それで縁談を持ちかけられた玄瑞が最初はごねたとか)が、主演は井上真央(知らん)。
まあ、『八重の桜』の新島八重(夫の襄が「“生き方は”ハンサムだと語った)も綾瀬はるかだったからなあ…。

そういう訳で、まずは文が生まれ育った萩へ。

萩の玄関口的な場所にある道の駅 萩往還。萩の名士がぞろぞろ並んで待っている。
ここには松陰記念館という小さな展示館があって、松陰(個人的には「寅次郎」の方が馴染みがある)と村塾の双璧と謳われた久坂玄瑞・高杉晋作の3人がお出迎え。
記念館の中では松陰先生の講義のまっ最中だった。






松陰を祀る松陰神社。ほら、『花燃ゆ』で盛り上がってるでしょ?ノボリだけは。(『軍師官兵衛』の福岡もこんな感じだったなあ)
松陰神社の境内にある吉田松陰幽囚ノ旧宅。境内にあるというよりは、旧宅の目の前に松陰神社が造られたんだけど。
旧宅の裏には松下村塾の建物も残っている。安政の大獄で江戸送りになった松陰が塾の後事を託したのは小田村伊之助だったとか。
松陰神社の本殿。松蔭の神様としての名前は「吉田矩方命」(そのまんまやん)。社紋に寺院のマーク?いや、吉田家の家紋らしい(五瓜左卍字)。
松陰神社の隣にある、村塾の門下生を祀る末社・松門神社
松蔭の遺品などを展示する宝物殿『至誠館』。お土産で、松陰が版木をもらって屋根裏で印刷したという400字詰め原稿用紙の復刻版を売ってた(買った)。
松陰食堂のベタな名物・松陰だんごは巨大なみたらしだんごの如し(タレは柚味噌/1本350円)。これでけっこう腹がふくれんたんで、昼めしを食い損ねた。


杉家(松陰の実家)は相当貧しかったと聞いてたけど、旧宅は意外と広いじゃんと思ったら、一家は萩の町を転々としていたらしい。
「松陰誕生の地」というのがあるそうなので、行ってみた。

「松陰誕生地」の手前に、松陰の墓があったのでお参り。奥には高杉晋作、近くには久坂玄瑞や杉家、玉木家の墓もある。晋作の墓は下関の吉田じゃなかったっけ?と思ったら、「ここは分骨です」とボランティアのおっちゃんが教えてくれた。でも、松陰の墓も晋作の墓も、ここはどうも遺髪墓らしい。
萩の町を一望できる松陰誕生の地。たぶん文もここで生まれた。当時の間取りが地面に敷石で示されているが、ここも意外と広いじゃん(どんだけド貧乏だと思っとったんじゃ!)。でも、杉家は結構な大家族だったらしいから相対的にはかなり手狭だったんでしょう。


ところで、毛利の版図と“長州”という呼び名が未だにこんがらがってよく分からんので、ここで整理してみると…

●戦国時代:毛利元就が広島(安芸)を中心に中国地方のほぼ全土を収める。一時は博多にも迫る。
●豊臣政権時代:中国攻めで領土の東側の一部を割譲(分家の小早川は伊予や筑前を得て独立するが、江戸時代初期に無嗣断絶)。
●江戸時代:関ヶ原後、家康によって長門・周防の二カ国に減封。萩に本拠を移して「萩藩」と呼ばれた模様。長州と呼ばれるようになったのは、幕末になって山口に政治堂を設けるようになってからのことらしい(萩博物館のボランティアガイドのおっちゃんより)。

てな感じであってるかな?
まあ、何で長門・周防の二カ国になったときに、本拠地を交通の便のいい瀬戸内側じゃなくて日本海側の萩にしたのかってのが疑問だけど、幕府を憚ったのかな?
萩城(指月城)は海に突き出した指月山にあるってんで、てっきり山城かと思ったら、本丸・二の丸・三の丸は麓の海辺にある平城で、山頂に詰丸(要害)という山城もある、二段構えの珍しい城だ。

菊ヶ浜港の近くから見た指月山。左手の方に本丸跡があるんだけど、時間がなくて行かなかった。




三の丸にある、武家屋敷風の萩博物館 。周辺はかつての重臣の居住区(TOPの写真)で、武家屋敷や白壁、土塀、石垣などが残り、重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。
外堀の東側にある中・下級武士や豪商が暮らした武家屋敷の一筋・伊勢屋横町。写真は小田村伊之助(後の楫取素彦)の養家があったところ。この辺は白壁や土塀ではなく生け垣になっている。一本東の江戸屋横町には木戸孝允旧宅、西の菊屋横町には高杉晋作誕生地がある。
外堀南側の武家屋敷地区・平安古(「ひやこ」と読むらしい)にある久坂玄瑞旧宅跡。でっかい石碑は三条実美が詠んだ玄瑞追悼の歌が刻まれてるらしい。
松陰や小田村伊之助も教鞭をとった萩明倫館(南門跡)。たいていの藩校は後に高校になってるもんだが、明倫館は現在「明倫小学校」になっている。
松陰や伊之助が投獄された野山獄跡。その名前からもっと山奥にあるのかと思ってたら、けっこうな街の中にあった(昔は田んぼの真ん中だったんだろう)。松陰が囚人相手に輪講をしてたぐらいだから、かなりゆるい牢獄だったらしい。向かいには岩倉獄跡もある。


萩の街は阿武川(?)の扇状地(三角州?)に広がってて、上流にダムができるまでは度々水害に悩まされていたとか。
空襲を受けてないので昔の町並みが残ってるのはいいんだけど、そのおかげでやたらと道が狭い。車でまわると難儀するので、レンタサイクルでまわるのが賢いかも。

扇状地の先端からは水を引き込んだ藍場川と呼ばれる水路があって、風情のある風景が残っている。
藍場川沿いの屋敷は水を屋敷内に通して庭に流したり、台所や風呂に使ったりしている。写真の旧湯川家屋敷はもともと水門の番をする家だったらしい。


で、結局のところ、萩は志士関係の史跡や展示は多いけど、杉文についてはほどんどなかったと言ってよろしいようで…。
ちなみに、11月になれば萩博物館で企画展が開催される予定。
また、大河ドラマの始まる来年1月からは大河ドラマ館が旧明倫小学校体育館に設けられるそうです。

 大きな地図で見る

(その2)防府の巻に続く

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