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雑感録

福岡なるほどフシギ発見〜おまけ37〜 神功皇后ゆかりの神社は巨大古墳の跡だった!?

 
久しぶりの更新。制作中の神社本*(注1) のために、神功皇后が宇佐から都に帰る前に軍隊を解散した場所といわれる大分八幡宮にお参り(&撮影)に行ってきた(と言っても、行ったのはずいぶん前だけど)。

神功皇后は宇美で応神天皇を産んだ後、幼い応神天皇をショウケ(竹の籠)に載せて、難所の峠(後のショウケ越)を越えてこの地に着いたといい、久山の聖母屋敷で春の訪れを待ってから峠を越えたという話もある。

宇美八幡宮〜大分八幡宮への行程


神功皇后はここでしばらく筑紫の政務を執って、大分駅近くの鶯塚で軍隊を解散(大分かれ)したのだとか。
ちなみに社殿はもともと裏手の山の上にあったらしく、戦国期の戦乱で焼失し、秋月種実が現在地に再建したらしい。山の上には古宮跡の小さな石の祠が立っている。
この裏山は皇室古墳埋蔵推定地「仲哀天皇陵」とされていて、現宮司さんによると、この裏山自体が80m級の前方後円墳と考えられるそうだけど、先代宮司の願いで調査を中止したそうな。

宇佐神宮の『宇佐宮御託宣集』には「我宇佐宮より穂波郡の大分宮は本宮也」(つまり八幡総本宮の本宮?)とあり、筥崎宮も延長元(923)年に筑前大分宮(穂波宮)より八幡神を遷座(移すこと)したことになっているのだとか。移したんならここには八幡神は残ってないんじゃないかと思いきや、そんなことはなく、宇佐神宮の「九州五所別宮」第一に位置付けられて存続してきた訳だわさ。
ずいぶん奥行きのある参道。右手には軍隊が駐屯できそうな広場がある。

なんと、石の額にはカーブがついている。

惣門に仁王像がいるのは、神仏習合の名残か。
裏手の丘が、もともと創建された場所。元は大きな前方後円墳だったらしい。こんなに大きな古墳つったら福岡では丸隈山古墳、この辺だったら嘉麻の沖出古墳ぐらいか?

社殿裏の小山に登る道。左の急な階段が頂上付近の古宮跡に通じている。
こちらが古宮跡。最初はこの奥の盛り上がりが古墳かと思ったけど、この丘自体が古墳だった訳だ。


大分八幡の東側に隣接する養源寺。いかにも神宮寺って感じの存在感だけど、もともとの神宮寺だった長楽寺が明治の廃仏毀釈でなくなったため、福岡の西公園あたりから移ってきて、その後を継いだらしい。


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