3月25日、ダマスカス近郊の町ムアダミヤで、抗議する群衆と政府支持派が衝突し、3名死亡した。政府支持派は車列を組んで行進していた。
ダマスカス近郊は後に激戦地となり、化学兵器も使用された。ムアダミヤもそのひとつである。この地図は2013年に化学兵器が使用された地区を示しているが、反政府軍支配地とほぼ一致する。ジョバルだけがダマスカス市内であり、その他は市外である。将来激戦地となるこれらの地区の中で、最初に死者が出たのはムアダミヤであった。
3月25日の事件は、2011年のムアダミヤには政府支持派がかなりいたことを教ええくれる。反対派は治安部隊と衝突したのではなく、政府を支持する市民と衝突したのである。
〈ダマスカス市内〉
ダマスカスは紀元前1500年に始まる長い歴史を持つオアシス都市である。。紀元前1000年にアラム王国の首都となったが、その後は新バビロニア、ペルシャ、セレウコス朝、ローマ各帝国の支配下に入った。ダマスカスは豊かだったが、商業都市であり、帝国を形成しなかった。しかしこの間ダマスカスはシリアの中心的な都市でありつづけた。 ローマ時代にはギリシャ・ローマ文化の重要な中心であった。そして紀元後635年イスラム帝国の首都となった。古風で壮麗なウマイア・モスクはイスラム時代の代表的な遺産となっている。シリア内戦でモスクの一部が破壊され、歴史学者はショックを受けている。
ダマスカス市内ではこれまで死者が出ていない。またデモの人数も少ないが、ヨシュア・ランディスは3月18日の小さな出来事に注目している。
====《Deraa: The Government Takes off its Gloves 》========
3月18日、ダマスカスのサラディン・モスクで説教師が母の日を祝う話をしていた。シリアで始まっていた劇的な抗議運動とは無関係に、彼の説教は従来と変わらぬものであった。
すると突然一人の若者が説教壇に上がり、説教師からマイクを奪い、大声で叫んだ。説教師を非難した。「現在のような状況で、よくもそのようなのんきな話ができたものだ。政治の話をしてくれ」。秘密警察が直ちに彼を逮捕し、連れ去った。
以上は礼拝に参加した住民がロイターに語ったことである。
このモスクはダマスカスの低所得者地区ルクナディンにあった。
これまで数十年、シリア国民は政府の意向に沿った説教をおとなしく聞いてきた。モスクでの説教中にこのようなことが起きたのは初めてであり、衝撃は大きかった。
ダラアのような、大きなデモが起きていないとはいえ、ダマスカスでもこれまで当然だったことが、地崩れしていた。
政権にとって最大の防壁である恐怖を、市民は乗り越えてしまった。
アラブ世界の革命の波は、自国民に対し最も残酷なシリアの政権にも押し寄せていた。
==============(ヨシュア・ランディス終了)
3月25日、ダマスカスの旧市街に数百人が集まり、抗議した。
このデモはすぐに解散させられた、とニューヨーク・タイムズが書いている。
=====《Syrian Troops Open Fire on Protesters in Several Cities》======
3月25日ダマスカスでは、数百人が集会を持とうとしたが、治安部隊が現れ、彼らを追い払った。通りでは政府を支持する人々がデモ行進をしており、自動車のクラクションをならし、アサド大統領の肖像を掲げていた。
追い払らわれた反対派は、荘厳なウマイア・モスクで抗議をした。礼拝中に数人が立ち上がり、「神! シリア! 自由!」と叫んだ。これは、政府支持派に対する反撃だった。
========================(ニューヨーク・タイムズ終了)
数百人の反対派とは対照的に、圧倒的多数の政府支持派が集まった、とアルジャジーラが書いている。
=======《Deaths as Syrian forces fire on protesters》=========
3月25日、ダマスカスでは非常に多くの政府支持者が国旗とアサド大統領の肖像を掲げ、デモ行進をした。
夜になると、大勢の人がアルジャジーラの支局の前に集まり、政府支持者が多いことを放送してくれ、と要求した。
「彼らの言うことは事実である」とアルジャジーラのザイナ・フドル記者(女性)が述べた。「アサド大統領への支持を表明するため、数えきれないほど多くの人が市内を車でデモ行進をしている。大統領は国民から支持されている。バシャール・アサドは人気がある指導者である」。
しかし「正義と進歩のための運動:シリア」のアナス・アブダ(Anas al-Abda)議長は次のように指摘した。「政府支持派のデモがあったという報道の多くは虚偽の宣伝であり、事実の場合は政府が組織したものである。
虚偽の宣伝と言えば、数日前、レーム・ハダド情報相がダラアの事件について、アルジャジーラに語ったことは真実だろうか。彼はダラアのデモで毎回死者が出ていることについて説明した。「治安部隊はいかなる場合でも、デモをする市民に対し発砲してはならないと命令されている。しかし想定外の事態が起きた。これらの平和なデモをする市民の中に、武装したグループがおり、治安部隊都市民の両方に対し発砲した。その結果武装グループとの銃撃戦になった」。
流血のデモを目撃したダラアの市民は、アルジャジーラに証言した。「デモをする人々の中に、武器を持った者はいなかった。私自身がダラアの中央広場でそれを見た。若者たちと他の人々がデモをしていると、射撃音がして、実弾が飛んできた」。
===================(アルジャジーラ終了)
〈ラタキアとホムス〉
25日大統領の故郷ラタキアでも、反対派と大統領支持派が衝突し、2名死んだ。反対派の青年が銃撃され、人々に運ばれる場面を写したビデオが YouTubeに投稿されている。
これに加え13歳の少年が治安部隊になぐられ、死亡した。治安部隊がデモを解散さえようとした時に起きたことである。少年はラタキアの近くのジャブラ村に住んでいた。
シリア第3の大都市ホムスでも1人死亡した。
ダラア以外でも死者が出始めており、流血のデモが各地に広がり始めている。ムアダミヤの抗議集会で、人々がダラアへの連帯を叫んでいるように、ダラアの反乱は影響力があった。25日までのダラアの死者は55名である、とアムネスティ・インターナショナルが発表している。政府でさえ37名の死者があったことを認めている。
3月18日から25日までのダラアは革命の発火点となった。