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雑感録

福岡なるほどフシギ発見~番外編~ 目からウロコの邪馬台国説&神功皇后・朝倉橘広庭宮


県の某課のお招きで、「卑弥呼・神功皇后・斉明天皇の足跡」というモニターツアーに参加したんだけど、これが失礼ながら、意外にもむちゃくちゃ面白かった。
何が面白かったかというと、ツアーガイドを務めた書道家・井上悦文先生のお話。
先生は『草書体で解く 邪馬台国の謎 書道家が読む魏志倭人伝』という本を出したばかり。
これまで邪馬台国論争はどれも「おらが町こそ邪馬台国」的な、強引なこじつけ論ばかりなんじゃないかと思ってて(実際にちゃんと読んだものはないんだけど)、邪馬台国そのものも実体が乏しいこともあって、あんまり興味がなかった。
井上先生の説も先生の地元・朝倉のことではあるんだけど、アプローチがそこからでなく、書道家としての発想というのがユニークで面白い。
  草書体で解く邪馬台国の謎
 書道家が読む魏志倭人伝

井上 悦史
梓書院
2,625円

魏志倭人伝(『三国志』の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条)は3世紀末頃に陳寿が撰述した原本は残ってなくて、最古の写本は12世紀のものなのだとか。
おそらく邪馬台国研究はこれを基になされてるんだけど、これが結構誤字があって、研究者を惑わせているというのはよく知られていること。
逆を言えば、勝手にこれは誤字だとか決めつけて、都合のいい解釈を生む要因にもなっているんではなかろうか。
井上先生の説は、誤字が漢文(本来の中国語)には少なく、人名や地名(日本語の音に漢字を当てたもの)に多いとされていることから、原本は草書体(現在の視点から考えれば、速く書くために崩した文字)で書かれていて、草書だと本来別の文字が同じ崩し方になる(例えばサンズイもニスイもニンベンも行ニンベンも草書では縦1本の棒になる)ので、楷書体で書き直した際に誤字が生まれているのではないかと、書道家らしい発想で推察。
普通に考えると、楷書や行書があって初めて崩した草書が生まれたと思うんだけど、実は歴史的には順番が逆で、3世紀頃は草書が使われていたということを証明し、草書に立ち戻って魏志倭人伝を再考。
魏の使節がたどった6国と女王・卑称呼が制した21国の場所を比定し、また、邪馬台国(邪馬臺国)の「台」はもともと「臺」(ダイ)の新字ではなく、「臺」は「タイ」とは読まないので、邪馬臺国=ヤマダ国であると指摘。
先の卑弥呼関連の国々のほとんどが宝満川の西側、筑後川の南側に並び、そこに残る大きな空白地帯(筑後川中流の北側)が朝倉の山田地区であることから、邪馬台国改メ邪馬臺国は朝倉の山田地区にあったという説を導いている。

話は斉明天皇が遷都した朝倉橘広庭宮にも及び、井上先生が考える朝倉宮の場所は、以前紹介した志波の落中で、麻氐良(まてら)高山(昔は香山)に挟まれたエリアであり、このあたりまで山田に含まれるとのこと。
では、百済奪還を目指した斉明天皇が、なぜこんな奥地に都を移したのかという謎について、
井上先生によると、敵は新羅・唐連合軍。新羅単独ならともかく、唐という大国を相手にして勝てる見込みはほとんどない。斉明天皇もそのくらい分かっていて、もはや神にすがるしかないと、天皇家の始祖の地を訪れたのではないか、とのこと。
つまり、
天皇家の始祖=天照大神(あまてらすおおみかみ)=女王・卑弥呼のいた邪馬臺国
だというのだ。
その根拠として、
卑弥呼=日神子=太陽の神
麻氐良山山頂の神社の額は「麻氐良布祠」=アマテラス
天照大神が生まれた、伊弉諾(イザナギ)の禊祓いの場所=筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原
・筑紫=福岡県
・日向=日迎(朝倉・杷木あたりの古い呼び名)
・橘=橘広庭宮のあたりの地名
・小戸(小門)=筑後川にあった港のこと(一般名詞)
・阿波岐原=杷木?
  道の駅・原鶴にあった
 「日迎え」の文字のある看板
ということだそう。
ここまで来るといささか飛躍した感じがなきにしもアラジンと魔法のランプといったとこだけど、筋は通っている。

さらに、年代の近そうな卑弥呼(西暦240年前後に魏との交流あり)と神功皇后(西暦200年に三韓征伐)の関係について訊いてみたら、中国の正史に倭の女王(おそらく卑弥呼のこと)の朝貢に関する記述があり、日本の正史としてはこれを黙殺する訳にはいかない。また、中国への対抗上、日本の起源をずいぶん古く言ってしまったため、辻褄合わせのために倭の女王の事績を神功皇后に重ねたのではないかとのこと(まあ、卑弥呼=神功皇后説はよく言われていることだけど)。

あら、ずいぶん長くなってしまいました。
以上がだいたい『草書体で解く邪馬台国の謎』に書いてあることだと思うけど、本はやたら小難しそうだったので実はまだ読んでおらず、井上先生から直接聞いた話で書いてます。
もしかしたら本には書かなかった私論が入っているかもしれないけど、とにかくこんな話を聞きながら神功皇后や斉明天皇ゆかりの場所を訪ねたので、そりゃ面白くない訳がないってとこですな。

では、ツアーで訪れたところを歴史順に並び替えて(古代史に関係のないところは割愛)ご紹介。

白山神社(下宮)
朝倉市秋月野鳥415あたり



上宮は古処山山頂に並ぶ三個の大岩をご神体として祀っているとのこと。
神功皇后は後の香椎宮のあたりで仲哀天皇が亡くなったあと、仲哀天皇の遺志を継いで熊襲征伐のために南に向かい、熊襲に続いて古処山辺りを根城とする羽白熊鷲(はしろくまわし)という悪者も征伐(熊襲ってのが熊鷲のことかと思ったらどうも違うようだ。熊襲は戦わずして降伏したらしい)。
で、このお宮と羽白熊鷲は何か関係があったんだと思うけど、忘れた。

境内にある感じのいい池。まん中の島には、なんと巌島神社がある。

松狭(まつお)八幡宮(下宮)
朝倉郡筑前町栗田605あたり



羽白熊鷲との決戦に際し、神功皇后が建てたお宮。
熊鷲を倒した神功皇后が「我が心すなわちし」といったことから、このあたりが夜須と呼ばれるようになったとか。

矢埜竹神社
朝倉市矢野竹984あたり



矢野竹は羽白熊鷲と戦う神宮皇后がに使うを集めた場所だとか。
そこにある矢埜竹神社は、鳥居から下ったところに社殿がある下り宮で、井上先生によると、下り宮は負けた側の祟りを怖れて建てるものだとか。
この神社は神功皇后が祀ったのか、地元の人が祀ったのかは知らないけれど、神功皇后に討たれた熊鷲を祀っているらしい。
そういえば鳥居の向かいに祠があったけど、熊鷲の霊を厳重に封じていたのかな?
下り宮といえば出雲大社だけど、あそこも国をとられた大国主の祟りを怖れて祀られたのかも?

本殿の正面には苔むした神牛が…。てことは、ここは天神様?


大已貴(おおなむち)神社
朝倉郡筑前町弥永697-3



大已貴とは大国主大神の別名の一つ。
熊襲や羽白熊鷲、さらに田油津姫(たぶらつひめ。誰や?)をやっつけた神功皇后は、次なる目標・三韓征伐のために兵を募ったけど集まらなかったので、ここに社を建てて鉾と盾を納めたら、兵がわさわさ集まってきたとか。
日本最古の神社という話もある(真偽不明)。
宮司さん(若かった)に神功皇后が大国主を祀ったのかとお尋ねしてみたら、「そう考えられますね」とぼかしたお返事だった。

拝殿や鳥居の額には「大神宮」「大神大明神」ともある。
本殿左奥にある遥拝所。目配山(神功皇后が山頂から四方を見渡した)を遥拝するらしいが、肝心の目配山は手前の山で隠れているのだそう。

中津屋(なかつや)神社
朝倉郡筑前町砥上980-1



無事兵を集められた神功皇后がこの地を「汝らが中宿(なかやど=宿泊地?休憩所?)なり」と言ったことから、この辺りが中津屋と呼ばれるようになったとか。
また、鳥居の横にある池(昔は両側にあったらしい)で刀を研いで磨かせたため砥上(とがみ)とも呼ばれ、神社の別名も砥上神社となっている。池は赤錆で真っ赤に染まったらしい。

本殿の裏には2本の木にかけられた注連縄があって、その奥には砥上嶽武宮遥拝所がある。
武宮とは、三韓征伐の武運を祈って砥上岳山頂に建てられたお宮らしい。

恵蘇八幡宮(木の丸殿跡)
朝倉市山田字恵蘇宿166



斉明天皇が朝倉橘広庭宮を遷都した際に、中大兄皇子(斉明天皇の息子ですね)が宇佐八幡宮の祭神・八幡大神(誉田別尊=応神天皇。神功皇后の息子ですね)を分祀した八幡宮(後に斉明天皇、天智天皇=中大兄皇子も祀られる)。
その後、斉明天皇が急逝したため、中大兄皇子は遺骸を裏山の山頂に一時的に埋葬(殯(もがり))。山腹に木の丸殿を建てて12カ月間の代わりに12日間の喪に服したという(省略しすぎやろ)。

斉明天皇を一時的に埋葬した御陵。円墳が二つ(または一つの前方後円墳?)あるらしいが、斉明天皇との関係は不明(斉明天皇の墓ではない)。何せ宮内庁管理で立ち入り禁止なので、調査もできない。

万葉集の最初に収められている、中大兄皇子が斉明天皇の死を悲しんで詠んだ「秋の田」の歌碑。

 秋の田の 仮庵(かりほ)の庵(いほ)の 苫(とま)をあらみ 
   わが衣手(ころもで)は 露にぬれつつ


高山
朝倉市杷木志波

以前も書いた通り、志和地区には都を連想させる地名が多い。政所の看板の向こうに見えるのが高山。


高山は古くは香山と書いたそうで、昔は香具山だったのではないかと井上先生。
『ビューホテル平成』下の展望所からは邪馬臺国や朝倉橘広庭宮があったと考えられる一帯が一望できる。

山田方面。中央左の森が御陵山。九州横断道(大分道)を挟んで右の麻氐良山に連なっている。

落中方面。中央右寄りの体育館があるところが朝倉宮があったのではないかと考えられる志波小学校。左手の山が麻氐良山。手前の高速高架あたりが、3棟の大型建物群跡が見つかった志波桑ノ本遺跡(埋め戻し済)。

井上先生は神籠石が3世紀に造られたものとして九州・山口にある神籠石の位置関係からのアプローチもしていて、コースには杷木神籠石も入っていたんだけど、スケジュールの都合で残念ながら割愛されてしまいました。

朝倉ツアーマップ
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