祖父のお通夜に行きました。
正確に書くと儀式には出ていなくて
遺体の安置されている部屋でしばらく一緒にいました。
おじいちゃんの皮膚はすでに硬く冷たくなっていて
あごの下だけがプニプニと柔らかかったです。
掛け物をめくって手元を見てみると
手を組んで、手に数珠を持っていました。
顔が固く冷たいのも、無機質な感じを覚えましたが
自分の手をおじいちゃんの手の上に置いたとき
おじいちゃんの手は本当に冷たくて
死体なんだな、と思いました。
私は生きているうちに手をいっぱい繋ごう、と思いました。
みなが食事部屋に行っているのをいいことに
さわりまくりだったんですが。
なんか、エネルギーを仕事にしているからか死体に恐怖感はないです。
いや、もちろん、目の前で人が殺されていたらびっくりすると思うのだけれど
それは、うーん、死体の恐怖というより、殺されるかもと思って怖くなるんだろうなあ。
で、胸の辺りが予想していたより骨ばっていなかったのですが
(あ、もちろん、白装束の上から触っています)
死体に触ることに(他人の死体を触ったことはありませんが)冒瀆感もありません。
あとで聞いたところによると
今は液体を入れてほっぺたや胸を膨らますことができるそうです。
おじいちゃんも両方膨らましてもらっていました。
お父さんの弟がやってきて
「(おじいちゃんは)カラダのエネルギーを全部使い果たした」って言っていて。
本当にそのとおりだなあと思った。
けれど、私はいままでそういう表現をしたこともなかったし思いつきもしなかったんですよね。
お父さんの弟は、いわゆるスピリチュアルな人間でも、エネルギーという考え方に理解がある人間でもないわけです(あ、否定はしません)。
けれど、彼は、おじいちゃんとずっと一緒に暮らして、おじいちゃんが入院している間も足繁く通って。
肉体のエネルギーをおじいちゃんが一生懸命使って
おじいちゃんの生き様を、死に様をみていたから出てきた台詞なんですよね。
生きていられる肉体があるって、とてつもなく、スピリチュアルで
「実は、3次元は一番スピリチュアルだと思っています」
とよく言っているタンタンだけれど
そのコトバを超えちゃうくらい、なんというか本当に
生きていられる肉体があるってすごい、と思いました。
目の前に冷たくなった自分の知っている人の肉体があると
・・・魂は別にあって、とか、エネルギーでそのとおりかもな、
と思えても、人間ってそういうもんじゃない、と思うわけですよ。
合掌。